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通りすがりの旅芸人に、家を売って薔薇を贈った人はいないと思いますが、
この歌は世界中で愛され、日本でも多くの歌手が歌っていて、どれだけの人
の心を潤したか知れないと思います。

さんざん尽くして、捨てられてしまっては不幸ですが、(つまり、依存的な愛
は危険ですが)子供は親の愛で一人の人間になりえます。
会社も国家も「自分が所属するもの」という思いからの愛によって成り立ち、
発展するものでしょう。
日本が、この二十年で先進国の中で唯一経済が発展していない国なのは、愛を
捨てたからではないでしょうか?

愛が枯れればあらゆる芸術が陳腐なものになるでしょう。
追いかける価値に普遍性がないほどに社会は発展しない、というのは道理だと
思います。

愛が燃え上がることを「惚れる」と言うと思います。

この「惚れる」という心が枯れようとしていると思うのですが、それは何故で
しょうか?

「惚れる」の質問画像

質問者からの補足コメント



  • 素敵な動画を見つけましたので、貼っておきます。

      補足日時:2017/09/21 07:54


  • あまりにも素敵な歌声なので、男の子の表情があまりにも愛らしいので…

      補足日時:2017/09/22 08:50

A 回答 (18件中1~10件)

このサイトを見ていると、すぐに口を挟みたくなるのは私の悪い癖です。

落ち着いて読めば、良く聞こえる文言も、急いて読めば印象が悪くなったりもします。

今までを思い返せば、惚れる対象を探して生きてきたと言う節はあります。本能的なものにせよ人間的なものにせよ、自分が心から求めていると言う事それ自体が、自分をまだ出会わぬそれへと動かしてきたのです。
歳をとれば、過ごした時間分、それにすでに出会っている可能性の方が高くなります。それで過去を振り返る事は若い人がするよりも有益な事となるのでしょう。

ただ、いつ頃からか焦らなくなり、ゆったりと生きることができるようになったのは、しゃにむに求めても出会えるものでもないと分かったことと、なぜか胸の内に、求めた何かの結晶のようなものが堆積して、それが自分を安定させているからだと。
出会ったのか出会ってないのか、見つけたのか見つけてないのか、(きっとまだだとは思うのですが、)今までの人生は無駄ではなかったと思えるのです。
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この回答へのお礼

お節介で口をはさんでしまうということは、愛があるということで、これは
適度であれば非常に大切なことだと思います。まあ、言っていることが間違
っていたらいけませんが。

成功者の伝記などを読みますと、大抵人生の早い時期に「出会い」があった
ようです。
また、チャンスというものは誰にも平等にある、なんていいますよね。

とすると、我々平凡な人というのは折角のチャンスを逃してしまっている、
ということになりそうですね。

私も若い頃は、いい仕事、面白い仕事というのは、勝ち組のエリートあるいは
際立った才能のある人間たちの独占物で、自分には全く関係ないと思っていま
した。

それが間違いであるという結論に今達しています、随分時間がかかりましたが。
社会の主要なポストを得ている人が才能のある人とは限らないし、また、いい
仕事をしているなんて全く思わないからです。

「出会い」って難しくて分かりませんね。ただ、仰るように「振り返る」ことは
有益だと思います。
私もかなり綿密にやっています。

お礼日時:2017/10/04 23:27

発展、発達しようとしてやってきたけれど


このままだと崩壊。
この際、無になってみたらいいとさえ思います。

発展させる便利なモノだけ与えられ、
どう使うかは当人に委ねられているから

見たい、言いたい、知りたい、
欲望は更新され、むき出し、やりたい放題できる。
情報だけを抜き出して文字を読んで画像を見て
そこで分かったと思ってしまう、仕組みにやられて
人のこころは粗末になっていく。
あえて見ない、言わない、聞かない、
流れに乗らないことを課する意を持って
こころに向き合おうと思わないのだろうなあ・・・・

合理的じゃないものには興味がない。
複雑な領域は侵されていく。
言葉に閉じ込められて体験の価値がわからなくなる。
こころは疲弊し、世の中は混乱。
人は純粋ではいられなくなります。


惚れるとか愛を信じる力は、自分の知覚が拠り所になっていますよね。
今はその信を確かめる体験より情報に頼ってしまう時代になってしまった。
情報が少ない時代のように、ある程度面倒なほうが、自分で考えて、
伝えようとするにも、確かめ合うにも、自分の身体とこころの
エネルギーをダイレクトに使いますよね。
そうやって体験的に生きてこそ自分に信がうまれるだろうし
純粋さに価値を感じられる。
惚れる自分を信じるのだと思います。
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この回答へのお礼

そう、そう思います。

>惚れるとか愛を信じる力は、自分の知覚が拠り所になっていますよね

「惚れること」「愛」が尊いものであるということは哲学でいう「理性」
が直観的に感じるものではないでしょうか?

