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宗教の多様性のメリットって何だと思いますか?
いろんな人の意見が聞きたいです

A 回答 (7件)

> 多様性のメリットって何だと思いますか?


一つしかなければ、変化も選択もないです。 それをメリットとする見方もありますが、変化や選択が可能な方がメリットだとする見方もあります。 過ぎたるは及ばざるだ如しというので、あまりにも多様だと、もはや選択も変化も不可能という個人や社会も出現するのでしょうが、適当に排除することで、適度に変化も選択も可能な状態を作れるので、結果で見れば、多様性にはメリットがあり、自然景観でも、天候気候でも、元素や物質も、生物種も、人間も、食物や飲料も、文化や言語も、疾病や傷害も、数学や建築、化学、政治形態、宗教も多様なのでしょう。 歴史が多様なのも、そうした多様さのメリットをそれぞれが追求し続けた結果でしょう。

> 宗教の多様性のメリットって何だと思いますか?
感情状態は、同じ人物でも変化します。人物が異なれば、感情状態は違います。 2年間、3年間の経過が異なれば、人数分の経過と感情状態があります。 何を重視し、何を好み、何を志向するか、何を敬遠忌避回避しようとするかも変わります。 宗教心あるいは依存心あるいは信念の強さや感性重視の状態も、多様であるのが自然です。 そのような社会で、単一の宗教スタイルしか存在しないとしても、結果、個人はその宗教スタイルに自分なりのスタンスをとります。 実際には、なにかの事情で既存の単一の宗教スタイル以外の宗教の存在をしると、その新宗教に幾分あるいはすっかり転向する人物が出現します。 それだけ、人間を一つの宗教スタイルにとどめおくことは難しいというか、人間にはかなりきつい条件だということでしょう。 また、仏教でも、一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教でも、創始されてから、外から別の宗教の影響が少ないと、内部から次々と別の解釈や主張、行動や規律が変わったものが出現するのでしょう。
変わったものがあること、多様であることをメリットとする人が必ず出現したということ、多様にならず従来の正統のまま単一であることをメリットとする人が多数であっても、結果的に、分派が多数派を占め、また分配していくということは、メリットの認識が次々と多様に変わるのだということでもあると思います。
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宗教の教義は多様で有益ですが


エセ宗教やオカルト宗教や占いや 
霊や おつげ 荒行 座禅は有益ではありません

人間の生命を探求するから 多様になるんです

最大のメリットは(一応三代宗教)
原始宗教・(占いみたいな)を打破 狭い民族主義を乗り越えた 
文化の発展 精神の発展に寄与した
権力と戦い 民衆救済に立ち上がった

芸術 文学 音楽 詩歌 精神 理性
キリスト教の愛情 仏教の慈悲 
儒教の「仁愛」「大同」墨子の「兼愛」「非攻 
皆 宗教からきています

特に 仏教は 広まると文化が開け 国家が繁栄した
インドのアショカ文化 中国の唐の時代 日本の飛鳥天平の文化
ボドルロール遺跡  アンコールワットの遺跡
まだまだ いっぱいあります

疑問・・・ 何故 今 重要視されないのか
答え・・・ 坊主の聖職者の堕落が原因です・・・教議は正しい
       詳しくはカット

参考
仏教 キリスト http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm
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西暦を決めてくれた、歴を決めないと大混乱が起きる、水、空気、ただ、食べ物をもらっている、生かしてくれている、生きる喜びを与えてくれた、隣人愛を教えてくれた、真実誠の神を教えてくれた、傷付きやすい生身の人間を守っている、一番よい生き方を教えてくれた、窮地に立たされた時助けてくれた、地球上に住む悪党たちの罪を許してくれた、永遠の命を与えてくれた、天国に住める場所を用意してくれた、神を信じない悪党どもを全部地獄に投げ入れる、天国の書に名前を書いてくれた、主が私を選んでくれた、主に感謝の祈りを捧げる恵みを得た、聖日の日に主のみ言葉の糧を得た、ひとはパンのみで生きる者ではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きる者である、主は私の牧者であって私には乏しいことはない、神を恐れることは知恵の始まりである。

