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神とは何なのでしょうか。「神さまのおかげ」や「神ってる」や「メッシは神の子」などの神は人間が自分の都合で考え出した想像上の者ではないでしょうか。皆さんの考えを教えてください。

A 回答 (28件中1~10件)

その人の中にあるか無いか、では無いでしょうか?


価値のあるツボ、絵、石、興味ない人にはゴミに見えますよね。
でも価値がある人の中には有るので、他人が大事と思う物を無理して否定しなくても良いかも知れませんね。
その人には大事なんだなあーと思います。
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神様なんて所詮ゴ○

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我が神なり



人間たちよ

我を崇めたまえ

とか内心思ってるんじゃないですか?w
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宗教を信じる人も神 仏様も!自分が良いと信じればそれでいいし!ただ、人に押し付けだけはいけませんよね…



確かに目にみえない さだめ的な物はあると思うし、良い時は神様が見ている 神様のおかげ?悪ければ 神も仏もいない!勝手な考えですよね…!

それが人間なんですよ…

いいじゃないですか!人がどう思おうが…

自分が信じた道 進めばよいのでは…と感じます
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私は神様はいると思います。


霊やオカルトは否定される方も肯定される方もいらっしゃいます。
私自身の体験上、作り物、たまたま、自然現象で説明しきれないことがありました。
おそらく、それを証明する手段は絶対にないと思います。

その時に人の常識や力が本当にあるんだなって思いました
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1を10にする力が科学だとしたら


0を1にしたのが神だと思います。
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要は今説明がつかないことが全部神なんだ。

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神とは、そもそも宗教毎に違うもの



キリスト教の神は一つで一神教
一つの神様が全てだから、
その神は全てを知ってないと辻褄が合わない、つまり全知、そして全ては神の仕業
だから全能

一方、神道などの多神教は全知全能な
必要が無いので、
はなっから、そんな設定は無いし、
1番偉い神が太陽神と言う設定なので、
例えば宇宙のはてはどうなってるかとかは、
全ての神を総動員しても、わからないと
思われる

多神教では、神様にも性格の設定があって
例えば芸能の神の、弁財天は嫉妬深くて
カップルでお参りすると、別れさせようと
するとか、まぁ芸事の神なので、芸に異性
は必要無いと言う事かも知れないが
そういう設定があるから
神と言う物に親しみが湧くのだろう

と、宗教毎に神が違うが、神とは元々
聖書や古事記等、当時のファンタジー
小説の設定

聖書の神を哲学する、
古事記の神を哲学する等の
宗教毎の神に対して哲学する事は
意義は有る

それ以外の質問にある様な
自分の空想の中で作り上げた神は、
本来、神ではないし、そんなものを
哲学しても意味がない

ただ神道の神は、それすらも神として
取り込められる設定なので、
結果何でも有りになる
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窓から外の景色を眺めた場合、窓の形で世界が切り取られた様に見えます。

同じ形の窓でも頭上に開いた窓と、足元の窓では、感じ方に対してその方向性の違いが大きく影響します。

「神」という言葉は、認識対象(メッシや神ってると思う対象)を見るときの一つの窓枠になります。いわば、窓枠の形と方向が「神」の形と方向を有しているわけです。
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神とは、誰の心にも存在する良心その者♪

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Q「魂」は存在するのか?

「人間の意識は脳のニューロンに流れる電気の信号で脳が死ねば意識は無くなり人間は無になる」と主張する人がおります。
しかし、もし電気の信号が人間の意識だとすると、人間は自由意思を持つことはできません。
なぜなら電気の信号は物理的なエネルギーなので物理の法則にしたがわなくてはならないからです。

「今日の昼は物理の法則にしたがってラーメンを食べねばならない」なんて人いるでしょうか?
そんな人いませんよね?

人間には物理の法則にしたがわない自由意志があります。
人間の意思が物理の法則にしたがわないということは、なにか物理の法則から自由なものが根本にあると推定します。その物理の法則から自由なものとはいったい何か?