個人差はあるでしょうが、子供のころは誰でも持っていて、それがその
後の生き方によって…

仰るように情報に頼ったデジタル的と言うべき「楽な」生き方よりも、
体験的な苦労の多い生き方をした方が、それを自分の中で検証できると
こう言えるのかも知れません。

お礼日時:2017/10/04 23:02

世の中が何に縛られていようとも、自分はそれを目指すのだと言う確かな意志を持つ事は人生の可能性を自らが望む方向へと収斂するのかと思います。


世直しを唱える人が多い中で、自分はこうなりたいと言う人は少ないと感じています。自分を立て直す事は、自分の至らなさや誤った点を直に認識する必要があり、一種、勇気のいる事だからでしょう。
私の場合は、どのような人になりたいかと言う具体な姿をハッキリと知っておらず、それを自分の言葉で確かに表明することは、かえって自分の思想に縛られかねないものと思っています。
ただ、賢愚を超えている=正直 と言うことだと思いますし、汚れが無い=純粋 と言うことかと思いますし、言い換えればデヴィッドさんの言う理想像を自分なりに理解することはできます。
お互い、それぞれに求めるところを発見し、得ることができると良いですね。
応援しています。

デヴィッドさんの昭和に対する思いは、時間軸における郷土愛のようなものなのかなと、ふと思いました。1960〜70年代初期の頃には、私も憧れを持っています。ドライブしながらラジオを聴いて、カーペンターズやジェイムズテイラーなんかを流しながら、と言うのをリアルタイムでやってみたいですね。スマホもインターネットもないでしょうが、それはそれで良いでしょう。
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この回答へのお礼

所用で出掛け、一週間パソコンを開きませんでした。

久しぶりで来てみると、相変わらず活発な言論が飛び交っているようです。

>世直しを唱える人が多い中で、自分はこうなりたいと言う人は少ないと感じています

思いますに、我々昭和人はウルトラマンや仮面ライダーあるいはアニメなどを見て「世
の中の役に立とう」と思ったのではなく、実在の人物あるいはその伝記等を読んでその
思いを小さな胸に刻んだのだろう、ということです。

そう考えますと近頃の子供たちがルフィを見て何を感じるのだろうかということは興味
深い事となります。

いずれにしましても、社会の役に立とうという思いから、成長とともにある人は「世直
しをしたい」という思いを抱きます。
しかしこのことは、現実を知れば知るほど至難事業であり、やがて中年を過ぎると不可
能事に変わってゆくのが常であります。

要するにその至難事業を「どうしてもやりたい」という気持ちがどれだけあるかですよ
ね。
情熱があれば、何をどうすればよいか、また、何を準備すればよいか、あるいは自分に
必要な力は何か等を思索し準備を始める事でしょう。

織田信長は十代のころから遊びながら地形を覚えたり、人材を探しも求めていたといい
ます。

情熱と構想と準備と自己建設が少なくともなければ至難事業が出来る道理がありません。
理論だけで後は人任せなんて、石ころ一つ動かせません。
でも、私は理想を語る人は嫌いではないし、仮に口だけであっても責めません。

だって、真の世直しが出来る人なんてまずいませんから。
私?はっはっは。

私は自分がこうなりたいとか、何かが欲しいとかいう気持ちはあまりありません。
目的のために必要ならばなるし、余分なものを得るために時間を費やしたくないという
思いはあります。

私が育った昭和の東京は、まさに私の故郷です。今は跡形もなく消えてしまっている分
思いは募ります。

お礼日時:2017/10/02 21:57

ちょっと、次元が低いかもしれませんが、”惚れる”という言葉を聴くと、高倉健さんを思い出します。

なぜか、男性は、皆、高倉健さんにほのかな憧れを抱く様子で、どうやら、義理と人情の板挟みで、義理を通すところにグッとくる様子です。

現在の日本に、義理や人情があるかどうか、私には、わかりません。教えていただきたいぐらいです。

私にとっては、愛は、そのために死ねることであり、惚れるというのは、肩入れをする、応援をしてしまうことだと思います。どちらも、性別は関係ありません。

ご質問で、芸術と愛との関連性を言及されておりますが、これも、また、至高の愛を表現するのが芸術であった時代が終わってしまったのか、それとも、まだ続いているのか、判断が難しいところです。

No.14さんのご回答の中にありますが、若い世代は、私たちの作り上げてきた価値観をぶち壊しつつあります。所有への無関心、お金儲けのためなら、冒険を厭わない勇猛果敢さ、義理人情の薄さ、など、あげてゆくときりがありません。日本でも、たぶん同じだと思います。

私たちの世代が作った社会で育った子供たちなので、ある意味、責任は感じます。ただ、匿名であるのをいいことに、わかっていても、面白がって、人を中傷する、内容のない意見を、SNSに投稿する傾向には、心が痛みます。”惚れる”という素敵さと、まったく反対の心の動きが働いていると思うからです。
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この回答へのお礼

「男心に男が惚れて…」の世界ですね?

