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個人的には釈迦やキリストの思想は
実は全く同じであって
異なる思想だと思われているのは
実は世界中の人が勘違いをしてる
だけだと思うんですが、どー
思いますか?

A 回答 (9件)

世界の宗教を調べてみました。

信者数の多い順位を見ると....

❶キリスト教 ❷イスラム教 ❸ヒンドゥー教 ❹仏教    ❺シーク教 
❻ユダヤ教  ❼儒教    ❽バハーイ教  ❾ジャイナ教 ❿道教 
⓫神道

質問者の方が仰ってるのは、仏教(開祖:釈迦)だと思いますが、これと
キリスト教の思想が同じなんですか?

聖書(Bible)を元にしているのが、ユダヤ教+キリスト教+イスラム教ですね。
なので、団子3兄弟と考えるのが妥当だと思います。

どの宗教も「人間の幸福」を願っての事ですから立上りは一緒なんでしょうね?
ですが、個々には全く違うと考えた方が、良いと思います。

❶~⓫の中で「宗派」が無いのは、1うも存在しません。全て分離しています。
世界の宗教には、各々の宗派が数十種類以上有ります。

◆ 貴方の仰る仏教の中でも全くと言っていいほど違う解釈です。
  釈迦の考え方を違った形で継承していると言う事になります。

◆ キリストの聖書を元に考えても3つに分離し、そこには、数十という宗派が
  ありますから、貴方の理論的な考え方は、間違っていませんか?

要するに、各宗教の元祖は、後継者によって解釈が違う。また、同じと考えない
思想が有る。
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全く違います



神は一つ 誰もなれない
仏(釈迦)は 誰でもなれる

キリスト  神から与えられた運命・・自分の外
仏教    因果応報で自分で決める・・自分の中

キリスト 生命は今世限り
仏教   生命は何度でも生まれ変わる

これだけを見ても 天地程の違いがあります


でも 似ている所あります 

参考を
仏教とキリスト教
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm
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同じではない。キリストにを絶対の神として祈ります。釈迦は法華経を説きましたが、我々にそなわってる生命をといています。何かにすがる祈

りと、我々に具わっている最高の力を出す祈りには根本的に違います。
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「個人的には釈迦やキリストの思想は実は全く同じであって」


⇒その通りですよ。

それは儒教でも、イスラム教でも全部同じです。
人間が生きていくための基本的な教えですからね。

宗教同士、宗教内の分裂などは、ほとんどは権力争いなのです。
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「釈迦の思想」「キリスト(イエス)の思想」を、それぞれどのようなものと考えているのでしょうか。

また、「両者は全く同じ」と判断した根拠はなんですか。
似ているところさえ少ないと私は思います。
私は「釈迦の思想」は、例えば、次のような(限らない)本を参考に調べることができると思っています。
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%83%E3%8 …
「キリスト(イエス)の思想」というのはやっかいですが、新約聖書から探ることになると思っています。
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釈迦とキリストは全くの別人、釈迦は悟りを開いた才能ある人、イエスキリストは悟りは解いてはいない、人間たちが神を知らないため、イエスキリスト御自身が生ける神の子として神そのものを表された、人はパンのみで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである、人は食べ物を食べ御言の糧も食べなさい、ただ御言葉の糧を食べるだけ、この日本では御言葉の糧を食べる人はほとんどいない。

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>個人的には釈迦やキリストの思想は実は全く同じであって


これは宗教学における「宗教多元主義」のような考え方だと思います。
いろいろな宗教の本質は同じであって各宗教の違いは表現の違いであると。
これは日本語では「万教同源」とか「万教帰一」とか言ったりします。
新興宗教でもキリスト教と仏教を混ぜたような教えの所もありますね。
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一番上の神様が、世の中を良くしようと世に送られたのが、イエス様とお釈迦様だと聞いた事がありますよ。

なので、思いは同じなんだと思います。
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詳しくないけど、西洋人と東洋人に馴染みやすいような表現に変えたのかな?



