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日本史 世界史てなんですか
今日テストなどで

A 回答 (2件)

>どんな感じに出題されると思いますか?



日本への鉄砲伝来は西暦何年ですか?     答え 1543年
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは?  答え 1492年

ざっとこんなもんです。
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この回答へのお礼

あなたに会えてよかった

おっーありがとうございます

お礼日時:2017/09/23 17:28

日本史は日本の歴史。

世界史は世界の歴史です。
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この回答へのお礼

どんな感じに出題されると思いますか?

お礼日時:2017/09/21 07:23

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Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Q浅井長政って信長さえ裏切らなければ大大名確実だったのではないですか?

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀吉の父というだけでほとんどの大名がひれ伏すような存在になったはずです。五大老の一員くらいは堅いでしょう。
関ヶ原の戦いでどちらにつくかで大きく変わってきますが(領地が近いので、争いに巻き込まれる可能性が高い)、それさえ乗り切れば江戸時代まで続く、伊達家・島津家・毛利家と並ぶ大大名になれたのではないでしょうか。
姉川の戦いに入る前に長政は相当悩んだでしょうが(昔の繋がりに味方するか妻の実家に味方するか)、その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀...続きを読む

Aベストアンサー

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、長政の事ですか。
姉川の戦いで敗れてからも、長政も浅井軍も健在です。

姉川の戦いは、実はただの局地戦です。
姉川の戦いは教科書では強調されて載っていますがそれほど戦況には影響していません。おそらく、徳川家が大活躍した戦いなので江戸時代にプロパガンダのように強調されて今にもその影響が続いているのでしょう。

姉川の戦い以降も、朝倉・浅井軍は健在です。それに加えて石山本願寺や三好三人衆などの第一次織田包囲網まで発展して、信長軍は東を守れば西が攻められ、西を守るために軍を動かせば東が攻められ、見たいな状態でどうにもならなくなります。

最終的には信長の巧みな外交力で講和に持ち込みますが、「講和に持ち込まなければヤバイ」と言うほどピンチだったと言う事です。
そうでないなら、圧倒的な軍勢で踏み潰せばよいだけなので。



長政や浅井一族が自害するのは、第二次織田包囲網で武田信玄が急死して戦況が一気にひっくり返って織田勢力が一気に優勢になり、小谷城を囲み本丸を落とした後です。

もしも武田信玄が後一年寿命が長ければ、織田家は滅んでいたでしょう。
勿論、その場合は浅井家は「朝倉についていて良かった」となります。



>上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり

信長が「天下は時間の問題」となったのは第三次織田包囲網で上杉謙信が死んでから信長が死ぬまでの三年三ヶ月だけです。
それまでは、薄氷の勝利を重ねています。全く余裕のない戦いを続けています。





>その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

分かれ道は、織田信長を裏切るかどうかです。
浅井にとっては、その後はターニングポイントはありません。

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、...続きを読む

Q倭寇が歴史エンターテイメントの題材にならない理由

西洋では、海賊は「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カリブの海賊」などエンターテイメントの題材になっており、日本の漫画である「ワンピース」も、日本的というより西洋的な海賊を描いているといえます。

日本人は時代劇やチャンバラといった日本の歴史エンターテイメントは結構好きだと思いますが、日本の海賊である倭寇がその題材になることがほとんどないのは何故でしょうか?

Aベストアンサー

カリブの海賊だけが特別で、その他はただの
賊だったからだと思います。

カリブの海賊は、一時期、英国海軍の下請け
みたいなことをやっていたからです。

つまり、体制側の海賊です。

当時のカリブ海は、イギリス領土でしたが
スペインの攻撃があり、イギリス海軍だけでは
手薄だったので、海賊に特別免許を与え
領土を守る、ということをやりました。

つまり、その時は正義の味方だったのです。

その他の海賊はただの犯罪者ですから
英雄視するわけにはいかなかったのでしょう。

ちなみに、倭寇は元寇の報復だ、という
有力な説があります。

Q延暦寺はなぜ中世日本仏教のトップになったか

質問させていただきます。
日本史を勉強していると、比叡山延暦寺が多くの名僧を輩出しているのに驚きました。
密教の僧侶ならまだ理解できるのですが、『往生要集』の源信をはじめ、鎌倉新仏教の開祖たち(法然、栄西、日蓮)も比叡山で学んだそうです。
九条兼実の弟で『愚管抄』を書いた慈円も天台座主ですね。高級貴族の子弟などの出家先としても非常に重んじられていたのだと思います。
ふと疑問に思ったのですが、密教自体は日本仏教の中でもそれほど歴史は深くないと思います。例えば東大寺などの古い寺院に比べてなぜ延暦寺はこれほどまでに影響力を持つようになったのでしょうか。
鎌倉新仏教の開祖たちを見ていると、「仏教を学ぶなら取り敢えず延暦寺」という印象を受けますが、彼らが律宗や華厳宗などの旧仏教ではなく例えば「興福寺で学ぼう」とならずに比叡山に登ったのはなぜでしょうか?

