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株取引の歴史を教えてください。

A 回答 (1件)

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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q命懸けの決闘をやるメリットは何ですか?

剣道の試合みたいに防具を着て竹刀で打ち合うならスポーツです。
宮本武蔵が高条件で自分を雇ってくれる王様にアピールするために決闘相手を募るのも分かります。
それ以外です。
相手とあらかじめ打ち合わせして奇跡的な名勝負をやって周囲から賞賛を得ようとするのでなく、勝利したらお金をもらえる状況でもなくて、戦争中でもない、
武器を使わない事を約束した上の殴り合いだったり、ギブアップしたら即座に絶対強者が止めてくれるわけではない、
ギブするときにはもう決定的な重症で助からない可能性も高い刀や剣や銃を使う決闘です。
挑んだり受けるメリットは何ですか?
受けた直後に冷静になって、やっぱりこっちが悪いです負けでいいです御免なさいの実例は歴史上に少ないのでしょうか?

Aベストアンサー

決闘と言うのは、両者が話し合いでは解決できない問題の最終解決方法が決闘です。

「力が強い者は何でも正義と言う倫理」と、「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」との違いは、「力が強い者は何でも正義と言う倫理」は、ルール無用。勝てば何をやってもよいと言う方法で行われ、その組織が存在する限り永遠に紛争は終わりません。どちらかが滅ぶまで続きます。


「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」は、両者が争っている争点の最終解決方法として、両者が合意したルール(その文化圏で慣習的に認められた仁義が基準となる場合が多い。例え「命を掛けた決闘」でも飛び道具や投げナイフは駄目とか。)で決闘を行います。その決闘の後は、その問題解決を行う権利は勝者にあると言うのが決まっただけで、人としての勝敗が決まったわけではなく、その後はこの問題は過去のモノとし、建設的な未来志向で互いの関係を構築する(命を掛けた決闘でも、決闘によって死なれた人の仲間がその報復を行う事は野蛮とする)。

このような目的でやられるのが決闘です。



その合意内容は、その地域の文化的、歴史的な慣習で養われる事が大半です。


「命を懸ける決闘のメリット」ですが、決闘とは個人の問題なので、その状況によりますので漠然とした答えになりますが、「命を懸ける決闘のメリット」は、話し合いでは解決できない、どちらかが死ぬしか問題解決が無い。しかもその殺し方は闇討ち、暗殺などでは駄目で、正々堂々と決闘による勝負が必要である。そのような背景があるからこそ「命を懸ける決闘」を両者ともに合意しているのだと思います。


それで、そのメリットですが、勝者はその問題を解決する事ができます。

決闘と言うのは、両者が話し合いでは解決できない問題の最終解決方法が決闘です。

「力が強い者は何でも正義と言う倫理」と、「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」との違いは、「力が強い者は何でも正義と言う倫理」は、ルール無用。勝てば何をやってもよいと言う方法で行われ、その組織が存在する限り永遠に紛争は終わりません。どちらかが滅ぶまで続きます。


「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」は、両者が争っている争点の最終解決方法として、両者が合意したルール(その文...続きを読む

Q義経を殺すように命令したのは誰?

義経を殺すように命令したのは誰なのでしょうか?

義経が官位をもらい、それに納得しない頼朝が殺すように命令を出したのでしょうか?

Aベストアンサー

兄の源頼朝

Q桶狭間の戦いの直前、義元はなにをしていたんですか?

桶狭間の戦いの直前、義元はなにをしていたんですか?

Aベストアンサー

普通に指揮を執っていたと思われます。
ただし、諸説ありますので、どれが正しいかわかりません。

よく言われる桶狭間の戦いは、圧倒的に劣勢な織田軍が
雨の中を敵中突破して、休憩中の今川軍を奇襲した。
酒を飲んで油断した義元は負けました。
という見解が多いと思います。
これは、小瀬甫庵の「信長記」からきています。
時代的には50年ほど後のもので、
後述の「信長公記」をもとにしたとされています。

信長の家臣で、太田牛一(1527-1623)が記した
「信長公記」という資料があります。
いくつかの表題があり、「信長記」「信長公記」などと
題されましたが、前述の「信長記」と区別して
「信長公記」と言われるようになりました。
信長の部下であったことから、史料としての価値は
こちらが上なので、こちらがより事実に近いとされています。

ここでは、信長と義元は「おけはざま山」で対峙して
信長は何度か突撃を試みました。
そして、機を見て全軍突撃を行ったとされています。
今川方は、精鋭を各方面に展開していたので
本陣は人数は多いけど手薄でしたので、
精鋭の信長に負けてしまいました。

普通に指揮を執っていたと思われます。
ただし、諸説ありますので、どれが正しいかわかりません。

よく言われる桶狭間の戦いは、圧倒的に劣勢な織田軍が
雨の中を敵中突破して、休憩中の今川軍を奇襲した。
酒を飲んで油断した義元は負けました。
という見解が多いと思います。
これは、小瀬甫庵の「信長記」からきています。
時代的には50年ほど後のもので、
後述の「信長公記」をもとにしたとされています。

信長の家臣で、太田牛一(1527-1623)が記した
「信長公記」という資料があります。
いくつかの表...続きを読む

Q時代劇などで

切腹した直後に、介添え人に首を斬られますよね。

多分、首をすぱっと1回で切り落とすんだと思うのですが、
腕の良い侍が、切れ味の良い日本刀を使えば、首の骨をヒトきりですぱっと行けるんですか?