私の兄などはヤクザ物の映画が好きで、よく見ていましたし、そういう趣味の人は
少なくなかったと思います。

価値観はそう変わるものではないので、健さんの役どころにグッとくる人はいるは
ずだと思いますが、そういう話は聞きません。
江戸時代に踏み絵をさせられたキリスト教徒に近いと思います。言えば間違いなく
迫害されます(冷笑されるという意味ですが)。

ただ、私にとっては惚れる対象ではありません。
高倉健・渡哲也の役どころには惚れませんが、矢沢永吉・デューク東郷(ゴルゴ13)
の役どころには惚れます。お分かりになりますか?(笑)

私は芸術というものの本質を考えたときに、「愛」という核が抜けた場合、その代
わりに一体何があるのだろうと考えています。
しかし、残念ながら特に現代の芸術については知識が乏しいもので、この点はciao
polpoさんにぜひ教えていただきたいと思います。

>愛は、そのために死ねることであり、惚れるというのは、肩入れをする、応援をし
てしまうことだと思います

他の方のお礼欄に同様のことを書きました。

小難しい事を言うのはまたの機会にして、これだけは言いたいです。

私たちが大切にしてきた価値観が変化することは許せる範囲のものもありますが、
「愛」を否定することは私は断じて許すことはできません。

お礼日時:2017/09/24 13:55

>この「日本とか会社を何とかしなくちゃ」という倫理観が消えたこと(変質したこと)が昭和人にとって一番耐え難い事だと思います。

それに代わるものが嘘だと思うから猶更なんだと思う。

これには同意します。確かに話の合わない人と困った感じがする時、「この人は組織とか、社会的な責任をどう考えているんだろう?」というあたりで、ぎょっとします。ただまあ、なんて言いますか、私の思いにも寄らない視点でそれを考えているケースもあって、あまり強く言ってもしょうがないんだなと思うこともあります。

結局、その組織なり地域なりで、一生を過ごすとは思っていないわけですね。なんで自分がここにいるんだろうとか、早くキャリアアップして離脱していかないと、ということになるわけです。年功序列や終身雇用が無くなって行った結果、そういうことになったのかなとも思います。一生そこに所属するなら、回り回って自分の利益になるから、組織に貢献しておこうって気にもなったでしょう。あるいは無理やりな理屈であっても、その組織が社会において役に立つと本気で信じていたでしょう。

>若い世代を中心にして、これまでの価値観を廃棄して、自分たちの気に入るように価値観がこじつけられている、と私は思っています。

ここら辺は具体例を出して話すと、盛り上がるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

私自身の心を冷静に見ようと努力してみると、「手柄」が欲しいなと思うことは
しょっちゅうありますね。

社会的評価・立場を得たならば「楽になるだろう」と思ってしまうからです。
しかし、現実にはなかなかそううまくゆかないであろうと思い直し、そんな弱さ
を吹っ切ろうとしています。この闘いは、一生続くものと思われます。


>その組織なり地域なりで、一生を過ごすとは思っていないわけですね

白状します。私も若い頃はこれがあって、「自分探しの旅」に出たことがあります。
なかなか見つからなかったですね。そんな実績のある私ですから、あまり偉そうな
ことは言えないのですが…

現代において、社会的責任を考えなくなった理由として仰ることその通りだと思い
ます。
もう一つは、企業における作業のルーチン化、従業員の歯車化の度合いの増加、さ
らに確実に予想されるAIの進化により将来の希望が持てず、つまり、やる気を失っ
ている、ということもあるのかと思います。


「頑張る」ということは、我々昭和人の大きな価値観の一つだったわけですが、今は
「頑張りすぎない」あるいは「頑張らない」と、もっともらしくよく言われます。

一つの根拠として、鬱病の人に「頑張れ」と言ってはいけないという事実があると思
います。
これはその通りなんでしょうが、これが「人間に対し頑張れ」と言うこと自体がプレ
ッシャーになり良い結果を生まない、ということに変化していると思います。

「合理的に」という根拠もあるようですが、スポーツの世界を見ると、かつて日本の
「お家芸」といわれた種目がふるいません。

相撲がつまらなくなって久しいですね。最近ではとってつけたような日本人横綱が休
場ばかりしています。
稽古をしないというか、厳しくすると皆辞めちゃうのでできないんだそうですね。

要は、頑張りたくないんでしょう。

お礼日時:2017/09/24 13:18

こんにちは、ねこりんさん。




わたしは日本に惚れている人を何人か知ってゐますよ。
cy○t○tuさんという方は確実に日本に惚れてますし、
br○g○11○neさんという方も確実に日本に惚れてます。

人それぞれ愛し方が違うのは、
人それぞれ指紋が違うのと同じです。



わたしの場合、【惚れる】というのは
その対象が【おもしろい】から、以外の理由はありません。
おもしろくないコトやモノや人には惚れようがないので。

たしかに今の日本は【おもしろくない】のかもしれませんね。
日本国民にとっても外国人にとっても。


___________


こんな話をしてゐてもおもしろくありませんから、
強引に話を変えてみますが、

○○に惚れてます!という人たちに、訊いてみたい。
あなたが惚れた対象の、どのあたりに、どのやうに、
なぜ、どれぐらい惚れているのですか?ってね。

このわたしの質問に対して瞬時に答えることができて、
何時間も喋り続ける人なら、わたしは信用しますよ。

何となく居心地が良いだとか、何となく馬が合うとか、
そういう理由ではなくて。


___________


惚れることができる余裕と元気があるというのは
素晴らしいことだと思ひます。

嫌ったり憎んだり恨んだり無関心でいるより、
何かに惚れることができるほうが、
惚れた本人、豊かですから。
惚れた側は、生きる力がどんどん湧き溢れますから。





わたしは【おもしろい】モノやコトや人に惚れますので、
わたしが惚れているコトやモノや人はいろいろですが、
対象が娘や息子など、人である場合、
大切に想ふからこそ、黙るタイミングがあったり、
全身で応援するタイミングがあったりします。