わたしも気になります。
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Q他人の悩み

みんな他人の悩みなんてどうでもいいんですかね?ほんとは。

Aベストアンサー

善意はあるけれども
事情をしっかり把握しないと
いい加減なことしか言えないから
という面はあると思います。

一般論では語れるが
具体的な個々の事例には慎重にならざるを得ない
みたいな。

その一般論が普遍的であれば
個々の具体例の改善に通じる
何らかのきっかけになるもの
だとは思っています。

Q宗教を信仰している人は本気で死後があると信じているんですか?

この時期の墓参り?とかも、別に仏教徒?ではないので自分からいったことない(もう20年くらいは行ってない)程度の無信仰です。

1.宗教を信仰してる人はですね、天国だとか地獄だとか、そんなことの前提として、まずは死後の自意識が継続することありきなんですか?

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Aベストアンサー

#8です。お礼を読みました。
>死後の世界を信ずる人たちは、その前提として死後の自意識の継続が「暗黙的」に(宗教によっては明示的に)信じておられるのかどうか、ぜひお気持ちを教えてください。

死後の世界を信じるとき<死後の自意識の継続>は前提としてあります。
これは当たり前すぎてここに疑問を持つ人がいるとは思わなかったです。

キリスト教で死後に自意識がいつ目覚めるかは様々な考え方がありますが、
死後の自意識の継続は自明なこととして取り扱われてると思います。

キリスト教徒ですが天国とか地獄とかを具体的に考えることはないですね。
天国や地獄は単なる教義でしかなく死後の世界は神しか知りえないでしょう。
ただ、死後の世界がどういう形態であろうと自意識の継続だけはあると思います。

Q価値

哲学の初歩の初歩的質問をさせていただきます。

「より価値的でありたい」とは私の人生訓のようなものです。
主観的には、これをよく理解しているつもりですが、世間を見ますと
価値観は多様化しておりまして、捉えどころが無いように感じます。

「価値」というものを、できるだけ普遍的に捉えたいと思っています。

1.「価値」とは哲学的にはどのような定義になるのでしょうか?

2.カント哲学的に「真」とはどんな価値なのでしょうか?

3.カント哲学的に「善」は何故価値と言えるのでしょうか?

4.カント哲学的に「美」は何故価値と言えるのでしょうか?

5.現代哲学においてはカントなどに比べ、どのような変化があるのでしょうか?

その他何でも結構ですので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

カントの価値観に対し
牧口は価値を 美・利・善と説きました
真実は価値の基準には値しないと云う事です。
嘘と真実・誤りと正・・・
対比すればおのずと解りますが、
世の中、自然界など全てが真実では無いのです。

人それぞれ判断基準が違います。
例えば子供に「子供はどうして生まれるの?」と聞かれて、
真実を教える大人は居ません。子供には真実「事実」が
価値が無い事になります。つまり、普遍性が無いのです。

利は利益・利潤の事です。人間は本能的にも利益を求めます。
生活・仕事等あらゆる分野に得を求めます。
損を求める人は居ないでしょう。
どんなに努力を重ねても損する事ばかり
多くて不幸の方向へ向いてしまうのは反価値になります。
利益を求め追求するのは普遍性が有るのです。

「牧口常三郎」は仏法の哲学に、「美・利・善」を見いだします。
カント・・・真<善<美ですよ。美が最も価値が有ると説きました。
牧口・・・美<利<善です。善の行い・行動こそもっとも価値が有る
と説きました








ここからは余談


 人生いかに生きるべきか。どう生きることが、いちばん価値があるのか。
ずいぶん考えた

最高の価値は 幸福しかない
その条件は
第1に「充実」、
第2に「深き哲学をもつ」こと、
第3に「信念をもつ」こと、
第4に「朗らか」に生き生きと生きること、
第5に「勇気」、
第6に「包容力」です

 日本の著名な作家の言葉に
「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)
とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのは苦しきことのみである──と。
人生も事実、そのとおりかもしれない。

 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて
、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、
その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
 どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。
どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。
愛別離苦は避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。
美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。

 いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。
これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。

 結論的にいえば、「幸福は自分自身をどう確立するか」という問題である
立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。
揺るぎない「絶対的幸福」ではない。

どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、
苦しみを感じていれば、不幸である。
 最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。
皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、
仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。