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宗教というのは、文化の基盤なのです。



だから宗教が多様だ、ということは文化が
多様だ、ということです。

文化が多様であることのメリットはなにか。

例えば、人類の歴史において、過去にはインド文明、
中国文明、ギリシア文明、エジプト・・などが
栄えましたが、現在はキリスト教文化圏、つまり
欧米文化が世界を席巻しています。

このように文化は歴史と共に変遷していきます。

ある文化が行き詰まると、他の文化が台頭して
来るわけです。

だから多様性が必要なのです。

現代がキリスト教欧米文化一色になってしまったら、
その行き詰まりは、人類の行き詰まりになって
しまいます。

人類単位として文化を考えるなら
多様性は受け皿として必要なのです。
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宗教の多様性のメリット


=> いろんな人の意見が聞ける事
人生山あり谷あり、巡り会う人も十人十色、問題可決の方法が常に一つとは限らない。
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生き方に多様性があることを知り、お互いに尊重しあえるなら、メリットになると思います。

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自分にぴったりの神様が選べること

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Qなぜ特定の宗教宗派に属するのか

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

そして即物的になりますが自己の思うことを真に信じることは、時間的、金銭的また、目標としても己の精神性を満足させるものではないのでしょうか?

3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

Aベストアンサー

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

⇒ [信仰とは己の心の持ちようではない]と考える方が、現実の理解が容易だと思います。

❸.権益のために信仰者であるとする人は別にそれで構わないと思います。
この質問の意図は信仰心とは無関係なのに、別の目的で参加している人物までも信仰者と計上するのか?信仰なのに、そういったしがらみを組み込んでまで宗教は存続したいのか?それに対して、特に利益を享受しない人たちは疑問は起きないのか?という質問でした。

⇒ 広辞苑には、信仰について次の説明があります。
信じ尊ぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、神聖なものに対する畏怖心からよりは、親和の情から生じると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。
この説明を承服しない人もいるでしょうが、この説明は、《信仰は、宗教の体系の構成要素の一つであること、信仰は、集団性および共通性を有するものであること》をポイントにしています。
通常の用語法の範囲では、統合失調のような障害で個人的に何かを強く信じていても、その状態を信仰とは言わないし、犯罪などの審判の場で証人が個人的記憶を強く事実だと証言してもそれを信仰とは言わないし、実験結果で確実だったと小保方さんのように個人的に主張してもそれを信仰だということもないです。 しかし、集団性を持つと、特定民族や特定文化、血統の尊貴を強く信じていると信仰ともいうことがあります。 信仰というには、個人の心の持ちようというだけでは不十分で、集団性や共通性は不可欠な要素だと思います。

東京堂出版の類語辞典には、次の類語が挙げられています。
しんこう〔信仰〕信心・崇敬・崇信・信教・信ずる  (句)信をなす (仏)帰依
通常の用語法の範囲では、宗教性が信仰にとって不可欠とは言えないように思いますが、尊貴は重要な要素と思います。 親子や配偶者、恋人、親密な仲間、同士などには、親和の情はあると思いますが、それを信仰とは普通はいいません。信心、崇信、信じるというのも、対等的な相互性はあまり重視されておらず、一方的な帰依に近いことが、ある際だった対象に、集団的、共通に見られる(観察されうる)ことが、信仰という言葉を適用するには大事なポイントだと思います。 男女間や師弟間で、盲目的といってかまわないほどの崇拝依存尊貴の情があっても、宗教の体系の構成要素とは言いがたいものは、やはり、日常用語では、信仰ではないのでしょう。

