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次の命題を こなれた日本語に翻訳してくださいませんか。

▼ (ニーチェ:《生》とは?) ~~~~~~~~~~~~~~~
259

Leben selbst ist wesentlich Aneignung, Verletzung, Über-
wältigung des Fremden und Schwächeren

( Friedrich Nietzsche: Jenseits von Gut und Böse. 1886)
http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/JGB
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ まったくの断片ですが その思想についても思うところを述べて
ください。

質問者からの補足コメント

  • ▲ ( Morgenröthe. 18 ) 
    http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/M

    Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit.

      補足日時:2017/09/23 09:07
  • №3お礼欄よりつづき

    有為な者の中には アース役に成る者がいて 精神分析でもニヒリズム説
    についても それらを受け取る人びとの――そしてその結果としての――
    心的現象をおのが心に受け留める場合があります。

    ひとりのチカラが及ばないときには その流行病に罹ることがあります。


    ★ 実際問題、ドイツは、その後に、強烈なファシズムの嵐が吹き荒れる
    事になります。
    ☆ もしや りゅぱんさんは それが 強き高貴な人種の復活であったと
    見ておられるのでしょうか?

    ★ ニーチェの論で、参考にすべきなのは、誰もが「力への意志」を持っ
    ていると言う事です。
    ☆ それは カインのアベル殺しのときから 現 象 としての世の常で
    す。

    【Q:神のごとく如何なる者の下にも立つまいと堅く誓ったキャラクター
    をどう扱うか?】の問題です。

    《もっぱら公民たろうとするアマテラス種族》と《スサノヲ市民》とです。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/24 07:28

A 回答 (4件)

お礼ありがとうございます。


ニーチェの論をどう読みとったかだけを記載します。(私が読み取っただけで、これがニーチェの思想だと言う保証はありません)
ニーチェの論
1.誰もが、「力への意志」を持っている。
2.「力への意志」は、個人でも、個人の集団である団体でも、その構成員の「力への意志」の力の強弱で、何らかの「力への意志」に集約される。(これは、その団体が一種の人格を持つのと同じである)
3.集団内で、「力への意志」が拮抗している場合は、その集団は安定し、お互いがそれぞれの「力への意志」の行使を控える行動を取る場合がある。(それは、一般に「良俗」と呼ばれる)
4.「力への意志」は、その力の行使を「欲望」する。(「力への意志」は、自然衝動として、その行使に支障が無い限り行使しようとする)
5.「力への意志」は、何らかの方法で、その行使を正当化する。
6.ニーチェは、いわゆる「道徳」は、その成立原因は、「欲望」(穏健に表現した場合は、「希求」と呼んでも良い)である「力への意志」の正当化で分類できると判断した。
7.ニーチェは、「力への意志」の正当化を2種類に分類した。 自己以外に理由を持たない場合を「高貴」と呼び、自己以外の理由(たとえば「神」)による場合を「奴隷」と呼んだ。(2分しているのは、「自」と「他」と言う分類に妥当性があると判断したからである)
8.上記の2分により、歴史は、「高貴(自)」、「奴隷(他)」の「道徳」のせめぎあいとなる。
9.ニーチェは、「ツァラトストラはかく語りき」において、ツァラトストラによって、人間の思考の変遷を描いた。
10.ツァラトストラは、駱駝→獅子→幼子へと変化し、それが「永劫回帰」と判断する。
11.駱駝は、忍従に耐えるストイックな姿勢から、「奴隷(他)」を意味する。
12.獅子は、自らの意志で行動を起こす、利己的な姿勢であり、「高貴」を意味する。
13.幼子は、その無知ゆえに、判断基準を持たない。 つまり「中立(彼岸)」を意味する。
14.ニーチェが、ツァラトストラに自分を重ねていたとすれば、幼子=「中立(彼岸)」にいると言う事である。(もしくは、幼子=「中立(彼岸)」になりたいと思っていると言う事です)
15.つまり、ニーチェは、その論の中で描いた、「高貴」、「奴隷」のどちらの立場にも、今は立っていない。
16.それは、幼子としての「中立(彼岸)」である。
17.しかし、これは「永劫回帰」である。
18.人間は、その「生」ゆえに、自、他、中立の状態を永遠に繰り返す。
19.状態はどうであれ、それは「力への意志」の欲望の行使でしか無い。
20.ならば、人間はどうすれば良いのか、どの状態であっても、「然り」と思える状態になる事しかないと言う事である。(逆転すれば、「然り」と言える行動を取れと言う事である)
21.「然り」と言うためには、それが自らの「力への意志」の行使の結果である事を認識する事である。
22.「然り」と言うためには、「正直」である必要があり、ニーチェは、それを「誠実」と呼ぶ。
以上です。
ここからは、ニーチェは論じていません(もしかしたら論じているのかもしれませんが、明示していません)が、私が上記から推定する事です。
A.「奴隷(他)」は、その集団内が完全に同じ「力への意志」を持たない場合は、その「力への意志」を決定できません。
B.上記より、「奴隷(他)」は、何らかの方法により、「力への意志」を一つに決定する必要があります。
C.それが、神などの「絶対的他者」ならば宗教と呼ばれ、集団の代表者であれば元首(もしくは、それを抽象化した国家)と呼ばれ、プラトン哲学(及びなんらかの「理想」を持つ思想)では、「理想(あるいは真理)」と呼ばれる事になります。
D.上記から推論されるのは、「奴隷(他)」であっても、それを完全に正当化するには、全てが「奴隷(他)」となり、その正当化の理由が一つになる必要があると言う事です。
E.つまり、「奴隷(他)」であっても、その「力への意志」は、穏健に表現しても、搾取(同化)を「欲望」する可能性があると言う事です。
F.ファシズムは、それが民主的に選ばれたのならば、その主導権は「奴隷(他)」です。
G.つまり、民主主義は、「奴隷(他)」であっても、その「力への意志」の力の行使は、その結果でしか判断できないと言う事です。(ファシズム自体を非難するのであれば、民主主義自体を否定する事になります)
H.整理すると、ある集団は、その「力への意志」として、なんらかの力を行使する場合がある。
I.行使された事の判断は、その行為によって判断するしかない。
J.どのような集団でも、「力への意志」の力の行使には、正当化する理由(対象)を持つ。
K.それは、宗教ならば「神」、民主主義ならば「国家(及びその元首)」、プラトン哲学ならば「理想(真理)」となる。
L.「高貴(自)」であっても、「奴隷(他)」であっても、その「力への意志」が行使される対象から見たら、それは穏健に表現しても、搾取(同化)である。
以上です。
私の立場を表明しろと言う事であれば、以下のとおりです。
・強制的な搾取(同化)は、私は認める事が出来ない。
これが、私の「誠実」であり、正直な気持ちです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1.「力への意志」
☆ 欲望と意志との一般。ほかに 常勝をめざす意志。