 幸福は“見かけ”のなかにはない。“見栄”のなかにはない。
自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
それを前提に申し上げれば、
幸福の第1条件は、「充実」であろう。
「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」──毎日が、
そのように感じられる人は、幸福である。
多忙であっても充実感がある人のほうが、暇でむなしさを感じている人より、幸福である。

幸せそうに見えても、朝から憂うつな気分で1日をスタートする人もいる。
朝、奥さんに叱られ「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と、
ふさぎこんで1日を出発する──これでは不幸である。充実はない。

だれよりも立派に仕事し、生活を勝利しきって、
あまった時間を「人のため」「社会のため」に使っているのは幸福である

“根性曲がり”の人間が多い現在にあって、苦労しながら、
ただ相手の幸福のために、足を運び、語り、心をくだき、面倒をみる
まさに菩薩であり、これほど偉大な「哲学ある人生」はない。
最高の哲学を実践している事になる
それだけの価値ある哲学をもったということ──
それ自体が幸福である。幸福の第2の条件は、「深き哲学をもつ」ことである。

第3に、「信念をもつ」ことである。何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
これは世界的傾向である。このままでは、人類は混乱と退廃に向かう以外にない。

“日本国の支配者の地位をゆずろう”というような誘惑、
“父母の頸をはねるぞ”というような脅迫にも紛動されない
何があろうと、厳然と「信念」を貫く そういう「信念」のある人が、必ず幸福になる。

 第4に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。
「いつも文句」「いつもグチ」──それでは自分も周囲も不幸である。
いつも前向きに、はつらつと生きている。
人にも「あの人と会うと元気が出る」「気持ちが明るくなる」
と言われる朗らかさがある。その人は幸福である。皆にも希望をあたえる。

いつ会っても、つまらなそうな顔をして、喜びも感激もない。それでは、人生は暗い。
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子どもの成績が悪くても「将来、だんだんよくなる前兆だ」
たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、よい方向に、とらえていく。
その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。
 
すべてを善意で受けとめるといっても、愚かな、お人よしになるという意味ではない。
現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、
実際にその方向にもっていくという「賢明さ」のことである。
そういう「人格」を築き上げれば、いかなる財産よりもすばらしい人生の宝になる。
 
第5の条件は、「勇気」である。
勇気のある人は、何でも乗りきっていける。
勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。
 
第6の条件は、「包容力」である。包容力のある人は、皆に安心感をあたえる。
 小さなことで人を責めたり、いちいち騒ぎ立てたり、
そういう心の狭い人は、皆を疲れさせるし、怖がらせる。

 リーダーは、怖がらせてはいけない。疲れさせてはならない。
あたたかく、皆が安心して親しめる包容力がなければならない。
大海のごとく広々とした心をもつ人は、自分も幸福である。周囲も幸福である。

カントの価値観に対し
牧口は価値を 美・利・善と説きました
真実は価値の基準には値しないと云う事です。
嘘と真実・誤りと正・・・
対比すればおのずと解りますが、
世の中、自然界など全てが真実では無いのです。

人それぞれ判断基準が違います。
例えば子供に「子供はどうして生まれるの?」と聞かれて、
真実を教える大人は居ません。子供には真実「事実」が
価値が無い事になります。つまり、普遍性が無いのです。

利は利益・利潤の事です。人間は本能的にも利益を求めます。
生活・仕事等あらゆる分野に...続きを読む

Q行動が性格を形成する

普段回答ばっかりしてると人は、どうやら自分が優位の立場にあると思う思考が無意識で行われて、

だんだん質問者の立場を関心が行きにくくなるようですね。

「はりきってものをいうというのは相手の神経をまるで問題にしていない証拠である」
「否定する時だけヴァイタリティが高まる人や、否定をする癖がある人はうぬぼれている」という事を聞いたことがあります。

