プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

少し長いですが興味深いことだと思うので、最後まで付き合ってください!

私は今まで物理や化学のような科学を学ぶにあたって常に理由を考えるようにしていました。これはなぜこうなるのかということを考えていました。そうすることでより深い理解が得られると思ったからです。

例えば物理においてなぜなのかを考えていくと最終的に公理や定理などというものに突き当ります(古典力学でいうとニュートンの運動方程式など)。それはこれと言った理由を考えることは無意味のように思えるようなことです。この完璧な公理から様々な現象を把握できるようになるのです!私はこれを完璧な事実だと信じていました。この完璧な理論から世の中の複雑な現象が導かれるのだと。

しかし、実はそんなことは全くの間違いであると考えずにはいられなくはなりました。なぜなら、このような公理というのは元は現実世界の様々な現象
から帰納的に導いたものであり、これが正しいのは現実世界と照合して例外がない場合だけです。つまり、私たちは現実世界と辻褄が合うようにこのような理論を考えているだけなのではないでしょうか。つまり、理論は人間にとっての道具に過ぎないのではないのでしょうか。

こう考えると理由を考えることは全く有益に思えません。なぜなら理論があるから現象を導けるのではなく、現象を導くために理論を構築したからです。

私たちは教育によってノートの上だけで考えるようなことをしてきました。そこでは理論が与えられ、そこから何かを導くことを求められます。直感で求めることは許されないのです。そんな状況では理論が完璧で絶対的なものだと思ってしまうのは仕方がないと思います。本当は実験をすることによってそのような理論が成り立っていることを実感することが大切なのではないでしょうか?

あなたは学問に対する姿勢はどっちであるべきだと思いますか?回答お待ちしております。

A 回答 (12件中1~10件)

公理や原理が日常の経験や実験から引き出されたものであることは


間違い有りませんか、そのまとめ方には人間のオリジナリティが入る余地が
有ることも評価して欲しいな。

それと新しい理論が新しい現象を予言し、それが的中することも
珍しく無いことも心に止めてほしい。

マクスウェルの「電波」の存在の予言、ディラックの反物質の存在の予想
など、先に理論、後で現象が見つかることもあるのですよ。

彼らは数学的な美しさを追及しているうちに、現実を記述する理論に
偶然辿りついたのですが、何とも不思議な話だと私は思います。
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あれこれ書くのも面倒なので簡潔に書くが、「理論上の話」という言葉を知っているだろ。


理論というものは、実際に起きたことを何とか説明しようと論じているだけで、「理論が正しい」などという保証はどこにもないよ。
かの有名な「アインシュタインの相対性理論」だって、実際にはつじつまの合わない部分もあるのだから。
理論がすべて正しければ「実証実験」などする意味がなくなるよ。
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当たり前のことだけど、少なくとも高校生と大学基礎教育くらいまでの話を言えば、すでに過去の偉人がある程度検証した上で成り立ってるものですから、論理ありきであたかもそれが真実かのように説明されるように思えるのはしょうがない。

だって、普通に考えてそれを全て一から話してたらきりがないし、物事の本質的理解が深まらないからね。なんでもありなんて言っちゃえば。

ただし、理論系学問の基本的な方針は異なる理論を体系的に”矛盾なく”繋げること、説明することですから、そういう意味で言えば実験系のような「誤差範囲だ」とか「ほとんどの場合」みたいな曖昧な表現はしない。逆に言えば、矛盾するような例外的ケースがかりにあるとするならば、それがどんなケースなのかを体系的に説明する必要性もあるわけだし、少なくとも全ての論理的なものは想定する範囲内では完璧である必要がある。そういうと、もちろん実験的証明は都合の良い場合だけをとってるように見えるかもしれないが、少なくとも関係なさそうなAという現象とBという現象がある定理で1つにつながるということは非常にすごいことだし、学問の本質というのは結局のところ世の中の真理を知りたいという人間の欲求だろうからそれ自体に人間の探究心の目的があってもおかしくないと思いますけどね。

