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北海道函館は、かなり昔は、箱館と書いたそうですが、今の函館になった事の、歴史を、教えて下さい。

A 回答 (1件)

明治元年に佐幕派の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が、箱館府の五稜郭を占拠し、明治二年に箱館政権を樹立し、箱館戦争が起こり、日本政府から分離独立というところまでいきました。

既に他の方が書かれているよう に、箱館が函館に改称されたのは、この戦争の直後です。
「箱」という字義に、蓋と本体を分離する構造という意味があるため、あわや日本から分離するかというところまでいった土地の地名に、この「箱」という漢字をそのまま使うのは縁起が悪いと当時の明治政府関係者は思ったこと でしょう。ですから、これを機に、蓋と本体が分離するという意味の「箱」を、 蓋と本体がくっ付いているという意味の「函」に変えたと考えられるのです。

また、正式なものとしては、それまで併用されてはいたが、明治4年(1871年)には「函館出張開拓使庁」という名称になっており、それ以降「函館」が用いられるようになってますね。

参考まで。
https://pucchi.net/hokkaido/history/hakodatename …
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この回答へのお礼

さんこうほどにのちゃん、ありがとうございます、今夜勤の仕事中、後でゆっくり拝読せて頂きます、ありがとうございます、

お礼日時:2017/09/20 21:42

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Q延暦寺はなぜ中世日本仏教のトップになったか

質問させていただきます。
日本史を勉強していると、比叡山延暦寺が多くの名僧を輩出しているのに驚きました。
密教の僧侶ならまだ理解できるのですが、『往生要集』の源信をはじめ、鎌倉新仏教の開祖たち(法然、栄西、日蓮)も比叡山で学んだそうです。
九条兼実の弟で『愚管抄』を書いた慈円も天台座主ですね。高級貴族の子弟などの出家先としても非常に重んじられていたのだと思います。
ふと疑問に思ったのですが、密教自体は日本仏教の中でもそれほど歴史は深くないと思います。例えば東大寺などの古い寺院に比べてなぜ延暦寺はこれほどまでに影響力を持つようになったのでしょうか。
鎌倉新仏教の開祖たちを見ていると、「仏教を学ぶなら取り敢えず延暦寺」という印象を受けますが、彼らが律宗や華厳宗などの旧仏教ではなく例えば「興福寺で学ぼう」とならずに比叡山に登ったのはなぜでしょうか?

個人的には(当時としては)「最先端の仏教・学問」だったのかなあ?と考えました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏教の本当の教え、究理はなにかを徹底的に知ろうとする人が出てきたのです。仏教公務員になることがねらいとうよりも、"私はもっと知りたいんだ!"のような志向です。 そういう志向でも、東大寺戒壇院を目指したのですが、東大寺戒壇院は基本は仏教行政という重要な役割から離れられない国家的性格があって、どうもしっくりない面が残っているし、密教的なもの、個人的学問追求には向いてないので、最澄は、山岳宗教的な個人研鑽修行も実行できる山の中に学習所を作ったのです。 ですから最初から、後代に円仁が説いた円密一致のようのを当然とするスタンスをもっていたし、最澄はとてもとてもとても厳しい研鑽と学問研究への専念を求めたのです。 そうした厳しい環境であることを知ってそこを目指したもの達がいたのですから、落後してしまう学僧が多数でたにしても、後代、優れた学僧、新しい理論を打ち立て信念で独立して新宗派をつくるものも輩出することになったのです。
高野山の場合は、叡山のようには様々な仏教思想を学び吸収するというような姿勢ではなかったので、スゴイ僧が出たとしても、叡山ほどには多数のスゴイ僧が次々開祖として宗派を作っていくようにはならないし、薬師寺、円宗寺、法勝寺、興福寺なども学僧の修練には熱心で論議を盛んに行っていたけれども、山中に三塔十六谷の諸堂があり 広学竪義を盛んにしたという経歴もあって、他の諸寺とはだいぶ違う状態になっていったのでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E5%AD%A6%E7%AB%AA%E7%BE%A9-1312963

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
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Q義経を殺すように命令したのは誰?

義経を殺すように命令したのは誰なのでしょうか?

義経が官位をもらい、それに納得しない頼朝が殺すように命令を出したのでしょうか?

Aベストアンサー

兄の源頼朝

Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q畳は日本の文化って大嘘ですよね? 戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

畳は日本の文化って大嘘ですよね?

戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

Aベストアンサー

存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
「御床畳」(ゴショウノタタミ)という木でできた台の上に置かれたものが、
奈良東大寺の正倉院に保管されています。
安土桃山時代の茶室は畳でしたよ。
一般的になったのは江戸時代後期です。
畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が
確立していき、庶民の家にも使用されるようになったようです。

Q浅井長政って信長さえ裏切らなければ大大名確実だったのではないですか?

