「ブロック機能」のリニューアルについて

Q2: ・・・むしろきみたちこそが噂する《全知全能》だと言うのに
 死んぢゃったの?

A1: いやいや。それは われわれがナイフで刺しころした(*1)
 と言うのだけれど それはとうぜん 比喩ですよ。

Q3: ん? 死んではいないの?

A2: いやいや。要するに 昔は 神という概念が――つまり 神は
 ただの概念ですよ―― 人びとの頭や心を 縛っていた。この呪縛
 が溶けたっていうんですよ。神は死んだってことは。

Q4: ん? それは 聞き捨てならない。いくつか疑問が出て来る。

Q5: ただの概念に全知全能といった飾りをつけて 人びとの思いや
 振る舞いを――倫理的によい方向へ(?)――導いていたと言うの?

Q6: 《神が生きていた》時に では 人殺しが起きたとしたら 神
 がその人の心を導き得なかったわけだ。だとしたら 《呪縛》はす
 でに《死んでいた》のではないの?

A3: いや まあ。神をころしたのだから そのあとは われわれは
 一人ひとりが 自分の頭と心と意志で生きて行くって言ってるんで
 すよ。言ってるんですが それでは 心細いとすれば 《超人》と
 かとも言ってるんです。

Q7: 《力への意志》? っていうことは この超人や積極的なニヒ
 リズムなる《概念》が 神に代わってわれわれを導くってわけかい?

A4: いやいや。きみは 気が早りすぎる。ちゃんと説明するから。
 つまり だから 言ってるんだ。

  《ひとは 我れに還る》のが 一番だ。けれども その自己還帰
  を果たしたと思ったらすぐに 脱線する。
  やがてこの脱線が重なり 積もり積もって来ると 何ものかがそ
  の《われ》におとづれて来る。
  《われを見失うなかれ。還るべき心のわれにしたがいなさい》と。

 と。つまりこれを永劫回帰と言ってるんだ。人びとは――それは自
 由だが――勝手に解釈している。

Q8: ん? それぢゃあ 神の概念・神の理念とおんなじぢゃないか。
 神を再生させたんだ。(チャンチャン!)

Q9: だけど 神は 概念ぢゃないよ。概念なら 人間が活かしたり
 殺したりすることができる。つまり 神は 生きる(生まれる)・
 死ぬとは 関係ないという話に成らなくちゃダメぢゃないの?


  ---------------

*1: ▲ ヰキぺ:神は死んだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF …

質問者からの補足コメント

  • №12お礼欄よりつづく。

    ★ 絶対ー「真無限」、相対ー「有限」などの対応関係も、検証
    対象だと思います。(これは、他の用語から演繹や帰納的、その
    他、論理的帰結として求められない事なのでしょうか?)
    ☆ ええ。ご破算で願いましてになります。

    ★ 質問である以上は、少なくとも問題提起である必要があると
    思います。
    ☆ 新理論の提出という場合もあります。その情報交換です。


    ★ 回答などを踏まえて、その確証的根拠が得られたならば、そ
    れは、前提から求められた、確証的命題として示せば良いと思い
    ますよ。
    ☆ 部分的には そうしますが パラダイムを切り替えました。

    ★ 新たな問題が生まれるのは偶発的です
    ☆ が起きました。

    ★ 問題自体の示す範囲が拡大するだけですよ。
    ☆ をそのままねらっています。

    ★ 直接的にその用語の妥当性を質問にした方が確実です。
    ☆ そういう手も 用います。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/08/27 05:42
教えて!goo グレード

A 回答 (15件中1~10件)

No.14において、「確認しまたので」は、「確認しましたので」の間違いです。


訂正いたします。
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新たな質問の提出を確認しまたので、目的とその方法は理解いたしました。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。光栄です。



(このお礼欄のスペースを予備に取っておいたのですが もう一か所
あります)。

お礼日時:2017/08/28 08:18

お礼及び、補足ありがとうございます。


新しい用語の用法を示すのは、基本的に問題は無いんですが、それでは、従前の他の哲学者の論の解釈が違ってしまうと思います。
つまり、そのような方法を取った場合は、いちいち、「フッサールの超越」、「カントの超越」、「デカルトの超越」などと言わないと、何の批判をしているのかがわからなくなると言う事なんですよ。
そうするのであれば、一般的な意味とは無関係な、定義を行っていると言う事を最初に述べておかなければいけません。
このような手法を取る場合は、新しく定義した用語は、従前の用語とは無関係になりますから、下手をすると、全て用語が違うから間違っていると言えてしまいます。
それが、目的だと言われたら、そのようになされたら良いとしか言いようがありません。
全ての、既成の理論が間違っているので、新しい理論を提示すると言うのならば、それでもかまいませんが、それでは、単純に新しい理論の説明になってしまって、質問の範囲を超えてしまいはしませんか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 新しい用語の用法を示すのは、基本的に問題は無いんですが、
それでは、従前の他の哲学者の論の解釈が違ってしまうと思いま
す。
☆ そうでしょうね。と言うより 極端に言えば 《非経験の場
⇒非知⇒〔わが心の奥なる〕非思考の庭》という想定になる大前
提が違うと 全部違って来ます。

