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ブルジョアって富裕層っていう意味じゃなくて中産階級が正しいんですか?

ブルジョア=金持ちだと思ってたけぢ日本語だと中流階級って意味がいつ頃からブルジョア=金持ちという意味に変わったのでしょう?

昔のブルジョア=今の上場企業に勤めるサラリーマンってことですよね。

A 回答 (5件)

昔の、ヨーロッパで言うブルジョワジーを今の日本に置き換えるなら、


「中小企業の社長や役員クラス」かなと思います。
マルクス主義においてプロレタリアート(=賃金労働者)の対義語になるので。

ブルジョワは労働する人の中の富裕層です。

昔の中世ヨーロッパの身分は大雑把には
・王侯貴族(働かない;戦争時以外は)
・聖職者(働かない)
・平民(=労働者、めっちゃ重労働)
です。
質問者さんが仰る「中産階級」が存在しません。

でも当時の平民の中にも商人や工業で生計を立てる人がいます。
彼らは時代が下るにつれいろんな要因から、中には裕福になる者もあらわれました。
今でいう社長として、人を大勢雇うほど事業を拡大し、儲けるようになったのです。
この人たちがブルジョワジーです。中産階級の誕生です。
時代が近代資本主義社会に移行したことで生まれた階級です。


なぜ日本でブルジョワ=金持ちになったか?

一言でいうと流行語になったためです。
たまたま日本の事情でブルジョワ=金持ちという意味で膾炙しただけです。

ブルジョワが金持ちには違いないのですが、そこに王侯貴族が入らなかった理由は
一つには、広まった時代の日本にはすでに資本主義に移行していたため、
王侯貴族=圧制者という概念が薄かったこともあると思います。
もう一つには、思想を語る人々が昔でいう平民=労働者に移っていたことがあると思います。

日本では50~90年ぐらい昔に共産主義、特にマルクス主義が流行った時代がありました。
(戦時中のアカ狩りとか聞いたことがあるでしょう。治安維持法を背景に、特高が共産主義者を社会不穏分子だとして捕まえて拷問して殺してたわけです。)

このマルクスはプロレタリアート(=賃金労働者)はブルジョワジー(=労働者の労働により資産家になった者)に搾取されていると説きました。
今でいうブラック企業批判です。
そうした、プロレタリアートこそ尊いという主義から対立するブルジョワジーに否定的なニュアンスが生まれるようになりました。


なおこの風潮は、ヨーロッパ本土から情報伝達において取り残されていた日本でのみのはずですので、海外ではブルジョワを指して否定的なニュアンスは持たないだろうと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2017/09/10 09:22

No.4です。

肝心なことを書き忘れ。「階級」という意味では
 ・中産階級=ブルジョアジー(ブルジョア)
 ・平民 = プロレタリアート(プロレタリア)
です。平民の成金が会社や商店の経営を始めると「小ブルジョア」(プチブル)などと呼ばれたりもします。

いずれも、19世紀のヨーロッパ社会を基準にした話ですから、アメリカ流の資本主義をベースとした現代に当てはめるにはかなりの「読み替え」をしないといけません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2017/09/10 09:22

上流階級=王侯貴族。


中産階級=資本家、会社経営者。会社経営者に経営責任と権限を委任されている「管理職」は一応この階級。
平民=一般市民。大企業だろうが中小企業だろうが、サラリーマン(管理職以外)はこの階級。

「中流階級」って、「上流階級」と「中産階級」とから適当に作った用語で、「社会の平均クラス」「中間層」ということです。階級としては、上記の「ピラミッド構造」の構成人数から考えれば、「平民のやや上の方」ということがわかるでしょう?

「階級」ですから、金持ちかどうかは関係ありません。平民の金持ちは「成金」などと言われます。もちろん、そのお金で中産階級になることはできます。
日本の天皇家は、明らかに「上流階級」ですが、個人資産はさほどお持ちではないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2017/09/10 09:22

プロレタリアの反対です。


貧乏ではない人。
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日本語の「ブルジョア」の意味はお金持ちです


フランス語なら市民とかですが
カタカナの日本語なのでお金持ちが
正しい意味だと思います
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>上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり

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信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

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自分は、この先どうしたらよいのか、韓国の大学に留学した日本人はいつも悩む。 韓国に残っても日本語教師としてか生きていくことはできないし、日本に戻ったところで、韓国朝鮮文化を専攻していたら就職先も危うい。 韓国にのこっても、日本と比較したら賃金は安いが、それでも物価が日本より安いので、それなりの暮らしはできる。 しかし、いつも、日本人悪しの視線で生活していかないといけないことは、心苦しい。

