はじめての親子ハイキングに挑戦!! >>

1.宗教そのものには興味がありません。
※前提条件として、知識として必要なことは承知しております(まったくの無知ですが)

2。「宗教を信仰する人」に対して興味があります。

この条件で今のカテゴリで質問をした結果、どうにも批判的な質問に受け取られるようです。

「宗教の素晴らしさ」には興味がありません。
「宗教の役割」やその他、宗教が与えた人類的な事柄にも興味がありません。
「現在の宗教の問題」や、本来どうあるべきかも興味がありません。

興味があるのは飽くまで「宗教を信仰する人」に対してです。

どのカテゴリで質問するのがベストでしょうか。
どうにもこのカテゴリだと、質問の仕方の下手さもあり、誤解を受けることが多い気がします。

質問者からの補足コメント

  • つらい・・・

    宗教に対する「科学的根拠」にも興味はありません。信じてるから信仰してるのでしょうから。
    否定する意図は一切ありません(そんなことは個人の勝手ですから)

    繰り返しになりますが、宗教の素晴らしさ、貢献、歴史、科学的根拠、そういうものには興味ありません。また、その逆に、科学的に証明されてないからとか、実際には人を一番殺しただとか、現実はこうだったということも興味がありません。そういう回答も求めておりません。

    ただ、信仰する人たちに対する興味があるのみなんです。

      補足日時:2017/08/15 20:07
  • 何度も繰り返しになるかもしれませんが、私個人は無信仰といっていいのではないかという立場です。

    何か既存の宗教、または自分の中にある思想的なものに対する信仰的なものは一切持ち合わせておりません。

    ただただ、先入観と無知があるのみです。

      補足日時:2017/08/15 21:13
  • うーん・・・

    信仰する人にたいして感情的、気持ち的な回答が欲しくとも「何故」と問うのが間違いでしょうか?

    信じているから信じている。それはそうだと思います。
    そこを少し細かく刻んで何をどう信じているのか、その由来は何なのか、回答に理屈は必要なくとも、これを質問するのはむずかしいでしょうか。

      補足日時:2017/08/15 22:19
  • もう証拠や理屈や説教の回答には反応しません。

    故意の煽りとみなします。

      補足日時:2017/08/16 19:00

A 回答 (11件中1~10件)

気持ち的に答えるなら、大好きだからですかね?親戚の中でいつも頭撫でて大歓迎してくれる大好きなおじさま、みたいな感じで世界中が私を非難しても絶対責めないでくれる味方だと信じているから好きですね。

感覚です。でも、確かなやつ。私も最初は人に興味がありました。海外に何カ国か住み、やたら優しく、考察が深く、的を得た答えをくれる人が多く、何が違うの?何を知ってるの?秘密は何?なんでそんなに優しいの?を探って後ろにイエス様が居た感じです。愛する天の父よ、と祈る神の子イエスの人柄は聖書を読んで知り、イエス様のようになりたい、と生きる人達に触れてトップが凄い、優しい、愛だ!だからそこを慕う人もなんか違うんだ、こうなりたい、こう生きられたら、みたいな強い憧れとか、神に愛されてるから私は私でいいんだ、とか、感じるところが凄くあって。なぜ神道じゃないのか、仏教じゃないのか、イスラム教じゃないのか、といわれたら大変長くなるので割愛しますが、神の霊感で書かれた聖書が2回通読して本物だ、と思うからです。毎回聖書が、みことばが私に伝えたい神の意志を語りかけてくるから、とか言うと危ない人、とか見られるしゴチャゴチャ必死に反論して科学的証拠が、とか精神科受診をお勧めします、とかいう無神論者とかがいるから普段は胸にヒッソリ熱く隠してます。何かの一助になれば幸いです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど、とても丁寧にお答えくださり本当にありがとうございます。

「なぜ神道じゃないのか、仏教じゃないのか、イスラム教じゃないのか」に関してはとても興味ありますが、人々の良い部分を探した結果、そこにイエス様がおられたと。大変勉強になりました。

