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領地に置かれ、税(年貢)の取り立てなどを行った御家人はなんて言いますか?

A 回答 (1件)

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この回答へのお礼

思い出せました!ありがとうございます!

お礼日時:2017/08/04 08:27

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Q日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

Aベストアンサー

えーと、境界線があるような話ではなく、
それぞれの勢力の本拠地の位置関係だけです。

習ったかと思いますが、南北朝時代は後醍醐天皇と足利尊氏の争いで始まりました。
足利尊氏が京都に攻め上って占拠したため、後醍醐天皇は京都を離れて吉野(奈良)に逃亡し、そこで新たに都を作りました。
これが京都から見て南にあるので通称「南朝」と呼ばれ、逆に京都は「北朝」と呼ばれたわけです。

Q第二次世界大戦の敗戦国としては、戦後処理として日本が恵まれていた理由は何ですか?

第二次世界大戦に敗戦した国としては、日本は以下の理由で恵まれていましたが、その理由は何でしょうか?

日本
①天皇制の存続
②行政機構の維持(GHQは行政機構に指示する形式をとっていた)
③一括統治
④戦後の敵国による破壊行為は僅少

一方、ドイツはこんな感じです。
①ヒトラーの戦死、戦後は極悪人として徹底糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治
④ドイツ女性への強姦
⑤文化財等の強奪

もし、日本がドイツのようになっていたら・・・考えただけで恐ろしいですね。
①天皇の処刑・極悪人として糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治(おそらく北海道と東北はソ連統治で、東京は4か国による分割占領)
④日本人女性への強姦
⑤京都、奈良等の文化財が強奪される

Aベストアンサー

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に
指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている。
東京・横浜をはじめ、江ノ島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、
兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。

また、日本刀、鐘など、多くの文化財が、アメリカに持ち去られました。

天皇制の維持は、その方が日本を統治しやすいと判断したからだと思いますよ。
もし天皇を処刑していたら、ゲリラ的に日本国内で戦闘が続くと判断したのでしょう。

日本は、イギリス、中国との戦闘には勝っていますが、アメリカの物量に
負けたのですよね。
アメリカも予想以上の損害を被っています。

二度と日本軍とは戦いたくないとの強い思いがあったと思います。

アメリカの多大な損害と引き換えに日本を降伏させたのですから、
アメリカとしては、わざわざ分割統治して、貢献していない他国に分け前を
渡したくないでしょうし、日本の共産国化は何としても避けたかったでしょうから
ソ連との分割統治を避けたと思います。

行政機構の維持は、天皇制を継続したのが影響しているのではないでしょうか?

でも、WGIPによって、徹底的に自虐史観を植え付け、日本の国体を
破壊しました。今もその影響は、強く残っています。

ドイツは、軍隊を持っていますよ。
ドイツに戦争放棄の憲法9条はありません。

ドイツは、戦争責任を徹底的にナチスドイツ(ナチス政党)に押し付け
国としての戦争責任は認めていません。

よって、日本のような国としての謝罪はしていません。

ドイツにおける行政機構の徹底破壊がなぜ行われたのか?
私は知見がありません。
ドイツ人自身が、ナチスを徹底的に否定し、戦争責任を押し付けた
影響があるのでしょうか??? よく解りません。

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小...続きを読む

Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q海外の戦争で売春婦同伴は日本だけですか?

日本軍が海外の戦争で慰安婦(売春婦)を同伴したのは日本政府も認めています。私が不思議なのは海外で多数の戦争をしたスペイン、イギリス、フランス、アメリカはどうだったのでしょうか?もっぱら強姦だったのですか?