★ 2. 力の強弱
☆ のほかに 意志をいかに用いるか。あるいは わが心に従う意志 と 
良心の起こすヤマシサ反応を押し切って心に逆らう意志と。

★ 3.その集団は安定し、・・・(それは、一般に「良俗」と呼ばれる)
☆ 拮抗状態は 一触即発ですよね。《ヤマシサ反応を押し切らない――
善良な――心と意志》が 集団の中で優勢な場合の秩序を 良俗と呼ぶ。

★ 4.力の行使を「欲望」する。
☆ 《良俗意志》と《反(または超)良俗意志》とのふたつありましょう。

★ 5.その行使を正当化する。
☆ 良俗意志は 自己正当化は必要ない。コモンセンスとして 秩序と親和
性がある。


★ 6.「力への意志」の正当化
☆ 超意志の場合は 手の込んだ分析です。良俗意志一般を お二階にあっ
て――民衆の支持を得たいときには とうとびつつも――踏みにじるときの
言い訳です。

万葉集巻頭歌で雄略が語るように 《われは おほきみだ。おれの嫁になれ》
といったかたちでいとも簡単に良俗ないし相手の意志を踏みにじった場合
この意志も(つまり 超良俗意志も) 正当化できるはずだという《蛇の知
恵》がはたらくのでしょうね。

★ 7.「力への意志」の正当化を2種類に分類
☆ でも 《神による正当化》も その本人内面における《自己の意志》で
すよ。言いかえると 《高貴な意志》の場合は 内面の動機を問わないとし
ているだけ。

雄略の《こころ》では おのれが大君なることは 神の思し召しだと思って
いたかも知れない。

★ 8.歴史は、「高貴(自)」、「奴隷(他)」の「道徳」のせめぎあい
となる。
☆ 一面的すぎます。

★ 9.・・・
19.
★ 20. どの状態であっても、「然り」と思える状態。(「然り」と言え
る行動を取れ)
☆ 《雄略アマテラスになること》がやはり結論であるらしい。

★ 22. それを「誠実」と呼ぶ。
☆ 《高貴》族の本性(ほんしょう)なのでしょう。



★ A.~L.
★ 私の立場:
・強制的な搾取(同化)は、私は認める事が出来ない。
☆ もっと早く明らかにしてくださっていたら・・・。
《反(または超)良俗意志》は 無効である。ぢゃないですかぁ。

