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映画【関ヶ原】では

徳川家康は悪

石田三成は善

そんな感じで 描かれてますが。

石田三成は義の人だったのでしょうか?

関ヶ原で裏切りが無くて 石田三成が勝っていたら どんな時代になったと思いますか??

A 回答 (3件)

石田三成は義の人だったのでしょうか?


   ↑
大義名分に限っていえば、三成の方に
説得力があった、ということです。



関ヶ原で裏切りが無くて 石田三成が勝っていたら
どんな時代になったと思いますか??
   ↑
戦国時代がまだ続いたでしょう。

三成は官僚に過ぎません。
家康のような大大名ではありません。
権力の基盤が弱すぎます。

平和の世は訪れなかったと思います。
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>石田三成が勝っていたら どんな時代になったと思いますか??



徳川家が300年もの安定した政権を築けたのは、徳川家康は三河武士団という徳川家を代々使える先鋭が存在したからです。
三河武士団とは、大名が出来る実力の者が、徳川家康に忠実を誓ったもので、会社に例えると独立して社長が出来る実力の者が支店長をやっているようなものです。

その実力者が、日本各地の行政を担当しました。三河武士団の面々は大名が出来る能力がある人たちなので、行政は安定します。しかも、謀反を起こそうなど微塵もありません。
そして、徳川家康の死後に内紛が起きないように、家康は日光東照宮に納められ、徳川家康を神格化する事で安定させました。



石田光成は、三河武士団のような実力があって謀反を起こしえないほど忠実な家臣を大勢持っていませんし、人材的に徳川家康より分が悪いですね。


ただ、応仁の乱以降、室町政権が安定しなく、実効支配が滞り各大名による自己回復が起こったのが戦国時代となりますが、その原因の一つに軽度な氷河期による慢性的な食糧不足が原因とされています。皆食べるものがないし、本来ならば室町幕府が対策をしなければなりませんが、その実力がないので皆が自己回復をしたと言う事です。

そして、その軽度の氷河期は、信長の時代から解消されていきます。その当時の国内事情も、「そろそろ止めない?」と言う空気が出来ていて、安定期を迎える機運はありました。

それと、戦国時代と聞くと、日本全国が戦国乱世のようなイメージでしょうが、実際に戦が起きていた地域は畿内とその一部周辺、四国の一部だけです。伊達政宗の登場以降、東北も紛争地域になりますが、日本の多くの地域は紛争の外にあります。

その紛争地域も、安定の兆しがもともとあったので、石田光成になっても安定政権が誕生した可能性はあります。
ただ、徳川家ほどうまく行くかは、人材を見る限り甚だ疑問です。


石田光成の代で安定させれるかは分かりませんが、各大名が自己回復が横行した根本原因の食糧不足が解消される時代ですし、元々当時から安定の機運はありましたので、また応仁の乱からやり直しみたいな事にはならず早かれ遅かれ安定はするとは思います。ただ、徳川政権よりもその時期は遅く来るとは思います。
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この回答へのお礼

参勤交代や江戸 文化 を作りましたから 徳川家康で 良かったかもしれないです。

お礼日時:2017/09/11 04:12

石田三成が勝った場合はその後の世の中が相変わらず不安定な状況が続いただけだと


思います。

彼は単純に豊臣家の体制が大事であって、世の中を平和に安定するにはどうすれば
良いか、といったビジョンが全くありません。

関ヶ原で勝ったとしても単に徳川家を排除することはできても、東軍に加担した大勢の
戦国大名はほとんどが豊臣恩顧の大名であり、彼らは東軍側といっても豊臣家の家臣と
して関ヶ原の戦いに参加しているので、処分する大義名分がありません。

東軍側の大名たちの処分によっては結局は大きな火種を抱えたことに成りかねません。
また、石田三成はご存知のように人徳がありません。
ただでさえ石田三成は周りから嫌われているのに、関ヶ原で勝ったことでさらに権力を
持つようなことになれば、結局は周りから命を狙われるようなことになるかと思います。
また、三成は豊臣秀頼や淀君の勝手気ままな行動を抑えることもできないでしょうから
豊臣家と諸大名たちとの板挟みということにもなるでしょう。

石田三成は単に豊臣家体制を大事にする優秀な官僚に過ぎません。
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この回答へのお礼

ですね。
豊臣の流れを 絶やさない歴史ですから 負けて良かったかも。

お礼日時:2017/09/11 04:10

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