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紀伊山地に水源を持つのは紀ノ川という文の水源を持つの意味がわからないので教えてください

A 回答 (2件)

紀ノ川の始まりの事です。


大げさに言えば最初の1滴と言いますか・・・。
その1滴は紀伊山地にあるということかと。
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”紀ノ川”の水源が紀伊山地、という文章なのでしょうが、紀伊山地に水源をもつ川がぜんぶ紀ノ川という意味ではありません。


あるいは吉野川とも呼ばれるので、吉野川がなぜ紀ノ川とも呼ばれているのか、という説明でしょうか。
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Aベストアンサー

葬儀の祭壇を飾る花として、菊が多く使われる理由は以下のように諸説あります。 ただし、いずれの説も菊を肯定的にみているもので、決して死人に送る不吉な花と言うことではありません。 また、以下のサイトも参照ください。 菊が決して縁起の悪い花なんかではないことが理解できると思います。 

http://blumeleben.com/faq/g1.htm

・菊の花の香りが、お香に似ているという説。

・皇室の紋章が菊なので、格調高いとする説。

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Aベストアンサー

はじめまして

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日本海軍 三菱 A6M2 零式艦上戦闘機21型戦闘爆撃機仕様・神風特別攻撃隊
(終わり近くにその記述があります)
http://buton.sakura.ne.jp/021miyabe.html

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Aベストアンサー

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ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
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また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
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Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
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なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
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Q浅井長政って信長さえ裏切らなければ大大名確実だったのではないですか?

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀吉の父というだけでほとんどの大名がひれ伏すような存在になったはずです。五大老の一員くらいは堅いでしょう。
関ヶ原の戦いでどちらにつくかで大きく変わってきますが(領地が近いので、争いに巻き込まれる可能性が高い)、それさえ乗り切れば江戸時代まで続く、伊達家・島津家・毛利家と並ぶ大大名になれたのではないでしょうか。
姉川の戦いに入る前に長政は相当悩んだでしょうが(昔の繋がりに味方するか妻の実家に味方するか)、その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀...続きを読む

Aベストアンサー

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、長政の事ですか。
姉川の戦いで敗れてからも、長政も浅井軍も健在です。

姉川の戦いは、実はただの局地戦です。
姉川の戦いは教科書では強調されて載っていますがそれほど戦況には影響していません。おそらく、徳川家が大活躍した戦いなので江戸時代にプロパガンダのように強調されて今にもその影響が続いているのでしょう。

姉川の戦い以降も、朝倉・浅井軍は健在です。それに加えて石山本願寺や三好三人衆などの第一次織田包囲網まで発展して、信長軍は東を守れば西が攻められ、西を守るために軍を動かせば東が攻められ、見たいな状態でどうにもならなくなります。

最終的には信長の巧みな外交力で講和に持ち込みますが、「講和に持ち込まなければヤバイ」と言うほどピンチだったと言う事です。
そうでないなら、圧倒的な軍勢で踏み潰せばよいだけなので。



長政や浅井一族が自害するのは、第二次織田包囲網で武田信玄が急死して戦況が一気にひっくり返って織田勢力が一気に優勢になり、小谷城を囲み本丸を落とした後です。

もしも武田信玄が後一年寿命が長ければ、織田家は滅んでいたでしょう。
勿論、その場合は浅井家は「朝倉についていて良かった」となります。



>上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり

信長が「天下は時間の問題」となったのは第三次織田包囲網で上杉謙信が死んでから信長が死ぬまでの三年三ヶ月だけです。
それまでは、薄氷の勝利を重ねています。全く余裕のない戦いを続けています。





>その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

分かれ道は、織田信長を裏切るかどうかです。
浅井にとっては、その後はターニングポイントはありません。

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、...続きを読む

Q江戸時代の小藩に関して質問です。

江戸時代には、最も大きな加賀藩でおよそ100万石、他にも九州の島津氏や東北の上杉氏、伊達氏なども大藩でしたが、殆どは5万石以下の小藩であったと聞きます。質問なのですが、江戸のヤクザなどが極端な話1万石くらいの藩と衝突を起こした場合、1万石の小藩はそうした動きを潰せるのでしょうか?1万石くらいだと藩士は100人くらいだそうですが、流石に1万石の藩でも敗れないですか?