意識にせよ自由意思にせよ体積もなく質量もなくそれを示す計算式もありません。
なので物質であるとはとても思えません。
では情報の一種なのだろうか?情報をうまく組み合わせれば意識や自由意志が発生するだろうか?
しかし、もし情報だとすると「紙と鉛筆」で意識や自由意志が作れることになりますが、それもありえなさそうです。

物質でもない、情報でもない、となるといったいなんなのでしょうか?
この世は物質(エネルギーも含む)と情報でなりたっています。それ以外のものはありません。
となると人間の意識や自由意志はこの世のものではないことになります。
この世のものではなく、意識や自由意志を有するものとはつまり「魂」そのものではないかと思うのです。

みなさんはどのように考えますか?いろいろな意見を聞かせてください。

「人間の意識は脳のニューロンに流れる電気の信号で脳が死ねば意識は無くなり人間は無になる」と主張する人がおります。
しかし、もし電気の信号が人間の意識だとすると、人間は自由意思を持つことはできません。
なぜなら電気の信号は物理的なエネルギーなので物理の法則にしたがわなくてはならないからです。

「今日の昼は物理の法則にしたがってラーメンを食べねばならない」なんて人いるでしょうか?
そんな人いませんよね?

人間には物理の法則にしたがわない自由意志があります。
人間の意思が物...続きを読む

Aベストアンサー

私は誰でしょうか。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

私は誰でしょうか。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか...続きを読む

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q人間は生まれながらに善なのか悪なのか?性善説vs性悪説。あなたはどちら?

赤ちゃんは純心無垢の天使なのか ギャーギャー泣く欲の塊なのか?

人間は信じるべきか信じられないか

世界は人間の愚かさ故滅びるか 理想社会に到達するか?

あなたはどう思いますか? 現実はどうですか?

Aベストアンサー

性善説と性悪説って、二元論的な対立であって、対極的な議論じゃないですよ。
「人間は生まれながらに善悪を持つ」と言う前提で、「そのいずれが、より先天的か?」と言う議論です。

具体的に言えば、性善説は「善の本性を、後天的に淀ませる」と言う考え方に対し、性悪説は「悪の本性を、後天的な理性などで覆い隠す」とするものです。

すなわち、どちらかと言うと、性善説の方が、人生経験をすればするほど悪人になると言うことです。
「だから学問などで精神を浄化し続けなさい」と言う教えです。
逆に性悪説が、人間は長く生きれば生きるほど、善人(性悪説では「偽善者」ですが)になれる可能性があると言う教えですが、コチラも、「だから後天的に、良いものを身に付けなさい」なので・・。

結局、性善説でも性悪説でも、人間がやるべきことは「同じ」で。
やるべきことをやらねば、衰退するし。
やるべきことをやれば、発展します。

Q今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

Aベストアンサー

いい加減なこと言うでない。
ス昆布がちまたで流行ってるって誰が言った。
今ちまたで流行ってるのはカルビーのカールだろが。

Q《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観

次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になる
べく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉
というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立
にはいささかの難ずべき点もない。

もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たち
は奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは
奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とお
そらく独り言を言うであろう。 

――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。

ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者に
よって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解す
るあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)
に引きずられるからにすぎない。

[・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体
とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと
論じている。省略します)・・・]

作用が一切なのだ。



[・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラ
とがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省き
ます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生
的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]

内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者にな
れるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し 
その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても 
それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼ら
は 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・
・・。

抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 
《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そ
してその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない
者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのよ
うに隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少
ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 
公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が
冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当
は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に
余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもって
いない。

[・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このよ
うに《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 
信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》
に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられ
ている。)・・・]

(ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よ
いとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))
 
