人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか? 

信仰の有る無しにかかわらず。

それでこそ普遍神である。

A 回答 (18件中1~10件)

生まれつき備わっているもの。

それは、神が無条件で与えた必要最小限の、<命>としての資質と意力。資質とは理性と感性。意力とは文字通り生きようというエネルギー。これらの能力が芽を出すのは、置かれた環境次第による。

人の場合、親がその環境を整えなければ<命>は生命、とは成り得ない。
心の傷が生まれつきのものなら、神でさえ直せない。言い換えればその傷は神が与えたのだ。

生きることで生じる傷は他者から受けたものであるはず。ただ、自身に因がある場合もあるか、とは思う。

☆ ブラジュロンヌさんの云わんとすることは、何となく分かっているつもりですが、それがいまだにうまく言葉にできないでいます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

今回は 複雑ですね。

★ ブラジュロンヌさんの云わんとすることは、何となく分かっている
つもりですが、それがいまだにうまく言葉にできないでいます。
☆ あたらしい質問を挙げましたが その中で次のくだりに留意してい
ます。
▲ (パウロ:ローマ書 8:6) 肉の思いは死であるが、霊の思いは、
いのちと平安とである。
☆ 《霊》が――わたしの考えでは―― 自然本性の内のプラス α のほ
うです。自然本性は 経験存在としては 身と心とです。

そして この《身と心》が このパウロの文では《肉》のことです。

そして 肉――身体と精神――は 人間の能力と努力とです。
霊は 人間には与えられたものだと理解します。

身と心も 《もらったもの》ですが 霊は 人間のチカラを超えたとこ
ろのものだと捉えます。


★ これらの〔<命>としての資質と意力なる〕能力が芽を出すのは、
置かれた環境次第による。
☆ 環境という要素・要因もあるでしょうし しかもこの場合の能力は
人間の使い方によると思います。

★ 人の場合、親がその環境を整えなければ<命>は生命、とは成り得
ない。
☆ あっ それは 《社会》という要因ですね。言葉の問題でもある。

★ 心の傷が生まれつきのものなら、神でさえ直せない。言い換えれば
その傷は神が与えたのだ。
☆ ここが 微妙ですね。

一般に一方では 赤ん坊は 罪のない状態で生まれて来ると言い ただ
し他方では 親や祖先の代からのあやまちを受け継ぐようなかたちでそ
のようなあやまちの可能性をすでに持って生まれて来るとも言います。

《傷》ですね。傷の余韻 あるいは 傷の回路のような。

わたしの考えでは この傷は――われ一代だけのものも 血筋や社会の
歴史を受け継いだものも――すべてやはり 自分の心にさからうという
意志行為が その自分の心に傷をつけたのだと見ます。

ウソやイツハリのぶんだけ 心が欠ける。

しかも どんな傷についても ナゾの何ものかが つねに埋め合わせる
とも言う。


★ 生きることで生じる傷は他者から受けたものであるはず。ただ、自
身に因がある場合もあるか、とは思う。
☆ 《他者による》場合とは 祖先からの引き継ぎではないかと。傷は
癒えていても あやまりの可能性は 受け継いでいると。

お礼日時:2017/08/08 21:32

アウグスティヌスの言葉を変えます。

次のように。

わたしたちに起こっている悪は
その満ちあふれる恩恵を
受け止めることが出来てこそ
滅ぼすことが出来る。

・・・と。

普遍神のつぶやきが聞こえる。
「そんなことはない。どんな生き方をしようと人は始めっから救われているのだからいいのだ」

これは幻聴か?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

お早うございます。ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~
アウグスティヌスの言葉を変えます。次のように。

わたしたちに起こっている悪は
その満ちあふれる恩恵を
受け止めることが出来てこそ
滅ぼすことが出来る。

・・・と。
~~~~~~~~~~
☆ 質問です。

(あ) まづ普遍神の恩恵は すでに霊として(――これは 《息
あるいは 生きるチカラ》と考えると分かりやすいと思います)
わが自然本性(身と心 そして プラス α =霊我)にその α とし
て宿っている・・・のでは?

(い) とは言え これを受け容れ自覚するのでなければ 息ない
し生きるチカラとしての霊は はたらかないかも知れない。

(う) つまり:
★ 受け止めることが出来てこそ
☆ というキッカケが肝心である。

(え) ところが――なお詭弁を弄しますが―― われに宿る霊を
受け容れ それとしての普遍神のめぐみを自覚するということ・つ
まりは 《恩恵を受け留めること》 これは 誰のチカラで成し得
ると考えますか?

(お) むろん 《受け留め・受け容れ・自覚する》のは 人間た
るわれです。

(か) つまり 受容するチカラは われにじゅうぶんありますか?

(き) つまり――早い話が―― その受け留めるチカラもそして
もともとの霊も息も生きるチカラも もらったものではないのです
か?

(く) わたしたちの持っているもので もらわなかったものはあ
りますか?



★ ~~~~~~~
普遍神のつぶやきが聞こえる。

「そんなことはない。どんな生き方をしようと人は始めっから救わ
れているのだからいいのだ」

これは幻聴か?
~~~~~~~
☆ (け) ぢゃあ なぜわたしたちは しばしばもう絶望だとい
うまでに苦しむことがあるのですか?