一方、たまたまわたしが【おもしろい】と感じ
たまたまわたしが惚れた対象が、
トランペットであったり自転車散歩であったり、
政治であったり庭の花や野菜であったり野良猫であったり
登山であったりプリンであったり国家資格であったり、
そんな場合は、

惚れて何が悪い?と云って
自然に没頭し、突進することにしてゐます。



___________



最後にねこりんさんに訊いてみたいのですが、
あなたは何に惚れているのですか?
惚れることによってあなたの人生は豊かになりましたか。
いつ、どの時点で、どのあたりが、
どのやうに、どれぐらひ、なぜ、
あなたは豊かになったのですか。


いや、これはイジメているのではなく、
単純な好奇心からの質問です。
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この回答へのお礼

cyototuさんは、そういう文章を書いているので、そうだと思いますが、
B氏はそうなんでしょうか?そうかも知れませんが。

neutralingさんにとって「おもしろい」ってどんなことなんでしょう?
私も訊いてみたいですね。

ブルーハーツが好きだと言っていたので、エリートとは対極の立場にい
るような、パッと見は知的でなくて(笑)、でも鋭くて純情で激しい…
人としてはそんなところに魅力を感じて、時に惚れるのかな、と。

私は、あなたに近いかも知れませんが、純粋で一途で感情が激しくて、
頭がよくて愛情の深い人…ですね。

そうだと思った人が実はそうでもなくて、見込み違いだったり、騙され
ていたり、そんなことが多かったけれど、今だにその価値観を捨てない
でいる私。

そういう人がいないのなら、自分が少しでもそれに近づけよう、なんて
思っています。


好きになる、惚れる、って、その対象が自分だけでなく誰に対しても価値
があって、豊かにしてくれるものだと信じているから、心を開いてそれに
「同化」しようとすることなんじゃないかと思っています。

同化して吸収するだけでなく、助けたり、守ったり。
そして、それの持つ価値が高いと思うほどに、最後は命を捧げようとする、
それが惚れるってことじゃないかと思う。

百万本の薔薇と命を捧げようとした若者の心は大好きですよ。跪いて合掌
したいくらい。

ま、彼が傍にいたら「それはやめとき」って言いますけどね。

お礼日時:2017/09/24 12:19

マーラですか。

ニベア風呂は精液風呂のメタファーですよね。
乳海攪拌でもいいですけど。
女性に人気だから、AV女優がすることをやっているのでしょう。
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戦争にも種類あって、互いに人として認めあっていながらなお譲れないところで争う場合と、イエローモンキーだとか鬼畜米兵だとか言いあいながら相手をとことん叩き潰す感情的な戦争があると思います。


戦後の地図のことを計算に入れて動くというのは上層部としては当然のことで、明治時代にはできていたが昭和の軍部はそれができなかったというのは一つの定説としてありますね。しかし私は、じゃあ上層部の全部が全部アホだったのかというと、そうではないと思います。アメリカの指導部にしても、イエローモンキーには原爆を落としてもいいと思っていたようで、親愛なるヒロヒトへ、と爆弾の躯体に落書きをして、それを落としたそうで、それをした当時のアメリカ将校は本当に鬼畜だったことが今になればわかります。一億総玉砕を謳った根性論の日本軍の上層部もイエローモンキーだったことでしょう。当時の、皆が皆ではないでしょうが。

問題は、なぜ、人が、そのように堕ちてしまうのかというところです。
求めるところが違えば人の出来栄えも変わってくるけど、高尚なものを求めていると口で言うことと、こころに本当に求めていることは違います。救いを必要としている人が、他人を救おうとするようなもので、我執を守りたいがためにコンプレックスを形成し、こころの機序が暗転するというのが、オーソドックスな人の堕ち方の一つだとみています。

さて、先祖に顔向けできないという言葉を久しぶりにお聞きになったということですが、私の場合、先祖といえば、縄文時代とか、もっと以前の先史までを指すもので、究極的には、黎明の人類のことを指しています。アマテラスとか天皇というのは、確かに現代日本においても一定の役割を演じておりますが、始祖というには、天照大御神は新しすぎるなぁという感じを持ってしまいます。

>「惚れる」ということは、「信じる」ということでもあるし「自分を捧げてもいい
よ」ということにもなると思います。

これは結婚に代表される心だと思います。奇抜なものではなく、あくまで日常的に、静かに演出される心ではないかと思います。

>私もそう思います。しかし、そのためには、人間が人間を信じられるようにならね
ばならないと思います。
そうなるにはどうしたらいいのか?そこに賢人たちの知恵が結集されるべきでしょう。