その違いは単純に言って 《経験世界》と《それを超えた非経験
の場》の峻別いかんにあります。

★ つまり、そのような方法を取った場合は、いちいち、「フッ
サールの超越」、「カントの超越」、「デカルトの超越」などと
言わないと、何の批判をしているのかがわからなくなると言う事
なんですよ。
☆ ずるい行き方を ここでは採っています。批判を受けて そ
のつど応答するというかたちです。


★ そうするのであれば、一般的な意味とは無関係な、定義を行
っていると言う事を最初に述べておかなければいけません。
☆ これは 追い追い分かって来るというスタンスです。

論文ではないので 通りすがりにわが神論を見る場合には 見過
ごすことがある。それでよいとしています。

★ このような手法を取る場合は、新しく定義した用語は、従前
の用語とは無関係になりますから、下手をすると、全て用語が違
うから間違っていると言えてしまいます。
☆ 断片的には・部品としては 共通である。と言いますか 摂
るべきところは 大いに採り入れています。

★ それが、目的だと言われたら、そのようになされたら良いと
しか言いようがありません。
☆ 追い追い分かると思っています。そして そういう過程を踏
むのが この場合いちばんよいかと考えます。

(論文で書いたとしても 見る人で評価し得る人はいないのでは
ないかと考えます)。

★ 全ての、既成の理論が間違っているので、新しい理論を提示
すると言うのならば、それでもかまいませんが、それでは、単純
に新しい理論の説明になってしまって、質問の範囲を超えてしま
いはしませんか?
☆ 質問としては 情報交換になります。

でも ブディズム批判およびクリスチアニズムの批判 あるいは
キリスト・イエス論を論点ごとに行なって来ました。

西欧哲学については これも或る程度は――論的ごとに・という
ことは断片的にはなりますが――済んでいるはずです。

お礼日時:2017/08/27 10:00

お礼ありがとうございます。


例は、あくまで一般的用例を前提として、示した例ですから、独自概念を付け加える場合は、別の記号を付与した方が良いと思います。(「」、『』などですね)
超越に関しては、次元を超えたと言う意味もありますが、フッサールなどは、内在においても超越を考えていますから、確実に内在と外在などの間の連続性を除去する必要があるならば、「超越」又は、『超越』とするのが妥当では無いでしょうか?
非知に関する、「人知を超えた場」の想定は、問題提起ではありませんか?
それ自体が検証対象ならば、問題として提起した方が良いでしょう。
絶対を場としてもかまわないと思いますが、通常は関係性を指します。
絶対、相対は、関係性の問題であり。
位置関係に対しては、ある座標上で、原点と対象の位置関係とした場合は、空間に対しては相対性を持ちますが、原点と対象間の距離は絶対的に定まります。
したがって、絶対、相対はあくまで関係性にとどめて、ある対象がその他の対象に対して絶対の関係にある場合は、絶対者と呼ぶなどの使い方になると思います。
絶対に関係性以外の意味を持たせた場合は、議論がかなり錯綜すると思います。
したがって、それ以外の全ての場に対して、絶対の関係にある場を「絶対場」と呼ぶなどの用法が適当だと思いますよ。
絶対ー「真無限」、相対ー「有限」などの対応関係も、検証対象だと思います。(これは、他の用語から演繹や帰納的、その他、論理的帰結として求められない事なのでしょうか?)
質問である以上は、少なくとも問題提起である必要があると思います。
回答などを踏まえて、その確証的根拠が得られたならば、それは、前提から求められた、確証的命題として示せば良いと思いますよ。
そうしないと、用語の説明だけで、質問の回答と言うか、問題の解決にならないです。(解決に至らないで、新たな問題が生まれるのは偶発的ですから、やむを得ないですけどね)
質問の目的は、提示された質問に示された命題の妥当性の検証なわけですよね?
そうであるならば、少なくとも、使う用語が示す範囲は限定的で無いと、問題自体の示す範囲が拡大するだけですよ。
逆説的に、使われている用語の妥当性を求める質問もあり得ると思いますが、直接的にその用語の妥当性を質問にした方が確実です。
その方が、回答者も回答しやすいと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 例は、あくまで一般的用例を前提として、示した例ですから、
独自概念を付け加える場合は、別の記号を付与した方が良いと思
います。(「」、『』などですね)
☆ でも 土俵をもあらたにつくる場合は 無視する手もあるの
では? あたらしい《一般》を提出するのですから。


