アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

A 回答 (4件)

えーと、境界線があるような話ではなく、


それぞれの勢力の本拠地の位置関係だけです。

習ったかと思いますが、南北朝時代は後醍醐天皇と足利尊氏の争いで始まりました。
足利尊氏が京都に攻め上って占拠したため、後醍醐天皇は京都を離れて吉野(奈良)に逃亡し、そこで新たに都を作りました。
これが京都から見て南にあるので通称「南朝」と呼ばれ、逆に京都は「北朝」と呼ばれたわけです。
    • good
    • 1

境目は奈良と京都です。




政権が2つに別れたので
南北朝時代です。



南の吉野(奈良)が後醍醐天皇
北の京都が足利尊氏です。


蛇足ですが、


古い天皇中心の公家政治を取り戻そう
という勢力


と、


新しい武家政治を作ろうという勢力



・・の争いです。
    • good
    • 0

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。


それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝(のちには大和国賀名生・摂津国住吉・山城国男山八幡・河内国金剛寺などを転々とする)の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥ってしまった。
両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。
また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97 …
    • good
    • 1

北朝は京都、南朝は吉野ですが、「ここからが北朝、ここからが南朝」という単純な話ではなく、北朝側につく一族と南朝側につく一族がそれぞれの土地で勢力を争っていたということです。


「南北朝時代 勢力図」で検索をするといろいろな画像が出てきます。
一例を上げておきます。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei …
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!