痔になりやすい生活習慣とは?

源義経が軍事的天才と呼ばれている理由はなんでしょうか?

わがままでもうしわけないのですが具体的にお願いします_(._.)_

A 回答 (3件)

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。


「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏側としては、短期決戦したいものの、まともにぶつかっては勝てるかどうか。
そこで副将格の義経が、別働隊を率いて平家の後方を衝き、その混乱に乗じて範頼の主力軍が攻め込むと言う作戦を提案し、これが大成功と言う戦です。

別に平家側も油断していたワケではないのですが、まさか険しい山側から騎馬隊が攻撃してくるなどとは思ってもいなかったから、義経の狙い通りの大混乱。
これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
おまけに義経ってば、自ら率いた逆落とし別働部隊とは別に、これも有名な武将ですが、熊谷直実に側面攻撃部隊を率いさせると言う、用意周到さです。

ちなみに、この戦で熊谷直実に討ち取られたのが、平家一門の平敦盛で、この逸話は平家物語や、能の『敦盛』や幸若舞の『敦盛』として扱われ、超有名。
織田信長がよく口にしたとされる「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」も、幸若舞『敦盛』の一節です。
この先には、那須与一が見事、弓矢で扇を射抜いた話とか、義経の八艘飛びなど、源平の戦には多くの逸話があることも、義経人気に一役買ってますね。

東西と北に敵を構えた平氏は、南側の瀬戸内海に逃げるしかありませんが、7万の軍勢が一斉に船に乗って逃げられるハズもなく、溺死者なども多く出て。
この戦で平家は大惨敗を喫し、実質、崩壊してしまいます。

追討軍の指揮は、引き続き源範頼が執るのですが。
この兄ちゃんは、ちょっと出来が悪いのか、モタモタしちゃうから、一番上の頼朝兄ちゃんが怒って、義経に「アイツはダメ。お前が討伐へ行け!」と命じ。
義経は、短気な頼朝兄ちゃんの期待に応えるべく、ちょこっとの船で、海路、平家討伐に向かい、ここでも奇策や奇襲を重ね、見事に勝利を収めます。

一方でダメ兄ちゃんの範頼も、陸路、九州あたりまで平家の残党討伐を行い・・。
平家の本体を討伐し続けた義経と合流しして、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」で、平家を滅亡に追い込みます。

義経の軍事的な才能は、「型破り」と「スピード」でしょうか?
軍事の天才に求められるのは、「少数で大軍を撃破」みたいなエピソードかと思いますが。
義経は、それを策略などではなくて、型破りな奇襲と、それを相手どころか味方も驚く様な早さで、やってのけてます。

「やあやあ我こそは!」の時代に、思わぬところから、突如、騎馬隊が現れて、陣地に火矢を射込むなどして暴れ回ったりしたら・・。
現代で言えば、いきなり東京湾に謎の潜水艦群が浮上して、ミサイル発射・・くらいのインパクトかも知れません。

ただ義経は、危うさもあって、後白河法皇から「大将が先陣に立って戦っちゃダメ!」と叱られたりもするのですが、「コッチはハナから、死ぬ気でやってんだよ!」と逆らったりしてます。
もしかすると義経の「型破り」さは、「命懸けの強さ」とか、そんな覚悟から来る発想かも?とも感じます。

従い、後の戦国武将とかでも、上杉謙信などは義経を尊敬していましたが、武田信玄あたりは、あまり尊敬していなかったみたいで、武田家も、お家がゴタゴタしたので、最後は頼朝に殺された義経を、「出しゃばりすぎ」と見ていた様です。
しかし、謙信も信玄も、義経と同じく軍事的天才に挙げられるので、その二人に教師や反面教師とされた義経は、やはりスゴいですね。
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他の方の回答が的を射てて、勝てばOKって卑怯なことを山ほどやったんですね。

ちゃんと全部残ってて、舟の船頭を殺して~なんてのは有名なところ。
今じゃ戦争はそんなものと思われていますが、市民を巻き込みはじめたのは第二次世界大戦のナチスドイツからで(それを真似たのが日本軍や米国軍)、それまでは基本的に戦争ってのは軍人同士だけで戦うものだったんですね。