(こ) この幻聴ではないと思われる《つぶやき》が聞こえない場
合があり 聞こえないと言い張る人がいるのは なぜですか?

お礼日時:2017/08/06 07:40

感覚から理性へ。



感覚は理性を伴なう。拠って、理性は感覚を伴う。

感覚が、理性を刺激し、哲学を生む。

理性の前に、感覚有り。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
 -------------------------
 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

これに従うと 心の傷が癒やされるのは 《感覚》によるのでも
《理性》によるのでもなく ナゾによる。となります。

お礼日時:2017/08/04 15:24

"ウソ"ではありません。

実感です。

自身の好ましい方の心に"在る"時は心、穏やかです。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、健やかです。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、満ち足りています。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、揺らぎません。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、余裕が生まれます。

心の余裕とは、自我が薄まると云うことです。
自己より他者に心が向かいます。

宗教心の真理の一端です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ "ウソ"ではありません。実感です。
☆ 殊勝な心がけだと思います。しかも 哲学として筋道立てたとは
言い難い。その意味で ウソです。

★ ~~~~~~~~~~
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、穏やかです。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、健やかです。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、満ち足りています。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、揺らぎません。
自身の好ましい方の心に"在る"時は心、余裕が生まれます。
~~~~~~~~~~
☆ 《好ましい》の定義が必要です。人によって違う内容のことを思
っているかも分かりません。

それに――どこまでもケチをつけますが(それが 哲学です)――
《穏やか・健やか・余裕》などは やはり人によってまちまちです。

《満ち足りている》というのは 必ずしも相対的な内容ではないか
も分かりません。定義として しっかりしていると思います。

つまり わだかまりが無く おのれとの和解が成っているものと思わ
れます。

ですから 問題は その境地がどのようにわれわれ人間にそれぞれ
もたらされるのか? だと思います。

信仰心がなくても 能天気の状態でも その恩恵に浴することはあり
得ます。

そこになお考える余地があるように思います。



★ ~~~~~~~~~
心の余裕とは、自我が薄まると云うことです。
自己より他者に心が向かいます。

宗教心の真理の一端です。
~~~~~~~~~~
☆ まぁ 《心が――独りあっても――満ち足りている》なら その
一環としてそういったことが言えるのでしょう。といったコメントに
なります。

お礼日時:2017/08/04 12:12

生まれつき備わっている"受け皿"は自身の努力によって育て上げなければ価値は生まれません。

これを育てようというのが"信仰心"というものです。
ブラジュロンヌさんは、ここで他者との対話を通して"分かり合おう"としていますね。

神との対話。
これも、相互通行です。

積極的に神と対峙しなければ、心の成長はありません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 生まれつき備わっている"受け皿"は自身の努力によって育て上げ
なければ価値は生まれません。これを育てようというのが"信仰心"と
いうものです。
☆ ですから そのような《人間の殊勝な心がけ》は――いかにとう
とくても―― 《能天気》にはかなわない。のではありませんか?

もっと別に説明するなら 極悪人がどうして改悛の情に満ち溢れ そ
の心の傷が癒やされるというのか? 《信仰心》は その結果であっ
て 先行するものではない・・・のではないか?


★ ブラジュロンヌさんは、ここで他者との対話を通して"分かり合
おう"としていますね。
☆ すみません。おそれいります。


★ 神との対話。 / これも、相互通行です。
☆ ウソです。それは 人間たる自分が勝手にこしらえた神の像た
るその神との対話です。つまり けっきょくは 自分との対話であ
るに過ぎません。
(それが よくないとは言わずとも。でも 神と錯覚したら よく
ありません)。

★ 積極的に神と対峙しなければ、心の成長はありません。
☆ ウソです。そのように活発なウゴキを示してもよいでしょうが
《心の傷が癒えて 世界との和解そして自分自身との和解が成る》
のは あくまで人間の努力と能力とを超えています。・・・という
仮説を提出しています。


あっ こちらを先にお応えしました。

お礼日時:2017/08/04 11:33

神の心は"感覚・人間の持つ情"としては、博愛・慈悲の心であると分かっています。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ウソです。それは 神の心を人間が忖度しただけのものです。

それを 人間が 判定し評価しているにすぎません。

★ "感覚・人間の持つ情"としては
☆ この条件づけは けっきょく《神の心を 人間世界のことがらに
譬えれば》ということでしょう。

譬えたのも 人間です。それが 神の心だと言うのは 推測でしょう。


神は 非知だとみとめるまでは 引き下がりません。

お礼日時:2017/08/04 11:38

人間社会はその社会が、秩序を保つことに依って成り立っている、と思います。

またそれが保てるのは、その"意志・意力"が善意から発生している、とも思っています。
人の善意がこの社会を保っていると思えば、なにやら人間性善説を認めたくなります。ここに意見を述べる方々も皆、善意という"立場"であるようですね。

ブラジュロンヌさんも然り。
人間の精神の善性の極致が神と思えば、神と人間は一心同体である、とさえ云いたくなります。

この質問で取り上げられているのは、博愛であり慈悲心の事のようです。
確かに人が"泣く"事によって、自身の心が癒されるという事はあり、それを"普遍神"の為せる技と云えなくもないのですが、そうだとしてもそれは消極的見方と云えるのではないでしょうか。

「満ちあふれる恩恵」を受けるには、自ら進んで神と接しようとしなければならないと思います。
人の、生まれつき備わっている"受け皿"なんて、小さいものです。

自身の宗教心によってこれを育てなければ!