現代は、知性というものにコンプレックスを持っている人が多く見られるというのが私の印象です。知性が薄いのに、自分は高い知性を持っていると自己欺瞞する人もいます。
しかし大事なのは知性ではないのだと、ここではっきりと言っておきたい。教育にしても、それは二番目なのだと言っておきたい。一番大事なのは、人間が人間を信じられるような経験をすることができる人生を生きるということであり、それは知性によってなされるのではなく、こころが何を求めるか、によってなされるものだと思うのです。
知性は素晴らしいものですが、それに目眩を起こす人が少なくありません。知性に欲をかく人が少なくありません。
何を求めれば人間を信じられるようになるのか、人は何を求めて人と呼ばれるのか、それを今(現代)改めて胸に問うべきではないでしょうか。
たとえその求めたものを言語化できなくても、確かにそれが聞こえたならば、彼(彼女)の人生は、人として生まれたことの意味を包含したものになるでしょう。
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この回答へのお礼

私は、戦争というものは武力を行使し多くの人命を抹殺し、環境を破壊して
相手を屈服させるものであると考えていますので、これを正当化させる理由
というものが「ない」と思います。一片の正義もないと思います。

ですから、戦争を起こすということ自体が、仰るように「精神の堕落」であ
ると考えます。

>我執を守りたいがためにコンプレックスを形成し、こころの機序が暗転する
というのが、オーソドックスな人の堕ち方の一つだとみています

簡単に言えば「嘘つきは泥棒の始まり」ということになりましょうか?

エゴを正当化するために、変な理屈を作り、その理屈を正当化するために、さ
らにこじつけ理論を重ねてゆく…私にも経験がありますが、どんどん苦しくな
ってゆきますね。

ベトナム戦争に行った兵士の倫理的堕落を指摘した人がいました。また、沖縄の
米兵の問題も相変わらずあります。

最前線の兵士は実際に人命及び環境の破壊行為をしなければならないわけです。
過酷な作業を強いられているということですが、この作業が正義とはどうしても
思えないからこその堕落であると私には思えます。


先祖というものを、全人類的に捉えておられる訳ですね?それならば安心です。


哲学でいう「理性」を軽く見すぎていると思います、現代人は。
推論的思考が上等なものであり、それによってすべて解明すると思っているよう
に感じます。

近頃の「知識人」と言われている人達のいうことをよく聞いていると、理論の根
拠が実にいい加減、曖昧だと思います。

橋本徹氏の言論は、しっかりしていると思います。まあ、あれが当たり前だと思
いますが。

人間が人間を信じられるようになるにはどうしたらよいか?

エゴに振り回されているようじゃ永遠に無理ですよね。
世の人々が否定している、「正直で純粋で真面目で一途な人間」を誰かが目指さ
なければ始まらないでしょう。

お礼日時:2017/09/24 04:29

>時代の「放射能」を私よりはるかに大量に吸い込んでいるし、それに対する「抗体」もできているのだろうと思います。



いや、それはなかなかミュータントみたいですね。抗体は全くできていないですよ(笑)。
私は中間なのじゃないかなと思います。昭和の価値観も知っています。新しい価値観のメリットもわかっています。
ただ立場上、いろんな人たちと仕事していかないとならないということです。クビになるわけにもいかないでしょう。だから現実を見据えないとならないということなんですね。これは結構、メランコリックな気持ちになります。
そして前に書いたように、いろいろと考えて行くと、あまり希望はなさそうだな、なんて思うわけです。

まあ結局は、仕事とプライベートとを分けるということになるでしょうか。そして「わかりそうな人」だけに話すように気をつけて行くことでしょうか。できるだけネットではなくて、リアルでやらないとならないとも思っています。
ネットを介すると、ちょっとでも条件がいい相手がいると、すぐそっちにいってしまうでしょう。何というかな、相手の悪いところ・合わないところも受け止めて行くということにならないわけです。「めんどうだな」となると、直ぐに距離を置くわけですね。惚れるという感覚ではないけれど、他人を受け止めることは、人として必要なことだとは思っています。

しかし、そうであっても、現代の人間関係は脆くて壊れやすいのだなあと心の片隅で思っています。
友達の離婚をSNSで見て、あれだけの大恋愛で、立派な結婚式だったのになあ、夫について行ききれないか、うーむ、と唸ったところです。感受性が合う人を求めて行くと、そういう相手は得てして、SNS上の脚色されたアカウントにいたりするわけです。「この人じゃなくても、誰かいるか」みたいな発想になって行きやすいわけです。
それはそれで合理的なんですが、結婚ってそういうものじゃないような気もしています。

他山の石にしないとならないなと思っております。
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この回答へのお礼

>結構、メランコリックな気持ちになります

なるほど。

日曜日にある動画をたまたま見て、「ああこれだ!」と思った事がありました。

1983年のテレビ番組で、田原総一朗の司会で、野坂昭如・石原慎太郎・小田実・浜田幸一
という濃いメンツが「今の日本」というテーマで討論するというものでした。

ポイントだけ申し上げますと、彼ら全員に共通するものに「日本を何とかしたいという真摯さ」
を感じたということです。また、当時はそれが当たり前だったということを思い出しました。