★ フッサールなどは、内在においても超越を考えていますから、
☆ それは ダメです。経験と非経験(超経験)とを峻別しなけ
ればならないという立ち場です。

そのあと 確かに 非経験の場(非知なるナゾ・神の霊・仏性)
が 経験存在にやどるという想定をもおこないます。

でも 従来の《超越の内在》は その見方をぜんぶ捨てます。揚
棄したはずです。

★ 内在と外在などの間の連続性を除去する必要
☆ その連続性の《除去》などではなくて 捉えている世界(非
経験の場を含めた)が 一変しています。

★ 非知に関する、「人知を超えた場」の想定は、問題提起では
ありませんか?
☆ 新理論の提出です。でも 部品はみな既製品です。造語があ
るとしても。


★ 絶対を場としてもかまわないと思いますが、通常は関係性を
指します。
☆ 経験世界に見られる関係性を超えているから 絶対なのだと
捉えます。

★ 絶対、相対は、関係性の問題であり。
☆ 神と人間との関係性は あくまで神からの一方的なカカハリ
です。人間は それを受け容れるのみです。

ただし 相手が絶対であるゆえ これを おもしろそうだとか
おれは嫌だとかと自由に言って 《有る神》派と《無い神》派と
に分かれて受容する。

つまり《無条件で無根拠にてわが心に受け容れる》――これが
《信じる》です。まったくの非思考です。受容の判断があるのみ
です――になります。好きだ・嫌いだの気持ちや見解の表明は 
ただのカザリです。
(受容の判断は 拾うか捨てるかの賭けのごとくであって やは
り非思考です)。

それが 《絶対》というものです。神は いかに人間に好かれよ
うが・ののしられようが 痛痒を感じません。


★ ある座標上で・・・原点と対象間の距離は絶対的に定まりま
す。
☆ それは 必然性というほどの意味だと見ます。

★☆ 「絶対場」と呼ぶなどの用法〔も〕が適当だと思います。


☆ 補足欄につづく。

お礼日時:2017/08/27 05:39

お礼ありがとうございます。


用語の整理ができたようなので、そのような定義と言うか、意味付けとして議論されれば良いと思います。
なお、ヘーゲルに関しては、「悪無限」は、有限と無限を対立概念とし、無限が有限を完全に内包する理念と成り得ない事も、ヘーゲルの「真無限」との違いとしています。(ヘーゲル的には、「真無限」と言う概念では、無限者と有限者は絶対的な隔たりは無いと言う事になります)
可能無限を有限の延長と考えれば、それは有限と見なせなくもないですが、はてが無い以上無限です。(数的な比較ができないと言うのが本来の意味です)
これを操作と考えれば、それは時間感覚を生み出す事になります。
アキレスと亀のパラドックスは、本来は量的概念を前提としていません。
したがって、そこでは、無限の点を有限の時間で通過できるかというだけの事です。
アキレスの前端は、アキレスの延長(長さ)に関わらず存在すると考えられます。
したがって、ある点を通過するのに、アキレスの歩幅は関係無い事になります。
問題は、無限の点を通過するには、点を通過する時間の累積が無限に必要だと言う事です。
数学的には、収束する無限級数と言う考え方を使えますが、それは当然ながら、ZFC公理系を使わなければ、数学的に意味を成しません。
これは、無限に分割できる有限な延長が存在する事を前提としなければ、アキレスが有限な距離を走ったと考える事で、無限分割をする前に通過したと考える事も可能です。
ただ、このような考えは、後付けですから、当時の無限概念であれば、パラドックスが生じると考えるのが妥当でしょう。
有限な延長を無限の操作で対応付けた事自体が問題とも言えなくも無いですが、ここには、無限概念の根本的な問題の提起があります。
可能無限を有限の延長と考えるか、数えられるから有限だと考えるかは、考え方の問題だとは思いますが、用語としては、有限の延長としての無限であり、真無限、実無限とは違うと言う事であればその用法として使用されれば良いと思います。
なお、真無限、実無限の両方を使用されているようですが、ヘーゲルの用いる「真無限」は、非知では無いと思われますので、出来れば、他の用語を使われるか、「非知」は、あくまで「非知」として使用された方が良いと思います。
これは、言葉の多義性が、議論の方向性の混乱に陥る事を避ける為なので、出来れば、言葉が指し示すものは、一対一対応した方が間違いがありません。
包括性概念として、一対一対応が難しい場合は、一対多、もしくは多対一も考えられますが、基本概念としては、一対一対応していないと、何を議論しているかがわからなくなります。
一例としては、以下のようなものが考えられます。
超越:ある対象がある対象の範囲の外にある状態を意味する。
絶対:それ自体が、他に依存しないで定立している状態
相対:ある対象とある対象がお互いに、相手に対する関係性で規定される状態
可能無限:数的なはてが無いと言う意味の無限
実無限:分割など、操作その他、無限を一つのかたまり(集合)として捉える概念。 有限延長の無限分割や、実数の連続性の概念も含む
「有限」(「」をつけているのは、有限の拡張概念だからです):有限(限りあるもの)、可能無限、実無限を含む概念
「真無限」(「」はヘーゲル的では無いと言う意味です):相対と言う概念に対する絶対と言う概念の対応と同様の対応で、有限に対して、「真無限」を対応させる。 (この関係性が意味するのは、「真無限」には、数的操作が不可能と言う事である)
知:人間の精神活動において、認識もしくは、観念として存在する概念の集合(認識、観念は少なくとも、確証の根拠を必要とする)
可知:知の範囲内に収まるもの
未知:知の範囲に入っていないが、知の範囲に入る可能性が留保されているもの
不可知:知の範囲に入らないもの、ただし示す事はできる。(示すとは、名付けだけで、そこに特定の定義(性質・属性)を付与しない事です)
非知:知の範囲に入らないもので、示せるか、示せないかもわからないもの(言い換えれば、それ自体が、証明不能な命題を提起するもの)
お礼で、提示された、各用語の関連性については、検証すべき問題だと思いますから、質問等で議論を重ねられると良いと思います。
できれば、質問文に、上記に準じた、用語の示すものを書かれたら良いと思います。(あくまで、例ですから、御自身で、記載された方が確実でしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ヘーゲル的には、「真無限」と言う概念では、無限者と有限者
は絶対的な隔たりは無いと言う事になります
☆ 世界精神が 歴史に介入したりしますから――というよりも
むしろ すでに真無限を精神と言う時点で―― おそらく《絶対と
相対との絶対的な隔たり》を そのあと 連続していると見なして
いる。