"こころのきず"によってその苦しみから解放されない人は、神のその満ちあふれる恩恵を"受け皿"で受け
おらず、したがって"なほらない"と思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。
たぶん 同じ質問をしたと思います。


さて:
★ 人間社会はその社会が、秩序を保つことに依って成り立っている、
と思います。またそれが保てるのは、その"意志・意力"が善意から発
生している、とも思っています。
人の善意がこの社会を保っていると思えば、なにやら人間性善説を認
めたくなります。ここに意見を述べる方々も皆、善意という"立場"で
あるようですね。
☆ まぁ そうですねぇ。この質問は 経験合理性にもとづく推論を
答えの中にしめすことのむつかしいものです。

それは けっきょく《善意》といった問題がからんでおり 回答もそ
こらへんに落ち着く・・・といったことに成り勝ちです。

でも これまでの回答におけるやり取りに見られるように そこでな
お問題は その《善意》を みなさんは《自然治癒力や時間》といっ
た見方で説明しているようです。

そこで 質問者のわたしは それらの《時が癒やす》といった経験に
ついて――いやらしくなって―― では《時間が経っても 癒やされ
ない》場合があるとしたら どうなのか? と問いました。

言いかえると 質問趣旨の神あるいは 《無条件で無根拠なる何もの
か》があるとしたら それと《時間や自然治癒力》と どう違うか?
と問うたわけです。

★ ブラジュロンヌさんも然り。
人間の精神の善性の極致が神と思えば、神と人間は一心同体である、
とさえ云いたくなります。
☆ わいわいえいと氏は 《無根拠なる根拠》の側に近いでしょうか。

ただし:
★ 「満ちあふれる恩恵」を受けるには、自ら進んで神と接しようと
しなければならないと思います。
☆ なるご見解については わたしは違う意見です。

《人間の能力と努力とでは 何ともできないことがある》と見るから
には どこまでも無条件・無根拠を推したいと考えます。

★ 人の、生まれつき備わっている"受け皿"なんて、小さいものです。
☆ はい。

★ 自身の宗教心によってこれを育てなければ!
☆ いいえ。です。

★ "こころのきず"によってその苦しみから解放されない人は、神の
その満ちあふれる恩恵を"受け皿"で受けておらず、したがって"なほら
ない"と思います。
☆ そういう忖度は いけないと思います。神の心があたかも分かっ
たみたいに語っているからです。

お礼日時:2017/08/04 10:45

あ、そうか、わたし時間の話をしたみたいだね。



時間とか場所とか全然関係ないんだけど。
こころの擦り傷とかこころの風邪とか心の骨折ぐらいなら、放って置けば勝手に治ると思うよ。治してもらわないと治らないのは虫歯ぐらいかな。


千年の恨みみたく自ら傷にしがみついて離れない場合は例外だけど。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あ、そうか、わたし時間の話をしたみたいだね。
☆ 似通っています。自然治癒と時間が癒やしてくれることと。


★ 千年の恨みみたく自ら傷にしがみついて離れない場合は例外だけど。
☆ これが 例外ではなく つねに――そこにそれこそ人によって 時
間の幅は出て来るでしょうが――《無条件で無根拠にて 癒える》ので
はないか。・・・という問いを提出しています。

そういう場合に 時間や自然治癒力とは微妙に違う問題が見られるので
はないかいうこと。

★ 自ら傷にしがみついて離れない場合
☆ にも ふとわれに還って 無根拠にて直る。のではないか? これ
が問いたい中心です。

お礼日時:2017/08/01 21:32

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。


ブロックを解除してくれてありがたう。
お邪魔します。



7番様?わたしは正反対だと思ふ。
なんでって若者の脳細胞というのはあまりにも活発過ぎて、激しくインプットやアウトプットをし過ぎたがり、右にも左にも前にも後ろにも上にも下にも未来にも過去にも簡単にぶっ飛んでしまい、なかなか真ん中で、ただじっとしていることができません。

敏感さや繊細さに溢れていられる若者のほうが、何事にもどっぷり浸かる上、しかも何事にも不器用で、何事にも要領が悪く、何事も遠回りをするのだから、己が平穏になるまで時間がかかると思うのだけど。


