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万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

A 回答 (10件)

お礼ありがとうございます。


儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。
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この回答へのお礼

天と神の違い、または類似について、詳しく説明していただき、ありがとうございます。

私もそのようなイメージでとらえれば、「一神教の信仰」が理解しやすいかな、と考えました。
問題は、では、運命論に陥ってしまっては、人間の主体性はどうなる?という点ですが、
これも、
理とか神の教え、啓示などによって、何が善であるかを個々が考え行動する余地がある。
ケースバイケースに応じてこれが善だと判断し、行う。
その結果の決裁は、天、神の領域なので、人智では判断できない。
一切を天、神の判断にお任せするしかない。

といったプロセスで、個々は己の判断で行動し、最終判断は天、神に預け、天、神の判断こそが正しいと信じる。
そういうイメージです。

どんな行動をしようとも、運命は変えられないとか、最終的には神が救ってくれる、といった運命論ではなく、
「最終判断は人智の及ぶところではないけど、生きてる限り、自分で最善(倫理や神の御心にかなう)と思う行動をしなければならない。」
といった解釈をすると、「絶対唯一神への信仰」が私にもイメージしやすいのです。

再度の回答をしていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2017/08/18 10:15

キリスト教こそが天地万物を創造され、全知全能なる神、一神教、西暦は万国共通、この時点で他宗教は崇めるほどではない、日本の今日も、キリスト教文明に浴している、日本は神教、仏教といえども、世界では通用しない、かなりむつかしい事を考えているけど、地道に一歩一歩の歩みが大事、キリスト教概念、教理の積み木の積み方は、何回もの繰り返し崩れる、高くは積めるけど慎重に、天命とゆうよりは、たとえ死の谷を歩もうともわざわいを恐れません、詩編どこかにあった。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>たとえ死の谷を歩もうともわざわいを恐れません、

たしかにこれは、信仰を持つ人の大きな強み、信仰を持つことの効用であると思います。
天命を待つ人も、それに似た強さを持つと思われます。

お礼日時:2017/08/18 16:07

何も知らん 無知 偏見の奴等の よくある質問


歴史書や聖書ぐらい読んでなきゃ 議論にならん

天命は儒教だ
神は色々あって どの神か
キリスト教の神だと思うが

①二元論的趣向法で  一神教で キリスト教 等
   ・・・二つに分けます  神と人間 人間と自然など

②一元論的趣向法で  仏や菩薩等がいっぱいいる 仏教等
   ・・・二つに分けない 釈迦みたいに 誰でもなれる
           人間と自然は一体

絶対神・・  人間は神になれない
仏教 ・・  人間は誰でも 仏になれる
神道・・   誰でも 神になれる

絶対神 幸福は自分以外のところに・・・(外道)原因を外に
仏教  幸福は自分の中に・・・・・(内道)原因を中に
西洋哲学   〃             〃


宗教 哲学などの基本的な考え 思考法など 学んで下さい 
大変だから
この先 自分で調べて

仏教 キリスト
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm

プラトン http://rokusann.sakura.ne.jp/newpag27.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

1神教とあえて書いたのは、キリスト教に限定せず、「唯一絶対神を信仰する宗教」です。
アラビア半島に発生した、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つ、「セム系一神教」と呼ばれる宗教を想定しています。
広い世界には他にも1神を奉じる宗教があるのかもしれませんが、寡聞にして知りません。

質問の趣旨は、日本という多神教風土でしかも、神・仏への帰依心薄い現代に生活している私には、「唯一絶対神に自分を預けて従う」というのは、どういう心の持ちようなのかがよく解らないのです。
それで、中国由来ではありますが、日本では「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があり、こういった心の持ち方に近いのかな?と思ったのです。
論理としてではなく、あくまでイメージとしてです。

「自分としては、精一杯努力します。これでよいのか間違っているのかは、天にお任せします、という気持ちで生きる」という精神が、「絶対神に従う」という精神と近いのではないか?という質問です。