一の谷の戦いってのは、よく分かってないことが多いのですが、どうも崖を馬に乗って降りてきたってのはウソくさい。背後に山が連なっているのは確かですが、切れ間もあって(今の兵庫県道22号あたり)そこから来たらしい。襲われた方は、裏は山なのになぜ後ろから・・崖を降りてきたのか!ってウワサになって、それが広まった感じのようです。
この時も、襲撃する前に、平清盛の命日だから7日(だったかな?)は戦はしない、って天皇使って平家側に伝えておいて、それで奇襲してたりしますw


勝てばOKってのは実は日本書紀や古事記なんかにも沢山w出てくるので(いやもう天皇家の卑怯さ加減ってのはパネェなって感じ)、・・おっとこんな時間に誰かが。
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例えば、騎馬



 あの当時、エライ武士は自分で地面を歩かないというのが主でした、だから馬に乗る。
馬には、馬を進めたり止まったり方向転換させる馬扱いを一人つけて歩いていました。(馬に乗って走るのはずっと後(^_^;

馬や馬扱いを攻撃してはならない、という不文律がありましたが、馬も馬扱いも攻撃しちゃったら、武士は動けなくなるので、そこを集中攻撃、槍があれば離れた所から攻撃できますし、卑怯と言われようが勝った者が勝ち、と(^_^)v

馬に乗って、敵の横から一気に奇襲攻撃、敵は全滅、勝てばOK

一の谷の戦い
 周りは味方の武士だらけ、後ろは崖だから誰も攻めてこないから、安心と寝てる陣地に対して崖上から奇襲攻撃、それで敵は全滅、勝てばOKと

壇ノ浦の戦い
 船の上には武士、そして魯の漕ぎ手、魯の漕ぎ手も打っちゃダメ、という不文律がありましたが、そんなの関係ないよと弓矢で攻撃、船を操る人間が居ないので、船は動けず、そこに集中攻撃、そして全滅 勝てばOK作戦、これまた成功

敵がやらない事をやって、勝っちゃったから(卑怯と言われようが)軍事の天才だ、と
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Q畳は日本の文化って大嘘ですよね? 戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

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救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
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小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
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Qなぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

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姫路城は黒田家に譲ったから

Q第二次世界大戦の敗戦国としては、戦後処理として日本が恵まれていた理由は何ですか?

第二次世界大戦に敗戦した国としては、日本は以下の理由で恵まれていましたが、その理由は何でしょうか?

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①天皇制の存続
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一方、ドイツはこんな感じです。
①ヒトラーの戦死、戦後は極悪人として徹底糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治
④ドイツ女性への強姦
⑤文化財等の強奪

もし、日本がドイツのようになっていたら・・・考えただけで恐ろしいですね。
①天皇の処刑・極悪人として糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治(おそらく北海道と東北はソ連統治で、東京は4か国による分割占領)
④日本人女性への強姦
⑤京都、奈良等の文化財が強奪される

Aベストアンサー

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に
指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている。
東京・横浜をはじめ、江ノ島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、
兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。

また、日本刀、鐘など、多くの文化財が、アメリカに持ち去られました。

天皇制の維持は、その方が日本を統治しやすいと判断したからだと思いますよ。
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日本は、イギリス、中国との戦闘には勝っていますが、アメリカの物量に
負けたのですよね。
アメリカも予想以上の損害を被っています。

二度と日本軍とは戦いたくないとの強い思いがあったと思います。

アメリカの多大な損害と引き換えに日本を降伏させたのですから、
アメリカとしては、わざわざ分割統治して、貢献していない他国に分け前を
渡したくないでしょうし、日本の共産国化は何としても避けたかったでしょうから
ソ連との分割統治を避けたと思います。

行政機構の維持は、天皇制を継続したのが影響しているのではないでしょうか?