いやわたしは若者ではなく、初老を過ぎまして、多少は鈍感力や無神経さや図々しさを身に付けることができたと感じてをります。

________



ところで自然治癒力には驚くばかりだね。
こいつのお陰で息子は小学校を6年間皆勤したし娘は中学校を3年間皆勤したし、わたしが未だ生きてゐるのもこいつのお陰に他ならないでせう。


解放される力を持ってゐることに気付くかどうかの問題。
いや気付いてもわざわざ捨てちまう人がいるのも問題かもしらん。


今日は筋トレをして毒を流してスッキリして空腹になって眠いのでおしまい。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 7番様?わたしは正反対だと思ふ。

◆(A№7) ~~~~
若い人はすぐ治癒。
年寄りはなかなか時間が掛かるんじゃないかな。

★ ~~~~~~~~~~
なんでって若者の脳細胞というのはあまりにも活発過ぎて、激しく
インプットやアウトプットをし過ぎたがり、右にも左にも前にも後
ろにも上にも下にも未来にも過去にも簡単にぶっ飛んでしまい、な
かなか真ん中で、ただじっとしていることができません。

敏感さや繊細さに溢れていられる若者のほうが、何事にもどっぷり
浸かる上、しかも何事にも不器用で、何事にも要領が悪く、何事も
遠回りをするのだから、己が平穏になるまで時間がかかると思うの
だけど。
~~~~~~~~~
☆ そうですね。

興味や関心そしてあるいは問題意識など これらが幅広く活発に動
いて定まらないほどだということと 心の傷が癒えるということと
は 必ずしも同じたぐいの問題ではないかも知れません。

いや どうなんでしょう。

________



★ ~~~~~~~~~
ところで自然治癒力には驚くばかりだね。
こいつのお陰で息子は小学校を6年間皆勤したし娘は中学校を3年間
皆勤したし、わたしが未だ生きてゐるのもこいつのお陰に他ならな
いでせう。


解放される力を持ってゐることに気付くかどうかの問題。
いや気付いてもわざわざ捨てちまう人がいるのも問題かもしらん。
~~~~~~~~~~
☆ そうですね。問題提起ですが:

(あ) 無条件で無根拠なる治癒力 ≧ 自然治癒力 ≧ 時間

と捉えてよいか?

(い) 時間は 心の傷の癒える場合の要因でふつうにありうるけ
れど 自然治癒力というのは どちらかと言うと からだの病いや
傷について言う場合が多い・・・かもしれません。(あ)で捉えた
ように むろん 心の傷についても言うわけですが。でも それは
時間が癒やしてくれるということを内容としているのかも分かりま
せん。

分かりませんが ひと言差し挟んでおきます。

お礼日時:2017/08/01 20:43

No.8です。



bragelloneさん、いい内容になってきたのではないでしょうか。

「極端なことをやはり言えば 被害者のほうには 何も責任はないのか? 」
⇒もちろん、あります。
いじめ問題などもそうです。

「さらに問題は いづれにせよ――つまり 責任をどう決めどう取るかについていづれの考えを採用するにせよ―― では かかわった人たちそれぞれの心の傷は どう癒やされると見ておけばよいのか? です」
⇒いいポイントですね。

「極端なことをやはり言えば 被害者のほうには 何も責任はないのか? 」


「心のケアは 専門家にまかせればよい。で済みますか? それが哲学の答えだとしてよろしいですか?」
⇒よろしいのですよ。

「つまり 心にわだかまりが無く 世間と和解しており 自分自身とも和解が成っており そうして心の傷が癒えているなら 《他人を誹謗中傷すること》もないでしょう」
⇒そういうことです。

「そういった能天気の人どうしなら 互いに《甘えて》もどうってことない。となりますから」
⇒能天気同士ならいいのです。
問題は、能天気な人間が普通の人たちに迷惑をかけることです。

何故、私がこのようなことに拘るのか?
それは、このような人間の原点なしには哲学は語れないからなのです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ bragelloneさん、いい内容になってきたのではないでしょうか。
☆ この質問は かんたんに問うかたちでしたが われながら なかなか
問い求めるべき内容に富んだ主題だったでしょうか。

☆☆ 「極端なことをやはり言えば 被害者のほうには 何も責任はない
のか? 」
★ ⇒もちろん、あります。 / いじめ問題などもそうです。

☆☆ 「さらに問題は いづれにせよ――つまり 責任をどう決めどう取
るかについていづれの考えを採用するにせよ―― では かかわった人た
ちそれぞれの心の傷は どう癒やされると見ておけばよいのか? です」
★ ⇒いいポイントですね。

☆☆ 「心のケアは 専門家にまかせればよい。で済みますか? それが
哲学の答えだとしてよろしいですか?」
★ ⇒よろしいのですよ。
☆ 専門家にゆだねる領域はあるでしょうが それで哲学のすべてだと見
てよいでしょうかねぇ。まだ 疑問を持ちます。

☆☆ 「つまり 心にわだかまりが無く 世間と和解しており 自分自身
とも和解が成っており そうして心の傷が癒えているなら 《他人を誹謗
中傷すること》もないでしょう」
★ ⇒そういうことです。
☆ ええ。ですから 哲学は 独自の守備分野があるかと思います。