私自身は信仰を持たない者ですので、多神であれ、唯一神であれ、「神にゆだねて生きる」という信仰者の気持ち、精神プロセスをよく感じ取ることができません。
「人事を尽くして天命を待つ」という精神の在り様であれば、イメージとして少しは解るので、これと似ているのだろうか、と質問を立てた次第です。

お礼日時:2017/08/18 10:46

人事を尽くして、、、、この言葉は勝手に人間が決めたこと、個人的には有り、神的には無い、神に対してどれだけ正確な忖度ができるか、ほとんどの人は知らんからあらぬ方向へと行ってしまう、身なりのいい青年が、よき主よ、天国へ行くにはどうすれば行けるでしょう、イエスキリストは十戎を守りなさい、青年は胸を張って自信をもって全部私は守っています、あなたが確実に天国へ行きたいのなら、あなたの財産を売って私についてきなさい、青年は泣きながら、イエスのもとを去っていった、この御言葉が解れば、自信持ってたずねたのに泣いて去っていったのは、なぜ、見当違いしていなければいいけど、読めんと思うけど聖書読んで見て。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

この青年の場合は、永遠の命を得る方法をイエスに問い、その方法を教えてもらったにもかかわらず、従うことができない。
であれば、泣き泣き帰るか、「そんなことができるか。バカなことを言うな」とイエスを罵倒して帰るか、しかないと思います。

でも、金持ちで現世の快楽・享楽をほしいままにできる立場で、さらに永遠の命も望むというのは、強欲だと思いますけど、私は。
それに、金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい、と言っているイエスに、どうして永遠の命を得る方法を聞きに行ったりするのか、よく解りません。
無邪気な育ちのよいぼっちゃんだったのかもしれません。
だから、イエスも、かわいそうな青年だと悲しく見送ったのでしょう。

まあ、この時代のイエスは、三位一体説以前のイエスなので、青年にとっては一人の予言者にすぎず、全面的に信じることができないのもムリないのかもしれません。

でも、とにかく、この青年はイエスを全面的に信じて、自分を預けることができない人なので、「1神教の信仰」を持てなかった人です。
私の質問は、「一神教の信仰」についてなので、イエスを信じきれなかったこの青年は該当しないと思います。

お礼日時:2017/08/18 10:30

No.4です。



「参拝は「感謝」が伴っていないと心の安寧はないと思いますが、昨今の神社仏閣参拝は「お願い」が主になっているような感じですね」
⇒そうですね。
参拝する方々の希望なのでしょうね。

加えて、神社仏閣側のビジネスという面もあります。
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この回答へのお礼

再度の回答をありがとうございます。

神社仏閣側のビジネスについては、宗教者といえども、霞を食って生きることはできないので、人々の宗教心が薄れていけばやむをえないな、と思っています。

お礼日時:2017/08/18 09:57

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?


ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?
   ↑
全然見当違いです。

キリスト教にも色々流派がありますが、
プロテスタントで最大の力をもっているカルバン派は
人生は総て神が決めている、と考えます。

全知全能だから、当然と言えば当然です。

人生が決まっているなら、自棄にならないか
というと、面白いことにそうはなりません。

俺は神に選ばれているはずだ、と確認したいが
ため、神の教えを守るようになるのです。

ウエーバーは、こうした考え方が資本主義を
成功させた、と指摘しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>人生は総て神が決めている、と考えます。

「天命を待つ」という考え方も、人智を越えた存在を想定して、「最終的判断は天が下す」という考え方だと思います。
したがって、人は「何が天命に叶うか」を常に考えて生きるわけで、その点で、ほぼ同じかな、と思いました。
見当はずれなのでしょうか?

資本主義と宗教については、
西欧に発生した資本主義は、その精神の根底に当然一神教的倫理(マクスウェーバー的に言えば、プロテスタンティズムの倫理)があるわけで、その精神(倫理)を失えば、当然、「資本の論理」が人倫を踏み潰していくことになると思います。
でも、その点について質問したのではありません。

お礼日時:2017/08/15 12:25

「日本人の言葉で言うと 人事を尽くして天命を待つ、という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?