その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、

⇒ どのような理想を持とうが、いかに強い信念を持っていようとも、宗教とはみなしがたいのであれば、信仰とは日常用語ではいわないはずです。
角川国語事典には、次のような説明があります。
しゆう・きょう【宗教】名神仏または超越的絶対者を信仰して、安心・幸福を得ようとすることまた、そのためにする行事
広辞苑にも、意識的側面や儀礼とありましたが、心の中のありようだけではなく、具体的な儀礼とか身体活動やポーズ、定まった口述、オーム、妙言、香りや炎、明暗の環境などの何かが、信仰には不可欠なものだとされていると思います。

2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

⇒ 五郎丸選手に限らず、自分流のその時点では完結した儀礼様式と強い念じる行為の組み合わせを実行する人は、そこそこいます。 しかし、それを日常用語では信仰とはいわないと思います。 剣道の試合前の対戦相手との挨拶とか、食事前の定まったポーズなどは、ある範囲では共通化された儀礼になっているし、そのときに念じるようなことも基本は多くの行為者で類似の範囲になると思います。 しかし、それを日常用語では信仰とはいわないと思います。 病気や怪我をしている人の回復や苦痛の平癒を願うときにとるスタイルというのは、手を握ったり、やさしく手を添えたり、まあ十種くらいのものにほぼ区分できる程度で、時代を超え、文化を越え、ほぼ共通するのだろうと想像しますが、こうした場面でのスタイルをもって、信仰とか宗教の一種であるとは、認識しないと思います。
《信仰は宗教の一構成要素》であって、宗教には関係が一切ない信仰というのは、考えないでいいと思います。 なお、無教会系の信仰とか、聖書主義の宗教とか、「組織」があるというのが難しいです。
また、アミニズムとか、豊漁豊作や安全祈願、交通安全祈願、子孫繁栄のようなもの、塞の神、海の神、戦(勝利)の神、田の神、河の神、祭りの神に祈るのも、組織の構成状態を明確にできるようなものではないし、教義とかはたぶんないです。 だからといっても、「信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界」ではなく、その参加者には共通に幾度となく繰り返されるものでもあって、しかも、特に自己完結もしない、そのときその場限りの様式を伴う共感というものでしょう。 創唱宗教だけでなく、いいようがないいわゆる自然宗教のような組織も教義もない様式に重点のある宗教(様式の共有と感覚以外には、完結性などなにもない宗教)は多いです。

そして即物的になりますが自己の思うことを真に信じることは、時間的、金銭的また、目標としても己の精神性を満足させるものではないのでしょうか?

⇒ 「自己の思うことを真に信じることは己の精神性を満足させるものに通じる」と思います。「自己の思うことを真に信じることは、己の精神性を満足させるものに通じない」というのでは、話にならないというか、「自己の思うことを真に信じることは、己の精神性を満足させるものに通じない」という主張をするには、用語を非常に特殊に定義しないと無理でしょうし、いいたいことの内容が他人にはわからないと思います

3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

⇒ 自分で創唱してもいいですし、既存の宗教の様式や価値観の優先を変えても、尊像や妙言を変更してもいいでしょう。追随者が出現しないと、それは世迷い事とか狂ったとか不信心、背信者とされるだけに終わると思います。 宗教とか信仰と呼ばれるには、集団性や共通性の獲得に成功することが不可欠の要素だと思います。 
なお、宗教も文化の一つです。 信奉者もいれば、なんとなく習慣化している者、ポーズとして従っているだけの者など、様々な人がいます。 同じ人物でも、状況次第で、様々に変化することがあるのは、ごく常識です。 地位とか資産の保持、収入や名声の維持のため、あるいは家族や周囲から非難されることを避けるために、既存の宗教の中での役割を勤めるという人は少なくないです。 坊主、神父、牧師、教師でも、そういう人は少なくないでしょう。 自分で創唱してあるいは分派として宗派を作った人でも、あるときには、それまでに築いてきた社会関係・人間関係への配慮、財産の保全のため、あるいは裏切り者扱いを受ける危険の回避のため、それまで築いてきたものを重視し、それをもっとも大事にするということはあるでしょう。 そのように(いろいろなアンカーを重視すること)は、アイデンティティの獲得保全には欠くことができません。 周囲や他人、その宗教に関係ある人も、その宗教とは異なる立場にある人も、ある個人がそれまで築いてきた社会関係や自分が述べてきた言説、やってきた宗教スタイルを重要なアンカーとして維持し続けていることが、その個人を信仰者とみなす場合の重要なポイントであることは間違いないと思います。
本人Aがそのときの気分や信念、思考のままに、次々と言説やスタイルを変更し、過去のことや他人がAを理解していることを切り破るような行動に及べば、周囲や他人、その宗教に関係ある人たちは、Aを信仰者とは思わなくなるでしょう。