歴史への介入あるいは精神という概念での――世界精神と人間精神
との――地続き性を 強引に見ようとしている。

けっきょく プラトンのイデアと同じなようです。


★ したがって、ある点を通過するのに、アキレスの歩幅は関係無
い事になります。
☆ そういう前提をうたがう必要があると思います。
★ 無限に分割できる有限な延長が存在する事を前提としなければ
☆ と。つまり この前提は措定してもよいのでしょうが 最終の
現実の回答としては その前提をうたがうべしなのだと思います。

★ ヘーゲルの用いる「真無限」は、非知では無いと思われます
☆ そこをすでに こちら側に輸入して来て あたらしい定義に編
入します。

★ 超越:ある対象がある対象の範囲の外にある状態を意味する。
☆ 異議があります。絶対(真無限)が相対(有限)を超えるとい
うのは 次元が違うということでしょう。

ですから 超越とは 絶対が相対をたとえば《相対世界の内も外を
も覆い包む》 あるいは 《ニュートリノのごとく突き抜けている》
あるいは 《異次元のナゾ(=非知・霊)として相対世界に遍在す
る》 あるいは 《非知なるナゾの何ものかの指先がいまにも相対
世界の存在(心)に触れなんとする状態にある》といった〔想定上
から派生する〕事例が考えられます。

★ 絶対:それ自体が、他に依存しないで定立している状態
☆ 異論ではなく 《有る無しを超え 因果関係から自由な場》。

★ 実無限:分割など、操作その他、無限を一つのかたまり(集合)
として捉える概念。
☆ これは いただきます。ただし 有限に属するとして。

★☆ 「真無限」(「」はヘーゲル的では無いと言う意味です):
相対と言う概念に対する絶対と言う概念の対応と同様の対応で、有
限に対して、「真無限」を対応させる。

★ 非知:知の範囲に入らないもので、示せるか、示せないかもわ
からないもの
☆ 《人知を超えた場》の想定。

お礼日時:2017/08/27 00:40

回答では無いですが、若干、無限に関する用語の混乱があるようですね。


数学的用語として、使われているとしたら、用語の定義は以下のようになります。

可能無限:無限の自然的概念であり、無限は一種類しか存在しない。 したがって、この場合は、その数の大小及び、濃度などの比較は意味を持ちません。(半分にしても無限などの、量的操作は出来ません)
また、これは完成しない無限です。(すくなくとも、数的な果ては無いと言う事を意味します)
自然数全体や、実数全体などの概念を考えても、それは可能無限としては、比較対象とはなりません。(同じ、無限です)

実無限:集合の対象として、無限を扱う概念。 この場合は、無限集合の濃度の比較は可能である。 加算無限、加算集合、可付番集合が、自然数全体の集合の濃度が等しい集合として定義できる。 実数全体の集合は、濃度において、加算無限、加算集合、可付番集合、つまり自然数全体の集合より大きい事が示される。 なお、無限集合においては、その濃度が真部分集合の濃度と等しい場合がある。(あくまで、濃度の比較であり、大きさの比較では無い事に注意してください)