お礼日時:2017/09/24 13:37

お礼ありがとうございます。


ニーチェの論を「よし」とするか、「わるい」とするかは、個々人の判断によります。
ニーチェは、一見まともに見えるような道徳であっても、そこには欺瞞があるのではないかと主張しているわけです。(つまり、道徳と言うのは、きちんと判断しないと、特定の人間が、自らを有利にする為に捏造したものである可能性があると言っているわけです)
実際問題、ニーチェ以後は、ニーチェの予測するとおりに、世界は第2次世界大戦に突入し、「力への意志」の行使が、その力の差により行われました。(ここでは、その戦争状態は、それぞれの「力の意志」の行使であり、どちらかを正義と判断する事はしません)
ニーチェが主張している事は、「世界」は、「生」の「力への意志」のせめぎあいであり、そこで勝ち残るのは、「生」の力の大小でしか無いと言う事です。(当たり前の事です)
そして、ニヒリズムに陥った場合は、それがより顕著に明らかになると言っているわけです。(ニーチェは、ニヒリズムになれと言っているわけでは無いですよ)
ニーチェは、ニヒリズムに陥った場合は、「神」を単純に信じる道徳的世界は無くなると語っただけです。(これも当たり前の予想ですね)
実を言えば、ニーチェは、ニヒリズムに陥った世界が何故、そのようになったかを語っているだけなんですよ。(その分析が正しいかどうかはわからないです)
道徳の系譜学では、その時点では、奴隷の道徳が勝利したと記述しています。(つまり、その時点ではキリスト教的道徳はその命脈を保っていたわけです)
ニーチェの予言は、その勝利は、一時的なもので、闘争の火種はくすぶっていると言う事でした。
実際問題、ドイツは、その後に、強烈なファシズムの嵐が吹き荒れる事になります。
ローマの末裔であるイタリアも同様でした。
共産主義勢力の台頭も、そこには、崇高な理想があったかもしれませんが、最終的には、独裁国となりました。
ニーチェの論で、参考にすべきなのは、誰もが「力への意志」を持っていると言う事です。
それは、高貴であっても奴隷であっても同じです。
「力への意志」による、「生」の勝利者は、最終的により強い力を持つ勢力です。(それは、力の総量ですから、一か所に力が集中している場合が独裁であり、分散した力でも、数が多ければ、民主国家となるだけです)
国家は、自らの「力への意志」を「正義」と言う名で正当化します。
これは、個人でも同じです。
まずは、自らの意志を他者によって正当化するのは、欺瞞だと言う事です。
自らの「力への意志」をいつしか正当化する欺瞞に陥る危険に対して、警告しているんです。
ニーチェは、何度も、素直になれと警告しています。(それは、自らの「力への意志」をごまかすなと言う事です)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ニーチェは、一見まともに見えるような道徳であっても、そこには
欺瞞があるのではないかと主張しているわけです。
☆ 申し訳ないですが それは 一般論ですよね。いま問うているこの
断片から もし思想と呼ぶべきまとまった内容が取り出せるとしたら 
それについて 判断しておこうというねらいです。

ディオニュソス仮説も そうです。宗教として集団において 復讐して
仇を殺すことをよしとする思想です。

★ 実際問題、ニーチェ以後は、ニーチェの予測するとおりに、世界は
第2次世界大戦に突入し、「力への意志」の行使が、その力の差により
行われました。
☆ そういうことは 人類史のつねです。ペルシャ戦争しかり。ローマ
が カルタゴのフェニキア人を滅亡に追い込んだのも しかりです。


★ ニーチェが主張している事は、「世界」は、「生」の「力への意志」
のせめぎあいであり、そこで勝ち残るのは、「生」の力の大小でしか無
いと言う事です。
☆ 哲学は それは 悪貨が良貨を駆逐するのだと見ます。たとえ無力
でも 有効な視点を差し挟みます。チカラへの意志は 無効――何故な
ら ひとの意志と心と存在とをないがしろにするゆえ――が 社会力学
的に有力となっただけだと見ます。

それだから 《弱者の道徳が世界史の流れとして勝って来た》のです。
有効がひょっとして機能するのではないかと思い始めたのです。

★ ニヒリズムに陥った場合
☆ と言うのは ほとんど無いでしょう。なぜなら 社会力学の優勢に
はたらく世の中に対しては むしろ活発に一揆や広義のテロや戦争で対
応します。長く絶望を味わうのは 力学を認めたがらない子どもの考え
にとどまる場合でしょう。