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

⇒ [信仰とは己の心の持ちようではない]と考える方が、現実の理解が容易だと思います。

❸.権益のために信仰者であるとする人は別にそれで構わないと思います。
この質問の意図は信仰心とは無関係なのに、別の目的で参加している人物までも信仰者と計上するのか?信仰なのに、そういったしがらみを組み込んでまで宗教は存続したいのか?それに対して...続きを読む

Q宗教を信仰している人は本気で死後があると信じているんですか?

この時期の墓参り?とかも、別に仏教徒?ではないので自分からいったことない(もう20年くらいは行ってない)程度の無信仰です。

1.宗教を信仰してる人はですね、天国だとか地獄だとか、そんなことの前提として、まずは死後の自意識が継続することありきなんですか?

2.あと適当に見る限り天国ってのは何でも満たされて、50年100年の人生ならいいでしょうけど、ずっとそれじゃ。真綿で首を絞められるように思考力を奪われて退屈すぎてどうにもならないという最高の地獄にみえちゃうんですけど、みんな天国(相当)のとこにいきたいんですか?

Aベストアンサー

#8です。お礼を読みました。
>死後の世界を信ずる人たちは、その前提として死後の自意識の継続が「暗黙的」に(宗教によっては明示的に)信じておられるのかどうか、ぜひお気持ちを教えてください。

死後の世界を信じるとき<死後の自意識の継続>は前提としてあります。
これは当たり前すぎてここに疑問を持つ人がいるとは思わなかったです。

キリスト教で死後に自意識がいつ目覚めるかは様々な考え方がありますが、
死後の自意識の継続は自明なこととして取り扱われてると思います。

キリスト教徒ですが天国とか地獄とかを具体的に考えることはないですね。
天国や地獄は単なる教義でしかなく死後の世界は神しか知りえないでしょう。
ただ、死後の世界がどういう形態であろうと自意識の継続だけはあると思います。

Q仏教とキリスト教、どちらが平和になる世の中を作るのに適してますか?

仏教とキリスト教、どちらが平和になる世の中を作るのに適してますか?

Aベストアンサー

仏教ですね。他の宗教は、神頼み他力本願なのに対し仏教では、この世は修行の場
悟りを開くまで何回も輪廻転生します。天国と地獄の概念は、後付です。
神道も良いと思いますよ。生きとし生けるものは、全て神簡単に殺しては、いけない。

Q哲学では、何が正解なのですか? どうやって、正解を求めるのですか? そもそも、正解はないのですか?

自然科学では、言い分が対立した場合、“実験をやろう”、“予測をしよう”、“論理の精密な積み上げをやろう”ということになり、正解が独りでに決まってしまいます。
哲学では、何が正解なのか分りません。各人が、勝手に言っていうだけ、と感じます。
百家繚乱とは言えず、百家争鳴のような気がします。

以下質問です。
哲学では、何が正解なのですか?
どうやって、正解を求めるのですか?
声が大きい(多い)方が正解なのですか?
そもそも、正解はないのですか?