・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM
・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_genealogy_of_morals/on_the_genealogy_of_morals.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲しいと記載している以上、ニーチェも自説が完全とは判断してはいないでしょう)
「よい」とは何か?、「わるい」とは何か?と言う事は、ニーチェは自分の「よい」、「わるい」しか述べていません。
第一論文ー17で述べている以上、これはみんなで考えて欲しいと言う事です。(その問題提起とは、「善」、「悪」の起源及び、その価値についてです)
なお、第二論文ー「罪」、「疚しい良心」および関連問題、第三論文ー禁欲主義の理想の意味するもの、でさらなる論争を求めています。(第二論文は、その性格上、社会を扱います)
あくまで、この論文集は、「善悪の彼岸」で問題を提起したつもりだったのが、そのように読み取る読者が少なかったので、論文の体裁で、論争を巻き起こす事を意図したものなのでしょう。(批判しやすいように、あえて明確に記載しています)

お礼ありがとうございます。
誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲...続きを読む

Q先天的総合判断は可能か、、、その事例の是非について。

カントの本は難しすぎて読んでも理解できないので、岩崎武雄先生が日本語で書いた「カント」という解説本を読んでいます。

カントの純粋理性批判は、先天的総合判断が可能かどうかを吟味しているが、これがその中心テーマだそうです。

その記述の中に、総合的判断の事例として「7+5が12である」というものが載っていましたが、これに関して疑問に思うので質問します。

質問1:私たちが、四則演算、とくに加法の法則が成立する公理系を選択している以上、7+5が12になることは、一般(すなわち加法の法則が成立)における特殊(7+5は加法の一例)を挙げただけですから、分析的判断になるのではないでしょうか?

質問2:別のソースには「三角形の内角の和が二直角である」という例も見られるようですが、これもリーマン幾何学の中から、あえて意図的に曲率がゼロの空間を選んだから内角の和が180度になるわけであって、一般のもとに特殊の例を包摂するにすぎず、やはり分析的判断ではないでしょうか?

質問3:数学的な事例以外で、「なるほど、、、」と納得できる分析判断の事例をご存知でしたら、ご教示ください。

蛇足ではございますが、岩崎先生の解説本を読んでいると、カントの目指した認識論的主観主義は破綻しているのではないかと思えてきたところです。
これに関して、ご意見、ご主張のある方は、上記の質問の回答に加えて、お考えをご教授ください。

どうぞよろしくお願いします。

合掌

カントの本は難しすぎて読んでも理解できないので、岩崎武雄先生が日本語で書いた「カント」という解説本を読んでいます。

カントの純粋理性批判は、先天的総合判断が可能かどうかを吟味しているが、これがその中心テーマだそうです。

その記述の中に、総合的判断の事例として「7+5が12である」というものが載っていましたが、これに関して疑問に思うので質問します。

質問1:私たちが、四則演算、とくに加法の法則が成立する公理系を選択している以上、7+5が12になることは、一般(すなわち加...続きを読む

Aベストアンサー

質問文に書かれている「総合的判断」は、「先天的総合判断」の事なんでしょうか?
まずは、「総合的判断」かどうかを吟味しましょう。
カントの定義では、「総合的判断」とは、主語に述語の概念を含んでいない場合です。
質問1.主語は、7+5であり、述語は12です。
述語である12が7+5に含まれているかが問題になります。
ここで、この判断が、分析的判断だとすると、7+5に12が含まれていなければいけません。
一見したところ、7+5に12は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えます。
質問2.主語は、三角形の内角の和、述語は180°です。
三角形の内角の和に180°は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えます。
質問3.分析判断の例はいくらでも考えられます。
例.死者は生者では無い。
例.独身者は、未婚である。
主語の概念が、主語とは別の言葉で表現できる場合は、それを結合すれば、分析判断となります。
ここで、質問1と質問2は、総合的判断と言えますが、それが先天的かどうかは、さらに吟味しなければいけません。
カントの時代は別としては、現代の数学においては、公理の真・偽は判断されません。
つまり、公理は先天的では無いわけです。(ユークリッド幾何学においては、公理は先天的もしくは、常識的に正しいと判断されるものとされていましたが、現代ではそのような解釈では無く、あくまで公理が成り立つ場合の形式的操作と考えられています)
したがって、現代においては、質問1.質問2の例は、総合的判断ではあるが、先天的総合判断ではありません。