でも、WGIPによって、徹底的に自虐史観を植え付け、日本の国体を
破壊しました。今もその影響は、強く残っています。

ドイツは、軍隊を持っていますよ。
ドイツに戦争放棄の憲法9条はありません。

ドイツは、戦争責任を徹底的にナチスドイツ(ナチス政党)に押し付け
国としての戦争責任は認めていません。

よって、日本のような国としての謝罪はしていません。

ドイツにおける行政機構の徹底破壊がなぜ行われたのか?
私は知見がありません。
ドイツ人自身が、ナチスを徹底的に否定し、戦争責任を押し付けた
影響があるのでしょうか??? よく解りません。

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小...続きを読む

Q桶狭間の戦いの直前、義元はなにをしていたんですか?

桶狭間の戦いの直前、義元はなにをしていたんですか?

Aベストアンサー

普通に指揮を執っていたと思われます。
ただし、諸説ありますので、どれが正しいかわかりません。

よく言われる桶狭間の戦いは、圧倒的に劣勢な織田軍が
雨の中を敵中突破して、休憩中の今川軍を奇襲した。
酒を飲んで油断した義元は負けました。
という見解が多いと思います。
これは、小瀬甫庵の「信長記」からきています。
時代的には50年ほど後のもので、
後述の「信長公記」をもとにしたとされています。

信長の家臣で、太田牛一(1527-1623)が記した
「信長公記」という資料があります。
いくつかの表題があり、「信長記」「信長公記」などと
題されましたが、前述の「信長記」と区別して
「信長公記」と言われるようになりました。
信長の部下であったことから、史料としての価値は
こちらが上なので、こちらがより事実に近いとされています。

ここでは、信長と義元は「おけはざま山」で対峙して
信長は何度か突撃を試みました。
そして、機を見て全軍突撃を行ったとされています。
今川方は、精鋭を各方面に展開していたので
本陣は人数は多いけど手薄でしたので、
精鋭の信長に負けてしまいました。

普通に指揮を執っていたと思われます。
ただし、諸説ありますので、どれが正しいかわかりません。

よく言われる桶狭間の戦いは、圧倒的に劣勢な織田軍が
雨の中を敵中突破して、休憩中の今川軍を奇襲した。
酒を飲んで油断した義元は負けました。
という見解が多いと思います。
これは、小瀬甫庵の「信長記」からきています。
時代的には50年ほど後のもので、
後述の「信長公記」をもとにしたとされています。

信長の家臣で、太田牛一(1527-1623)が記した
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Qもし桶狭間で信長が戦死したとしたら??

歴史に「もし」は禁物だと言いますが、ここでは敢えて、その禁を犯します。

桶狭間の戦いで、もし、織田信長が奇襲に失敗して戦死をし、今川義元が無事だったとしたら、その後の歴史はどうなったでしょうか。

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まあ可能性としては、「今川幕府が成立 or それ以外の政権が樹立」の二択であって。
そのいずれの可能性が高いか?と考えた場合は、圧倒的に後者かと。

なぜなら、実際に義元に取って代わった織田信長の治績を見れば明らかで、信長も他の有力大名を退けるのに苦労したし、最終的には豊臣秀吉,徳川家康へと、覇権も変遷しています。

従い、今川義元や今川家が、最終的な勝者と成り得た期待は少なく。
一方では、秀吉や家康などと言う系譜も、全く存在し得ない可能性は非常に高いですが。
しかし、それ以外の政権が樹立する場合、それが誰になるか?は、予想は不可能なレベルで困難です。

とは言え、今川氏が失敗したと言う前提で考えると、今川氏の領土を中心に、近隣の大名は、その後釜争いで忙殺されるので、まず東国の大名が上洛する機は、なかなか無さそう。
逆に西国の大名か、畿内に近い大名が有力ではないかと考えますが・・。

Q日本と中国で1里の差が生まれた理由を教えてください。 日本の1里は4kmで、中国の1里は400-50

日本と中国で1里の差が生まれた理由を教えてください。

日本の1里は4kmで、中国の1里は400-500mだあおうです。

中国の1里という単位が日本に伝来したはずなのになぜ数値が変えられてしまったのですか?

Aベストアンサー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q日本がドイツより長く戦争を続けられた理由は何ですか?