Aベストアンサー

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
 体をなしていない。
 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報
 告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築
 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
 びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべき
 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
 り、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進める
 べきです。
 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Q宗教を信仰する人

なぜ、宗教を信じれるのですか?
私は今までキリスト教系統や仏教系統の学校に通っていました。
多分、宗教というものを長く勉強してる方だとは思うんですが、宗教を信じれる人の意味がわかりません。
少なくとも私は何年か勉強してきて宗教を信仰する奴はバカだと思います。
根拠がなく、物的証拠もない。聖書などの教典もおもしろくない物語ぐらいにしか思えません。
あれのどこに感銘を受けるのでしょうか?
この話を宗教の先生にすると、
じゃあ、あなたは初詣にも行かないの?クリスマスもしないの?と言われますが、しますよ。ですが、イベントとしてです。
なにも、存在もしない神に祈るためじゃありません。
もし、死ぬ間際で誰にも頼れない。あとは神様に頼むしかない。という状況なら信仰して少しでも良くなるようにとか、天国に行けますようにとか祈るのは分かりますが、それ以外の人はなぜ信仰しているのでしょうか??

Aベストアンサー

人は、自分の行動を決めてくれる制度を好むからです。これだけだと、抽象的過ぎるので、詳細を記述していきます。

まず前提として、人は、「自分が次どのように行動したら良いか」を決める基準が存在しない状況を嫌います。
例として挙げるなら、「好景気でも自殺者が多い」ことです。一般的なイメージでは、不景気に自殺者が多いと思われていますが、実際には好景気でも同じくらい自殺者がいます。
理由として、今まで不景気という環境(ルール)の元で生きてきた人が、好景気では今までの価値観が通用しなくなり、自分の行動を決められなくなった。何をして良いか分からなくなった末にゆ自殺したと考えられています。人にとって自分を縛る環境や価値観が無いというのは、死を選ぶくらいの苦痛なのかもしれません。

すごく簡単に書いたので、完全に内容が合ってるわけではないのですが、こちらはデュルケムという社会学者が提唱した『自殺論』に記述されており、「ルールや価値観がない、もしくは通用しない状況」を「アノミー」と称しました。
※ニュアンスが伝わるように簡単に書いたので、意味は正確ではありません。

ここから私の意見なのですが、アノミー状態を避ける=自分の中に価値観やルールを設ける。宗教を信仰する人とは、これまでの価値観が通用しない環境に身を置くことになったような人で、新しい環境に通用する価値観を求めた結果、偶然宗教に行き着いたというところでしょうか。無意識では、おそらくこのような原理。

>あれのどこに感銘を受けるのでしょうか?
右も左も分からない状況で、こうしないさい、した方がいいよと道を示されたら、その人にお礼を言うとか、何かしらの形で感謝を示すと思います。それに近いです。
これまでの価値観が通用しない環境に身を置くことになった人が、宗教の価値観によって問題を解決した(人によっては宗教が解決してくれた)→感銘を受ける(同時に感謝する)→信仰
感謝を示す行為として、信仰するのだと思います。こちらは意識的な原理。


宗教を信じられるというよりも、信じざるおえない(状況に置かれた)人といえます。

人は、自分の行動を決めてくれる制度を好むからです。これだけだと、抽象的過ぎるので、詳細を記述していきます。

まず前提として、人は、「自分が次どのように行動したら良いか」を決める基準が存在しない状況を嫌います。
例として挙げるなら、「好景気でも自殺者が多い」ことです。一般的なイメージでは、不景気に自殺者が多いと思われていますが、実際には好景気でも同じくらい自殺者がいます。
理由として、今まで不景気という環境(ルール)の元で生きてきた人が、好景気では今までの価値観が通用しなくな...続きを読む

Q宗教を信仰する人たちに対して興味があります。

1.宗教そのものには興味がありません。
※前提条件として、知識として必要なことは承知しております(まったくの無知ですが)