基本的には、無限も無限集合も分割は出来ないので、その真部分集合を考えられるだけで、数の大小の比較は意味を持ちません。

数学的概念としては、上記です。

哲学における実無限、可能無限は、基本的に数学的な考え方と同じですが、哲学的に実無限を扱うと、ゼノンのパラドックスが解消できません。(アキレスは、永久に亀に追いつけません)
可能無限の考えであれば、ゼノンのパラドックスは、ある意味解消できます。(ある距離を無限に分割できると考えるのは、操作だけの問題で、アキレスは有限の線分を歩いたと考えれば、無限操作は解消できます)
現在の物理学においては、量子力学により、量子化されるので、無限分割自体が、物理現象では、ある意味無駄な議論です。(微分積分学を使用した場合は、連続の概念との整合性が問題にはなります)
実を言えば、哲学においては、このような実無限と可能無限の両方の立場があり得ます。
無限は、運動であり、常に変動するものとして、主観が捕捉すると言う立場。(ある意味、無限は常に、主観の捕捉に対して、先行していると言う考え)
この立場では、主観の時間感覚と矛盾しない可能無限となります。
無限は、常に実在し、人間の主観の捕捉の範囲とは無関係である。 こちらは、主観の時間感覚とは無関係に存在する実無限となります。

したがって、この数学と哲学の無限の概念を対比的に考える場合は、以下のとおりです。

可能無限:数学的には取り扱えないので、あくまで哲学的に考える事しか出来ない。
実無限:数学的にも哲学的にも捉えられるが、数学的に安全に取り扱うには、ZFC公理系などを利用する必要があり、それが利用できない場合は、パラドックスを生む。

なお、ヘーゲルにおいて、真無限と悪無限と言う概念がありますが、それは以下のとおりです。

真無限:有限も内包しつつ、部分においても定立する無限(全体性を持つ無限)、イメージ的には、連続的な円運動と考えられる。 ヘーゲル的な意味では無いが、閉区間の無限分割も全体性に対する操作としては同じ意味を持つ。 その意味で、全体性で閉じた、連続運動と言える。 可能無限よりは、全体性で捉える限りは、実無限に近い。

悪無限:有限の対立概念として存在する無限であり、有限を含まない。 イメージ的には、連続的な直線運動と考えられる。 それは、ある瞬間で見れば、有限であり、操作概念としては、開いている、限定されない無限である。 全体性を持たない点では、可能無限に近い。 数学的には、取り扱えない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《無限》を次のような意味で使っています。

★ 可能無限:数的な果ては無いと言う事
☆ つまり 可能無限は 有限の数量です。

○ 真無限:相対に対する絶対という意味で 有限に対する無限を
示す

★ 実無限:集合の対象として、無限を扱う概念。 ・・・ 
☆ よく分からないのですが たとえば 0.9999・・・・=1 と
する場合のようなその取扱いとしての無限・つまり そのものとし
ては 有限であるというふうに理解していました。

★ 哲学的に実無限を扱うと、ゼノンのパラドックスが解消できま
せん。(アキレスは、永久に亀に追いつけません)
☆ 0.999・・・=1 といった実無限(もしくはけっきょく可能無
限)〔の情況〕を超える・じつは有限の数量がありえます。亀の歩
みよりもアキレスの歩幅のほうが大きい。

★ ゼノンのパラドックス。・・・ある距離を無限に分割できると
考えるのは、操作だけの問題で、アキレスは有限の線分を歩いたと
考えれば、無限操作は解消できます
☆ せっかくですが よくは分かりませんでした。