逆にいうと、実学系でこうなったというような話なんて、極論言えばただやってみてそれをそのまま述べてだけなら単なる事実の羅列であって学問じゃないという言い方もできるしね。ま、実学系であっても何らかの論理的結論を大抵は求めるのだから、それ自体がどちらかしかないなんてことはないし、結局のところこの手の話を突き詰めると単なる言葉のあやにしか過ぎない面もある。もちろん、そもそも学問の本質とか、再現性の意義なんて話をしだすとそれ自体が哲学的な学術分野の一つでもあるとは思いますけどね。

ま、最後に言っとくと、AとBという現象をみてCという考察ができる生物というのはこの地球において人間以外にほとんどいませんから、そういう面から見ても別に人間のエゴだろうが何だろうがそれが人間たるものを決定する重要な部分だし、それによって自然界には存在しないような社会が生まれてるんだから面白いんじゃないかなとも思いますけどね。

ある意味人間ってのは自己進化する生物なんですよ。
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高尚なことにきがついた体で話しているけど、いたって当たり前。

それが物理学です。

現象がある。
仮説を立てる。
それを道具としての数学で表現する。
いろいろな現象を説明できる。矛盾も見つからない
だから仮説が正しい。すなわち理論としよう。

例外が見つかった。理論を修正。
もっと正確に現象を記述できる。
これを、新理論として、過去は古典論としよう・・・・

ということの連続です。どうあるべきかでもなく、それが物理。あたりまえの話です。
そういう本質は、実はちゃんと物理学を勉強するはじめに、ならっているのですが、みんなスルーしている。

理論があり、そこから数学的に導くことが本質だと勘違いする。実際、質問者も勘違いして、何もわかっていない。
本質を理解せずに、受験テクニックとして、物理をやると、そういうおばかなことになります。

もっといえば、数学は、物理学のツールとして、より洗練された歴史もある。有益とか、無益とか討議している時点で、
まったくもって、トンチンカンだと感じます。
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理論=仮定。


仮定無しでは、結果の導きが無いです。
偶然では、経緯を確かめる必要があります。
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>科学をするに当たって何かよく分からないことに出会ったとき、解決する方法は2つ考えられるように思います。


>1つは私がこれまでやってきたような理由を考えることにより既存の理論で説明するというやり方です。
>2つ目はおっしゃるような実験的事実から新しい仮説を立ててそれを実験によって確かめるというやり方です。

おっしゃるとおりです。



>私はこれまで1つ目の方しかやってこなかったです。
>そして先人たちの偉業のおかげで、その理由となる理論を探り当ててきました。
>今現在、行われている高等学校までの教育は前者を重視しているとおもいます。

いきなり一から考えるのではなく、説明が行き詰まるまで、今ある理論でとことん突き詰めてみよう、というのは、悪いことではないでしょう。
それに、すでにある理論のことを知らなければ、無駄なことをしてしまうから。
今更、エーテル理論だとか、光は粒子だろうか波だろうかなんて考えるのは時間の無駄でしょ?
だから、とりあえず基礎的な知識は必要です。
無から有は生まれないし。



>しかし、2つ目の手法こそが先人たちがこれまでやってきたことでもあり、大きく科学を大きく飛躍させることができると思います。

その通りです。



>では、後者の手法の中で一番難しいプロセス、つまり実験的事実から仮説を打ち立てる能力というのはどのようにしたら養われるでしょうか?
>過去の偉人たちのような天賦の才能や、直感力、想像力が必要なのでしょうか?
>簡単な手法はないかもしれませんが、少しでも高める方法があれば、教えて頂きたいです。

ははは、それが分かればみんなノーベル賞を取れますよ。

ところで、あなたのおっしゃる二つの手法は全く別物でもない。
ちょっと難しいけど、トマス・クーンという科学哲学者がいました。
面倒だから、Wikipedia から引用しますが、

=================
科学者が研究の現場で受け入れているものごと、例えばF=maのような式があるとして、それがいかなる点でいかなる手段によって彼らがそうするようになったのか、言い換えれば科学者がある実験に際して、いかにして「力」とか「質量」とか「加速度」を取り出すことを習ったかをクーンは問う。