☆☆ 「そういった能天気の人どうしなら 互いに《甘えて》もどうって
ことない。となりますから」
★ ⇒能天気同士ならいいのです。 / 問題は、能天気な人間が普通の人た
ちに迷惑をかけることです。
☆ いやぁ そうですかねぇ。普通の人の側からも 迷惑がありそうです
し もっと言うならば みんな能天気になればよいではないですか。

★ 何故、私がこのようなことに拘るのか?
それは、このような人間の原点なしには哲学は語れないからなのです。
☆ ええ。そういう淡い見通しのもとに問いをかかげました。

つまり ひと言だけですが 《おのれ自身との和解》は やはり神の問題
ではないかと思うのです。決して宗教の問題ではありません。

自己責任の自覚よりも 神――つまりふつうは 《無い神》なる神でしょ
うが――の自覚のほうが 《人間の原点》に深くかかわっているかと思う
んです。

あるいは 《無根拠》ということです。《無条件で無根拠にて おのれと
の和解を成就する》という問題ではないかと。

お礼日時:2017/08/01 17:53

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない

Qtranszendentとtranszendental

transzendentとtranszendentalの対義語を調べたいのですが見つかりませんでした。

transzendentの対義語はimmanentで良いでしょうか?
transzendentalの対義語はempirischとかでしょうか?

ドイツ語に詳しい方よりご教示頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ語ができないなら回答しない方がよい、ということで、
immanent, immanentalが挙げられていますが、そんなに簡単な話ではありません。
immanentalという語形は、英語では使いますがドイツ語では使いません。
そもそも、transzendentalという語を哲学用語として新たに導入し、
transzendentとtranszendentalは同じではない(nicht einerlei)とカント自身が書いている以上、
対義語が同じimmanentに由来する語になるはずはないのです。

哲学用語辞典の前に、一般的な辞書、Dudenを見てみます。

transzendentはラテン語のtranscendens(動詞形transcendere: überschreiten, übersteigen超えること)に由来、
哲学用語としての意味は、
「経験、および感覚的に認識可能な世界の境界を踏み越えること、超感性的、超自然的」
die Grenzen der Erfahrung und der sinnlich erkennbaren Welt überschreitend; übersinnlich, übernatürlich
対義語:immanent

transzendentalは中世ラテン語のtranscendentalis(übersinnlich: 超感性的)に由来、
哲学用語としての意味は、
「あらゆる主観的経験以前に在り、対象そのものの認識を最初に可能にすること」
vor jeder subjektiven Erfahrung liegend und die Erkenntnis der Gegenstände an sich erst ermöglichend
対義語:記載なし

カントにおけるこの二語に関しては、ドイツ語による哲学語辞典や研究書の解説は一貫しています。
結論から言うと、質問文に書かれているとおり、
transzendent ⇔ immanent
transzendental ⇔ empirisch
となっています。
ただし、カントにおいても、まだこの二語の使い分けは必ずしも明確ではなく、
ほぼ同義に使っている個所もあるということが、ドイツ語の各種研究書に詳しく書かれています。
この点については、三一書房刊のロングセラー、「哲学・倫理用語辞典」でも注意されています。

ドイツに、学術的な書物を多く出しているUTBという出版社がありますが、
その哲学用語辞典では、transzendentに関しては
名詞形Transzendenzを見よとなっているので、その一部を引用します。

Transzendenz
「超越(Transzendenz)」の概念においては、人間の原経験は、有限な存在であることを言い表す。なぜなら我々は、洞察可能かつ把握可能な現実の一部として存在はするが、その一方ではこの現実を、我々の認識能力の有限性を通して、それと同様限られたものとして体験するからである。この二重の境界経験は、思考に対し、我々の存在の内在的実在性(immanente Realität)が止揚される超越的現実(transzendente Wirklichkeit)の必然的予見を生じさせる。Transzendenzはつまり、Immanenzという概念に対応した相対的概念であり、Immanenzの概念をどのように理解するかによって、Transzendenzに相対する概念としてExistenz、Erleben、Daseinなどが考慮の対象となる。Xavier Tilliette (1921-)は、Transzendenzの本来の対義語は、「落下」「沈下」を意味するDeszendenzという概念によって成されるのではないかという。Transzendenzは、常に不完全なものとして見られる目の前の現実(Immanenz)からより高次の領域へ入ることを意味するゆえ。
カントの批判的認識論においては、Transzendenzとは、過剰(überschwänglich)な、かつ許容されざるかたちで感覚的経験から導き出された対象把握の使用を意味する。このような超越的使用(transzendenter Gebrauch)は詭弁であり、客観的認識の根拠とはなり得ない。
ドイツ観念論においては、Transzendenzに関わる問題は、主観・客観という弁証法的対概念に変化し、「彼岸(jenseits)」–「此岸(diesseits)」(Transzendenz – Immanenz)という意味論的な対義から「絶対的(absolut)」–「限定的(bedingt)」へ変換される。