本当にありがとうございます。
今までで唯一まともにご回答いただいたと感じております。

お礼日時:2017/08/16 19:05

興味ねえ 興味ねえ


信仰する人だけ興味ある

変 変 変

信じて行動する それ宗教だよ
あんたも 同じだと思うよ

ほんとに何も信じなければ 死ぬまで動けない

信じて飯を食う 信じて学問をする
金になる と信じて働く
信じているものの中に「神」 がいる それが違うだけだよ

神を仏を 信ずるか 信じないか だけ
無宗教と言っても 何かを信じている

信じて行動 信じて行動 これが人間だ

何故俺が神を信じているか
説明するなら 普通 宗教の教義の話になるだろうが
それは聞きたくないらしい  変  変  変ですよ

何故 俺が宗教してるか
何のために  を知るためです
俺は 何処から来て 何処へ行くのか
何のために ・・深いだろう  

興味ねえ 興味ねえ
枝葉の事なら それでいいと思うよ
宗教一つで 国家が滅ぶし 繁栄もする
個人も 悲惨な目にも合うし 最高の幸福も得られる

人間精神の根っこ 国家社会の底辺を支える
最大一の事なのに 興味ねえ 興味ねえ おかしくねえ

まあ 自分以外 どうなってもええ  ならしょうがないかも


膨大な情報から 好き嫌いで 判断し 用いていませんか
理性 道理 妥当性 愛 が基準でなくてはなりません
これ宗教や哲学がないと無理


内村鑑三は
 経済の背後に政治がある 政治の背後に社会がある 
社会の背後に道徳がある 道徳の背後に宗教がある
と述べています

初詣は神社 結婚式は教会 葬式は仏教
クリスマスのバカ騒ぎ
無宗教の奴等 そのだらしなさは あきれる
無宗教は 何んにでも踊らされる  自分がないから
あなたの事ではありません
内村鑑三は嘆いている事でしょう
国家も個人も 宗教で 繁栄もすれば 滅亡もします
 
宗教を否定する人
科学が分からない無知な人ばかり
まあ 宗教の話は聞きたくない らしいので
言わないが
都合の良い事だけ 聞きたい
聞きたくないのは聞かない
余計な事だけど 貴方の将来不安だね
    • good
    • 1

1.宗教そのものには興味がありません。


2。「宗教を信仰する人」に対して興味があります。
さて、何が質問で、何を知りたいのでしょうか。
>どのカテゴリで質問するのがベストでしょうか。
どのカテゴリでも同じだと思います。
たとえ話
難しい数学の式があったとして、その答えだけ教えてもらって、疑問が解決するか。
次に、なぜそうなるの?と疑問が湧き出てきます。
正しい答えであっても、間違っているのでは、思うでしょう。
世の中に、そんなに甘くはありません。

宗教を信仰する人について知りたければ
宗教に興味を持って学ばなければ、答えも理解できないでしょう。
仮に、正しい答えやヒントを教えてもらっても
疑ってしまうだけでしょう。

どこかのお寺に相談して、しばらく体験入門させて頂くと良いかも。
    • good
    • 0

人間であるなら宗教は必携、無神論者も生きることを神から許されている、いつか後悔する時が来る、その時は手遅れ、

    • good
    • 2

信仰をはじめるにはなにかきっかけがあるのでしょう。

病気をしたとか、大けがをしたとか、悩みがあるとか。

信仰の中で何か生きていくのに支えになる一点があるのだと思います。

簡単なようで難しい、でも続けられる何かなのでしょう。
    • good
    • 0

人生、悩み、ですかねー?カテゴリー。

信仰については、深過ぎて痛いところ過ぎて大事過ぎて、ぺらぺら話したく無いし、こう言うところで言うと、アンチが変に反応してきて大変メンドくさかったり、変に語られて説教されたり、押し付けられたり、自分の体験聞かされて牧師代理みたいな事しなきゃいけなくなったり、間違った知識の元なんでなんで?になるのが嫌で、初心者クリスチャンに話すのと訳が違うので、嫌なんです。私にとって信仰とは神との対話ですね。大事な家族を悪く言われていい気がしない感じに似ています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

重ね重ねご回答ありがとうございます。

ご回答様は私の思う「信仰する人」であると確信します。

そして私の質問に対する回答には理屈や根拠など一切必要なく、感情的に気持ち的にお返事いただければ満足するものであり、一言「信じているから」といわれれば十分な質問をしているつもりなのですが、色々と質問の主旨と違う回答をいただいて、質問の悪さもあるとは思うのですが、困惑しております…

もちろん信仰している人にとっては、その部分を質問されるのはご回答者様の言う通り、深い部分だと思います。不躾であるとも思います。だからこそこの場で質問しているというのもあります…