実験において、ある問題から別の問題へと移行するうちに、F=maのような式は変形される。一度変形された式は、いままで関連付けられなかったものとの関連付けられ、今までの文献には出てこなかったようなものにさえなる。では、こうした変形とは一体いかなるものであり、そのやり方を学生はどこで学ぶのだろうか。

クーンによれば、こうした変形は一種のアナロジーを捉えることである。すなわち、今まで出会ったことのない問題を、出会ったことのある問題と同様に見なすことなのである。たとえばF=maのような法則のスケッチは、一つの道具として機能する。つまり、いかなる類似点を見つけるべきかを教え、見出されるべき状況のゲシュタルト(形態)を与えてくれるのである。

科学者は、二つあるいはそれ以上の特徴的問題間のアナロジーを捉え、類似点を見出し、記号を関連付け、既に有効であることが証明済みの方法でそれらを結びつける。このような様々な状況の間の類似性を見出す能力は、学生が例題をペンと鉛筆で、あるいは実験室の中で実習を行なうことによって得られるのだ、とクーンは指摘する。

こうしたスケッチは、当然ながらポパー派のような科学哲学者たちの描く科学像とは異なっている。ポパーらの考えによれば、科学知識は何よりも理論とルールで表されているのだから、それらを学習しなければ学生は問題を解くことができない。

しかし、未訓練の素人が、いくら理論とルールを教え込まれても、それが“実験室でどのような見え方をするのか”が分からなければ、何に着目すればよいのかすら分からず、つまりは実態的な作業としての研究に取り組みようがない。実験機器の計器の針の位置が針の物理的な位置以上の意味を持つことを理解し得ないならば、霧箱の中を走る「斜線」が宙に浮かぶ不思議な直線にしか見えないならば、研究作業は不可能である。

理論やルール等々がいくら単なる知識として学習されても、それをいわば“適用する”仕方が分からなければ、実際の研究過程においては役には立たないのだ。全く具体的かつ個別的な、一つ一つの実験や観測の場において、何に対して反応し、何に着目すればよいのかを学生が習得するのは、学生が「例題を解く」過程において、問題を解くことそれ自体ではなく、問題を解くことを通じて類似的関係を「発見」することに習熟するからである。

そしてこのとき、“理論や概念を適用する”という言い方が、もはや正しくないことに注意しなければならない。すなわち、学生が「例題を解く」ことによって習熟する事柄とは、実際の研究過程における知識のシステムないしネットワークにおける働きに即して、そしてその場合にのみ理論や法則などが意義をもつということでもあるからだ。言い換えれば、研究過程に先立って、独立ないし孤立した状態において存在する理論や概念があり、研究者がそれらを“適用する”わけではないのだ。いかなる理論であれ概念であれ、ある知識のネットワークの一要素としてのみ、理論や概念といったものが知識としての意義を獲得するのである。

こうした次元によって科学を特徴付けることをクーンは、マイケル・ポランニー [1966=1980] にならって「暗黙の知識」と呼び、それは科学に携わるルールというよりも、科学に実際に携わることによってのみ学ばれると位置付けた。こうした主張は、科学を個人的直感の上に置こうとする非合理主義として非難を浴びた。しかし、この非難はあたっていない。そうしたものを直感と呼ぶとしても、それは、すでに成果を挙げてきている専門家集団が取捨選択を重ねてきたものとして共有されたものであり、新人たる学生はこの集団のメンバーになる準備の一環としての訓練において、その「直感」を獲得するからである。
=================

いやあ、難しいね。
でもとりあえず、この点だけは抑えておこう。
「一つ一つの実験や観測の場において、何に対して反応し、何に着目すればよいのかを学生が習得するのは、学生が「例題を解く」過程において、問題を解くことそれ自体ではなく、問題を解くことを通じて類似的関係を「発見」することに習熟する」
「新人たる学生はこの集団のメンバーになる準備の一環としての訓練において、その「直感」を獲得するからである。」