いちばんいいたいのは、韓国人に英語を学び、米国などにいき、本当の朝鮮半島の歴史を学び真実を知ってほしい。 韓国語に訳されたものは、どれも「都合よくねつ造された文化」で真実は、韓国では誰も教えてくれない。

---

ここまでですが、前国連事務総長のバン・ギムン氏も、事務総長として活躍していた時と、韓国大統領選に立候補したときは、まるで異なり(のちに辞退しましたが)、世界の舞台で、世界の常識を百も承知のバン・キムン氏でさえ、韓国人の偏見には負けてしまったよい例かもしれません。

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日本国外務省も対抗して、次のアドレスで、日本語、英語、アラビア語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語韓国語、ロシア語、スペイン語でビデオを載せています。


http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nihonkai_k/index.html

下側に照会したのは韓国政府が「東海」が正しいとした韓国政府公式ビデオです。 日本語版は用意されていないので英語版を載せました。 (ビデオは英語版のほか、韓国語版、アラビア語版、中国語版、フランス語版、ドイツ語版、ロシア語版、スペイン語版)がありますが、日本語版はなぜか作成していないようです。

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また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえます。

しかし、ソ連と対決している東部戦線はソ連の全面的な対決姿勢により、不利な状況が続き、結果としてソ連の反撃とそれに呼応したアメリカのノルマンディー上陸作戦により、窮地に立たされます。

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日本の場合、戦線としては二つありました。
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・戦略的要所を抑えるための太平洋でのアメリカとの戦闘
です。

植民地に置いてある軍隊は本国に比べれば2流であり、日本陸軍の快進撃は「本国が近く補給などが受けやすいかどうか」で違いがでました。本国から遠い、各国の植民地の軍隊は日本軍に負け続け、本国からの補給も行き届いていなかったといえます。

アメリカはこれらにも援助していたわけですが、アジア大陸はアメリカ本土からも遠いこと、アジア大陸に行くには日本の哨戒網を突破することが必要だったために、アメリカと日本の戦いは主に太平洋での海洋戦になっていきます。

アメリカは「とにかく日本がもっている島々を攻略しないとダメだ」ということで、ミッドウエー海戦で有利になると日本の要衝である、パラオやガダルカナル島、グアム島やサイパン島などを攻略していきます。

アメリカが予想外だったのは、日本軍が全滅するまで戦いをやめなかったことでしょう。これにより日本本土攻撃がどんどん遅くなっていったわけです。

陸地の戦いは、一旦均衡が破れれば一気に本土に迫ることができます。ドイツは結局東部戦線も西部戦線も失い、両側から押しつぶされる形で敗戦に至ります。

その時、日本のほうは「まだ島嶼部を攻略中」であり、島嶼部はひとつづつつぶさないと、思わぬ反撃を受けることになります。ですからパラオなど南太平洋のアメリカ本土に近いところから丹念につぶして行って、サイパンを攻略したら本土爆撃をしつつ、沖縄・硫黄島そしてようやく日本本土に総攻撃ができるところまで行ったのが、ドイツ降伏の後だったわけです。

また、日本は最大兵力を動員できるソ連と中立状態でしたから、ソ連との戦いを考慮しないで戦争を進められました。ソ連はドイツ降伏後、アメリカの要請で対日戦線を開く予定でしたが、広いユーラシア大陸の西側から東側に兵員を移動するだけで半年かかり、それが結局日本の降伏を遅らせる原因にもなっていきます。

結局日本が最後まで本土決戦を避けられたのは「島国だったから」にほかなりません。島国の戦略の最大のものは「敵が本土に至る前に殲滅する」ということです。

ですから、日本は大戦前から太平洋上の各島嶼を戦略的拠点として整備し、アメリカはそれをひとつづつつぶさないと本土にたどり着けなかった、ということです。ただ、ソ連が最初から戦争に参加していれば、満州と朝鮮さらに日本海でも海戦が必要になり、日本海軍も二方面作戦を強いられて降伏の時期は早まったでしょう。

ということで、ドイツよりも長く戦争が出来たのは
・アメリカとの戦いは海戦が主体だったこと
・ソ連との開戦が終戦時までなかったこと
ということでしょう。

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ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

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