Aベストアンサー

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E5%B0%86%E5%85%B5%E7%94%A8%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF
ドイツのもう一つの特徴は、収容所にも慰安所があったこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF

さて、ここまで読んで日本の慰安所とほぼ同じと
思われたでしょう。
以前、このことを踏まえて指摘したところ、
プロと思われる方から慰安婦の定義(日本軍を念頭に
定義してあるので事実上は日本の慰安婦)を出されて
素人扱いされました。
実際は秦郁彦氏や吉見義明氏のような慰安婦研究の
専門家も認めているのですが、
この質問板のプロの方は、解釈は違うようです。

ちなみに、当たり前ですがドイツは強制徴用した
元慰安婦に謝っていません。
それどころか日本の慰安婦制度を非難しています。



・ソ連

WWⅡ時は事実上兵士による暴行を黙認していました。
作家のイリア・エレンブルグがパンフレットで
「ゲルマン女性は諸君の戦利品だ」と煽ったこともあるそうで、
ベルリン陥落後の調査では全女性の50%が暴行され、
10%が性病にかかったとされています。



・フランス

フランスはWWⅡ後の植民地紛争で出兵していますが、
その時利用したのが移動慰安所です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bordel_militaire_de_campagne
(Wikiですが英語版です)
現地人は防諜の関係で好ましくないという理由で、
軍によって正式に組織された慰安所そのものを、
部隊の移動にあわせてトラックなどで移動していました。



・イギリス

基本的に売春宿を廃止したり、兵士の利用を禁止しました。
その結果として性病が蔓延し、シシリー島占領後には
本国の20倍で、戦傷者を上回る勢いという記録もあります。
また、兵士の利用は禁止されても、今でいう援助交際のように
自由恋愛を名目に事実上は継続利用されていました。



・アメリカ

イギリスとほぼ同様。
戦後、日本が進駐軍による暴行を危惧して
「特殊慰安施設協会」(RAA)を組織しました。
1945年8月25日に運営を開始しましたが、
1946年1月に禁止令が出て、1946年3月には閉鎖されました。
ただし、公式な慰安所が無くなっただけで
一般の慰安所を利用していました。



・韓国

朝鮮戦争では日本の慰安所をまねた慰安所が開設されました。
当時の韓国では売春宿を禁止していましたが、
慰安所は外貨を稼ぐとして奨励されました。
よほどうまくいったのか軍でも好評で、
韓国陸軍本部が編纂した「後方戦史」にも
称賛されていました。

ところが、日本の慰安婦問題で非難するのには不都合なので
現在の韓国では「後方戦史」は無かったことにされています。
ちなみに、この問題は「基地村慰安婦問題」として
時々報道されますが、韓国政府はこの慰安婦に対して
「証言は証拠ではないから、正式な証拠を慰安婦自ら出せ」
というように冷遇しています。

ベトナム戦争でも慰安所があり、ライタイハンの問題などが有名です。

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3...続きを読む

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q平家と源氏の祖先はどうしてるのですか?

徳川家康の徳川家の末裔は現代も生きてますが、平家と源氏の末裔は生きてるのですか?

Aベストアンサー

その徳川家康が源氏の末裔ですよ。

Q平成の次の元号をKから始まる2文字の漢字とすることが決まったそうですがKから始まる漢字は何に決まると

平成の次の元号をKから始まる2文字の漢字とすることが決まったそうですがKから始まる漢字は何に決まると思いますか?

景気の景のKか感のKが有力らしいです。

で、2文字目は永遠の永が有力らしいんで、

景永か感永ならどっちが良いですか?

Aベストアンサー

Kですか? Kは慶応と被るから使わないだろうと思っていましたが・・
2文字目は『永』か『久』じゃないかな、40~50年程度は使うことが予想できるので。

N行は字の選択が難しく、W行は『和』以外になく、どちらも使いにくいですね。Y行かAIUEOでしょう。濁音とR行は使わないと思います。
また漢字は小学生の低学年で習うようなものが選ばれる可能性が高いだろうと思っています。

個人的予想は『安久』、って沢山の人が同じことを考えてるww


今の『平』の字は、下すぼまりで安定が悪く、字義も『(動乱を)平らにする』=現状が動乱、という、なんでこんな字を使うんだってくらい疑問な字だったので、改元には賛成ですが。

Q日本がミッドウェー海戦で敗北した原因はレーダー探知機無かったから? http://gendai.is

日本がミッドウェー海戦で敗北した原因はレーダー探知機無かったから?