つまり、高校レベルの問題を解くことはそれ自体が目的なのではない。
それによって、世界観を広げることにある。
全く別の現象にも類似の関係を見出すことができれば、世界が広がる。

本格的な訓練は大学院でみっちりやるから、楽しみにしておいて。
(大学4年間では厳しいかもしれない)



なお、上ではポパーは批判されているけれど、ポパーもすごく有名な科学哲学者でね。
そんな一言で捨て去られるような簡単なおっさんではないということだけは付け加えておきます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。つまり先人たちの積み上げてきたものを上手く役立てつつ、勉強することも大事なことなんですね。後半の、異なる現象から類似性を見つける能力を習熟することが必要だという意見は非常に興味深いです。そのようなことを意識しながら学習していきたいです。

お礼日時:2017/08/26 15:12

私たちは現実世界と辻褄が合うようにこのような理論を


考えているだけなのではないでしょうか。
  ↑
そうですよ。

ヤカンに水を入れ、ガスに点火する。
しばらくすると沸騰する。

一兆回やっても同じ結果が出た。
しかし一兆と1回やって同じ結論がでるか
判らない。

同じ結論が出る、という根拠が理論です。




理論は人間にとっての道具に過ぎないのではないのでしょうか。
   ↑
その通りです。
帰納的推論から理論を導出する。
その理論から演繹的に色々な結論が導出出来ます。
理論というのはそうした道具です。



そんな状況では理論が完璧で絶対的なものだと思ってしまうのは
仕方がないと思います。
  ↑
仕方が無いのは、同一パラダイムの中で、です。
パラダイムを超えたら、今までの理論は通用しなく
なります。
ニュートン力学第二法則を微分方程式で解けば
相対性理論が導出されるのです。
つまり、極限状態では第二法則は通用しなくなります。



本当は実験をすることによってそのような理論が
成り立っていることを実感することが大切なのではないでしょうか
  ↑
ハイ、それが科学です。
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>私は今まで物理や化学のような科学を学ぶにあたって常に理由を考えるようにしていました。


>これはなぜこうなるのかということを考えていました。

素晴らしい。
ぜひこのまま続けて下さい。


>この完璧な理論から世の中の複雑な現象が導かれるのだと。
>しかし、実はそんなことは全くの間違いであると考えずにはいられなくはなりました。

素晴らしい。
よくぞ気づかれました。



>このような公理というのは元は現実世界の様々な現象から帰納的に導いたものであり、
>これが正しいのは現実世界と照合して例外がない場合だけです。

素晴らしい。
大体その通り。
ただし、「帰納」的ではない。「仮説演繹的」に導いたものです。
仮説を立てては検証していく作業のことです。
たとえば、ヒッグス粒子は仮説が立てられてから、その存在が確認されるまで、ずいぶん時間がたってしまいました。
ヒッグスさんが生きている間に確認できて本当によかった。



>理論は人間にとっての道具に過ぎないのではないのでしょうか。

ええ、世界を説明するための道具です。



>私たちは現実世界と辻褄が合うようにこのような理論を考えているだけなのではないでしょうか。
>理論があるから現象を導けるのではなく、現象を導くために理論を構築したからです。

実際の現実世界は複雑です。
現実世界を説明する仮説はいくつもあります。
例えば、今現在、重力をきちんと説明できる理論はありません。
大統一場理論はまだまだ夢です。
超弦理論が正しいかどうか分からないし、ライバルとなる理論はいくつもあります。

脳がどのようにして「心」を持つのか、誰にも分かってはいません。

現象を導くための理論はいくつでも可能であり、そのためにこそ、実験による検証が必要です。
その意味では、

>本当は実験をすることによってそのような理論が成り立っていることを実感することが大切なのではないでしょうか?