★ ヘーゲルにおいて、真無限と悪無限と言う概念が・・・
☆ ですが 次に言う《無限》が 真無限です。
▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は ど
んな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしは
これを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることが
できるのが 人格(* もしくは《おのが固有の時間》ないし《非
思考の庭》)の高さである。
(『法の哲学』§35 追加=講義録 藤野渉・赤澤正敏訳)
~~~~~~~~~~~~~~


★ 無限は、常に実在し、人間の主観の捕捉の範囲とは無関係であ
る。 こちらは、主観の時間感覚とは無関係に存在する実無限とな
ります。
☆ 真無限は 《実在するか否かが 分からない。分かるか分から
ないかが分からないナゾ》をいうと定義しています。その余は 無
限という言葉を使っていても すべて有限です。

有限(可能無限・実無限をふくむ):可知(既知・未知)・不可知
無限(=真無限):非知


★ 悪無限
☆ は 堂々巡りないし水掛け論として延々とつづく判断のつかな
い議論の状態を言うとすればよいのでは?

お礼日時:2017/08/26 22:31

リコウの壁、りこうの壁および魂振りについてコメントをください。



https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9892303.html
上記リンクの質問で質問者の提唱するリコウの壁およびりこうの壁です。武田康弘氏の提唱するりこうの壁についてではなく、武田康弘氏の提唱するりこうの壁から質問者が読み取ったことでもなく、上記リンクの質問のno.3およびno.7のお礼に記載の質問者の提唱するリコウの壁およびりこうの壁がどのような機序で回答者がきちんと答え無くなり、応答を先送りするようにさせるのかについてコメントをください。

上記のリンクの質問で、回答者はきちんと応答しています。質問者が自分で作った修辞疑問を回答者に投げ返されてあらかじめ自分で矛盾するように作った質問を自分で考えてその腹立ちを回答者の責任に転嫁して罵倒しています。
罵倒したことを、魂振りと称して、回答を活発化させる効果があるかのように自己弁護する様子は、まるで、相手の頭部を手で軽く叩く(叩き続ける)行為をし、シャクティパットと称して、身体を活発化させる効果があるとし、脳内出血で信者が死ぬと、ミイラ化しても死んでいない。司法解剖で死んだと自己弁護するライフスペース教団のリーダーのようです。反吐が出ます。

質問者の提唱するリコウの壁およびりこうの壁がどのような機序で回答者にきちんと答えなくさせ、応答を先送りするようにさせるのか?、冒頭のリンクの質問のno.2および5を罵倒する事を魂振りと称したのはなぜか?の2点についてコメントをください。


本質問についてno.8が正しいです。no.7と8と9以外の回答を罵倒する点を除いて支持します。本質問のno.7のwikiのリンクが途中で切れています。数学者のポール・コーエン氏の方へリンクを貼ったつもりでした。下記が正しいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ リコウの壁、りこうの壁および魂振りについてコメントをくださ
い。
☆ 相手との対話においても あるいは自分自身との対話においても
《世間ないし世界との和解 あるいは おのれとの和解》が 大切だ
と考えます。

ふるい言葉では 《魂鎮め》です。ただし この魂鎮めの成った心の
状態というのは しばしばその前に《魂振り》を経ることによって得
られるのだと言われます。(日本人の伝統としてです)。

だいたい心や頭に巣食う固定観念だとか それに自分の心に対して内
攻しつつしかもおのれを高しとする心が加わって 独り善がりになっ
たりする。

このような状態の心に対して あたらしい考えを送り風通しをよくす
るとか。凝り固まっている気持ちを ゆさぶるとか。――こういった
魂振りをおこなうことは 有効だと思っています。

りこうの壁については すみません。手法ではなく まして理論では
ありません。ばかの壁をもじって言ってみただけです。



相手とのやり取りをなめらかに進めるためにどうすればよいか?

これは わたしはまだまだ試行錯誤の過程にあります。相手に応じて
よいと思った対応の仕方で応対しています。



★ 上記のリンクの質問で、回答者はきちんと応答しています。質問
者が自分で作った修辞疑問を回答者に投げ返されてあらかじめ自分で
矛盾するように作った質問を自分で考えてその腹立ちを回答者の責任
に転嫁して罵倒しています。
☆ 《きちんと回答・応答していない》部分が現われたときに それ
に対して《罵倒する》などの手法で応答しています。

魂振りの内容を持つとも 同時に 捉えています。



★ 本質問についてno.8が正しいです。no.7と8と9以外の回答を罵倒
する点を除いて支持します。
☆ №8については お礼欄の同じ反応です。証明がありません。

結論だけなら ああ そうですかでコメントはおしまいです。一般に。

お礼日時:2017/08/24 23:01

神は死んだとは人々の心にすみたもう神が死んだ、いなくなってしまった、と言う意味だ。


頭の悪い奴だな。

NO.7は自然にどっぷりつかって寿命を尽きたら良いと思う。
ほかの回も当然、クズである。
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この回答へのお礼

いつ・どのように死んだのですか?

いなくなったその前には 確実にいたんですか?

どうやって証明できますか?





ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/08/23 18:08

数学:ZFC公理系を採用する。


数学:ZFC公理系では自然数の濃度と実数の濃度は違う。
 推測→無限が2つある。
数学:ZFC公理系と連続体仮説は独立。
数学:ZFC公理系と連続体仮説を採用する。
数学:自然数の濃度と実数の濃度の間には他の濃度が存在
  しない。
 推測→2つの無限が絶対に隔たっている。
 推測→有限と無限が絶対に隔たっている。
 推測→絶対の隔たりがあると無限が2つある。
 推測→無限が2つあるので神が2つある。
 推測→非知であるための絶対の隔たりがあり
    神が2つある。
逆に
数学:ZFC公理系と連続体仮説の否定を採用する。
数学:自然数の濃度と実数の濃度の間には他の濃度が存在
  する。
 推測→2つの無限が絶対に隔たっていない。
 推測→絶対の隔たりがないと無限が1つある。
 推測→有限と無限が絶対に隔たっていない。
 推測→絶対の隔たりがない無限は神ではない。
 推測→非知であるための絶対の隔たりがなく、
    神が0つある。
  結論:神はコーヘンが連続体仮説の独立性を証明した
    1963年に、2つに増えたか、死んで0つになった
    かのいづれかになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC …


下記の問のno.13,9,7を参考にしました。素晴らしい回答達です。とくに9と7が良い。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9700259.html
no.13