私は無教養であり、知識もなく、また宗教そのものにも興味なく、ただ信仰する人に対する興味があるだけですが、それはアンチと取られてしまうのでしょうか。

そして人生、悩みのカテゴリーは大丈夫ですかね。今質問しているのは人文->宗教学なのである程度理性的な回答をいただいているとは思いますがもっと困惑する回答がきそうな気が、します。

ご助言本当にありがとうございます。

お礼日時:2017/08/15 22:10

なぜイエス様が大好きで毎週教会に行くのかと言うと、、、教えたくありませんw親より彼より上には居ますね。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まさしくそう思うご回答者様自身に対する興味があるのですが、教えていただけないのであれば仕方ないです。

ただ、このカテゴリではやはり誤解を生むのでしょうか?

お礼日時:2017/08/15 21:18

宗教って難しいですね。

 辞書には・・信仰について神、仏などをかたく信じてその教えを守りそれに従う事 また、心。
・・と この様に書いてありました。

何かのきっかけで ある一つの宗教について学び、その教えを受け入れて信じてその教えに従っているのですね。

身近に 信仰している人がいたら直接 聞いてみるのはどうでしょうか?
そうすれば、あなたが知りたいと思っている点が分かるのではないでしょうか?納得できてスッキリとしたら良いですね
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

残念ながら、身近に信仰している人はいません。私の性格上、興味本位で質問責めにされるのがわかっているので隠してるのかもしれません(隠してるのならば、敢えて探ろうとは思いません。質問責めにされるのが気持ちが良いと思う人はそう多くないでしょう)

ご回答者様の言う通り、まさしく辞書にある「かたく信じて」の部分に興味があるのです。

なぜ「信じるのか」(これはこのカテゴリでは否定的にとらえられるかもしれません…)、信ずるならば己の心の持ちようではないか、それをなぜ既存の宗教に沿ってまで行動規範や人生を左右されるほどに信ずるのか。(これも否定的にとらえられるかもしれません…)

そこに興味があります。

お礼日時:2017/08/15 21:01

アウグスティヌス、パスカル、ルソー、トルストイあたりを調べてみるのはいかがですか?



アンドレ・ジイドはどうなのでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

翻訳本で読みやすいのを教えていただければ、、これもまたカテゴリ違いでしょうか。

何度か翻訳本で痛い目を見てきたので。。(ヘーゲルの精神現象学やフロイトの精神分析学入門等、無教養には読み進めるのが辛いです。一番きつかったのはスピノザのエチカですが、なんとか1文1文読み進めても理解できませんでした。。。)

お礼日時:2017/08/15 20:33

宗教を信仰する人 に興味があるのですよね?



カテゴリーは、哲学 がよろしいのではないでしょうか?

どのような問題にせよ
人間のことが知りたければ、やはりそのカテゴリーが最適かと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

葬式をあげつつも、仏の教え等信じない人、自爆テロをしても実際は家族への補償を条件にする人たち、または政治的理由から宗教を餌にする人たちにも興味がありません。

また、定義づけからの演繹的な回答も求めておりません。

宗教を信仰する人たちから「信じてるからだ」といわれれば、そうなんだって思う程度なのですが、哲学カテゴリがいいのでしょうか?

お礼日時:2017/08/15 20:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するQ&A

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q哲学では、何が正解なのですか? どうやって、正解を求めるのですか? そもそも、正解はないのですか?

自然科学では、言い分が対立した場合、“実験をやろう”、“予測をしよう”、“論理の精密な積み上げをやろう”ということになり、正解が独りでに決まってしまいます。
哲学では、何が正解なのか分りません。各人が、勝手に言っていうだけ、と感じます。
百家繚乱とは言えず、百家争鳴のような気がします。

以下質問です。
哲学では、何が正解なのですか?
どうやって、正解を求めるのですか?
声が大きい(多い)方が正解なのですか?
そもそも、正解はないのですか?

Aベストアンサー

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
 体をなしていない。
 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報
 告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築
 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
 びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべき
 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
 り、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進める
 べきです。
 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Aベストアンサー

変な事やったりするから 変な目で見られる
オウム真理教
統一教会
エホバの証人
幸福の科学
などの オカルト教は 変な事やってるから
変な目で見られる

普通の拝み 普通に集会に出る
変じゃない

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Q宗教を信仰している人は本気で死後があると信じているんですか?