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52091

ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった 現役防衛技官が語る「75年目の教訓」
藤田 元信

今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。

最近、新著『戦略は技術をくつがえす』(クロスメディア・パブリッシング)を発表した藤田氏は、75年前の海戦における日本の失敗を分析した上で、技術と戦略の関係を学ぶことの重要性を説く。

日本で無視され、米国が評価した技術
ミッドウェー海戦は、お互いの艦艇を視界に入れずに戦った、史上初の海戦であったと言われています。そして、アメリカ軍の勝利に決定的な役割を果たしたのは、電波の反射を使って目標を探知する兵器である「レーダ」でした。

レーダには、発振器とアンテナが欠かせません。じつは、アメリカをはじめとした諸外国のレーダ開発には、日本人の発明が利用されているのです。ご存知でしたか?

その代表的なものが、「八木・宇田アンテナ」と「分割陽極型マグネトロン」です。

八木・宇田アンテナの発明者の一人 八木秀次教授(出典:随筆集[1953])
八木・宇田アンテナは、その名前のとおり、八木秀次と宇田新太郎という日本人研究者の研究成果でした。魚の骨のような簡単な構造で、優れた性能(鋭い指向性と高い利得)が得られることが利点です。いまでもテレビの受信アンテナとして広く使われているので、皆さんも見たことがあるのではないかと思います。

このアンテナは、日本では誰にも注目されなかったものの、1926年に英語で論文を発表したところ、米国で大いに賞賛されたと言われています。


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分割陽極型マグネトロンもまた、日本人研究者である岡部金治郎が、1927年に発表したものでした。

岡部金治郎らの発明をきっかけとして、小規模ながら、日本国内でもマグネトロンの研究が行われていた。写真は、のちに戦艦「大和」にも搭載された二号二型電探(対水上用)に使われたマグネトロンの陽極と同等のもの。(public domain)
分割陽極型マグネトロンは、それまでにアメリカで開発されていた単陽極マグネトロンでは不可能だった、高い周波数の発振(マイクロ波を発生)を可能としたうえ、高効率でした。レーダの実用化に向けて、性能を飛躍的に高める研究成果でした。

早くも1920年代に、日本人研究者により八木・宇田アンテナと分割陽極型マグネトロンという、画期的な新技術が生み出されていたにも関わらず、日本陸海軍はその研究成果をレーダの開発につなげることはできませんでした。

たとえば海軍では、「これからの海戦にレーダが必要かどうか」という議論が盛んになされた一方、事業化に進むための具体的な検討はずっと低調だったようです。一方、アメリカとイギリスをはじめとする諸外国では、これらの研究成果を早期に事業化し、通信機器やレーダの開発に応用していました。

シンガポールの戦利品から発見
1942年5月中旬、「シンガポールの戦利品で、現地で理解できないものがある。電波兵器のようなので、調査に来てほしい」との依頼を第5陸軍技術研究所から受け、日本電気と東芝の社員からなる民間の調査団が組織されました。

調査団が現地で調査したところ、件の電波兵器は、日本人が発明した八木・宇田アンテナであったことが判明しました。日本では誰も顧みなかった八木・宇田アンテナを、イギリスがみごとに兵器に応用していたことは、関係者にとって衝撃だったと言われています。

同じころ、日本陸軍は、押収した文書(通称「ニューマン文書」と呼ばれる)の中に、YAGIという単語が出てくることを発見しました。そこで捕虜に質問したところ、「それはそのアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられ、そのとき初めて八木・宇田アンテナの存在を知ったとも伝えられています。