個人的には(当時としては)「最先端の仏教・学問」だったのかなあ?と考えました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏教の本当の教え、究理はなにかを徹底的に知ろうとする人が出てきたのです。仏教公務員になることがねらいとうよりも、"私はもっと知りたいんだ!"のような志向です。 そういう志向でも、東大寺戒壇院を目指したのですが、東大寺戒壇院は基本は仏教行政という重要な役割から離れられない国家的性格があって、どうもしっくりない面が残っているし、密教的なもの、個人的学問追求には向いてないので、最澄は、山岳宗教的な個人研鑽修行も実行できる山の中に学習所を作ったのです。 ですから最初から、後代に円仁が説いた円密一致のようのを当然とするスタンスをもっていたし、最澄はとてもとてもとても厳しい研鑽と学問研究への専念を求めたのです。 そうした厳しい環境であることを知ってそこを目指したもの達がいたのですから、落後してしまう学僧が多数でたにしても、後代、優れた学僧、新しい理論を打ち立て信念で独立して新宗派をつくるものも輩出することになったのです。
高野山の場合は、叡山のようには様々な仏教思想を学び吸収するというような姿勢ではなかったので、スゴイ僧が出たとしても、叡山ほどには多数のスゴイ僧が次々開祖として宗派を作っていくようにはならないし、薬師寺、円宗寺、法勝寺、興福寺なども学僧の修練には熱心で論議を盛んに行っていたけれども、山中に三塔十六谷の諸堂があり 広学竪義を盛んにしたという経歴もあって、他の諸寺とはだいぶ違う状態になっていったのでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E5%AD%A6%E7%AB%AA%E7%BE%A9-1312963

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏...続きを読む

Qなぜ四角いものが多いのでしょうか 人が作るものには四角いものがとても多いと思います。それぞれのものに

なぜ四角いものが多いのでしょうか
人が作るものには四角いものがとても多いと思います。それぞれのものに、それぞれの理由があるかと思いますが、私が一番気になっているのは土地がなぜ四角なのかです。土地が四角だから効率のため、家が四角になり、家具も四角になったのだと思っています。

Aベストアンサー

日本は、木材を建物の材料にしたから。
縄文時代は、丸太のまま糸の柱にしたので、丸い家
弥生時代、平安時代に四角い柱や板にして、家を建てたので
四角い家で、四角い家具
丸い家具は竹などを使った。

Q義経を殺すように命令したのは誰?

義経を殺すように命令したのは誰なのでしょうか?

義経が官位をもらい、それに納得しない頼朝が殺すように命令を出したのでしょうか?

Aベストアンサー

兄の源頼朝

Q桶狭間の戦いの直前、義元はなにをしていたんですか?

桶狭間の戦いの直前、義元はなにをしていたんですか?

Aベストアンサー

普通に指揮を執っていたと思われます。
ただし、諸説ありますので、どれが正しいかわかりません。

よく言われる桶狭間の戦いは、圧倒的に劣勢な織田軍が
雨の中を敵中突破して、休憩中の今川軍を奇襲した。
酒を飲んで油断した義元は負けました。
という見解が多いと思います。
これは、小瀬甫庵の「信長記」からきています。
時代的には50年ほど後のもので、
後述の「信長公記」をもとにしたとされています。

信長の家臣で、太田牛一(1527-1623)が記した
「信長公記」という資料があります。
いくつかの表題があり、「信長記」「信長公記」などと
題されましたが、前述の「信長記」と区別して
「信長公記」と言われるようになりました。
信長の部下であったことから、史料としての価値は
こちらが上なので、こちらがより事実に近いとされています。

ここでは、信長と義元は「おけはざま山」で対峙して
信長は何度か突撃を試みました。
そして、機を見て全軍突撃を行ったとされています。
今川方は、精鋭を各方面に展開していたので
本陣は人数は多いけど手薄でしたので、
精鋭の信長に負けてしまいました。

