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日本史のプリントで[南北朝合一 南朝・後亀山天皇→北朝・後小松天皇]というのが書いてあるのですが、後亀山天皇が後小松天皇に勝ったのですか?

A 回答 (1件)

南北朝時代というのは、その前の鎌倉時代から既に天皇家が、大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)と分裂してました。


両統が交互に天皇を出すことで妥協が成立していました。
後醍醐天皇が政権を取った後、武士などの不満から再度権力闘争が日本全国で起こってしまった。

その過程で、南朝は三種の神器を保持していて、北朝側はそれが無かったため正当性が薄かった。
しかし、その後の争乱で、勢力的には足利将軍が擁している北朝の優位は、もう動かしようがなかった。
北朝側は三種の神器を奪還する必要が有った。
で、足利将軍義満は、自陣営の北朝を無視して南朝と交渉して南北朝合一を行った。

合一の交渉に対して蚊帳の外だったという意味では、
>後亀山天皇が後小松天皇に勝った
と言えるかもしれない。
合一の条件として、鎌倉時代から分裂していた天皇家の大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)とを再び交互に天皇に擁立する等の案を、
北朝を無視して、南朝と足利将軍家が勝手に決めてしまい、北朝は大激怒…当たり前ですね。

しかし、後小松天皇は次の天皇を持明院統(南朝)に譲らず大覚寺統(北朝)を指名し、それ以降今の天皇家に繋がっています。
交渉する部分では北朝の後小松天皇は無視されて負けたと言えるのですが、最終的な権威(権力は武士かな?)の部分では勝利した。

それ以降、納得のいかない南朝側は後南朝を作り対抗したが、もうどうにもならず歴史から消え去りました。
しかし、太平洋戦争敗戦後、連合軍の影響で天皇家が揺らぐと、その後南朝の末裔が出てくるなどハプニングもあります。
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