 「超越性」という性質は、あたかも実数の濃度と自然数の濃度との間の濃
 度をとるような集合、すなわち濃度を比較の基準とした場合の、「中間の
 集合が存在しない」性質のようなものだ、ということでしょう。この方の
 言いたいことは、、、。
 「超越性」は、別に神に対してでなくても、ありうることです。
 問題は、この「超越性」の直感が「神の」超越性に対しても言えるかどう
 か、、、ということなんでしょう。
 神の超越性は比較不能な「絶対性」を伴うはずだと仮定すれば、連続体仮説
 を用いることは適切ではありません。なぜなら、連続体仮説を採用した公理
 系と、そうでない公理系は、比較検討できるからです。
 >次の結論は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》
 >のことだと理解してよいのですか?
 連続体仮説はZFCからは証明も反証もできないことが「わかっている」ので
 すから、その意味では非知ではなく知です。
no.8
 ANo.7へのコメントについてです。
 >★ 3.は誤りです。実数は自然数でどうやっても順序付けられない。

 >☆ それは 証明抜きの公理としてしまうということでしょうか?
 いいえ。ZF公理系で証明できる定理です。



 >★ ZFC公理系に連続体仮説の否定を追加して新たな公理系を作り、

 >その上で数学を展開することもできる。

 > ☆ 《連続体仮説の否定》というのは 《実数を自然数で順序づけ
る
 >ことができないわけではない》という意味でしょうか?
 いいえ。連続体仮説とは要するに「自然数全体の集合の濃度と実数全体の
 集合の濃度の中間の濃度をもつ集合はない」ということです。その否定は
 「自然数全体の集合の濃度と実数全体の集合の濃度の中間の濃度をもつ集
 合がある」ということです。

 

>>実数の無限集合と自然数の無限集合とのあいだに 濃度の違いがあ
る場
 >合とない場合とがともに認められる。のでしょうか?

 いいえ。ZF公理系上の数学において、実数の無限集合と自然数の無限集合と
 のあいだには濃度の違いがあります。これは連続体仮説とは全く無関係です。



 > ただし わたしのそんな問いには関係なく:
 むしろ、お尋ねの問いは濃度の概念や連続体仮説の意味を誤解なさっている
 のでしょう。

 > ☆ 現実を・世界のすべてを数学という言葉で表わすというので
はないん
 >ですね?
 理論物理学が追求している究極の理論(TOE: Theory Of Everything)は、標
 語的に「現実を・世界のすべてを数学という言葉で表わしたい」ということ
 です。
 しかし、TOEが完成したって私が明日ラーメンを喰いたくなるかどうかを計
 算するのは不可能である。なぜなら、いくらモデルを「原理的に」記述した
 って、あまりに迂遠すぎて計算が馬鹿馬鹿しいほど莫大になるんです。現実
 的計算では、水素原子1個が表現できるかどうか、あたりが限界でしょうね
 。この事情は、流体力学のモデル(微分方程式です)が分かっていても、解
 けないんで実験してみなきゃどうにもならん、というのと同じです。これは
 モデルなんか作っても無駄だ、ということにはなりません。これまでは知ら
 れていなかった何らかの一般的性質・法則が見通せるだろう、というところ
 にTOEの価値があります。

ただし、そのモデル(流体力学であれ、TOEであれ
 )は現実の観察と突き合わせるテストに耐え続けねばなりません。観察との
 齟齬が生じれば、そのモデルは捨てられます。
 神秘思想のほうは、このテストを課すことができない。科学哲学で「反証不能
 」と呼ばれる性質です。反証不能の思想は、自己整合的(self-consistent)なら
 形而上学、とっちらかっていれば夢想・妄想と呼ばれるでしょう。

 > とは言え:
★ 2, 4に戻りますと、連続体仮説にしても選択公理にしても、
 >そ
れらの公理を現実の何かを記述するモデルと対応付けようとすれば、
その
 >相手はせいぜい神秘思想(それが現実の何かのモデルであるか
どうかはさて
 >おき)ぐらいしかない。

 >☆ 《あり得る》んですね?
 数学にとってあり得るというのではなく、神秘思想にとってあり得る、という
 ことでしょう。なぜなら、神秘思想をひとつの詩だと捉えれば、それは感情や
 信念やナンセンスを表現するものであり、その手段としてどんなアナロジーを
 使うかは詩人の勝手であるばかりか詩人の創造性の発露でもあります。
 たとえば、チョウチョの死骸がヨットに見える、と詩人が言っても、それはヨ
 ットやチョウチョのせいではないし、もちろん両者の現実の関係を示している
 訳でもない。

 >そうしますと その神秘思想との:
 その詩が面白いかどうかは読み手の感性の問題ですし、読み手は作品から触発
 されてさらにいろいろ夢想をして楽しむ訳です。詩の鑑賞としてはそれで結構
 だと思います。が、所詮はアナロジーですから、数学とは何の関係もありませ
 ん。
 余談ながら、私の印象では、この「詩」は、一時異常なブームを作ったスカタ
 ン社会学(「カル・スタ」とか呼ばれました。「ソーカル事件」で一気に終焉
 しましたが)や、さらに古い「ニューサイエンス」と呼ばれた神秘思想の流れ
 の上にあるのが明らかという意味で、さほどのオリジナリティがなく凡庸だし
 、連想の展開もなくて詰まらんと思います。

no.7
 2, 4については、数学からアナロジーとして何か(何だか知りませんが)詩的
 な意味を読み取るという夢想の話でありましょう。

 (選択公理にも同様の夢想が可能だろうし、そのほうが文芸としてよっぽど面
 白そうだと思いますが。)ちうわけで、つまり、2, 4は普通の言葉で言えば「
 単なるスカタン」です。

 3.は誤りです。実数は自然数でどうやっても順序付けられない。

 さて1.について。連続体仮説はZFC公理系と独立した命題である。つまり、ZF
 C公理系に連続体仮説を追加して新たな公理系を作り、その上で数学を展開す
 ることができるし、ZFC公理系に連続体仮説の否定を追加して新たな公理系を
 作り、その上で数学を展開することもできる。両者が出してくる定理のうち連
 続体仮説(あるいはその否定)を使った定理たちは、両者で互いに異なる訳で
 す。
 同じ事はZFC公理系の公理の一つである選択公理についても言えます。すなわ
 ちZF公理系に選択公理を追加して新たな公理系を作ったのがZFC公理系で、そ
 の上で数学を展開することができる。また、ZF公理系に選択公理の否定を追加
 して新たな公理系を作り、その上で数学を展開することもできる。(ただ、選
 択公理の否定が使える場面はまずありえないので、選択公理がない公理系(ZF
 公理系)に基づく数学と同じことになりますが。)選択公理のない体系ZFは、
 ZFCに比べて「無限」を扱うに際して制約が多く、窮屈であるために、ZFCの
 方が標準的に使われております。ですが、たとえばバナッハ・タルスキーの定
 理のような、現実の感覚からすると明らかにへんてこな定理が、選択公理から
 出て参ります。
 (続くけど字数制限のため割愛)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

数学等のくわしい内容は 分かりません。

自信のあると思う部分について コメントをします。

★ ~~~~~
数学:ZFC公理系では自然数の濃度と実数の濃度は違う。
 推測→無限が2つある。
~~~~~
☆ これは 可能無限であって あくまで経験事象としての問題だ
と理解します。神とは 関係ないと。