この時期の墓参り?とかも、別に仏教徒?ではないので自分からいったことない(もう20年くらいは行ってない)程度の無信仰です。

1.宗教を信仰してる人はですね、天国だとか地獄だとか、そんなことの前提として、まずは死後の自意識が継続することありきなんですか?

2.あと適当に見る限り天国ってのは何でも満たされて、50年100年の人生ならいいでしょうけど、ずっとそれじゃ。真綿で首を絞められるように思考力を奪われて退屈すぎてどうにもならないという最高の地獄にみえちゃうんですけど、みんな天国(相当)のとこにいきたいんですか?

Aベストアンサー

#8です。お礼を読みました。
>死後の世界を信ずる人たちは、その前提として死後の自意識の継続が「暗黙的」に(宗教によっては明示的に)信じておられるのかどうか、ぜひお気持ちを教えてください。

死後の世界を信じるとき<死後の自意識の継続>は前提としてあります。
これは当たり前すぎてここに疑問を持つ人がいるとは思わなかったです。

キリスト教で死後に自意識がいつ目覚めるかは様々な考え方がありますが、
死後の自意識の継続は自明なこととして取り扱われてると思います。

キリスト教徒ですが天国とか地獄とかを具体的に考えることはないですね。
天国や地獄は単なる教義でしかなく死後の世界は神しか知りえないでしょう。
ただ、死後の世界がどういう形態であろうと自意識の継続だけはあると思います。

Q仏教とキリスト教、どちらが平和になる世の中を作るのに適してますか?

仏教とキリスト教、どちらが平和になる世の中を作るのに適してますか?

Aベストアンサー

仏教ですね。他の宗教は、神頼み他力本願なのに対し仏教では、この世は修行の場
悟りを開くまで何回も輪廻転生します。天国と地獄の概念は、後付です。
神道も良いと思いますよ。生きとし生けるものは、全て神簡単に殺しては、いけない。

Qキリスト教、回教、仏教と三大宗教がありますが、仏教だけ違うところがありますね。キリスト教にも回教にも

キリスト教、回教、仏教と三大宗教がありますが、仏教だけ違うところがありますね。キリスト教にも回教にも神様がいますが、仏教には神様がいません。仏教では誰でも修行によって仏になれるのです。それは宮沢賢治の雨にも負けずを読めばわかります。そういう人に私はなりたいとの一節です。彼の中では、そういう人が仏の姿だと思いますが、どうでしょうか?

Aベストアンサー

宮沢賢治は法華経に帰依してくださいと父にたのんだんですよね。法華経というのは天国も地獄も自分が作り出すと、我が心の中にあるとの教えです。ひとつの事にたいして怒りを覚える人、又可哀想だと思える人、さまざまですがどちらが仏のような人なのかー。単純に考えて分かりますよね?

Qよくよく考えたら、なんで人類に宗教が必要なのでしょう?

よくよく考えたら、なんで人類に宗教が必要なのでしょう?

Aベストアンサー

>よくよく考えたら、なんで人類に宗教が必要なのでしょう?

自分の頭で考えない人が多いからです。

Q結局哲学って役に立つの? 巷の人に何を知ってほしいか?

私は大学を選ぶとき「哲学科」に行きたいと思い 父に言ったら却下されました。

そんなお金にならない所に行かせられないということでした。

哲学をすると死にたくなる とか 難しいばかりで訳が分からないとか

巷では不人気です。

巷の人に知って欲しい哲学の言葉というか知恵とはどんなことでしょう?

これだけはみんなに知ってほしいという哲学の智慧の言葉はなんでしょうか?

あなたは何を知ってほしいですか?書いて教えてください どうか短文で。

Aベストアンサー

科学だけでは解決しないもっと根源的な問はないでしょうか?
  ↑
科学で解明出来ていない部分に、存在価値が
あると思います。
それも時間の問題だと思いますが。




例えば「性質」とは何かを科学は考えません。
科学は測って仮説を立てて実験して証明するだけです
   ↑
性質ってなんですか?
言葉の問題じゃないですか。



人間とは何か?という問いはあまり問いません。
  ↑
そんなことはありません。
脳科学は、魂の問題にまで入り込んでいます。
人間が他の動物とどこが違うのか、という点なども
科学は答えてくれます。



人生の意味は存在することにあります。
   ↑
それは科学と一致します。
生命体はまず存在することを第一義としており
人間もその例外ではありません。
遺伝子研究などもそれを示しています。

何のために存在するのか、という部分に
哲学の意義があるのではないですか。
つまり、人生の指針です。

Qなぜ特定の宗教宗派に属するのか

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

そして即物的になりますが自己の思うことを真に信じることは、時間的、金銭的また、目標としても己の精神性を満足させるものではないのでしょうか?

