あなたの映画力を試せる!POPLETA映画検定(無料) >>

ヘルムホルツによると、この世界のあらゆる動きは真っ直ぐなものと曲がったものの2つに分けられるという。
真っ直ぐなものとは外に向かって伸びるもの、発展性のあるもの、革新的なもの、正なるもののこと。
曲がったものとは同じ所をただぐるぐる回るだけのもの、発展性のないもの、保守的なもの、邪なるもののこと。
ヘーゲルも弁証法において同じようなことを述べています。
正と邪とはおよそこのようなものと理解してよいのではないか。

質問者からの補足コメント

  • ヘルムホルツの定理 
     「任意のベクトル場は、発散ベクトル場と回転ベクトル場の2つに分解可能である。」

      補足日時:2017/07/28 09:47

A 回答 (7件)

曲がった考えのやつは嫌いだよ。


真っ直ぐ筋を通すのが礼儀だよ。
当たってると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>当たってると思います。

そーだろーとも。

お礼日時:2017/07/28 22:18

存在そのものが時空を歪める。


平坦な時空=「真っ直ぐなもの」とは、無のみである。
    • good
    • 0

正と邪は自然の法則じゃなくて、人間が自由に考える事が許された倫理の問題になると思いますよ。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

その人間とて自然界の枠組みの中で動き、活動していることに変わりはございませぬ。
それゆえ正も邪も宇宙の法則に従って生まれるのです。
宇宙のどこであろーと、ヘルムホルツの定理は常に成立いたしまする。

お礼日時:2017/07/28 15:02

どう考えようと勝手ですが、


理解してよいかどうかは別問題です。
    • good
    • 0

1行目だけはかろうじて許してやってもいい.



2行目以降は単なる個人の妄想だな.
    • good
    • 1

物事を白か黒か、0か100かに2つに分けようとすると無理があります。


柔軟さに欠ける思想になります。
ミクロ・マクロ的に考えると物質は結晶体、割れが入ると結晶境界に
沿って割れます。つまり直線でも曲線でも無い。
風とか障害物等の外乱によっても変化します。
肉眼で見えるのとは異なります。
見た目と真実は違います。
    • good
    • 0

地球は自転し公転してるが?



あなたの言ってるので考えると 地球は曲がったものだが?
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qtranszendentとtranszendental

transzendentとtranszendentalの対義語を調べたいのですが見つかりませんでした。

transzendentの対義語はimmanentで良いでしょうか?
transzendentalの対義語はempirischとかでしょうか?

ドイツ語に詳しい方よりご教示頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ語ができないなら回答しない方がよい、ということで、
immanent, immanentalが挙げられていますが、そんなに簡単な話ではありません。
immanentalという語形は、英語では使いますがドイツ語では使いません。
そもそも、transzendentalという語を哲学用語として新たに導入し、
transzendentとtranszendentalは同じではない(nicht einerlei)とカント自身が書いている以上、
対義語が同じimmanentに由来する語になるはずはないのです。

哲学用語辞典の前に、一般的な辞書、Dudenを見てみます。

transzendentはラテン語のtranscendens(動詞形transcendere: überschreiten, übersteigen超えること)に由来、
哲学用語としての意味は、
「経験、および感覚的に認識可能な世界の境界を踏み越えること、超感性的、超自然的」
die Grenzen der Erfahrung und der sinnlich erkennbaren Welt überschreitend; übersinnlich, übernatürlich
対義語:immanent

transzendentalは中世ラテン語のtranscendentalis(übersinnlich: 超感性的)に由来、
哲学用語としての意味は、
「あらゆる主観的経験以前に在り、対象そのものの認識を最初に可能にすること」
vor jeder subjektiven Erfahrung liegend und die Erkenntnis der Gegenstände an sich erst ermöglichend
対義語:記載なし

カントにおけるこの二語に関しては、ドイツ語による哲学語辞典や研究書の解説は一貫しています。
結論から言うと、質問文に書かれているとおり、
transzendent ⇔ immanent
transzendental ⇔ empirisch
となっています。
ただし、カントにおいても、まだこの二語の使い分けは必ずしも明確ではなく、
ほぼ同義に使っている個所もあるということが、ドイツ語の各種研究書に詳しく書かれています。
この点については、三一書房刊のロングセラー、「哲学・倫理用語辞典」でも注意されています。