★ 推測→有限と無限が絶対に隔たっている。
☆ この無限を真無限ととれば そのとおりだと考えます。つまり
神と人間とは 絶対の隔たりがある。

(しかも 絶対の側は 相対なる人間に対して 一方的にハタラキ
カケをおこなうと推理することができる。

なぜなら 絶対だからです。すくなくとも 絶対は 相対存在に対
して 絶対の側からカカハリを持つようにさせている。

ただし そのカカハリは――つまり信仰ということですが――人間
が そんなものは《無い》という選択(自由意志の行使)をしてそ
う思っていることができる。

カカハリが有る・無いは――神が非知ゆえ――どちらか一つに 人
間が認識することも・したがって決めることも出来ません)。

次のような推測は 神の数についてというよりは 神とわれとの関
係(つまり 信仰)のあり方を言っているのではないか? つまり
《有る神》派と《無い神》派と。
★ 推測→非知であるための絶対の隔たりがあり 神が2つある。


★ ~~~~
結論:神はコーヘンが連続体仮説の独立性を証明した
  1963年に、2つに増えたか、死んで0つになった
  かのいづれかになった。
~~~~~~
☆ 《0つ》という見方については まだ分かりません。



これこれの点について コメントせよというところがありました
ら 言ってください。努力します。

お礼日時:2017/08/22 19:26

https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%A …

2時間かかるからご自分でどうぞ
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この回答へのお礼

▲ ロゴス・ミニストリーのブログ:映画「神は死んだのか」
http://www.logos-ministries.org/blog/?p=6301

☆ 上の説明を読みました。結論は それこそ《概念ないし観念の
神》であって ああぢゃこうぢゃと人間が考え時にはあやつること
さえできると思わせるような扱い方です。

つまり それは 人知を超えた神のことではありません。


あしからず。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/08/22 13:29

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