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀吉の父というだけでほとんどの大名がひれ伏すような存在になったはずです。五大老の一員くらいは堅いでしょう。
関ヶ原の戦いでどちらにつくかで大きく変わってきますが(領地が近いので、争いに巻き込まれる可能性が高い)、それさえ乗り切れば江戸時代まで続く、伊達家・島津家・毛利家と並ぶ大大名になれたのではないでしょうか。
姉川の戦いに入る前に長政は相当悩んだでしょうが(昔の繋がりに味方するか妻の実家に味方するか)、その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀...続きを読む

Aベストアンサー

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、長政の事ですか。
姉川の戦いで敗れてからも、長政も浅井軍も健在です。

姉川の戦いは、実はただの局地戦です。
姉川の戦いは教科書では強調されて載っていますがそれほど戦況には影響していません。おそらく、徳川家が大活躍した戦いなので江戸時代にプロパガンダのように強調されて今にもその影響が続いているのでしょう。

姉川の戦い以降も、朝倉・浅井軍は健在です。それに加えて石山本願寺や三好三人衆などの第一次織田包囲網まで発展して、信長軍は東を守れば西が攻められ、西を守るために軍を動かせば東が攻められ、見たいな状態でどうにもならなくなります。

最終的には信長の巧みな外交力で講和に持ち込みますが、「講和に持ち込まなければヤバイ」と言うほどピンチだったと言う事です。
そうでないなら、圧倒的な軍勢で踏み潰せばよいだけなので。



長政や浅井一族が自害するのは、第二次織田包囲網で武田信玄が急死して戦況が一気にひっくり返って織田勢力が一気に優勢になり、小谷城を囲み本丸を落とした後です。

もしも武田信玄が後一年寿命が長ければ、織田家は滅んでいたでしょう。
勿論、その場合は浅井家は「朝倉についていて良かった」となります。



>上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり

信長が「天下は時間の問題」となったのは第三次織田包囲網で上杉謙信が死んでから信長が死ぬまでの三年三ヶ月だけです。
それまでは、薄氷の勝利を重ねています。全く余裕のない戦いを続けています。





>その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

分かれ道は、織田信長を裏切るかどうかです。
浅井にとっては、その後はターニングポイントはありません。

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、...続きを読む

Q女王について

何故女王のいる国では、息子が生まれるまで色々な手段を取らなかったのでしょうか?
大抵の王位って男性優位ですよね、女王が即位している理由や考え方を教えてください

Aベストアンサー

男だとか女だとかは関係ない。
 どちらにせよ出身母体の一族を率いる統領として、王なり女王なりになる。長子が生まれたらそれが次世代の統領。女ばかりでも、一族を束ねる技量が認められれば女王になる。

 知られていることだが、英国女王は祭儀を仕切る以上の権限がある。議会に対してもはっきりと「こうやって欲しい」という言葉をはっきりと伝える。日本のようなただの象徴ではない。

 現実問題として、男と女の産み分けなぞできないのに、その表面的な結果だけをみて云々言っても始まらない。

Q聖徳太子→厩戸皇子→聖徳太子、の変遷について

聖徳太子について、教科書への記述に関してです。
従来、聖徳太子と記述されたいましたが、最近、厩戸皇子に改められ、ついこの間、聖徳太子に戻りましたね。
なぜ、このような変遷(悪く言うと、右往左往)があったのか、経緯や理由などを教えて下さい。

Aベストアンサー

1999年に大山誠一氏が聖徳太子虚構説を出したのが大きいです。
推古天皇の子である聖徳太子の存在が虚構であって、太子の実績等も後の代に創作されたものだという説を出しました。
聖徳太子は否定したのですが厩戸皇子の存在までは否定しませんでした。
その影響で聖徳太子という記述が用いられなくなってしまいましたが、虚構説が出た直後から反論があり、
反論に対する十分な論証が出来なかった為、また元に戻ったという感じです。

↓wikiの聖徳太子のリンクページですが下の方に虚構説が少し出ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

古代史では邪馬台国は存在していなくて、邪馬壱国だったという説が昔ありましたし、
色々と調べると面白いですよ。

Q竜安寺をご存知ですか? あの竜安寺の石庭はなぜ何百年もあの綺麗な状態を保てているのかが聞きたいです。

竜安寺をご存知ですか?
あの竜安寺の石庭はなぜ何百年もあの綺麗な状態を保てているのかが聞きたいです。
ご回答宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

ごめんなさい。
回答失敗しました。
龍安寺の歌という歌がありますね。
検索してみて下さい。
https://www.google.co.jp/search?q=%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C&rlz=1C1CHZL_jaJP736JP736&oq=%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C&aqs=chrome..69i57&sourceid=chrome&ie=UTF-8

Q源義経 軍事的天才と呼ばれている理由

源義経が軍事的天才と呼ばれている理由はなんでしょうか?

