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浅学なもので、徳川家を題材にしたお話を読んでいたのですが一部分からず質問させていただきました。

家光のときに長子相続が定められましたが、長子相続の場合、長男が子どものいないまま死んだ場合、次男が次の将軍になるのではありませんか?
四代家綱のあと、家光の次男には綱重がいたのに、三男綱吉が五代将軍になっています。

また、十代家治(八代吉宗の長男の子)が亡くなった際も、
吉宗の次男の子松平定信が存命であるにもかかわらず、
吉宗の三男の子一橋治済が第一候補に挙がり、その治済の意向で治済を飛ばし治済の息子家斉になったと読みました。

読み物自体がきっちりとした歴史ものではなく娯楽ものなので、「治済の意向で」のあたりは史実にない部分かもしれませんが、
血縁関係や将軍の順番、政策などは教科書で習った通りに書かれているものなので、
家斉が将軍の座に就いたときに松平定信が存命だったことは間違いないと思います。

この五代・十一代における序列のすっ飛ばしは何によるものでしょうか。
六代、八代の選出時には派閥争いがあったとされていましたが、この五代・十一代に関しては特に派閥争いがあったような描写はありませんでした。

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A 回答 (3件)

11代家斉についてです。


10代家治には家基という長男がいましたが、18歳で亡くなります。
その時、一橋治斉の長男を養子にします。それが家斉です。
ですので、家治がなくなった時点では、養子の家斉が10代家治の跡取りであったということができます。

家治には清水重好という弟もいましたが、子供がなく、本人も病弱だったようで後継候補から外れたようです。

松平定信については、家基死亡時20歳でしたが、養子にはなれませんでした。
時の老中田沼意次と一橋家の家老が、両方8代吉宗に紀州から付いてきて出世した、紀州党と呼ばれるグループに属していて、自分たちに都合のいい一橋家から擁立したためという話や、
ファンタジーの話ですが、家斉の生母は、一橋治斉が10代家治のお手付きの女性を貰い受けたお富の方という女性です。
貰い受けた直後に家斉が誕生したということもあり、10代家治としては、ひょっとすると家斉は自分の子供かもしれないかという気持ちもあったのかもしれませんね。

一橋治斉の意向ですが、御三卿はいわば部屋住みで、家格は御三家の下のため、親戚とは言え、将軍後継に口を挟める身分ではなかったようです。
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この回答へのお礼

なるほど、養子縁組をしており、形式上は家治の息子になっていたということなんですね。
それは私が読んだものには描かれておりませんでした。結構重要なところだと思うんだけどな……
しかし、男子相続だとそのように「誰の子か」分からない問題がありますね。血を残す意味では女子相続の方が適している気がしますが、合理性よりも女性蔑視の考え(というよりは、腕力のある男性が自分たちを優位にするために女性を侮蔑した扱いにした?)を優先したのかな……

お礼日時:2017/09/25 14:17

徳川綱重は兄の四代将軍家綱に先立って35歳でなくなっているようです。



松平定信は、田沼意次の政治に批判的であったため、冷遇されている。
また定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無であったようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
家基が亡くなったのちも、一度養子となると世継ぎ対象にはならないのでしょうか?

お礼日時:2017/09/25 14:09

5代目については


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D …
に理由が書いてあるね.
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この回答へのお礼

次男は長男より先に亡くなっていたのですね!
こちらはすっきりしました。ありがとうございました!

お礼日時:2017/09/24 00:11

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