じつは、日本の海軍技術研究所や陸軍技術研究所でも、小規模ながら、レーダ技術の研究は行われていました。ところが、軍上層部には、レーダの研究開発に対する理解者が少なく、レーダの研究開発は遅々として進まなかったと言われています。そのため、大東亜戦争の開始時点でも、日本のレーダは実用化にほど遠い段階にありました。

ようやく、海軍で初めて実用レベルのレーダが作られたのは、開戦から数か月が過ぎた、1942年3月のことでした。このときは波長の異なる2種類のレーダが試作され、戦艦「伊勢」「日向」に搭載されました。それぞれに長所・短所があるものの、どちらも一定の機能・性能を有することが確認されました。


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ミッドウェーで払った高い代償
1942年6月、ミッドウェー島に向かった日本海軍の空母機動部隊には、レーダを装備した艦艇は1隻もありませんでした。実験艦として、レーダを搭載していた戦艦「伊勢」「日向」は、ミッドウェー島から遠く離れたアリューシャン方面に派遣されていました。

一方、ミッドウェー島付近で、日本海軍の空母機動部隊を待ち受けるアメリカ海軍の主要艦艇には、対空捜索レーダCXAMが装備されていました。さらに、ミッドウェー島に設置された固定式のレーダも稼動状態にありました。

アメリカ海軍は、主要艦艇にレーダを搭載していた。空母エンタープライズ(CV-6)の艦橋に、対空捜索レーダCXAMが装着されていることが分かる。ミッドウェー海戦直前の、1942年5月の撮影。(public domain)
そのため、ミッドウェー島付近で日本軍の攻撃を待ち受けていたアメリカ軍は、日本軍の艦載機の接近をレーダでいち早く察知し、奇襲を避けることができたのです。

レーダの実用化により、日本海軍の戦略の前提となっていた、空母と艦載機を中心とした奇襲攻撃は、もはや成立しなくなっていました。

そのことに気がつかない日本海軍は、ミッドウェー島に有効な打撃を加えられなかったばかりか、反撃してくるアメリカ海軍の艦載機を直前まで発見できず、主力の空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と約300機の艦載機、そして多数の熟練兵を失いました。

こうして、日本軍は、自らのレーダの技術開発の深刻な遅れを、高い代償により知ることとなったのです。

ミッドウェー海戦において、レーダを持たない日本艦隊は、艦載機を飛ばして敵を探さなければならず、レーダを駆使したアメリカ軍に対して苦戦を強いられた。写真は、アメリカ軍機の攻撃を受け、炎上中の空母「飛龍」。(public domain)
日本の戦略家が技術を学ぶ意義
ミッドウェー海戦における日本の敗北は、一般に、機械故障による索敵機の発進の遅れや、現場の混乱を誘引した指揮官の判断に原因があると論じられています。確かに、偶然や現場での判断により左右された部分もあったでしょう。

しかし、ミッドウェー海戦を、「技術」という観点で捉え直すとすれば、ミッドウェー海戦は、レーダ技術が、日本軍の戦略を破壊した戦いだったと総括できるでしょう。

戦いの様相を一変させるレーダをいち早く取り入れ、使いこなしたアメリカ軍と、要素技術の研究において国内にアドバンテージを有しつつも、レーダの必要性の議論に終始し、事業化を推進しなかった日本軍の能力には、大きな差が生まれていたのです。

日本でも、ミッドウェー海戦の後、それまで低調だったレーダの研究開発は、おおいに奨励されました。しかし、長年の蓄積を必要とする研究開発の遅れは、ついに取り戻すことができませんでした。

「技術」という観点から、ミッドウェー海戦の敗北へとつながったレーダの研究開発の問題点を考えると、以下の2点に集約されると考えられます。

(1)未知の要素が多いレーダの研究開発に関し、上層部の理解が得られなかったこと
(2)国内の科学技術イノベーションを国防に生かす仕組みが未成熟であったこと

1930年代において、レーダの研究開発は未知の要素が多く、きわめてリスクの高いテーマの1つでした。技術的な内容を理解できる人間も、レーダが戦いにどのような効果をもたらすのか、という部分を論じることができる人間も、国内にわずかしかいなかったうえ、双方が対話をする機会も、ほとんどありませんでした。