相手の立場に注意を払っている人特有、賢いオーラ、賢い思考の出来るユーモアのある回答者になる行動はどのようなものがあると思いますか。

例えば回答しようと思ってもすぐに回答せず、次の。

Aベストアンサー

「はりきってものをいうというのは相手の神経をまるで問題にしていない証拠である」

企業の顧客対応部門の方は、多くの場合、明確に切り分けて応対するように努めているように思います。 多くの場合、丁寧でわかりやすいコミュニケーションになるように努めています。 気のない応対をするような方は、多くの場合担当から外されてしまいます。 質問したり、問い合わせたり、問題をなんとか解決したいと思っている人からすると、"張り切らない・ピンとしてない・緊張感のない・前向きの姿勢が感じられない担当"は、いやなもので、担当が変わってくれると良いなと思ったりするものです。 担当者が張り切りすぎて思い込みが強く、話が噛み合わないようになるのも困ってしまいますが、どちらが良いと言われれば、気のない・張り切らない担当はイヤで、まだ張り切っている担当の方がいいです。

役所の相談窓口でも、病院の医師でも、最初の印象が"張り切ってない"のは、私は、相談しにくいです。

> はりきる→無神経になり思考が愚かになる
> はりきらない→他人についても自ずと関心が行き、考えが洗練される

そのようには思えないし、《張り切らない=やる気がない・関心も意欲もない》という傾向が強いと思います。 《張り切る=やる気一杯、過信思い込み見逃しは起きるかもしれないが、関心を強くもって、懸命に頭と体を使ってくれそう》という気がします。

> 普段回答ばっかりしてると人は、どうやら自分が優位の立場にあると思う思考が無意識で行われて、だんだん質問者の立場を関心が行きにくくなるようですね。

そういう傾向はあるかもしれません。 医者でも、相談員や学校・塾の先生でも、回答をするというのは《知らない人、わかってない人、困っている人に、教える、救う、直す、助ける》ということになるわけで、質問サイトでも似たようなものですから、知識経験は上回っている、経穴能力が高いということをベースにして繰り返し行動、発言、記述していれば、《自分が優位の立場にあると思う思考が無意識に働く》というのは自然な流れでしょう。 また、回数を重ねると、だいたいはステレオタイプに処理するようになりますから、個々の質問者の詳細な状況など関心が薄れて、「それって、こうすれば良いのです」という思考や発言が即発的に条件反射のように出てしまうというのもありがちなことです。

「はりきってものをいうというのは相手の神経をまるで問題にしていない証拠である」

企業の顧客対応部門の方は、多くの場合、明確に切り分けて応対するように努めているように思います。 多くの場合、丁寧でわかりやすいコミュニケーションになるように努めています。 気のない応対をするような方は、多くの場合担当から外されてしまいます。 質問したり、問い合わせたり、問題をなんとか解決したいと思っている人からすると、"張り切らない・ピンとしてない・緊張感のない・前向きの姿勢が感じられない担当"...続きを読む

Q死後は無と考えている人に質問です ひとに死後 魂 心は存在しないと証明できますか?

死後は無と考えている人に質問です
ひとに死後 魂 心は存在しないと証明できますか?

Aベストアンサー

(No13,16の誤字訂正です)

No.13です。

お礼ありがとうございます。

脳神経学者が輝かしい業績といっているのは、意識の性質と脳神経の関係であって、
意識の存在に関しててではありません。特に、脳神経の状態が、どう意識に影響するかという方向だけ取り上げて言っているだけでしょう。

近年の研究成果を見ると、逆に、意識のありかたが、脳の形まで変形せさるという、めざましい研究もありますけどね、、。こういう逆方向の研究業績は、無視するんでしょうね、そういう脳神経学者は。

世界観という反証不能なものに、科学でいどめるというのは、そのような認知の歪みのもとでしか行なわれないでしょう。

(削除機能か編集機能がなく、タイプの苦手な自分にはお手上げ状態です、、どうもすみません)

Q哲学では、何が正解なのですか? どうやって、正解を求めるのですか? そもそも、正解はないのですか?

自然科学では、言い分が対立した場合、“実験をやろう”、“予測をしよう”、“論理の精密な積み上げをやろう”ということになり、正解が独りでに決まってしまいます。
哲学では、何が正解なのか分りません。各人が、勝手に言っていうだけ、と感じます。
百家繚乱とは言えず、百家争鳴のような気がします。

以下質問です。
哲学では、何が正解なのですか?
どうやって、正解を求めるのですか?
声が大きい(多い)方が正解なのですか?
そもそも、正解はないのですか?