質問文に書かれている「総合的判断」は、「先天的総合判断」の事なんでしょうか?
まずは、「総合的判断」かどうかを吟味しましょう。
カントの定義では、「総合的判断」とは、主語に述語の概念を含んでいない場合です。
質問1.主語は、7+5であり、述語は12です。
述語である12が7+5に含まれているかが問題になります。
ここで、この判断が、分析的判断だとすると、7+5に12が含まれていなければいけません。
一見したところ、7+5に12は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えま...続きを読む

Q西洋哲学を学ばれて、人生について何が分かりましたか?

西洋哲学から、どんな教訓を学ばれましたか?

Aベストアンサー

自分が何処から来たか 何処へ行くのか 何のために
が分かりました

①人間を強く②人間を善く③人間を賢くしました

哲学を知るとは 自分を知る 世の中を知る
正しい基準を知る事です

透徹した哲学者 詩人 文学者の答えは
シラー ・・・・・(汝の運命の星は汝の胸中にあり)
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
デカルト・・・(我思うゆえに我あり)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
カント・・・・・(・・・我が上なる星と 我が内なる道徳法則とである)
ユゴー・・・・(・・・空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である)
ルソー・・・・(私が語らなければならないのは人間についてである)
カーライル・・・(理想は我々自身の中にある)
等々 世界的な文学者 哲学者 詩人は 口をそろえたように
 (一番大事な答えは貴方の中にある)と言っています

悪い例も書いておく
ピエール・ガッサンデー(フランスの哲学者 数学者)の言葉を紹介します
「私は何故、生まれてきたの知らない どう生きれば良いのか
知らないで生きた そして何故死ぬのか 分からないまま死んでいく」
と 悲しく言いました
 有名な哲学者と言えども このありさまです


自分は何処から来て 何処へ行くのか 何のために
人類 究極の課題である
哲学とはこの「何のために」を学ぶ事なのです


プラトン http://rokusann.sakura.ne.jp/newpag27.htm

自分が何処から来たか 何処へ行くのか 何のために
が分かりました

①人間を強く②人間を善く③人間を賢くしました

哲学を知るとは 自分を知る 世の中を知る
正しい基準を知る事です

透徹した哲学者 詩人 文学者の答えは
シラー ・・・・・(汝の運命の星は汝の胸中にあり)
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
デカルト・・・(我思うゆえに我あり)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
カント・・・・・(・・・我が上なる星と 我が内なる道徳法則とである)
ユゴー・・・・(・・・空よ...続きを読む

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない

Q¿ 不倫がどうぢゃこうぢゃと 弱者の反感(ルサンチマン)がかまびすしくなった あぁ 世も末ぢゃわい

1. 弱者は 勇気も度胸もなく 浮気もできないというだけではないか。

2. そのやからがつくった倫理をやぶったからと言って 何をさわぐのか?

3. 高貴な強者は ビッグバンの初めから そのチカラへの意志で生きて
いる。きわめてうつくしい振る舞いだ。文句あっか?

4. 倫理道徳は 高貴な人種のつよさ・うつくしさに対するやっかみから
弱者が勝手につくった。

5. 天皇家も この《倫理》に合わせて 側室を排除した。あぁ 世も末
ぢゃわい。


☆ 教えて! ぐー。

Aベストアンサー

No.7です、

bragelloneさん、素直なコメントですね。


「つまり 《倫理・道徳》というものは 《つぶやき氏(=ニーチェ)》によれば 弱者が勝手にその弱さに合わせて都合よいようにつくったに過ぎない・・・と言ってるんです」
⇒そうなのですか。

ニーチェが心から、そのように言ってるとすれば、それはニーチェがおかしいですね。

何故ならば、倫理・道徳がなければ、社会は混乱の極みだからです。
倫理・道徳がある中で、密かに浮気がある、ということであれば何も問題はないでしょう。

つまり、浮気は”弱者は勇気も度胸もなく”とは無関係でしょうね。

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む


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