私がサラリーマンだった時のことを思い出してみると、そんなに良かったわけでなく、すでに
皆の心は冷たくて、「タイムカード人間」でしたね。ただ、「倫理感」という真摯さが残って
いたことが違いかなと思います。

この「日本とか会社を何とかしなくちゃ」という倫理観が消えたこと(変質したこと)が昭和人
にとって一番耐え難い事だと思います。
それに代わるものが嘘だと思うから猶更なんだと思う。

若い世代を中心にして、これまでの価値観を廃棄して、自分たちの気に入るように価値観がこ
じつけられている、と私は思っています。

離婚が多いのは若い世代だけではないですが、人間関係が脆いとは言えるでしょう。だから、
距離を置く、自分を出さない、上っ面になる、そうせざるを得ないということになるでしょうか。
こじつけの価値観で成り立っているので、歪みが大きくなってしわ寄せがどうしても弱いところ
へ集まるのでしょう。ですから、社会の底辺をよく見ておかないといけないと思います。

それにしても、われわれの時代は結婚も就職も贅沢を言わなければそこそこの条件のものは(笑)
手に入ったのですが、これから就職をし結婚をする人は大変だなあと、しみじみ思います。

お礼日時:2017/09/23 20:33

そういえば教育You Tuberとかいう


数学とかの動画を上げている人たちがいますが、
あいつら私を煽ってきましたからね、
忌々しい、屑ども。
世の中には、肯定的に、凄い人たちがいるものだと思ったのに、
今や、憎悪の対象でしかない。
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4. 倫理道徳は 高貴な人種のつよさ・うつくしさに対するやっかみから
弱者が勝手につくった。

5. 天皇家も この《倫理》に合わせて 側室を排除した。あぁ 世も末
ぢゃわい。


☆ 教えて! ぐー。

Aベストアンサー

No.7です、

bragelloneさん、素直なコメントですね。


「つまり 《倫理・道徳》というものは 《つぶやき氏(=ニーチェ)》によれば 弱者が勝手にその弱さに合わせて都合よいようにつくったに過ぎない・・・と言ってるんです」
⇒そうなのですか。

ニーチェが心から、そのように言ってるとすれば、それはニーチェがおかしいですね。

何故ならば、倫理・道徳がなければ、社会は混乱の極みだからです。
倫理・道徳がある中で、密かに浮気がある、ということであれば何も問題はないでしょう。

つまり、浮気は”弱者は勇気も度胸もなく”とは無関係でしょうね。

Qこころのきずがなほらないことがあるか

▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか? 

信仰の有る無しにかかわらず。

それでこそ普遍神である。

Aベストアンサー

生まれつき備わっているもの。それは、神が無条件で与えた必要最小限の、<命>としての資質と意力。資質とは理性と感性。意力とは文字通り生きようというエネルギー。これらの能力が芽を出すのは、置かれた環境次第による。

人の場合、親がその環境を整えなければ<命>は生命、とは成り得ない。
心の傷が生まれつきのものなら、神でさえ直せない。言い換えればその傷は神が与えたのだ。

生きることで生じる傷は他者から受けたものであるはず。ただ、自身に因がある場合もあるか、とは思う。

☆ ブラジュロンヌさんの云わんとすることは、何となく分かっているつもりですが、それがいまだにうまく言葉にできないでいます。

Q教育哲学

教育の本質ということで「教育哲学」という言葉を思いついたのですが、
すでに学問の領域として存在していたことを知りました。

現代の日本において教育は、実利のみを動機とし、目的としていると思い
ます。これは、教育が欲望達成のための道具に成り下がっているというこ
とで、あるべき姿ではないと考えます。

教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?
また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

Aベストアンサー

>教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?

食糧の調達と保存と加工方法、それに栄養学、あとは哲学を教えるべきです。
上記を無償の義務教育として、それ以外は有料の選択科目とすればよいでしょう。

>また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

教師の収入・生活を確保するための議論は排除して、個人が自由に教育を買えるようにすることが重要です。
教育を買うだけのカネがない人達には、食糧の調達と保存と加工方法、栄養学、哲学だけは無料で(税金んで)教えるようにしましょう。

Q《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観

次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になる
べく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉
というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立
にはいささかの難ずべき点もない。

もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たち
は奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは
奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とお
そらく独り言を言うであろう。 

――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。

ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者に
よって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解す
るあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)
に引きずられるからにすぎない。

[・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体
とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと
論じている。省略します)・・・]

作用が一切なのだ。



[・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラ
とがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省き
ます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生
的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]

内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者にな
れるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し 
その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても 
それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼ら
は 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・
・・。

抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 
《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そ
してその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない
者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのよ
うに隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少
ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 
公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が
冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当
は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に
余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもって
いない。

[・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このよ
うに《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 
信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》
に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられ
ている。)・・・]

(ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よ
いとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))
 
