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仮説に仮説をかさねてしまいますが もしも 人の心 意識 意思が物理法則に従う つまり自由意志がないと証明された場合 全ての人生は全て決まった動きをしていることになります そして そのパターンは有限なので仮に生
まれ変わりがあるとした場合 私たちは同じ人生人生を何度も繰り返していることになるのではないでしょうか? つまり自由意志の完全な否定は 生まれ変わりによって同じ人生を何度も繰り返している証明になるのではないでしょうか?あくまで生まれ変わりがあると仮定した話ですが

A 回答 (12件中1~10件)

仮説に仮説って単なる妄想ですがそれにしたって考えが浅い。

物理法則にしたがったって、量子論的曖昧さは残るし、対称性が自発的に破れている現象はたくさんある。物理法則にランダム性が含まれているんですよ。だから同じ条件でシミュレーションしようと毎回結果は違う。そこをわからないと。
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仮説に仮説を積み重ねていけば、おそらくは大抵の論理が成立するでしょう。

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>もしも生まれ変わりが永遠ならいつかはそうなるのでは?


数学的な無限の時間ならあるかもしれませんね。

物理の世界(少なくても地球)には有限の時間しかありません。
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物理法則に従う範囲内で


自由意志の正体が三次元空間の外にあるという可能性もあります。
その場合そこでの必然が我々の三次元空間に反映される際に
どうしても確率的にならざるを得ない
という解釈になるのだろうと思います。

もしも生まれ変わりがあるとしても
全く別な環境下でその‘別な環境‘とタイアップしながら
しかも確率的なものでしかない判断を繰り返す人生は
別なものにしかならないと思います。
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ミクロの世界に自由意志がないからと言って、マクロの世界も同様とするのは間違え。



分からな事を分からないとするのが人類の叡智ですね。
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人間が物理法則に従うとしても


脳細胞一つ一つに温度・電位・位置など無限のバリエーションがあります。
その脳細胞が千数百万個も組み合わさるんですから。
さらには外部からの刺激でその挙動は変わります。

とてもじゃないですが同じ条件を再現できません。
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この回答へのお礼

もしも生まれ変わりが永遠ならいつかはそうなるのでは?

お礼日時:2017/08/01 12:10

そんな物理法則 知らないね


今の時代 何でも物理化学で説明できると言う人は詐欺士です

今の科学者は 因果の法則は絶対 とは言いません 
途中に 何かがあれば 結果はいくらせも変わるからです

その 何かは 大量にあるが 探しているのです

生命科学 量子論 超弦理論 等を少し知ると
そのような固定的な考えが ぶっとびます 

どうも 哲学 宗教の領域と重なりますね

哲学がある人のみ 自由意志が働く
ない人は 情報を 好き嫌い 損得で 
自由意志がなくロボットのように働く

では 哲学とは  

・・・おわり
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法則は、そのルールの範囲で自由があります。


「初期値が決まれば、その後の展開は法則で決まる」
という「ラプラスの悪魔」も、その『法則』に
不確定性原理が入った時点で、決定論的因果律は
消滅した。
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よく言われていること?ですけど



我々、人類には共通のDNA情報があり、原始の頃からそれを深層心理で共有していた、と言われてますよね
地球というハコで生きていくためのノウハウや、対策が既に組み込まれているような気がします。
つまりは、パソコンやスマホの様に、色んな出身の肉体的な差もあれば、使用する言語の違いもありますし。
それでも、一度壊れたスマホは、元通りに再生はしないですよね?
修理ができれば、とりあえず元通りとなりますけど、人は死んだらそれまでのような気がします。
あくまでも、初期設定の段階は、似たような道を辿るかもしれない。
他人や前世の記憶が、宿るのは永遠ではなく、偶然や洗脳の類かと
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https://www.youtube.com/watch?v=E-VsBfgJH5A 

生まれ変わりについてはこちらをご覧になってみてください

地上波アンビリバボーでも特集をくまれ放映されていましたが
そちらでは死後のせかいの部分はカットされてました(尺的な問題か、宗教的な色が濃すぎることになるからか)
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Q哲学では、何が正解なのですか? どうやって、正解を求めるのですか? そもそも、正解はないのですか?

自然科学では、言い分が対立した場合、“実験をやろう”、“予測をしよう”、“論理の精密な積み上げをやろう”ということになり、正解が独りでに決まってしまいます。
哲学では、何が正解なのか分りません。各人が、勝手に言っていうだけ、と感じます。
百家繚乱とは言えず、百家争鳴のような気がします。

以下質問です。
哲学では、何が正解なのですか?
どうやって、正解を求めるのですか?
声が大きい(多い)方が正解なのですか?
そもそも、正解はないのですか?