以上の意味から、transzendentの対義語はimmanentとなります。

transzendentalは、カントの定義では、a priori(つまりempirischではなく)とみなされる認識に関わることであり、この認識は、対象を直接にではなく、我々が対象をどのような方法で認識するか、その方法によって規定する、とあります。
「対象とではなく、a prioriに可能な限りにおいての我々の対象認識の方法と携わるすべての認識をtranszendentalと名付ける」

transzendentalの上のような意味と、その語源の意味がübersinnlichであることから、カントの用語のtranszendentalの対義語はempirischとされています。

また、これらのラテン語由来の述語をカント自身がより一般的なドイツ語に置き換えていますが、
transzendentはüberfliegend(飛び越える)、またはüberschwenglich(過剰な、感情過多な)、
immanentはeinheimischと訳されています。
(注:überschwenglichは、こんにちではüberschwänglichと綴ります。)
なので、この場合のeinheimischは「土着的」ということではなく、
immanent(内在的)のドイツ語訳です。
heim(家)という語が含まれていることからもわかるように、
古くは「在宅する」の意味で使われた形容詞です。
以下、Georg Samuel Albert Mellin著のEncyclopädisches Wörterbuch der kritischen Philosophieからの引用です。

Einheimisch
immanent, domesticus, domestique, immanent. So heißt im Theoretischen diejenige Vorstellung, die nur auf Erfahrung geht, oder auf Erfahrung eingeschränkt ist, weil sie dann in ihrem Gebiet ist und bleibt. Eigentlich heißt also einheimisch oder immanent seyn, in seinem Gebiet seyn, transcendent seyn dagegen, über sein Gebiet hinausgehen.
(einheimischは、自らの領域にとどまること、transcendentはその領域から出て行くこと。)

以上をまとめると、ラテン語由来の述語とその対義語、およびそのドイツ語訳は、以下のように対応します。
(apriorischのみはラテン語由来のままです。)

transzendent ⇔ immanent : überfliegend/überschwenglich ⇔ einheimisch

transzendental ⇔ empirisch : apriorisch ⇔ erfahrungsgemäß

(Fritz Mauthner: Wörterbuch der Philosophieの解説より)

『純粋理性批判』の複数個所で、「transzendent - immanent」「transzendental - empirisch」が同義に使われているということが、
Christoph Asmuth著のKant und Fichte - Fichte und Kantの解説中に見受けられます。
区別が明確になるのは、Prolegomenaにおいてだそうです。
ほかにも、Der Begriff "transzendental" bei Immanuel Kant(Nikolaus Knoepffler著)
という書物を見つけたのですが、残念ながらいま仕事が忙しくて読み込めないので、
ここまででご勘弁願います。

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ...続きを読む

Q文章の美について、或いは人は文章を裁けるか?

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書くことが好きなのです。書く以上はいいものを書きたい。

けれどもわたしの文章を読み「正当に」評価してくれる人は存在しません。
この春で6年目に入ったアート系のブログには、1万数千人のフォロワーがいますが、それ以上長く続けているメインのブログには一日に3名くらいの訪問者しかいません。こちらが乞うてもコメントを残してくれる読者もいません。

先に「わたしの文章を正当に評価してくれる人がいない」と言いましたが、
嘗て「美」について立て続けに質問を発していたとき、わたしのスタンスは、「美」とは、何を美しいと感じるかは、全く個々人の主観による、という立場でした。

ダリやピカソ、ポロックやフランツ・クラインの「どこがいいのかわからない」「無茶苦茶だ!」「グロテスク」という評価も全く的外れとは言えないはずです。

では文章に関してはどうでしょうか?

例を挙げます

1)「鰊が地下鉄道を通って食卓に運ばれてくる」 

これは安西冬衛(1898-1965)というモダニスト詩人の「春」という詩です。
残念ながらこの詩の良さはわたしにはわかりません。

例文2)これはお気に入りの文章です。

「ある晩 ココアを飲もうとすると あついココア色の中から ゲラゲラと笑い声がした びっくりして窓の外に放り投げた
しばらくたって ソーと窓から首を出してみると 闇の中で茶碗らしきものが白く見えていた
なんであったろうかと庭へ下りて いじろうとしたら ホイ! という懸声もろとも屋根の上まで放り上げられた」

こういう文章は素敵です。稲垣足穂の『一千一秒物語』から「ココアのいたずら」という作品です。

わたしは、繰り返しますが、いい文章が書きたい。では自分にとってのいい文章とはどういうものかというと、強いて言うなら「非・天声人語的」文章です。ウィリアム・バトラー・イエイツの言葉を借りるならいい文章とは「1にワンダー、2にワンダー、3にワンダー」です。

最近読んだ本で強く印象に残っているのは二階堂奥歯という人の書いた『八本脚の蝶』という本です。
2016年の「本屋大賞」で「超発掘本」大賞に選ばれた2006年の本です。

アマゾンのレヴューでは、例えば評論家(?)の小谷野敦氏などは、この本について「ただただ気持ち悪いだけ」という評価を下しています。

つまりわたしがいくら「いい文章を書きたい」と願っても、ある文章が「いい文章」であるかないかという基準は存在しないし、それ故何人もある文章に対して「正当な評価」はできないということになるのではないか?