・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM
・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_genealogy_of_morals/on_the_genealogy_of_morals.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲しいと記載している以上、ニーチェも自説が完全とは判断してはいないでしょう)
「よい」とは何か?、「わるい」とは何か?と言う事は、ニーチェは自分の「よい」、「わるい」しか述べていません。
第一論文ー17で述べている以上、これはみんなで考えて欲しいと言う事です。(その問題提起とは、「善」、「悪」の起源及び、その価値についてです)
なお、第二論文ー「罪」、「疚しい良心」および関連問題、第三論文ー禁欲主義の理想の意味するもの、でさらなる論争を求めています。(第二論文は、その性格上、社会を扱います)
あくまで、この論文集は、「善悪の彼岸」で問題を提起したつもりだったのが、そのように読み取る読者が少なかったので、論文の体裁で、論争を巻き起こす事を意図したものなのでしょう。(批判しやすいように、あえて明確に記載しています)

お礼ありがとうございます。
誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲...続きを読む

Q哲学に オッカムの剃刀は 要らないか

1. 必要だ。格調高いケチの原則でよい。

2. クリスマスツリーのカザリは要らぬが 樅の木は生きている。香りを放つ。
格調高いと言うが その言い方ではあいまいだ。生きた香りが必要である。それ
までを剃り落とすと言うなら 間違っている。

3. ~~~~~~~~~~~~~~~~
いやいや 何ごとも かたちから入るのだ。郷に入れば その思考形式が成り立
っている。それこそ生きている。相手を思いやり相手に合わせると言うではない
か。これをないがしろにして 何を伝えんとするのか。

そりゃあ かたちだけではダメだろう。中身がともなわなくっちゃ。

だけれど 近ごろでは――ひょんなことで告別式に出る機会があったのだが―― 
坊主が 漢文のお経を詠んでから 日本語でも説教するではないか。中身が分か
るように努力している。

そういうもんだ。飾りは 伊達にあるもんぢゃない。ぶっきらぼうで成功する確
率は みみずが論文を書くようなものだ。

せいぜい これくらいの長さで 話は するもんだ。剃刀というような物騒なも
のは要らない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 哲学に オッカムの剃刀は 要らないか。

1. 必要だ。格調高いケチの原則でよい。

2. クリスマスツリーのカザリは要らぬが 樅の木は生きている。香りを放つ。
格調高いと言うが その言い方ではあいまいだ。生きた香りが必要である。それ
までを剃り落とすと言うなら 間違っている。

3. ~~~~~~~~~~~~~~~~
いやいや 何ごとも かたちから入るのだ。郷に入れば その思考形式が成り立
っている。それこそ生きている。相手を思いやり相手に合わせると言うではない
か。これをないがしろにして 何を伝えんとするのか...続きを読む

Aベストアンサー

#2です。

>☆ 取りあえずは 趣旨説明における(3)の文章例で考えてみて

まず、繰り返しになりますが確認するなら、
「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」
のですから、
『ある事柄を説明するために、必要な(と思う)範囲では多くを仮定すべきである』
と言ってることになる。
☆日本語でも説教
したのも、坊さんが必要だと思ったからこそであり、「オッカムの剃刀」の範疇だという理屈になる。
というわけでオッカムさんは別にして、という条件で申し上げざるを得ませんが、
少なくとも、闇雲に剃刀を旗印にするのは単なる自己満足でしょう。
「これ以上の説明が必要なのはお前であって俺ではないのだから、わざわざ答えてやる気はない」と言ってるわけでもあり、その意味では、愛に欠ける、とも言えそうです。
ただ、リビドーとしての愛を他者へ放出するのはエネルギーを消耗するところから、個々の裁量の範囲、と言わざるを得ず、「愛に欠ける」と目くじらを立ててもしかたない。
論議するなら当然の条件だろうとおっしゃるでしょうが、この場合もやはり、論議すること自体がリビドーの放出になりますので、不当な要求をされたと逆恨みされるのが関の山。
シンプルイズベストではあるのですが、そのこと自体がシンプルに成立するわけではない、という気もする次第。

#2です。

>☆ 取りあえずは 趣旨説明における(3)の文章例で考えてみて

まず、繰り返しになりますが確認するなら、
「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」
のですから、
『ある事柄を説明するために、必要な(と思う)範囲では多くを仮定すべきである』
と言ってることになる。
☆日本語でも説教
したのも、坊さんが必要だと思ったからこそであり、「オッカムの剃刀」の範疇だという理屈になる。
というわけでオッカムさんは別にして、という条件で申し上げざるを得ません...続きを読む

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q肯定と否定と

最近、肯定ペンギンの赤ちゃんと言うキャラクターがスマッシュヒットしています。
曰く、癒されるとか、救われるとか。

お昼寝したの?えらい!
ご飯食べたの?えらい!
出勤したの?はなまる!