2。「宗教を信仰する人」に対して興味があります。

この条件で今のカテゴリで質問をした結果、どうにも批判的な質問に受け取られるようです。

「宗教の素晴らしさ」には興味がありません。
「宗教の役割」やその他、宗教が与えた人類的な事柄にも興味がありません。
「現在の宗教の問題」や、本来どうあるべきかも興味がありません。

興味があるのは飽くまで「宗教を信仰する人」に対してです。

どのカテゴリで質問するのがベストでしょうか。
どうにもこのカテゴリだと、質問の仕方の下手さもあり、誤解を受けることが多い気がします。

Aベストアンサー

気持ち的に答えるなら、大好きだからですかね?親戚の中でいつも頭撫でて大歓迎してくれる大好きなおじさま、みたいな感じで世界中が私を非難しても絶対責めないでくれる味方だと信じているから好きですね。感覚です。でも、確かなやつ。私も最初は人に興味がありました。海外に何カ国か住み、やたら優しく、考察が深く、的を得た答えをくれる人が多く、何が違うの?何を知ってるの?秘密は何?なんでそんなに優しいの?を探って後ろにイエス様が居た感じです。愛する天の父よ、と祈る神の子イエスの人柄は聖書を読んで知り、イエス様のようになりたい、と生きる人達に触れてトップが凄い、優しい、愛だ!だからそこを慕う人もなんか違うんだ、こうなりたい、こう生きられたら、みたいな強い憧れとか、神に愛されてるから私は私でいいんだ、とか、感じるところが凄くあって。なぜ神道じゃないのか、仏教じゃないのか、イスラム教じゃないのか、といわれたら大変長くなるので割愛しますが、神の霊感で書かれた聖書が2回通読して本物だ、と思うからです。毎回聖書が、みことばが私に伝えたい神の意志を語りかけてくるから、とか言うと危ない人、とか見られるしゴチャゴチャ必死に反論して科学的証拠が、とか精神科受診をお勧めします、とかいう無神論者とかがいるから普段は胸にヒッソリ熱く隠してます。何かの一助になれば幸いです。

気持ち的に答えるなら、大好きだからですかね?親戚の中でいつも頭撫でて大歓迎してくれる大好きなおじさま、みたいな感じで世界中が私を非難しても絶対責めないでくれる味方だと信じているから好きですね。感覚です。でも、確かなやつ。私も最初は人に興味がありました。海外に何カ国か住み、やたら優しく、考察が深く、的を得た答えをくれる人が多く、何が違うの?何を知ってるの?秘密は何?なんでそんなに優しいの?を探って後ろにイエス様が居た感じです。愛する天の父よ、と祈る神の子イエスの人柄は聖書を...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Q日本人は宗教に弱いように思います。 葬式にしろ墓にしろ 心底 信じてもいないし、信じる根拠も 探求せ

日本人は宗教に弱いように思います。
葬式にしろ墓にしろ
心底 信じてもいないし、信じる根拠も
探求せずに 世間にあわせて
何十万も何百万もお金を出しています。
最近は少し変わりつつありますが
まだまだ多いです。
もっと真剣に宗教を考えた方がお得だと思いますが
皆さんはどう思いますか。

Aベストアンサー

日本人は宗教に弱いように思います。
   ↑
日本人の宗教は神道です。
この神道は、実にいい加減な宗教で、教義も
経典もありません。
自然や先祖を想う、というだけで信者確定です。
信者だ、という自覚すら要求されません。
だから、質問者さんも、ワタシも、おそらく神道の
信者ですよ。




葬式にしろ墓にしろ
心底 信じてもいないし、信じる根拠も
探求せずに 世間にあわせて
何十万も何百万もお金を出しています。
  ↑
神道は多神教で、いい加減ですから、仏教とも
共存出来ます。
仏教と神道の信者数を合わせると2億を超えます。