なんだか要領を得ない質問になってしまったようです。なにか感じられた方だけ、お答えください。

そういえば昔Okwaveにlittlekissさんのという方がいて、彼女の文章のうまさにはいつも舌を巻いていました。 

ではみなさん、よい週末を。

追記ー

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』は2003年に彼女が自死するまで書き続けていたウェブ日記を基に書籍化されたもので、今でもブログ部分は読むことはできます。

http://oquba.world.coocan.jp/note5_p10.html

この2002年4月6日(土)のストーリーなど素晴らしい!

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書...続きを読む

Aベストアンサー

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問題、ものを書くということをめぐる考え方の問題とでも言いますか。それは十人十色でいいのでしょう。一つの色を決め、その人としか付き合わないというなら、距離を取る他ありません。
山田氏はそんなに器の小さい人物なのでしょうか。私はちょっとわからないです。距離の置き方が決裂でなければよかったでしょうが、GRさんの場合、いろいろと読んでいくと、些事でも決裂になることがあるのだとお察ししました。山田氏はこの頃合いがわからず、不用意に変なことを言ってしまったということはないでしょうか。

あと文体論ということで、一つだけご助言を。「・・・(苦笑)」というのが、伝わりにくいです。「(苦笑)」という言い回しを避けた方がいいとは言いませんが、ここの心理は一文くらい足して補った方がいいと思うのです。
なんというかな、書いてもお前ら読者にはわかんないだろう、分かる人だけわかればいいや、という書き手の傲慢さを、私は感じてしまうのです。精神障害者の独特な見方を示すと銘打っているだけに、一旦、読者が小馬鹿にされていると思うと、もう取り返しがつきません。精神障害者と言っているが本当は健常者で、内心で小馬鹿にしているのではないか、という疑いを持つ可能性があります。
私自身が書くときはあまり気にしていませんが、もしさらなる向上を目指すなら、ここは丁寧にやった方がいいと思うのです。

そして雑談。「ワンダー」についてですが、ホッケの『文学におけるマニエリスム』はお手に取ったことがありますか。まさにワンダーの宝庫と言って良いようなものですし、まあはっきり言えば「ワンダー」にあたる概念が説明されており、さらに類型が列挙されています。ここを手掛かりにいろいろ探していけるとも思うんですよね。すでにご承知ならお許しを。

ニュートラルさんもいらっしゃったし、私がここで長居しても、あまり良くないでしょう。
この問いはこれくらいで失礼いたします。

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問...続きを読む

Qknowledge, inteliigence and wisdom の違いは?

knowledge, inteliigence and wisdom の違いは何でしょうか?

日本語の訳はそれぞれ、

knowledge:知識
intelligence:知性
wisdom:叡智

ということのようですが、訳語のイメージに惑わらされずに、英語の単語の意味を正確に理解したいと思っています。

[質問1]
まず、knowledgeとintelligenceの違いはなんでしょうか。私はknowledgeに帰納法とか演繹推論などのlogicを付加したもがintelligenceかなと思うのですが、いかがでしょうか。
また、intelligenceはknowledgeを包摂する上位概念で、knowledgeはintelliegnceの「部分」と思っていますが、包含関係が成立し、真の部分集合になっていると思ってよいでしょうか。 K ⊂ I


[質問2]
次に、wisdomはintelligenceに価値判断を追加したものかと思うのですが、いかがでしょうか? 
「生命は貴重だ」とか「男女の価値の差はない」とか、「人生は苦である」など、
包含関係以外で「subject is predicate」という価値判断が含まれるのがwisdom、それは含まないのがintelligenceと考えて、よろしいでしょうか?
また、wisdomはintelligenceを包摂する上位概念で、intelligenceはwisdomの「部分」と思っていますが、包含関係が成立し、真の部分集合と思ってよいでしょうか。 I ⊂ W


K ⊂ I ⊂ W

英語の語彙に詳しい哲学関係の専門家からのアドバイスを頂けるとありがたいです。

どうぞよろしくお願いします。

knowledge, inteliigence and wisdom の違いは何でしょうか?