というのは本当に正しい。



でもそれだけじゃないんです。
相対性理論がいくつもの予言をしたことはご存じですよね。
相対性理論が正しければ、こういう現象が観測されるはずだ、という予言です。
「重力レンズ効果」「ブラックホール」「重力波」

これは理論の方が先です。
現象を観測する前に、理論が予言したのです。
素晴らしいではありませんか。
そしてこれが、実験物理学による理論の検証なのです。



実験をしては、事実を積み重ねる。
積み重ねられた事実をもとに、いくつかの仮説を立てる。
どの仮説が正しいかを検証するためにまた実験を重ねる。

これこそが仮説演繹的手法であり、科学の科学たるゆえんです。



このようなことを考えるのを科学哲学と呼びます。
興味があれば、
反証可能性
パラダイム
ハードコア (科学的リサーチプログラム)
アドホックな仮説
オッカムの剃刀
ミュンヒハウゼンのトリレンマ
などを調べて下さい。
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この回答へのお礼

すごく分かりやすい回答ありがおうございます。
もう少しだけお伺いしたいことがあるので、よかったらお願いします。
科学をするに当たって何かよく分からないことに出会ったとき、解決する方法は2つ考えられるように思います。
1つは私がこれまでやってきたような理由を考えることにより既存の理論で説明するというやり方です。2つ目はおっしゃるような実験的事実から新しい仮説を立ててそれを実験によって確かめるというやり方です。
私はこれまで1つ目の方しかやってこなかったです。そして先人たちの偉業のおかげで、その理由となる理論を探り当ててきました。
しかし、2つ目の手法こそが先人たちがこれまでやってきたことでもあり、大きく科学を大きく飛躍させることができると思います。
どちらの手法も大事なことだと思いますが、私は後者の方に興味があります。ですが、今現在、行われている高等学校までの教育は前者を重視しているとおもいます。
では、後者の手法の中で一番難しいプロセス、つまり実験的事実から仮説を打ち立てる能力というのはどのようにしたら養われるでしょうか?過去の偉人たちのような天賦の才能や、直感力、想像力が必要なのでしょうか?簡単な手法はないかもしれませんが、少しでも高める方法があれば、教えて頂きたいです。

お礼日時:2017/08/25 18:33

今、私たちは見えている世界を完全に説明できません。


その中に、現時点の理解では説明できない特徴的現象を
捉えて、それを説明できる新たな理論をつくり、それに
基づいた実験や観測を行なって証明します。
理論と実験(または観測)は不可分です。
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現実世界を矛盾なく説明する理論を正しいとするという考え方でいいと思うよ。


それが、いつまでも絶対的に正しいという保証はないけどね。
ニ相対性論理が出てくるまでは、ュートン力学は矛盾なく完璧なものだったみたいにね。 

直感というか、新しい考え方に対してオープンであるということは必要なことだけど、、、
それは、理論に基づいたものでないと、意味がない。

どのように理論が正しいか実感するのかっていうのは、、、まあ、自由研究かな。
あまり、学校では行われていないかもしれないね。 

アメリカの大学で数十年前に初等レベルの物理のクラスとったことあるけど、
ぶっちゃけ、日本の高校よりもレベル低いかもしれない事しかやらなかった。
週3マスのクラスだけど、それに加えて毎週3時間くらいの実験の時間があり、
いろいろな実験をやり、様々な物理の事象を体験するという経験をした。
体験したことは、なかなか忘れないし、また、論理を証明するために、
どのような手順が使われるべきなのかということを学ぶにあたって、
このような体験は有効であったと思います。 

入試のテストで点を取るためには時間の無駄かもしれないけどね。
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この回答へのお礼

そうですね。今の日本の高等学校までの教育は学問のそのような面を無視し過ぎているように感じます。あるものは直感ではなくきちんと理論を用いて説明しなさい!というのに対し、他のあることは自明であるという理由で片付けることもあります。このような状況では本当にその理論が正しいのか、本当に自明なのかと懐疑的になり、例外が見つかると、それにはさらに理由があるはずだと思ってしまいます。本当はそのような例外を説明するためにより便利な理論を誰かが考えただけなのに…
このような教育では新しい理論を生み出す能力は養われず、科学がこれ以上進歩することはないのかもしれません…

お礼日時:2017/08/25 15:26

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