Aベストアンサー

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
 体をなしていない。
 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報
 告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築
 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
 びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべき
 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
 り、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進める
 べきです。
 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Q先天的総合判断は可能か、、、その事例の是非について。

カントの本は難しすぎて読んでも理解できないので、岩崎武雄先生が日本語で書いた「カント」という解説本を読んでいます。

カントの純粋理性批判は、先天的総合判断が可能かどうかを吟味しているが、これがその中心テーマだそうです。

その記述の中に、総合的判断の事例として「7+5が12である」というものが載っていましたが、これに関して疑問に思うので質問します。

質問1:私たちが、四則演算、とくに加法の法則が成立する公理系を選択している以上、7+5が12になることは、一般(すなわち加法の法則が成立)における特殊(7+5は加法の一例)を挙げただけですから、分析的判断になるのではないでしょうか?

質問2:別のソースには「三角形の内角の和が二直角である」という例も見られるようですが、これもリーマン幾何学の中から、あえて意図的に曲率がゼロの空間を選んだから内角の和が180度になるわけであって、一般のもとに特殊の例を包摂するにすぎず、やはり分析的判断ではないでしょうか?

質問3:数学的な事例以外で、「なるほど、、、」と納得できる分析判断の事例をご存知でしたら、ご教示ください。

蛇足ではございますが、岩崎先生の解説本を読んでいると、カントの目指した認識論的主観主義は破綻しているのではないかと思えてきたところです。
これに関して、ご意見、ご主張のある方は、上記の質問の回答に加えて、お考えをご教授ください。

どうぞよろしくお願いします。

合掌

カントの本は難しすぎて読んでも理解できないので、岩崎武雄先生が日本語で書いた「カント」という解説本を読んでいます。

カントの純粋理性批判は、先天的総合判断が可能かどうかを吟味しているが、これがその中心テーマだそうです。

その記述の中に、総合的判断の事例として「7+5が12である」というものが載っていましたが、これに関して疑問に思うので質問します。

質問1:私たちが、四則演算、とくに加法の法則が成立する公理系を選択している以上、7+5が12になることは、一般(すなわち加...続きを読む

Aベストアンサー

質問文に書かれている「総合的判断」は、「先天的総合判断」の事なんでしょうか?
まずは、「総合的判断」かどうかを吟味しましょう。
カントの定義では、「総合的判断」とは、主語に述語の概念を含んでいない場合です。
質問1.主語は、7+5であり、述語は12です。
述語である12が7+5に含まれているかが問題になります。
ここで、この判断が、分析的判断だとすると、7+5に12が含まれていなければいけません。
一見したところ、7+5に12は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えます。
質問2.主語は、三角形の内角の和、述語は180°です。
三角形の内角の和に180°は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えます。
質問3.分析判断の例はいくらでも考えられます。
例.死者は生者では無い。
例.独身者は、未婚である。
主語の概念が、主語とは別の言葉で表現できる場合は、それを結合すれば、分析判断となります。
ここで、質問1と質問2は、総合的判断と言えますが、それが先天的かどうかは、さらに吟味しなければいけません。
カントの時代は別としては、現代の数学においては、公理の真・偽は判断されません。
つまり、公理は先天的では無いわけです。(ユークリッド幾何学においては、公理は先天的もしくは、常識的に正しいと判断されるものとされていましたが、現代ではそのような解釈では無く、あくまで公理が成り立つ場合の形式的操作と考えられています)
したがって、現代においては、質問1.質問2の例は、総合的判断ではあるが、先天的総合判断ではありません。

質問文に書かれている「総合的判断」は、「先天的総合判断」の事なんでしょうか?
まずは、「総合的判断」かどうかを吟味しましょう。
カントの定義では、「総合的判断」とは、主語に述語の概念を含んでいない場合です。
質問1.主語は、7+5であり、述語は12です。
述語である12が7+5に含まれているかが問題になります。
ここで、この判断が、分析的判断だとすると、7+5に12が含まれていなければいけません。
一見したところ、7+5に12は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えま...続きを読む

Q最近、独身者が増加していますが、結婚せずにいることが可能になったから、でしょうか?