日本語の訳はそれぞれ、

knowledge:知識
intelligence:知性
wisdom:叡智

ということのようですが、訳語のイメージに惑わらされずに、英語の単語の意味を正確に理解したいと思っています。

[質問1]
まず、knowledgeとintelligenceの違いはなんでしょうか。私はknowledgeに帰納法とか演繹推論などのlogicを付加したもがintelligenceかなと思うのですが、いかがでしょうか。
また、intelligenceはknowledgeを包摂する上位概念で、kno...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
wisdomの難しい所は、intelligenceによらずに、正しい選択と言うか、正しい行いが出来る人がいる事です。
日本語の知恵も同じような概念ですが、知によらない賢さがあると言うニュアンスが、英語ネイティブでも、年齢によらないと言う回答を生んでいるような気がします。
intelligenceは、合理的な思考により、smartに通じますが、それが決してwiseとはならない場合もあります。
また、intelligenceは、他から学ぶ事が可能であると言うか、学ぶ事が出来る能力と言うニュアンスもあるようです。
それに反して、wisdomは、一種の判断能力であり、学習で身につくものでは無いと言うニュアンスが強いようです。

Q信仰には神も仏も要りませぬ

信仰について言えば皆勘違いをしているのでございまする。
ここではっきりと申しておきまする。
信仰とは神や仏を拝むことではないのです。
それゆえ信仰するのに神も仏も要らないのです。
それどころか信仰するのに必要なものは殆ど何も無いのでございまする。
食うメシがなくて腹を空かしていても信仰するのに何の問題もございません。
見栄えの良い仏壇やら、お題目を唱えるのに高いお金を払って御本尊を買う必要など毛頭ございません。
また戒名料やら高額なお布施など要求する坊主らを相手にする必要もございません。
信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
ほんとーに信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
そのただ一つのものとは夢見る心でございまする。
なぜなら信仰とは夢を見ることに他ならないからでございまする。
布団の中にはいって猫のよーに夢見ることができれば、それはもー立派な信仰者なのでございまする。

Aベストアンサー

たとえそれが師、ブッダ、聖人であったとしても、他人を信じるより自分を信じることの方が優れている。そのように信じられる自分を確立する方が優れている。
また、他の人の欠点や汚点を見てそれを毛嫌いしその人の本質を見ないことよりも、人のまことを信じることの方が優れている。人のまことを信じる人は精進によって自身のまことを知る事になる。

人は普通、頼りなく、しかも表面的な事に流されるゆえ信を確立する事は容易では無い。しかし誰もが持ち得るのが信であり、それをいくら強く抱いても非難される事がないのが信の本質なのである。

静かな夜は貴重な時間である。静かに観じるならより澄んでくるだろう。
夢見ている間は眠っていて目覚める事はない。しかし、夜の間にぐっすり眠っているからこそ、朝にはすっきり目覚める事ができる。朝がいつになるかは人それぞれであり前以て分かることではない。その時が来たならそれがその人のその時なのである。
夢見ている間の寝言の一つや二つは特に何の害もない事で、気にすることはない。

Q今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

Aベストアンサー

いい加減なこと言うでない。
ス昆布がちまたで流行ってるって誰が言った。
今ちまたで流行ってるのはカルビーのカールだろが。

Q¿ 不倫がどうぢゃこうぢゃと 弱者の反感(ルサンチマン)がかまびすしくなった あぁ 世も末ぢゃわい

1. 弱者は 勇気も度胸もなく 浮気もできないというだけではないか。

2. そのやからがつくった倫理をやぶったからと言って 何をさわぐのか?

3. 高貴な強者は ビッグバンの初めから そのチカラへの意志で生きて
いる。きわめてうつくしい振る舞いだ。文句あっか?

4. 倫理道徳は 高貴な人種のつよさ・うつくしさに対するやっかみから
弱者が勝手につくった。

5. 天皇家も この《倫理》に合わせて 側室を排除した。あぁ 世も末
ぢゃわい。


☆ 教えて! ぐー。

Aベストアンサー

No.7です、

bragelloneさん、素直なコメントですね。


「つまり 《倫理・道徳》というものは 《つぶやき氏(=ニーチェ)》によれば 弱者が勝手にその弱さに合わせて都合よいようにつくったに過ぎない・・・と言ってるんです」
⇒そうなのですか。

ニーチェが心から、そのように言ってるとすれば、それはニーチェがおかしいですね。

何故ならば、倫理・道徳がなければ、社会は混乱の極みだからです。
倫理・道徳がある中で、密かに浮気がある、ということであれば何も問題はないでしょう。

つまり、浮気は”弱者は勇気も度胸もなく”とは無関係でしょうね。

Qエントロピー増大 vs 人間AI系

果たしてこの宇宙で、太陽が地球を飲み込むまでに人間AI系はエントロピーを減少させる

特殊な存在となれるでしょうか? そうなると何が出来るのでしょうか?

今の感じではあと1000年位で決着が着きそうな気もしますが。

Aベストアンサー

生命が、生存し進化する=エントロピー減少しているように
見えるのは、食べ物を食べ、燃料を消費し、環境のエントロ
ピー増大を加速する事で、開放系として自分のエントロピーを
減少させているのです。

エントロピー減少のため、工夫するために労力を使い、機械を
生産する事、それ自体がエネルギーを要し、エントロピー増大を
加速させるのです。
永久運動機関が可能になれば、エントロピーの流れを逆転できます。
ぜひチャレンジしてみて下さい。
(中・高生の頃チャレンジして、結論は「宇宙は永久運動機関である」でした)

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q人間とは 何でしょうか?

そもそも人間とは何でしょうか?

実存とか精神とか 性善説とか性悪説とかありますが

人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

Aベストアンサー

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む


人気Q&Aランキング