3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

Aベストアンサー

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

⇒ [信仰とは己の心の持ちようではない]と考える方が、現実の理解が容易だと思います。

❸.権益のために信仰者であるとする人は別にそれで構わないと思います。
この質問の意図は信仰心とは無関係なのに、別の目的で参加している人物までも信仰者と計上するのか?信仰なのに、そういったしがらみを組み込んでまで宗教は存続したいのか?それに対して、特に利益を享受しない人たちは疑問は起きないのか?という質問でした。

⇒ 広辞苑には、信仰について次の説明があります。
信じ尊ぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、神聖なものに対する畏怖心からよりは、親和の情から生じると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。
この説明を承服しない人もいるでしょうが、この説明は、《信仰は、宗教の体系の構成要素の一つであること、信仰は、集団性および共通性を有するものであること》をポイントにしています。
通常の用語法の範囲では、統合失調のような障害で個人的に何かを強く信じていても、その状態を信仰とは言わないし、犯罪などの審判の場で証人が個人的記憶を強く事実だと証言してもそれを信仰とは言わないし、実験結果で確実だったと小保方さんのように個人的に主張してもそれを信仰だということもないです。 しかし、集団性を持つと、特定民族や特定文化、血統の尊貴を強く信じていると信仰ともいうことがあります。 信仰というには、個人の心の持ちようというだけでは不十分で、集団性や共通性は不可欠な要素だと思います。

東京堂出版の類語辞典には、次の類語が挙げられています。
しんこう〔信仰〕信心・崇敬・崇信・信教・信ずる  (句)信をなす (仏)帰依
通常の用語法の範囲では、宗教性が信仰にとって不可欠とは言えないように思いますが、尊貴は重要な要素と思います。 親子や配偶者、恋人、親密な仲間、同士などには、親和の情はあると思いますが、それを信仰とは普通はいいません。信心、崇信、信じるというのも、対等的な相互性はあまり重視されておらず、一方的な帰依に近いことが、ある際だった対象に、集団的、共通に見られる(観察されうる)ことが、信仰という言葉を適用するには大事なポイントだと思います。 男女間や師弟間で、盲目的といってかまわないほどの崇拝依存尊貴の情があっても、宗教の体系の構成要素とは言いがたいものは、やはり、日常用語では、信仰ではないのでしょう。

その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、

⇒ どのような理想を持とうが、いかに強い信念を持っていようとも、宗教とはみなしがたいのであれば、信仰とは日常用語ではいわないはずです。
角川国語事典には、次のような説明があります。
しゆう・きょう【宗教】名神仏または超越的絶対者を信仰して、安心・幸福を得ようとすることまた、そのためにする行事
広辞苑にも、意識的側面や儀礼とありましたが、心の中のありようだけではなく、具体的な儀礼とか身体活動やポーズ、定まった口述、オーム、妙言、香りや炎、明暗の環境などの何かが、信仰には不可欠なものだとされていると思います。

2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

⇒ 五郎丸選手に限らず、自分流のその時点では完結した儀礼様式と強い念じる行為の組み合わせを実行する人は、そこそこいます。 しかし、それを日常用語では信仰とはいわないと思います。 剣道の試合前の対戦相手との挨拶とか、食事前の定まったポーズなどは、ある範囲では共通化された儀礼になっているし、そのときに念じるようなことも基本は多くの行為者で類似の範囲になると思います。 しかし、それを日常用語では信仰とはいわないと思います。 病気や怪我をしている人の回復や苦痛の平癒を願うときにとるスタイルというのは、手を握ったり、やさしく手を添えたり、まあ十種くらいのものにほぼ区分できる程度で、時代を超え、文化を越え、ほぼ共通するのだろうと想像しますが、こうした場面でのスタイルをもって、信仰とか宗教の一種であるとは、認識しないと思います。
《信仰は宗教の一構成要素》であって、宗教には関係が一切ない信仰というのは、考えないでいいと思います。 なお、無教会系の信仰とか、聖書主義の宗教とか、「組織」があるというのが難しいです。
また、アミニズムとか、豊漁豊作や安全祈願、交通安全祈願、子孫繁栄のようなもの、塞の神、海の神、戦(勝利)の神、田の神、河の神、祭りの神に祈るのも、組織の構成状態を明確にできるようなものではないし、教義とかはたぶんないです。 だからといっても、「信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界」ではなく、その参加者には共通に幾度となく繰り返されるものでもあって、しかも、特に自己完結もしない、そのときその場限りの様式を伴う共感というものでしょう。 創唱宗教だけでなく、いいようがないいわゆる自然宗教のような組織も教義もない様式に重点のある宗教(様式の共有と感覚以外には、完結性などなにもない宗教)は多いです。