ドイツに、学術的な書物を多く出しているUTBという出版社がありますが、
その哲学用語辞典では、transzendentに関しては
名詞形Transzendenzを見よとなっているので、その一部を引用します。

Transzendenz
「超越(Transzendenz)」の概念においては、人間の原経験は、有限な存在であることを言い表す。なぜなら我々は、洞察可能かつ把握可能な現実の一部として存在はするが、その一方ではこの現実を、我々の認識能力の有限性を通して、それと同様限られたものとして体験するからである。この二重の境界経験は、思考に対し、我々の存在の内在的実在性(immanente Realität)が止揚される超越的現実(transzendente Wirklichkeit)の必然的予見を生じさせる。Transzendenzはつまり、Immanenzという概念に対応した相対的概念であり、Immanenzの概念をどのように理解するかによって、Transzendenzに相対する概念としてExistenz、Erleben、Daseinなどが考慮の対象となる。Xavier Tilliette (1921-)は、Transzendenzの本来の対義語は、「落下」「沈下」を意味するDeszendenzという概念によって成されるのではないかという。Transzendenzは、常に不完全なものとして見られる目の前の現実(Immanenz)からより高次の領域へ入ることを意味するゆえ。
カントの批判的認識論においては、Transzendenzとは、過剰(überschwänglich)な、かつ許容されざるかたちで感覚的経験から導き出された対象把握の使用を意味する。このような超越的使用(transzendenter Gebrauch)は詭弁であり、客観的認識の根拠とはなり得ない。
ドイツ観念論においては、Transzendenzに関わる問題は、主観・客観という弁証法的対概念に変化し、「彼岸(jenseits)」–「此岸(diesseits)」(Transzendenz – Immanenz)という意味論的な対義から「絶対的(absolut)」–「限定的(bedingt)」へ変換される。

以上の意味から、transzendentの対義語はimmanentとなります。

transzendentalは、カントの定義では、a priori(つまりempirischではなく)とみなされる認識に関わることであり、この認識は、対象を直接にではなく、我々が対象をどのような方法で認識するか、その方法によって規定する、とあります。
「対象とではなく、a prioriに可能な限りにおいての我々の対象認識の方法と携わるすべての認識をtranszendentalと名付ける」

transzendentalの上のような意味と、その語源の意味がübersinnlichであることから、カントの用語のtranszendentalの対義語はempirischとされています。

また、これらのラテン語由来の述語をカント自身がより一般的なドイツ語に置き換えていますが、
transzendentはüberfliegend(飛び越える)、またはüberschwenglich(過剰な、感情過多な)、
immanentはeinheimischと訳されています。
(注:überschwenglichは、こんにちではüberschwänglichと綴ります。)
なので、この場合のeinheimischは「土着的」ということではなく、
immanent(内在的)のドイツ語訳です。
heim(家)という語が含まれていることからもわかるように、
古くは「在宅する」の意味で使われた形容詞です。
以下、Georg Samuel Albert Mellin著のEncyclopädisches Wörterbuch der kritischen Philosophieからの引用です。

Einheimisch
immanent, domesticus, domestique, immanent. So heißt im Theoretischen diejenige Vorstellung, die nur auf Erfahrung geht, oder auf Erfahrung eingeschränkt ist, weil sie dann in ihrem Gebiet ist und bleibt. Eigentlich heißt also einheimisch oder immanent seyn, in seinem Gebiet seyn, transcendent seyn dagegen, über sein Gebiet hinausgehen.
(einheimischは、自らの領域にとどまること、transcendentはその領域から出て行くこと。)

以上をまとめると、ラテン語由来の述語とその対義語、およびそのドイツ語訳は、以下のように対応します。
(apriorischのみはラテン語由来のままです。)

transzendent ⇔ immanent : überfliegend/überschwenglich ⇔ einheimisch

transzendental ⇔ empirisch : apriorisch ⇔ erfahrungsgemäß

(Fritz Mauthner: Wörterbuch der Philosophieの解説より)

『純粋理性批判』の複数個所で、「transzendent - immanent」「transzendental - empirisch」が同義に使われているということが、
Christoph Asmuth著のKant und Fichte - Fichte und Kantの解説中に見受けられます。
区別が明確になるのは、Prolegomenaにおいてだそうです。
ほかにも、Der Begriff "transzendental" bei Immanuel Kant(Nikolaus Knoepffler著)
という書物を見つけたのですが、残念ながらいま仕事が忙しくて読み込めないので、
ここまででご勘弁願います。

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ...続きを読む

Q先日、このカテに掲載された“・・・は、人のこころを傷つけてないですか、”という文章は、肯定しているの

先日、このカテで、
“・・・・・は、人のこころを傷つけてないですか、”
という質問がありました。

改めて読んでみると、この文章は肯定しているのか、否定しているのか、私には分かりません。

この文章は、①「 “・・・は、人のこころを傷つけてない” と思われるが、如何?」、ということを
質問しているのですか?