Aベストアンサー

仮定の話であれば、小藩より大侠客の方が、動員力はあったと思いますよ。

たとえば、幕末の江戸の火消しで大侠客でもあった新門辰五郎は、数百名の子分を引き連れて上洛し、京都で将軍 徳川慶喜の警護をしたことなどが有名です。
この様子は、間違いなく小藩の大名の参勤交代より豪華だったでしょうし、腕っ節も立つ連中が揃ってただろうから、小藩くらいなら撃破できたんじゃないでしょうか?

ただ、このエピソードからも判る通り、大侠客であればあるほど、為政者などとの繋がりもあって、言わば準公務員みたいな立場でもあったワケです。
新門辰五郎に限らず、幕末の大侠客や大親分(清水次郎長とか)は、軒並み幕府や諸藩の要請や、あるいは自発的に、旧幕府側や新政府側に、何らか協力しています。

そもそも小藩に、辰五郎や次郎長の様な大勢力が生じることもないだろうし・・。

従い、仮定の話であれば、大侠客は小藩に勝っても不思議ではないですが、実際には、衝突する可能性が、ほぼ皆無と思われます。

Q北海道函館は、かなり昔は、箱館と書いたそうですが、今の函館になった事の、歴史を、教えて下さい。

北海道函館は、かなり昔は、箱館と書いたそうですが、今の函館になった事の、歴史を、教えて下さい。

Aベストアンサー

明治元年に佐幕派の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が、箱館府の五稜郭を占拠し、明治二年に箱館政権を樹立し、箱館戦争が起こり、日本政府から分離独立というところまでいきました。既に他の方が書かれているよう に、箱館が函館に改称されたのは、この戦争の直後です。
「箱」という字義に、蓋と本体を分離する構造という意味があるため、あわや日本から分離するかというところまでいった土地の地名に、この「箱」という漢字をそのまま使うのは縁起が悪いと当時の明治政府関係者は思ったこと でしょう。ですから、これを機に、蓋と本体が分離するという意味の「箱」を、 蓋と本体がくっ付いているという意味の「函」に変えたと考えられるのです。

また、正式なものとしては、それまで併用されてはいたが、明治4年(1871年)には「函館出張開拓使庁」という名称になっており、それ以降「函館」が用いられるようになってますね。

参考まで。
https://pucchi.net/hokkaido/history/hakodatename.php

Q義経を殺すように命令したのは誰?

義経を殺すように命令したのは誰なのでしょうか?

義経が官位をもらい、それに納得しない頼朝が殺すように命令を出したのでしょうか?

Aベストアンサー

兄の源頼朝

Q本百姓体制を維持する理由

質問させていただきます。
江戸時代において徳川幕府は田畑勝手作りの禁や田畑永代売買禁止令を出して本百姓体制を維持しようとしました(最終的に享保の改革で質流し禁令を撤回したことで本百姓体制を諦めた、と評価されています)。
また佐賀藩の鍋島直正も均田制を実施して本百姓体制を維持しようとしました。

なぜ幕府や藩は本百姓体制を維持しようとしたのでしょうか。年貢収入だけならば本百姓からの納入でも寄生地主からの納入でも同じに思えます。

また明治政府は本百姓体制をあっさり放棄して土地売買を完全に自由化しました。

なぜ幕藩体制は本百姓体制を必要として、明治政府は本百姓体制を必要としなかったのでしょうか。

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

身分制度を維持しようとしたのでは
ないですか。

農地売買を自由にしたら、百姓が他の仕事を
するようになります。

人口の大部分を占める百姓が自由に職を変え
場所を変えなどしたら、身分制度が維持できなく
なります。

その先は武士支配の終焉です。

明治政府は、もはや身分制度は必要ない、弊害ですら
ある、ということで廃止しましたので
本百姓制度にこだわる必要はなかった、のだと
思います。


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