そして即物的になりますが自己の思うことを真に信じることは、時間的、金銭的また、目標としても己の精神性を満足させるものではないのでしょうか?

⇒ 「自己の思うことを真に信じることは己の精神性を満足させるものに通じる」と思います。「自己の思うことを真に信じることは、己の精神性を満足させるものに通じない」というのでは、話にならないというか、「自己の思うことを真に信じることは、己の精神性を満足させるものに通じない」という主張をするには、用語を非常に特殊に定義しないと無理でしょうし、いいたいことの内容が他人にはわからないと思います

3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

⇒ 自分で創唱してもいいですし、既存の宗教の様式や価値観の優先を変えても、尊像や妙言を変更してもいいでしょう。追随者が出現しないと、それは世迷い事とか狂ったとか不信心、背信者とされるだけに終わると思います。 宗教とか信仰と呼ばれるには、集団性や共通性の獲得に成功することが不可欠の要素だと思います。 
なお、宗教も文化の一つです。 信奉者もいれば、なんとなく習慣化している者、ポーズとして従っているだけの者など、様々な人がいます。 同じ人物でも、状況次第で、様々に変化することがあるのは、ごく常識です。 地位とか資産の保持、収入や名声の維持のため、あるいは家族や周囲から非難されることを避けるために、既存の宗教の中での役割を勤めるという人は少なくないです。 坊主、神父、牧師、教師でも、そういう人は少なくないでしょう。 自分で創唱してあるいは分派として宗派を作った人でも、あるときには、それまでに築いてきた社会関係・人間関係への配慮、財産の保全のため、あるいは裏切り者扱いを受ける危険の回避のため、それまで築いてきたものを重視し、それをもっとも大事にするということはあるでしょう。 そのように(いろいろなアンカーを重視すること)は、アイデンティティの獲得保全には欠くことができません。 周囲や他人、その宗教に関係ある人も、その宗教とは異なる立場にある人も、ある個人がそれまで築いてきた社会関係や自分が述べてきた言説、やってきた宗教スタイルを重要なアンカーとして維持し続けていることが、その個人を信仰者とみなす場合の重要なポイントであることは間違いないと思います。
本人Aがそのときの気分や信念、思考のままに、次々と言説やスタイルを変更し、過去のことや他人がAを理解していることを切り破るような行動に及べば、周囲や他人、その宗教に関係ある人たちは、Aを信仰者とは思わなくなるでしょう。

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

⇒ [信仰とは己の心の持ちようではない]と考える方が、現実の理解が容易だと思います。

❸.権益のために信仰者であるとする人は別にそれで構わないと思います。
この質問の意図は信仰心とは無関係なのに、別の目的で参加している人物までも信仰者と計上するのか?信仰なのに、そういったしがらみを組み込んでまで宗教は存続したいのか?それに対して...続きを読む

Qなんで哲学カテで神や仏に対する質問するの?

本当に素朴な疑問です
なんで<宗教学><人類・考古学>等で質問しないので<哲学>なのでしょうか?
何を求めて問うているのでしょうか?

哲学的な質問では無いですが読んで回答して欲しい人は<哲学>カテの人達なので
<哲学>カテで質問します

Aベストアンサー

存在を知ることも哲学ですから帰結として神が原因なのかあるいは神そのものを知る、こういう働きもある。
今は頭を働かせば賢いとされる時代ですから、唯物論者も神を語れる。
ある事柄を否定したとたんに認めるという離れ業も出来る。
ようは頭がおかしい。
この哲学カテゴリーも低脳おっさんの語らいの場、社交場(サロン)と成っている。

四元素から原始の発見へ、万物は流転する(ヘラクレイトス)のエネルギー保存の法則やデモクリトス・エピクロスの原子論も、ストラトンの気体と真空説など昔は哲学者は科学者でもあった。


人気Q&Aランキング