Aベストアンサー

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
 体をなしていない。
 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報
 告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築
 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
 びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべき
 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
 り、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進める
 べきです。
 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Q日本では真実をいうことを嫌う人が多いですね。何故でしょうか?

日本では真実をいうことを嫌う人が多いですね。何故でしょうか?

もちろん、個人のプライバシーは別です。

Aベストアンサー

真実ですか。
私は真実を知りませんが、日本人の多くは真実を知った上で黙っているのでしょうか。真実を開示するのに相応しい時と場所、相手とがあるのかもしれない。

私が真実を知らないのは悟って無いからだと思いますが、ここで言う真実とは違う意味のようにも思います。
本当のことを言わない、と言うくらいの意味だと思い回答すると、それは、日本では普通が尊ばれるのであり、それから外れると本当の事でも嫌われてしまうからだと思います。はっきり言って私には生きにくい社会ですが、良い面、悪い面あります。本当のことを隠す良い面とは、次のような事です。
例えば人生の背景は人それぞれですよね。中には過酷な背景を持っておる人もいます。その様な人でも表面上は普通として振る舞い接する事で、平均的に生きる事ができます。
一方悪い面とは、そう言う過酷な人生の背景を背負うと言う事がどう言うことか十分に理解しなくても、普通にやって行けると言うことです。これは、いざという時に、底の浅さが露呈しその場を解決できない様な人を図らずも育ててしまう社会態度であると思います。

私としては、本当のことを言える社会であって欲しいですね。誰も自分の人生を恥じる事なく生きて行ける社会であって欲しいです。普通なんてものに囚われる必要は無いと思うのですが、大多数の人はそうでは無いんですよね、日本では。
この普通が尊重され、普通で無いことが排他されがちな背景は何かと言うことですが、多様性によって繁栄すると言う経験をした事がないからではないかと思いました。
画一的な民は支配しやすいですからね。
もっと言えば、日本の支配層に、多様性を理解し受容出来るだけの能力が無いのだと思います。コントロールではない、自由と言うものに到達していないのでしょう。

真実ですか。
私は真実を知りませんが、日本人の多くは真実を知った上で黙っているのでしょうか。真実を開示するのに相応しい時と場所、相手とがあるのかもしれない。

私が真実を知らないのは悟って無いからだと思いますが、ここで言う真実とは違う意味のようにも思います。
本当のことを言わない、と言うくらいの意味だと思い回答すると、それは、日本では普通が尊ばれるのであり、それから外れると本当の事でも嫌われてしまうからだと思います。はっきり言って私には生きにくい社会ですが、良い面、悪い面...続きを読む

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Qこころのきずがなほらないことがあるか

▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか? 

信仰の有る無しにかかわらず。

それでこそ普遍神である。

Aベストアンサー

生まれつき備わっているもの。それは、神が無条件で与えた必要最小限の、<命>としての資質と意力。資質とは理性と感性。意力とは文字通り生きようというエネルギー。これらの能力が芽を出すのは、置かれた環境次第による。

人の場合、親がその環境を整えなければ<命>は生命、とは成り得ない。
心の傷が生まれつきのものなら、神でさえ直せない。言い換えればその傷は神が与えたのだ。

生きることで生じる傷は他者から受けたものであるはず。ただ、自身に因がある場合もあるか、とは思う。

☆ ブラジュロンヌさんの云わんとすることは、何となく分かっているつもりですが、それがいまだにうまく言葉にできないでいます。

Q哲学・思想よりも笑顔が世界を救うと言う話もありますが 本当でしょうか?

あんまり考えない方がいい 思想なんかないほうがいい 笑顔が世界を救う

だからもう難しい事は考えまいという人も最近多いようですが

これは笑顔念仏でしょうか?

ただ笑顔でいれば救われる。南無阿弥陀仏の代わりに笑顔がいい と言うのはどうでしょう?

現に人々は哲学なんて考えません、仕事が出来て今の時代に乗り遅れなければいいのです。

そうすれば自民党がいい様にしてくれる。笑顔念仏は世界を救うのでしょうか?

Aベストアンサー

「笑顔が世界を救う」は良いことですね。
仏教は南無阿弥陀仏で低迷し、哲学も難解な言葉を並べて反感を持たれる。
「笑顔」が他人の幸せを望んで行動している優しい人が醸し出す笑顔なら
世界は救えると思う。
作り笑いはダメですね。

Q最近、独身者が増加していますが、結婚せずにいることが可能になったから、でしょうか?