第2次世界大戦で、日本はドイツが降伏した後もしばらく戦い続け、原爆を2発落とされてようやく降伏します。
日本、ドイツ、イタリアの3国のうち、日本がドイツよりも長く戦争を続けた・続けることが可能だった理由は何でしょうか?
ドイツは本土決戦を行い首都陥落まで徹底抗戦したのに、日本本土は空爆はあったものの戦場になっていませんでした。

Aベストアンサー

日本が島国だったこと、ドイツが陸続きの国であり、ソ連と戦闘があったことが戦争終結の時期に違いが出た原因です。

ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえます。

しかし、ソ連と対決している東部戦線はソ連の全面的な対決姿勢により、不利な状況が続き、結果としてソ連の反撃とそれに呼応したアメリカのノルマンディー上陸作戦により、窮地に立たされます。

ソ連は対ドイツ戦に集中するため、日本とは日ソ中立条約で対抗しない姿勢でしたので、日本よりもドイツの降伏が早かったのはこれがもっとも大きな理由のひとつになるでしょう。

日本の場合、戦線としては二つありました。
・中国大陸から東南アジアに延びる植民地での陸軍の戦闘
・戦略的要所を抑えるための太平洋でのアメリカとの戦闘
です。

植民地に置いてある軍隊は本国に比べれば2流であり、日本陸軍の快進撃は「本国が近く補給などが受けやすいかどうか」で違いがでました。本国から遠い、各国の植民地の軍隊は日本軍に負け続け、本国からの補給も行き届いていなかったといえます。

アメリカはこれらにも援助していたわけですが、アジア大陸はアメリカ本土からも遠いこと、アジア大陸に行くには日本の哨戒網を突破することが必要だったために、アメリカと日本の戦いは主に太平洋での海洋戦になっていきます。

アメリカは「とにかく日本がもっている島々を攻略しないとダメだ」ということで、ミッドウエー海戦で有利になると日本の要衝である、パラオやガダルカナル島、グアム島やサイパン島などを攻略していきます。

アメリカが予想外だったのは、日本軍が全滅するまで戦いをやめなかったことでしょう。これにより日本本土攻撃がどんどん遅くなっていったわけです。

陸地の戦いは、一旦均衡が破れれば一気に本土に迫ることができます。ドイツは結局東部戦線も西部戦線も失い、両側から押しつぶされる形で敗戦に至ります。

その時、日本のほうは「まだ島嶼部を攻略中」であり、島嶼部はひとつづつつぶさないと、思わぬ反撃を受けることになります。ですからパラオなど南太平洋のアメリカ本土に近いところから丹念につぶして行って、サイパンを攻略したら本土爆撃をしつつ、沖縄・硫黄島そしてようやく日本本土に総攻撃ができるところまで行ったのが、ドイツ降伏の後だったわけです。

また、日本は最大兵力を動員できるソ連と中立状態でしたから、ソ連との戦いを考慮しないで戦争を進められました。ソ連はドイツ降伏後、アメリカの要請で対日戦線を開く予定でしたが、広いユーラシア大陸の西側から東側に兵員を移動するだけで半年かかり、それが結局日本の降伏を遅らせる原因にもなっていきます。

結局日本が最後まで本土決戦を避けられたのは「島国だったから」にほかなりません。島国の戦略の最大のものは「敵が本土に至る前に殲滅する」ということです。

ですから、日本は大戦前から太平洋上の各島嶼を戦略的拠点として整備し、アメリカはそれをひとつづつつぶさないと本土にたどり着けなかった、ということです。ただ、ソ連が最初から戦争に参加していれば、満州と朝鮮さらに日本海でも海戦が必要になり、日本海軍も二方面作戦を強いられて降伏の時期は早まったでしょう。

ということで、ドイツよりも長く戦争が出来たのは
・アメリカとの戦いは海戦が主体だったこと
・ソ連との開戦が終戦時までなかったこと
ということでしょう。

日本が島国だったこと、ドイツが陸続きの国であり、ソ連と戦闘があったことが戦争終結の時期に違いが出た原因です。

ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえま...続きを読む


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