こんな感じで、コウペンちゃんは些細な事でも肯定してくれます。
肯定されたい人が少なくないのでヒットしていると思うのですが、裏を見れば当然、いつも否定されている、否定していると思われます。
一体何が否定され、何を否定しているのでしょうか。
ざっくばらんでいいので考察などいただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

言いにくいことをズバズバ言わねばならないようですが…

近頃の子供たちの「肯定」は、昭和の子育てを程度の悪いものとし、「我々は上質の
子育てをしている」という自己満足が前提の一つになっているという不自然さが存在
すると考えています。
これが、否定の始まりで、子に対する純粋な愛情の中に親の欲望が入っているだろう
ということです。
昭和の「教育ママゴン」も同じだったと思います。

また、保育園・小中学校でも「肯定教育」が基本であると思いますが、大人たちは子供
に対し「腫れ物に触るように」接しているだろうと思います。
これも、やんわりとした否定と言えると考えています。そして、イジメという否定が
あります。

街の中で人間ウォッチをしますと、大人が子供に話しかけるというごく自然な行為がまず
見られないのです。
横断歩道で子供が待っていたら車は止まります(昔は止まりませんでしたが)。子供を大事
にしようという雰囲気は感じられます。けれど皆近づこうとしません。
私も特に近づこうとしません。何かあったら嫌ですし、あまりかわいいとも思いませんし
(笑)。
これは、結構な否定じゃないでしょうか?

そんな子供たちが受験・就職という敗者には完全否定という経験をせねばならないし、よ
しんば勝者の中に入っても、冷たい世の中で「否定感」を感じないで生きることは稀だと
思います。

このことは昔から同じなのですが、子育てに厳しさがないので免疫が弱いだろうというこ
とと、人間の人間に対する愛情が弱くなっているという問題があると思います、これは実
感ですね。
ですから、知らず知らずのうちに世間からの「否定感」を心の中に蓄積させて、かわいい
ものに癒しを求めるようになっているのでしょう。

私もそうです。否定感は感じています。気が付けば動物の動画を見ていたりします。

言いにくいことをズバズバ言わねばならないようですが…

近頃の子供たちの「肯定」は、昭和の子育てを程度の悪いものとし、「我々は上質の
子育てをしている」という自己満足が前提の一つになっているという不自然さが存在
すると考えています。
これが、否定の始まりで、子に対する純粋な愛情の中に親の欲望が入っているだろう
ということです。
昭和の「教育ママゴン」も同じだったと思います。

また、保育園・小中学校でも「肯定教育」が基本であると思いますが、大人たちは子供
に対し「腫れ物に触るように」...続きを読む

Qknowledge, inteliigence and wisdom の違いは?

knowledge, inteliigence and wisdom の違いは何でしょうか?

日本語の訳はそれぞれ、

knowledge:知識
intelligence:知性
wisdom:叡智

ということのようですが、訳語のイメージに惑わらされずに、英語の単語の意味を正確に理解したいと思っています。

[質問1]
まず、knowledgeとintelligenceの違いはなんでしょうか。私はknowledgeに帰納法とか演繹推論などのlogicを付加したもがintelligenceかなと思うのですが、いかがでしょうか。
また、intelligenceはknowledgeを包摂する上位概念で、knowledgeはintelliegnceの「部分」と思っていますが、包含関係が成立し、真の部分集合になっていると思ってよいでしょうか。 K ⊂ I


[質問2]
次に、wisdomはintelligenceに価値判断を追加したものかと思うのですが、いかがでしょうか? 
「生命は貴重だ」とか「男女の価値の差はない」とか、「人生は苦である」など、
包含関係以外で「subject is predicate」という価値判断が含まれるのがwisdom、それは含まないのがintelligenceと考えて、よろしいでしょうか?
また、wisdomはintelligenceを包摂する上位概念で、intelligenceはwisdomの「部分」と思っていますが、包含関係が成立し、真の部分集合と思ってよいでしょうか。 I ⊂ W


K ⊂ I ⊂ W

英語の語彙に詳しい哲学関係の専門家からのアドバイスを頂けるとありがたいです。

どうぞよろしくお願いします。

knowledge, inteliigence and wisdom の違いは何でしょうか?

日本語の訳はそれぞれ、

knowledge:知識
intelligence:知性
wisdom:叡智

ということのようですが、訳語のイメージに惑わらされずに、英語の単語の意味を正確に理解したいと思っています。

[質問1]
まず、knowledgeとintelligenceの違いはなんでしょうか。私はknowledgeに帰納法とか演繹推論などのlogicを付加したもがintelligenceかなと思うのですが、いかがでしょうか。
また、intelligenceはknowledgeを包摂する上位概念で、kno...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
wisdomの難しい所は、intelligenceによらずに、正しい選択と言うか、正しい行いが出来る人がいる事です。
日本語の知恵も同じような概念ですが、知によらない賢さがあると言うニュアンスが、英語ネイティブでも、年齢によらないと言う回答を生んでいるような気がします。
intelligenceは、合理的な思考により、smartに通じますが、それが決してwiseとはならない場合もあります。
また、intelligenceは、他から学ぶ事が可能であると言うか、学ぶ事が出来る能力と言うニュアンスもあるようです。
それに反して、wisdomは、一種の判断能力であり、学習で身につくものでは無いと言うニュアンスが強いようです。


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