普通に指揮を執っていたと思われます。
ただし、諸説ありますので、どれが正しいかわかりません。

よく言われる桶狭間の戦いは、圧倒的に劣勢な織田軍が
雨の中を敵中突破して、休憩中の今川軍を奇襲した。
酒を飲んで油断した義元は負けました。
という見解が多いと思います。
これは、小瀬甫庵の「信長記」からきています。
時代的には50年ほど後のもので、
後述の「信長公記」をもとにしたとされています。

信長の家臣で、太田牛一(1527-1623)が記した
「信長公記」という資料があります。
いくつかの表...続きを読む

Q先の大戦の相手がアメリカではなくソ連だったとしたら、どうなったと思いますか?

日中戦争の頃、今後の日本軍の方針としてシベリアを目指す「北進論」と東南アジアの資源を狙う「南進論」があったと聞きました。
結局南進論を選んだ日本はアメリカの経済封鎖を喰らい、石油を停められた結果、真珠湾を攻撃するという流れになったわけですよね。
もし北進論を選択したら、どうなっていたと思いますか?

敵はアメリカではなく、ソ連。
【ドイツ・日本連合軍 vs ソ連】という戦いになっていたはずですが?
もしソ連が勝ったとしても国力はかなり落ちたはずで、米ソ2大国による冷戦はなかったのでは?

Aベストアンサー

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を求めた。
それが満州。

中国大陸は大規模な市場とみていた米国にとって
日本の切り取り政策は明確な「敵」で
それであの手この手で日本を戦争に導いたわけです。

仮想的であったソ連への対策のために満州政策をしたのに
それで米国を敵に回した結果、ソ連と手をつなぐ施策までした。
戦前の日本はまったくもって、ま・ぬ・け、ですよね。

そんなマヌケな日本に
北進するか南進するかを自分で決める選択枝はありません。
国際政治に疎いアジアの田舎者が
百戦錬磨の欧米人に「踊らされた」だけですよ。

よって、申し訳ないですが
質問者さんの質問は、質問自体成り立たない。
まあ
単なる「戦艦大和と戦艦アイオワではどっちが強い?」
みたいな質問なら深読みも必要ないのでしょうけど
政策についてとなると、その前後が影響しますので。

過去を正しく読み取らないと
また欧米に「踊らされ」ますが
今の日本政治に過去と類似するところがないか
よく見極める必要はあるかもしれませんね。
そういうのを考えるのキッカケとしては
質問者さんの質問は鋭いかと思います。

回答ではなく意見になってしまいました(笑)。

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を...続きを読む

Q聖徳太子は中国の呉の中国人だったのでは? 伎楽の呉女の髪型と聖徳太子が連れてた子供の2人が同じ髪型で

聖徳太子は中国の呉の中国人だったのでは?

伎楽の呉女の髪型と聖徳太子が連れてた子供の2人が同じ髪型ですよね?

聖徳太子は呉から渡来した渡来人だったのでは?

Aベストアンサー

日本人がアメリカ人の真似をするのと同じで
当時は中国というのは
日本人にとっては憧れの国だったのです

なんでも真似をしていました

Q日本書紀は日本の最古の歴史を語る本ですが作られたのは意外に最近なのでは? まず日本書記の作者が朝鮮半

日本書紀は日本の最古の歴史を語る本ですが作られたのは意外に最近なのでは?

まず日本書記の作者が朝鮮半島の陰陽の陰陽の概念を日本書記の文中に取り入れているので朝鮮半島に儒教が存在している時代に書かれていると思われる。

日本書記の作者は朝鮮人だったのでは?

あと書かれた時代の日本最古の時代に作られた歴史書じゃないと思う。

あと天照大神はなぜ色んな言い方があるのですか?

日本書記は天照大神のことを大日めの貴と言っていますよね?他の書も天照大神のことを別に名前で呼んでたりします。なぜ色々な名前があるのですか?

Aベストアンサー

日本書紀の編纂責任者は天武天皇の息子舎人親王(676-735)ゆえ朝鮮人ではない。 編纂メンバーに朝鮮人が加わっていた可能性は排除できないが。 我が国の正史(国の定めた正式な歴史書)という意味では、「日本書紀」(720)が確実に最古だけど、単に歴史を書いた書という意味では、「古事記」(712)の方が古い。 ただし、古事記以前に「帝紀」や「旧辞」と言った歴史書が存在していた記録はあるが、今は散逸して存在していない。


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