ある本を読んでいたら、次の文章に出会いました。
<日本人が今まで懸命に築き上げてきた平和と繁栄の“おつり”によって独身者は結婚せずにいることが可能なったかもしれません>

最近、独身者が増加していますが、その理由は何でしょうか?
1、引用したように、結婚せずにいることが可能になったから、でしょうか?
2、逆に、社会の状況において、結婚しずらくなったから、でしょうか?
3、社会に関係なく、独身の方が、家庭に縛られず生活(人生)を興ができるから、でしょうか?
4、その他
識者は、どのように分析されていますか?

Aベストアンサー

理由は一つではありません。

こういうのは、社会学者が専門的に調査して
おりまして、次のような原因が挙げられています。

その中で、最も基本的なのは、結婚せねばならぬ、
という規範が崩れてきたからだ、としています。


1,必要性の減少
・女性の社会進出が進み、結婚しなくても生活
 出来るようになった。
 元来、女性は、自分よりも高収入、高学歴の男との
 婚姻を望む傾向があるが、女性の高収入化、高学歴化
 により、対象となる男が制限される結果となった。
・男の方も、家事の家電化、コンビニ、風俗などが整備され、
 あえて結婚する必要性が減少した。

2,価値観の変化
・結婚するのが当然という価値観が崩れた。
・かつては見合いが主流だったが、現代では
 恋愛結婚が原則となったため、恋愛難民が
 出現した。

3,経済の停滞
・非正規社員が増え、妻子を養うことが難しく
 なった。

Q信仰には神も仏も要りませぬ

信仰について言えば皆勘違いをしているのでございまする。
ここではっきりと申しておきまする。
信仰とは神や仏を拝むことではないのです。
それゆえ信仰するのに神も仏も要らないのです。
それどころか信仰するのに必要なものは殆ど何も無いのでございまする。
食うメシがなくて腹を空かしていても信仰するのに何の問題もございません。
見栄えの良い仏壇やら、お題目を唱えるのに高いお金を払って御本尊を買う必要など毛頭ございません。
また戒名料やら高額なお布施など要求する坊主らを相手にする必要もございません。
信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
ほんとーに信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
そのただ一つのものとは夢見る心でございまする。
なぜなら信仰とは夢を見ることに他ならないからでございまする。
布団の中にはいって猫のよーに夢見ることができれば、それはもー立派な信仰者なのでございまする。

Aベストアンサー

たとえそれが師、ブッダ、聖人であったとしても、他人を信じるより自分を信じることの方が優れている。そのように信じられる自分を確立する方が優れている。
また、他の人の欠点や汚点を見てそれを毛嫌いしその人の本質を見ないことよりも、人のまことを信じることの方が優れている。人のまことを信じる人は精進によって自身のまことを知る事になる。

人は普通、頼りなく、しかも表面的な事に流されるゆえ信を確立する事は容易では無い。しかし誰もが持ち得るのが信であり、それをいくら強く抱いても非難される事がないのが信の本質なのである。

静かな夜は貴重な時間である。静かに観じるならより澄んでくるだろう。
夢見ている間は眠っていて目覚める事はない。しかし、夜の間にぐっすり眠っているからこそ、朝にはすっきり目覚める事ができる。朝がいつになるかは人それぞれであり前以て分かることではない。その時が来たならそれがその人のその時なのである。
夢見ている間の寝言の一つや二つは特に何の害もない事で、気にすることはない。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q世界の正義を求めるとしたら どういうものでしょう?

昔は子供たちは正義の味方に憧れて、いじめや悪いことを嫌いました。

しかし今はアメリカの正義とISの正義と北朝鮮の正義、中国の正義は違います。

正義が違えばそこで起こった問題や戦争は誰が悪いのか分からなくなる。

私の正義の定義は みんなで存在することが正義です。

ここでみんなと言うのは世界中の人を勘定に入れてと言う事です。

そんな正義を見出したくないですか?

人間に正義を取り戻そうではありませんか。世界の正義とはどういうものでしょうか?

Aベストアンサー

それは話を聞いてあげる事からですね。
話をするところから関係が始まりますね。
それが難しいのでみな苦労するのですね。
話を聞く方にも、絶対の正義があるわけではないですから、共感もできるし自省も起こるのですね。
北朝鮮に言わせたら、あんたらだって核兵器持ってるじゃんってことになりますね。
連合国に言わせたら、お前ら国民もろくに食わせてないじゃないか、となりますね。
まぁ、世界は色々あるので、色んな人々の力がそれぞれの問題に必要なのですね。
決して統一してしまう事が良いわけではないのです。大切なのは調和ですね。赤と水色は対立しますが、一つの絵の中で調和しますね。色んな主義主張が、世界において調和して居れば良いのです。


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