何百万円云々は仏教の話ですね。
仏教は堕落しています。
これは、徳川時代に始まった檀家制度に起因します。

キリスト教の普及を怖れた徳川幕府は、仏教に
檀家制度を導入しました。
これで競争原理が働かなくなり、仏教が、今のような
葬式仏教に堕落したわけです。



最近は少し変わりつつありますが
まだまだ多いです。
もっと真剣に宗教を考えた方がお得だと思いますが
皆さんはどう思いますか。
   ↑
神道に代表されるように、日本人は宗教を真剣に
考えていません。
宗教と呼ぶには神道は余りにいい加減だからです。

だからこそ、日本では宗教紛争が少ないのです。
パレスチナのような血で血を洗うような紛争になりません。

日本人は宗教に弱いように思います。
   ↑
日本人の宗教は神道です。
この神道は、実にいい加減な宗教で、教義も
経典もありません。
自然や先祖を想う、というだけで信者確定です。
信者だ、という自覚すら要求されません。
だから、質問者さんも、ワタシも、おそらく神道の
信者ですよ。




葬式にしろ墓にしろ
心底 信じてもいないし、信じる根拠も
探求せずに 世間にあわせて
何十万も何百万もお金を出しています。
  ↑
神道は多神教で、いい加減ですから、仏教とも
共存出来ます。
仏教と神道の信者...続きを読む

Q本当に戦争放棄は人類の理想でしょうか?現在の人類が有るのは戦争のおかげとも言えるのではないでしょうか

本当に戦争放棄は人類の理想でしょうか?現在の人類が有るのは戦争のおかげとも言えるのではないでしょうか?

戦争が無ければ、人類は怠惰になり、ゴリラやチンパンジーとさして変わらない生活を送っていたのではないでしょうか?

確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?

Aベストアンサー

確かに、そういう面は否定できません。

次のような言い方をする人もいます。

原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。
その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き
力を養い、心と体を鍛え、一面で道徳律を築き上げた。

カントも次のように言っています。

戦争は、国民に数多の困難を与えながらも、それを乗り越えて戦い抜く
ことで、国民を崇高な存在にできる。
平和は、商人気質を旺盛にするが、卑しい利己心、怯儒や臆病の風を
はびこらせ、国民の心意を低劣にする




確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?
   ↑
戦争が無かったら、人類はここまで繁栄しなかった
でしょうね。
ネットだって軍事技術でした。

殺し合いをしながら繁栄の道を選ぶか、
平和に浸って、衰退滅亡の未知を歩むか。

戦争を肯定するなんてタブーになっていますから
まともな議論も行われてきませんでした。

Q結局哲学って役に立つの? 巷の人に何を知ってほしいか?

私は大学を選ぶとき「哲学科」に行きたいと思い 父に言ったら却下されました。

そんなお金にならない所に行かせられないということでした。

哲学をすると死にたくなる とか 難しいばかりで訳が分からないとか

巷では不人気です。

巷の人に知って欲しい哲学の言葉というか知恵とはどんなことでしょう?

これだけはみんなに知ってほしいという哲学の智慧の言葉はなんでしょうか?

あなたは何を知ってほしいですか?書いて教えてください どうか短文で。

Aベストアンサー

科学だけでは解決しないもっと根源的な問はないでしょうか?
  ↑
科学で解明出来ていない部分に、存在価値が
あると思います。
それも時間の問題だと思いますが。




例えば「性質」とは何かを科学は考えません。
科学は測って仮説を立てて実験して証明するだけです
   ↑
性質ってなんですか?
言葉の問題じゃないですか。



人間とは何か?という問いはあまり問いません。
  ↑
そんなことはありません。
脳科学は、魂の問題にまで入り込んでいます。
人間が他の動物とどこが違うのか、という点なども
科学は答えてくれます。



人生の意味は存在することにあります。
   ↑
それは科学と一致します。
生命体はまず存在することを第一義としており
人間もその例外ではありません。
遺伝子研究などもそれを示しています。

何のために存在するのか、という部分に
哲学の意義があるのではないですか。
つまり、人生の指針です。


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