そして その《モヤモヤあたま》を助長したのが 精神分析とニーチェ
のニヒリズムでしょう。

★ ニーチェは、ニヒリズムに陥った世界が何故、そのようになったか
を語っているだけなんですよ。
☆ 人びとは 《無意識》説になびきました。ムイシキは 意識し得な
いという設定によって 知られ難い神の代用になったはずです。

つづく

お礼日時:2017/09/24 07:19

”Leben selbst ist wesentlich Aneignung, Verletzung, Überwältigung des Fremden und Schwächeren, Unterdrückung, Härte, Aufzwängung eigner Formen, Einverleibung und mindestens, mildestens, Ausbeutung”


「生とは、本質的に獲得、加害、他者・弱者の制圧、威圧、自己の形式の確立、(他者)を同化する事であり、最も穏健に表現しても「搾取」である」(ドイツ語より私訳)
捕食者から見れば、「生」の為に捕食物を獲得するのは、事実で、捕食物より強者で無ければ、捕食自体出来ません。
獲得は、獲得物を、自己の確立(保全)の為に、自己に同化する行為であり、搾取と言えると述べていると言う事じゃないですかね?
ニーチェは、前段では、上記の行為を相互に抑制するのは、団体内において、ほぼ力が均等している関係を持つ者の間においては、素朴な意味の「良俗」と呼べるであろうと述べています。
しかし、それが社会一般の原則として、提示された場合は、それは欺瞞として機能すると、続けて述べます。(この場合の社会は、力の均衡しない者同士で構成される団体の集合を意味しているのでしょう)
ある団体(おそらくは国家もしくは、宗教団体を意味すると思われます)は、その「力への意志」によって、団体内部に対する「良俗」に相違する行為を、他の団体に対して行うであろう事を示唆します。(力の差があれば、それは同一団体内でも起こる事に注意してください)
それが、巻き起こす事は、国家間の紛争としての戦争であり、宗教の中での異端審問、魔女狩りです。(ヨーロッパが、啓蒙と称して、世界をキリスト教で教化しようとしてきた事がそれを実証しています)
ニーチェは、歴史的にこれが生じてきたのは、それが「生」の根本性質である事が起因であると断じます。
そして、素直にそれを認めろと述べます。(この章で述べているのは、それだけです)
逆説的に言えば、真の平等は、すべての「生」=「力への意志」が拮抗できる状態にしか存在しない事になります。
これは、全てが同化する事でも実現できますが、全てが別でも、力が拮抗すれば、成り立つことです。
しかし、「力への意志」は、常に搾取(同化)への欲望を持ち続ける事に注意してください。
以上が、ニーチェの論でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 以上が、ニーチェの論でしょう。
☆ ですよね? 中身の検証より先に言うのですが こういった見解を
見逃していてよいのでしょうか?



▲ 生きるということは――けっきょくやはり社会の中においてである
ようですが―― 相手を開発する・すなわち頭を耕し 躾を身に着けさ
せ こちらの思うような思考と行動の形式に回路づけ そこから得られ
る価値は こちらのものにする。ことだ。
☆ こう言っているんですよね? 見逃してよいのですか?

お礼日時:2017/09/23 16:56

こちらにドイツ語の辞書がありません。



(Leben selbst) [ist] /wesentlich/ Aneignung, Verletzung, Über-
wältigung des (Fremden und Schwächeren)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

たとえば 次のような翻訳例があちました。:

△ 木本伸:ニコラオス・ルキデリス著『それが考える』 ~~~
――ニーチェのアフォリズムをめぐる歴史哲学的探求――
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou …

生そのものは 本質的に他者や弱者をわが物とし 傷つけ 制圧する
ことである。( p8/10 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《制圧する》というのは こなれていないように感じます。

《他者や弱者を――つまり 人間を――わが物とする》というのは 
こなれていますが 意味が取りづらいと思います。

要するに 何を言おうとしているのかが 分かりにくい。

理性と人徳とで相手を説得し 言わば同志とすることなのか?
あるいは 単純に言って 奴隷とし支配することか?

後者だと 《制圧する》とのつながりがあるように思いますが。

《傷つける》というのは 自分のウソやイツハリを基として相手の
発言などで 心が傷つくことがあるわけですが そういうふうに 
知らず知らずのうちにも 互いに傷つけ合っている。
――それが 人生だということでしょうか?

たぶん そうではなく 一 方 的 に 《わが物とし 傷つけ 
制圧する》のだとは思っているのですが。

お礼日時:2017/09/23 05:17

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