ある本を読んでいたら、次の文章に出会いました。
<日本人が今まで懸命に築き上げてきた平和と繁栄の“おつり”によって独身者は結婚せずにいることが可能なったかもしれません>

最近、独身者が増加していますが、その理由は何でしょうか?
1、引用したように、結婚せずにいることが可能になったから、でしょうか?
2、逆に、社会の状況において、結婚しずらくなったから、でしょうか?
3、社会に関係なく、独身の方が、家庭に縛られず生活(人生)を興ができるから、でしょうか?
4、その他
識者は、どのように分析されていますか?

Aベストアンサー

理由は一つではありません。

こういうのは、社会学者が専門的に調査して
おりまして、次のような原因が挙げられています。

その中で、最も基本的なのは、結婚せねばならぬ、
という規範が崩れてきたからだ、としています。


1,必要性の減少
・女性の社会進出が進み、結婚しなくても生活
 出来るようになった。
 元来、女性は、自分よりも高収入、高学歴の男との
 婚姻を望む傾向があるが、女性の高収入化、高学歴化
 により、対象となる男が制限される結果となった。
・男の方も、家事の家電化、コンビニ、風俗などが整備され、
 あえて結婚する必要性が減少した。

2,価値観の変化
・結婚するのが当然という価値観が崩れた。
・かつては見合いが主流だったが、現代では
 恋愛結婚が原則となったため、恋愛難民が
 出現した。

3,経済の停滞
・非正規社員が増え、妻子を養うことが難しく
 なった。

Q宗教を信仰する人たちに対して興味があります。

1.宗教そのものには興味がありません。
※前提条件として、知識として必要なことは承知しております(まったくの無知ですが)

2。「宗教を信仰する人」に対して興味があります。

この条件で今のカテゴリで質問をした結果、どうにも批判的な質問に受け取られるようです。

「宗教の素晴らしさ」には興味がありません。
「宗教の役割」やその他、宗教が与えた人類的な事柄にも興味がありません。
「現在の宗教の問題」や、本来どうあるべきかも興味がありません。

興味があるのは飽くまで「宗教を信仰する人」に対してです。

どのカテゴリで質問するのがベストでしょうか。
どうにもこのカテゴリだと、質問の仕方の下手さもあり、誤解を受けることが多い気がします。

Aベストアンサー

気持ち的に答えるなら、大好きだからですかね?親戚の中でいつも頭撫でて大歓迎してくれる大好きなおじさま、みたいな感じで世界中が私を非難しても絶対責めないでくれる味方だと信じているから好きですね。感覚です。でも、確かなやつ。私も最初は人に興味がありました。海外に何カ国か住み、やたら優しく、考察が深く、的を得た答えをくれる人が多く、何が違うの?何を知ってるの?秘密は何?なんでそんなに優しいの?を探って後ろにイエス様が居た感じです。愛する天の父よ、と祈る神の子イエスの人柄は聖書を読んで知り、イエス様のようになりたい、と生きる人達に触れてトップが凄い、優しい、愛だ!だからそこを慕う人もなんか違うんだ、こうなりたい、こう生きられたら、みたいな強い憧れとか、神に愛されてるから私は私でいいんだ、とか、感じるところが凄くあって。なぜ神道じゃないのか、仏教じゃないのか、イスラム教じゃないのか、といわれたら大変長くなるので割愛しますが、神の霊感で書かれた聖書が2回通読して本物だ、と思うからです。毎回聖書が、みことばが私に伝えたい神の意志を語りかけてくるから、とか言うと危ない人、とか見られるしゴチャゴチャ必死に反論して科学的証拠が、とか精神科受診をお勧めします、とかいう無神論者とかがいるから普段は胸にヒッソリ熱く隠してます。何かの一助になれば幸いです。

気持ち的に答えるなら、大好きだからですかね?親戚の中でいつも頭撫でて大歓迎してくれる大好きなおじさま、みたいな感じで世界中が私を非難しても絶対責めないでくれる味方だと信じているから好きですね。感覚です。でも、確かなやつ。私も最初は人に興味がありました。海外に何カ国か住み、やたら優しく、考察が深く、的を得た答えをくれる人が多く、何が違うの?何を知ってるの?秘密は何?なんでそんなに優しいの?を探って後ろにイエス様が居た感じです。愛する天の父よ、と祈る神の子イエスの人柄は聖書を...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む


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