Aベストアンサー

行けると思います。

津本陽、という剣道4段の作家が、肉付きの
ブタの腰骨で実験したところ、ほとんど抵抗を
感じないで斬れた、と言っています。

刃筋が揃れば、斬れるんだと思います。

首切りの場合は、骨と骨の間に、刃を滑り込ませる
必要があると、言われていますが、ブタの腰骨が
斬れるのですから、刃筋が揃えば、クビも斬れる
んじゃないでしょうか。

それで介錯は腕に覚えのある武士がやっていましたが、
平和が続くと、そんな武士も少なくなりました。
遺族の恨みも買うこともあり、それで外注するように
なります。

山田淺右衛門などはその代表です。

Q外国でも伊能忠敬のように歩いて地図を作ったのですか?

江戸時代に日本中を歩き回って測量し、精確な日本地図を作ったのが伊能忠敬です。同じように外国の地図も各国の測量士が世界中を歩き回って作ったのですか?

Aベストアンサー

>伊能忠敬って別にすごい人じゃないんですね。

いや、すごい人ですよ。
鎖国してるなかで、英国の主要三角測量と、ほぼ同時期に作成してますから。

ちなみに、同時期には富山藩の石黒信由、毛利藩の有馬喜惣太なども、伊能と同等な、緻密な地図を作成していますよ。
ただ、基本的に藩内だけなのでネームバリューがないのです。

伊能が富山に行った時には、石黒信由と情報の交換なんかもやってますよ。

Q日本と中国で1里の差が生まれた理由を教えてください。 日本の1里は4kmで、中国の1里は400-50

日本と中国で1里の差が生まれた理由を教えてください。

日本の1里は4kmで、中国の1里は400-500mだあおうです。

中国の1里という単位が日本に伝来したはずなのになぜ数値が変えられてしまったのですか?

Aベストアンサー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C

Q米軍が太平洋の島で行った虐殺

島民全滅命令が下って虐殺が行われた例があったと思うんですが名前を思い出せません。
誰かわかりますか?

Aベストアンサー

それ、大戦前のアメリカ、フィリピンの戦争で、レイテ島とその周辺の島民の虐殺の事でしょうかね?

Q宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘について

宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは歴史的事実だと思います。その際武蔵が二時間も遅れたり、小次郎が鞘を捨てたことをなじりお前は負けると言ったのは当時の記録にあることですか?とてもみみっちいーと思います。私は武蔵にはそんなことは言ってほしくないのですが

Aベストアンサー

その記録は、『武公伝』(1755年に完成)に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されているそうです。ただし、そんな話はこの『武公伝』だけに書かれているようで真偽のほどはわかりません。

Q娘のテストの意味がわかりません。 やり方を教えてください

娘のテストの意味がわかりません。
やり方を教えてください

Aベストアンサー

n角形の内角の和(合計)は形に関係なく
(2n-4)×90°です。

この図形は5角形だから
(2×5-4)×90°=6×90°=540°。

あ=540-(40+65+82+60)=540-247=293°

Q延暦寺はなぜ中世日本仏教のトップになったか

質問させていただきます。
日本史を勉強していると、比叡山延暦寺が多くの名僧を輩出しているのに驚きました。
密教の僧侶ならまだ理解できるのですが、『往生要集』の源信をはじめ、鎌倉新仏教の開祖たち(法然、栄西、日蓮)も比叡山で学んだそうです。
九条兼実の弟で『愚管抄』を書いた慈円も天台座主ですね。高級貴族の子弟などの出家先としても非常に重んじられていたのだと思います。
ふと疑問に思ったのですが、密教自体は日本仏教の中でもそれほど歴史は深くないと思います。例えば東大寺などの古い寺院に比べてなぜ延暦寺はこれほどまでに影響力を持つようになったのでしょうか。
鎌倉新仏教の開祖たちを見ていると、「仏教を学ぶなら取り敢えず延暦寺」という印象を受けますが、彼らが律宗や華厳宗などの旧仏教ではなく例えば「興福寺で学ぼう」とならずに比叡山に登ったのはなぜでしょうか?

個人的には(当時としては)「最先端の仏教・学問」だったのかなあ?と考えました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏教の本当の教え、究理はなにかを徹底的に知ろうとする人が出てきたのです。仏教公務員になることがねらいとうよりも、"私はもっと知りたいんだ!"のような志向です。 そういう志向でも、東大寺戒壇院を目指したのですが、東大寺戒壇院は基本は仏教行政という重要な役割から離れられない国家的性格があって、どうもしっくりない面が残っているし、密教的なもの、個人的学問追求には向いてないので、最澄は、山岳宗教的な個人研鑽修行も実行できる山の中に学習所を作ったのです。 ですから最初から、後代に円仁が説いた円密一致のようのを当然とするスタンスをもっていたし、最澄はとてもとてもとても厳しい研鑽と学問研究への専念を求めたのです。 そうした厳しい環境であることを知ってそこを目指したもの達がいたのですから、落後してしまう学僧が多数でたにしても、後代、優れた学僧、新しい理論を打ち立て信念で独立して新宗派をつくるものも輩出することになったのです。
高野山の場合は、叡山のようには様々な仏教思想を学び吸収するというような姿勢ではなかったので、スゴイ僧が出たとしても、叡山ほどには多数のスゴイ僧が次々開祖として宗派を作っていくようにはならないし、薬師寺、円宗寺、法勝寺、興福寺なども学僧の修練には熱心で論議を盛んに行っていたけれども、山中に三塔十六谷の諸堂があり 広学竪義を盛んにしたという経歴もあって、他の諸寺とはだいぶ違う状態になっていったのでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E5%AD%A6%E7%AB%AA%E7%BE%A9-1312963

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏...続きを読む


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