国内にどのような技術があり、どう育成し、どう活かすのか、といった長期的な視野で技術マネジメントを行うことができる、組織や人材が欠けていたと言ってもいいかもしれません。

これらの問題点から、現代日本にも通じる教訓を得るとすれば、長期的な技術マネジメントの視点の欠如が、致命的な結果をもたらすことがあるということでしょう。

様々な新技術が、市場や社会のあり方を支配するようになった現状を鑑みると、組織運営を担うリーダ、戦略家が技術を学ぶ意義はますます高まっているものと思われます。技術者もまた、自らの職責の範囲を超えて、技術が戦略に与えるインパクトについて、もっと意識すべきかもしれません。

日本がミッドウェー海戦で敗北した原因はレーダー探知機無かったから?


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52091

ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった 現役防衛技官が語る「75年目の教訓」
藤田 元信

今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。

最近、新著『戦略は技術をくつが...続きを読む

Aベストアンサー

いや、レーダー以前に日本側の情報が全て筒抜けだったからです。レーダーはあくまでも現状の把握にしか使えません。予測して必要数を配備するには情報の入手が必要です。
偵察だけなら射程外からでもおおよそ把握することはできます。まともな指揮官がいればその時点で把握できるでしょう。しかし日本は上に行けば行くほど無能だった。それは今の政府や企業も同じ。否、江戸時代から変わってはいない。一人や二人の有能な人材がいてもダメなんですよ。だから負けたと言えます。

Q応仁の乱ですが結局後生の人が勝ってに命名しただけで当時は応仁の乱なんてだれも思ってないですか? 東軍

応仁の乱ですが結局後生の人が勝ってに命名しただけで当時は応仁の乱なんてだれも思ってないですか?
東軍対西軍は当時からよばれてましたか?

Aベストアンサー

それぞれの戦闘を当事者が適当に呼んでいて、「乱」「大乱」と名付けるようなことはないと思います。もちろん 応仁の大乱を一括して一つの戦いや乱というように認識するようなこともないと思います。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/11/post-305d.html

Q新羅と日本は仲が良かったのでしょうか? 八世紀の日本と新羅について質問です。 白村江の戦いで日本は新

新羅と日本は仲が良かったのでしょうか?

八世紀の日本と新羅について質問です。

白村江の戦いで日本は新羅と対立していたと思います。ですが、その後、贈り物を送りあったりしているのを習いました。教えていただきたいのは、贈り物をしあうきっかけとなったのはどう言う出来事ですか?二つ目に、日本は新羅と贈り物をしあうことでメリットがあったのですか?

日本史が苦手で知識が無く、おかしい文章になっているかもしれません。

Aベストアンサー

日本も一枚岩ではなかった、って感じでしょうか。
ヤマト王権はありましたが、九州は九州で勝手にやってるようなところもありましたしね。

百済は親日本国で、その百済を滅亡させたのが新羅ですので、当然日本勢(当時は日本ではなかったですが)は百済の味方だったろうというのがずっと思われていた考え方だったのですが、数年前に新羅の贈り物が発見されたために、日本のなかでも百済に味方して戦う勢力もいれば、新羅に味方して戦っていた勢力もいたようだ、ということが新たに分かったのです。
新しい見解ですので、詳細は今からかもしれません。

その後、百済は新羅(と唐)に滅ぼされ、百済の再興をめざして起こしたのが白村江の戦いで、数万人の兵を送り込んで負けたのはご存知の通りです。それで2万人くらいの百済の人々が日本に渡ってきて、日本の文化にも大きく影響を与えたと言われています。


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