あるいは、②「 “・・・は、人のこころを傷つけている” と思われるが、如何?」ということを問い合わせているのですか?

なお、私の質問は、元の質問の哲学的な内容についてではなく、単に、文章を(正しく)読むと、どういう意味になるのですか? と言うことです。

Aベストアンサー

疑問文には、ご指摘順に言えば、通常疑問文と反語的疑問文があります。ご質問は、これの識別ですが答えはありません。敢えて言えば文脈で捉えるしかない問題です。

言葉は人体同様で有機的に繋がって機能します。なのに、心臓だけ切りだして、それが生きているか死んでいるか問うようなものです。

Q拝む相手は何なのか

大仏様をこしらえて、その大仏様に向かって手を合わせて拝む大勢の人達がおりまする。
大仏様は仏ではなく人がこしらえたただの偶像でありまする。
なぜ大勢の人達が大仏様に向かって手を合わせ拝むのでございましょー。
拝むとは一つの表現でありまする。
その表現はいったい何に対し向けられているのでしょー。
それは仏様に向けて何かを伝えたいのでしょーか。
あるいはそれは仏様ではなく、自分自身に向けて何かを送ろうとしているのでしょーか。
 
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/08/15/20160815oog00m010060000p/9.jpg?1

Aベストアンサー

織田信長みたいですね。

あれは金属と木材の塊に過ぎない。
そんなものが、何故尊いのだ?

そして比叡山を焼き討ちしました。


偶像を通して、その先にある観念を拝んで
いるのでしょう。

人間は具体的なモノがないと、やりにくいので
布教のため、金儲けのためにそうした偶像を製作
するのです。

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q人間は生まれながらに善なのか悪なのか?性善説vs性悪説。あなたはどちら?

赤ちゃんは純心無垢の天使なのか ギャーギャー泣く欲の塊なのか?

人間は信じるべきか信じられないか

世界は人間の愚かさ故滅びるか 理想社会に到達するか?

あなたはどう思いますか? 現実はどうですか?

Aベストアンサー

性善説と性悪説って、二元論的な対立であって、対極的な議論じゃないですよ。
「人間は生まれながらに善悪を持つ」と言う前提で、「そのいずれが、より先天的か?」と言う議論です。

具体的に言えば、性善説は「善の本性を、後天的に淀ませる」と言う考え方に対し、性悪説は「悪の本性を、後天的な理性などで覆い隠す」とするものです。

すなわち、どちらかと言うと、性善説の方が、人生経験をすればするほど悪人になると言うことです。
「だから学問などで精神を浄化し続けなさい」と言う教えです。
逆に性悪説が、人間は長く生きれば生きるほど、善人(性悪説では「偽善者」ですが)になれる可能性があると言う教えですが、コチラも、「だから後天的に、良いものを身に付けなさい」なので・・。

結局、性善説でも性悪説でも、人間がやるべきことは「同じ」で。
やるべきことをやらねば、衰退するし。
やるべきことをやれば、発展します。

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q日本では真実をいうことを嫌う人が多いですね。何故でしょうか?

日本では真実をいうことを嫌う人が多いですね。何故でしょうか?

もちろん、個人のプライバシーは別です。

Aベストアンサー

真実ですか。
私は真実を知りませんが、日本人の多くは真実を知った上で黙っているのでしょうか。真実を開示するのに相応しい時と場所、相手とがあるのかもしれない。

私が真実を知らないのは悟って無いからだと思いますが、ここで言う真実とは違う意味のようにも思います。
本当のことを言わない、と言うくらいの意味だと思い回答すると、それは、日本では普通が尊ばれるのであり、それから外れると本当の事でも嫌われてしまうからだと思います。はっきり言って私には生きにくい社会ですが、良い面、悪い面あります。本当のことを隠す良い面とは、次のような事です。
例えば人生の背景は人それぞれですよね。中には過酷な背景を持っておる人もいます。その様な人でも表面上は普通として振る舞い接する事で、平均的に生きる事ができます。
一方悪い面とは、そう言う過酷な人生の背景を背負うと言う事がどう言うことか十分に理解しなくても、普通にやって行けると言うことです。これは、いざという時に、底の浅さが露呈しその場を解決できない様な人を図らずも育ててしまう社会態度であると思います。