ほぼ当たりと思っていいでしょうか?」
⇒その通りです。

「神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています」
⇒そうですね。

神社への参拝で願いごとをする人が少なくありません。
しかし、神は何も叶えてはくれません。
きちんと勉強もせずに、難関の高校や大学に合格しまうように、と祈っても叶うはずがありません。
不健康な生活をしながら、健康を祈っても叶うはずはありませんね。

神社への参拝は、自分の心を落ち着かせるためですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

参拝は「感謝」が伴っていないと心の安寧はないと思いますが、昨今の神社仏閣参拝は「お願い」が主になっているような感じですね。
多神教というのはそういう側面を持ちやすいものなのかもしれませんね。

お礼日時:2017/08/15 12:24

天命を待っていてはいけません。


天命は既に示されているので、その天命を自ら発見しないといけないのです。

超越的、あるいは超越論的存在を認識できるかどうか、だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「天命を発見することが、すなわち生きるということである」ということでしょうか?
その点については、おそらく、「天命を待つ」という考え方に立てば、当然生きるとは天命に叶う生き方を探りつつ生きるということで、「天は人に何を求めいるか」を日々探る努力をすると思います。

質問は、「超越的存在に最終判断をゆだねる」という意味で、「天命を待つ」と「神にゆだねる」は同義ではないだろうか、と思い、質問いたしました。

お礼日時:2017/08/15 12:24

神は この経験世界を超えたところの場やチカラとして想定する


のなら 普遍神のひとつしかありません。

いかに名が違っていても・あるいは《有る神》ではなく《無い神》
であったとしても それらはすべて一柱の普遍神のみです。

《教・つまりオシヘ》というのは ただの経験思想です。つまり
経験世界に属しています。つまり 神ではなく 信じるものでは
ありません。考えるものです。

オシヘではない普遍神には 何の条件づけも制約も取り決めもあ
りません。信じた人の主観の内では すべて自由です。信教・良
心の自由です。

創造主あるいはその御心といった思想は 天命を俟つといった思
想とまったく同じく 人間の考えによって思い描かれた物語であ
り 人間が考える対象であり 或る種の仕方で人生についての方
針などを伝えていることがあります。

信仰と宗教・オシヘとを峻別することが 大事だと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私も、おそらく、そういうとらえ方をしていて、だから、「神」と「天」を同じようにイメージしているのだろうと思います。

お礼日時:2017/08/15 12:24

「人事を尽くして天命を待つ」は、儒教的概念なので、一神教のような絶対神を想定すると言うより、どうなるかわからないと言う事を受け入れる概念です。


ただ、「神」の御心のままにと言うのも、決定するのは人間では無いですから、人間から見たら状態としては同じですね。
ただし、一神教の「神」を想定した場合は、「神」の意志と言う概念も生じるわけですから、人格神として「神」を想定した場合は、キリスト教などの、「神」の愛などの概念が、ある意味すり込まれていますし、「神」に至高の「善」を想定する場合もあるでしょう。
そう考えると、「人事を尽くして天命を待つ」とは、若干ニュアンスが違ってきます。
儒教の場合は、天に人格はありませんが、理はあります。
天の理をどう解釈するかで、ニュアンスの違いが明らかになると思います。
一神教においても、「神」と人間の関わりは、各宗派で捉え方は違いますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「天」は儒教の考え方であって、厳密には宗教とは違うのですね。
「天」については、漠然としたイメージですが、「天網恢恢疎にして漏らさず」とか「徳を失った天子は天命を失い、新たな天子が立つ」とかの言葉から、「人智を超えた正邪を決定する存在」というイメージを持っています。

1神教の「神を信じる」というのがイマイチつかめないので、

「最後の審判」にすべてをゆだねる1神教も、具体的な「教え(指針)」(聖書とか福音書、コーランなど)がある部分は違いますが、
「人は自分が正しいと信じることを行って懸命に生きて、最終判断は人智を超えた存在に預ける」という部分では同じかな、と思いました。

天も神も、もっと深く考えないととらえきれない概念ですね。

ありがとうございます。

お礼日時:2017/08/15 12:24

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