わがままでもうしわけないのですが具体的にお願いします_(._.)_

Aベストアンサー

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏側としては、短期決戦したいものの、まともにぶつかっては勝てるかどうか。
そこで副将格の義経が、別働隊を率いて平家の後方を衝き、その混乱に乗じて範頼の主力軍が攻め込むと言う作戦を提案し、これが大成功と言う戦です。

別に平家側も油断していたワケではないのですが、まさか険しい山側から騎馬隊が攻撃してくるなどとは思ってもいなかったから、義経の狙い通りの大混乱。
これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
おまけに義経ってば、自ら率いた逆落とし別働部隊とは別に、これも有名な武将ですが、熊谷直実に側面攻撃部隊を率いさせると言う、用意周到さです。

ちなみに、この戦で熊谷直実に討ち取られたのが、平家一門の平敦盛で、この逸話は平家物語や、能の『敦盛』や幸若舞の『敦盛』として扱われ、超有名。
織田信長がよく口にしたとされる「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」も、幸若舞『敦盛』の一節です。
この先には、那須与一が見事、弓矢で扇を射抜いた話とか、義経の八艘飛びなど、源平の戦には多くの逸話があることも、義経人気に一役買ってますね。

東西と北に敵を構えた平氏は、南側の瀬戸内海に逃げるしかありませんが、7万の軍勢が一斉に船に乗って逃げられるハズもなく、溺死者なども多く出て。
この戦で平家は大惨敗を喫し、実質、崩壊してしまいます。

追討軍の指揮は、引き続き源範頼が執るのですが。
この兄ちゃんは、ちょっと出来が悪いのか、モタモタしちゃうから、一番上の頼朝兄ちゃんが怒って、義経に「アイツはダメ。お前が討伐へ行け!」と命じ。
義経は、短気な頼朝兄ちゃんの期待に応えるべく、ちょこっとの船で、海路、平家討伐に向かい、ここでも奇策や奇襲を重ね、見事に勝利を収めます。

一方でダメ兄ちゃんの範頼も、陸路、九州あたりまで平家の残党討伐を行い・・。
平家の本体を討伐し続けた義経と合流しして、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」で、平家を滅亡に追い込みます。

義経の軍事的な才能は、「型破り」と「スピード」でしょうか?
軍事の天才に求められるのは、「少数で大軍を撃破」みたいなエピソードかと思いますが。
義経は、それを策略などではなくて、型破りな奇襲と、それを相手どころか味方も驚く様な早さで、やってのけてます。

「やあやあ我こそは!」の時代に、思わぬところから、突如、騎馬隊が現れて、陣地に火矢を射込むなどして暴れ回ったりしたら・・。
現代で言えば、いきなり東京湾に謎の潜水艦群が浮上して、ミサイル発射・・くらいのインパクトかも知れません。

ただ義経は、危うさもあって、後白河法皇から「大将が先陣に立って戦っちゃダメ!」と叱られたりもするのですが、「コッチはハナから、死ぬ気でやってんだよ!」と逆らったりしてます。
もしかすると義経の「型破り」さは、「命懸けの強さ」とか、そんな覚悟から来る発想かも?とも感じます。

従い、後の戦国武将とかでも、上杉謙信などは義経を尊敬していましたが、武田信玄あたりは、あまり尊敬していなかったみたいで、武田家も、お家がゴタゴタしたので、最後は頼朝に殺された義経を、「出しゃばりすぎ」と見ていた様です。
しかし、謙信も信玄も、義経と同じく軍事的天才に挙げられるので、その二人に教師や反面教師とされた義経は、やはりスゴいですね。

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏...続きを読む

Q三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦

三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。
そこで気になったのですが、当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??
また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所と考えてよろしいのでしょうか?
どなたか詳しい方に教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それすら両陣営ともやや盛った数なので十万に届いていたかどうか。

>何十〜100万の兵
この数は当時の人にとってはSFファンタジー設定でした。
近代の戦争でやっと兵数「数十万」規模の戦闘が記録に登場します。古代と現代の人間の数がこれだけ違うことを考えれば、十万~100万の兵数がいかに思い切った架空設定であったか理解できるはずです。
あり得ない数で架空のお話を創って当時の観客を驚かせたのでしょう。なんでも派手なほうがエンターテイメントとして客を呼べますからね。

なお小説やコミックの『三国志』は三国時代以降に民間で演じられた舞台劇をもとにしたフィクションです。
小説家やマンガ作家の中にも現実を全く学ばずに書いている人が多いですから、あまり本気に受け取らないことです。


>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

他の方が回答されている通りです。
日本的に言えば「都市」「街」です。
城を攻略することはすなわち街を攻略することになります。
「●●城が陥落した」という表現があれば、日本では「江戸が陥落した(江戸城ではなく)」というイメージになります。

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それす...続きを読む


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