私としては、本当のことを言える社会であって欲しいですね。誰も自分の人生を恥じる事なく生きて行ける社会であって欲しいです。普通なんてものに囚われる必要は無いと思うのですが、大多数の人はそうでは無いんですよね、日本では。
この普通が尊重され、普通で無いことが排他されがちな背景は何かと言うことですが、多様性によって繁栄すると言う経験をした事がないからではないかと思いました。
画一的な民は支配しやすいですからね。
もっと言えば、日本の支配層に、多様性を理解し受容出来るだけの能力が無いのだと思います。コントロールではない、自由と言うものに到達していないのでしょう。

真実ですか。
私は真実を知りませんが、日本人の多くは真実を知った上で黙っているのでしょうか。真実を開示するのに相応しい時と場所、相手とがあるのかもしれない。

私が真実を知らないのは悟って無いからだと思いますが、ここで言う真実とは違う意味のようにも思います。
本当のことを言わない、と言うくらいの意味だと思い回答すると、それは、日本では普通が尊ばれるのであり、それから外れると本当の事でも嫌われてしまうからだと思います。はっきり言って私には生きにくい社会ですが、良い面、悪い面...続きを読む

Q哲学・思想よりも笑顔が世界を救うと言う話もありますが 本当でしょうか?

あんまり考えない方がいい 思想なんかないほうがいい 笑顔が世界を救う

だからもう難しい事は考えまいという人も最近多いようですが

これは笑顔念仏でしょうか?

ただ笑顔でいれば救われる。南無阿弥陀仏の代わりに笑顔がいい と言うのはどうでしょう?

現に人々は哲学なんて考えません、仕事が出来て今の時代に乗り遅れなければいいのです。

そうすれば自民党がいい様にしてくれる。笑顔念仏は世界を救うのでしょうか?

Aベストアンサー

「笑顔が世界を救う」は良いことですね。
仏教は南無阿弥陀仏で低迷し、哲学も難解な言葉を並べて反感を持たれる。
「笑顔」が他人の幸せを望んで行動している優しい人が醸し出す笑顔なら
世界は救えると思う。
作り笑いはダメですね。

Q信仰には神も仏も要りませぬ

信仰について言えば皆勘違いをしているのでございまする。
ここではっきりと申しておきまする。
信仰とは神や仏を拝むことではないのです。
それゆえ信仰するのに神も仏も要らないのです。
それどころか信仰するのに必要なものは殆ど何も無いのでございまする。
食うメシがなくて腹を空かしていても信仰するのに何の問題もございません。
見栄えの良い仏壇やら、お題目を唱えるのに高いお金を払って御本尊を買う必要など毛頭ございません。
また戒名料やら高額なお布施など要求する坊主らを相手にする必要もございません。
信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
ほんとーに信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
そのただ一つのものとは夢見る心でございまする。
なぜなら信仰とは夢を見ることに他ならないからでございまする。
布団の中にはいって猫のよーに夢見ることができれば、それはもー立派な信仰者なのでございまする。

Aベストアンサー

たとえそれが師、ブッダ、聖人であったとしても、他人を信じるより自分を信じることの方が優れている。そのように信じられる自分を確立する方が優れている。
また、他の人の欠点や汚点を見てそれを毛嫌いしその人の本質を見ないことよりも、人のまことを信じることの方が優れている。人のまことを信じる人は精進によって自身のまことを知る事になる。

人は普通、頼りなく、しかも表面的な事に流されるゆえ信を確立する事は容易では無い。しかし誰もが持ち得るのが信であり、それをいくら強く抱いても非難される事がないのが信の本質なのである。

静かな夜は貴重な時間である。静かに観じるならより澄んでくるだろう。
夢見ている間は眠っていて目覚める事はない。しかし、夜の間にぐっすり眠っているからこそ、朝にはすっきり目覚める事ができる。朝がいつになるかは人それぞれであり前以て分かることではない。その時が来たならそれがその人のその時なのである。
夢見ている間の寝言の一つや二つは特に何の害もない事で、気にすることはない。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない


人気Q&Aランキング