あなたの「必」の書き順を教えてください

次が たたき台です。フルボッコで批判をどうぞ。
 
1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリの
ことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に
顔を赤らめます。

2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずで
す。それを 自然本性なる心と呼ぶとよい。さらにこれを善と呼ぶとすれば 
悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を
受け欠けていきます。

3. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減
らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。




4. ということは 悪は 自然本性なる善から起こるのか? ――然り。

5. どのように? ――われらが自然本性は かなしいかな・いかんせん
限りがあり移りゆかざるを得ない経験的で相対的な《よさ》ゆえである。

6. よさを――心に逆らって・ヤマシサ反応を押し切って――損なう誘惑
によわく 誘惑についてゆくときのウソ・イツハリを正当化する自由意志の
自由度をも持っている。

7. かの園で アダムは 《アダムよ アダム きみはどこにいるのか?》
という心の声を聞いた。《ここにいます》と答えると 《どうして心を曲げ
たのか?》と訊かれた。

8. 《連れ合いのエワが いざなったからです》。エワが 説明するには
《あの誘惑がわたしの気を引いたからです》と言う。
  
9. ここで《生きる》とは 《おのれの心にも逆らう自由度を持つ意志自
由において生きること》であることが定まった。これを自覚した。

10. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。善とは ふつう
に日常生活を うんうんとおのれを推して ぢみちに生きることである。

A 回答 (7件)

釈尊がある家庭を訪れて、子供がおままごとをしていた。

子供は釈尊に泥で捏ねた団子を与えた。この子供は王になる。

この子供は、釈尊を釈尊だとも認識していないし、自分が食べられないものを与えていることも知らない。

母親がいつも自分にしてくれていることを素直に真似してみただけだ。こどもは知らないが、母親は毎日苦労して食料を集めてくれる。

善は親の愛によってつくられる。



賞罰正しきものを仏と云う、とも聞いたことがあります。なんらかの国を形成するとき、わたしは何かしらの困難を感じます。

賞罰が正しいひとが指導者なら、人々は活力を得て、賞罰が正しくない指導者なら、人々は活力を失うといいます。


人々の活力を損なわない政治なら善と言えるでしょうか。


ただ、見返りを求めない善と見返りを求める善がありますが、いまはひとりひとりの善について考えているでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 釈尊がある家庭を訪れて、子供がおままごとをしていた。子供は釈尊に
泥で捏ねた団子を与えた。この子供は王になる。
☆ ゴータマ・ブッダ観について まさに正反対であるかも知れません。

ゴータマは この上なき知恵のさとりについてその内容を ついぞ明らかに
しませんでした。(法華経でシャーリプトラが 説明を懇願しても 人びと
を混乱に落とし入らせるだけだからと 説明を拒んだ)。

つまり 生涯で伝えたことは 大化城――まぼろしなるさとり――です。

昔の話として考慮しなければならないでしょうが 《ひとが王になる》こと
に何の特別の意義もありません。みな どんぐりの背比べです。


★ ~~~~
母親がいつも自分にしてくれていることを素直に真似してみただけだ。こど
もは知らないが、母親は毎日苦労して食料を集めてくれる。

善は親の愛によってつくられる。
~~~~~~
☆ これは そういうことなのでしょうね。



★ 賞罰正しきものを仏と云う、
☆ 賞罰は 人間の判断するところです。これも 程度問題だという見方を
します。

★ 人々の活力を損なわない政治なら善と言えるでしょうか。
☆ 活力のあふれていることが よいことなのは 間違いないでしょう。

問題は 善悪観を何か固定的な物指しで判定するものと見ているとしたら
その倫理の理論です。

善は 相対的です。そして 《生きる》が善だと定義するなら これは 基
本としてひとりの個人にとっての判断です。

社会として善かどうか。これも あり得ましょうが あくまで第二次的な倫
理なのだと思います。

★ ただ、見返りを求めない善と見返りを求める善がありますが、いまはひ
とりひとりの善について考えているでしょうか。
☆ はい。ここですね。わたしの側に引き寄せて捉えるなら。

社会的経済的政治的な問題については たとえば社会保障費の分担が 年齢
層によって違いが出て来る。高齢者にとっては善で ほかの人にとっては悪
であるかも知れません。

配分については どこかに歪みや犠牲のような部分が出やすい。マクロでの
善というのは 判断しがたい。

スペースの関係もあり 簡略すぎるかも知れません。おまけに断定口調でし
た。ツッコミを期待します。

お礼日時:2017/10/01 15:16

天台大師によると、法華経の前半部分はひとの生まれや育ちのようなものを残した人間の成仏を表していて、前半の部分には(真の)師弟は永遠にともに歩むことを約束しています。

そこには仮の目的地でも、歩んだ意味があると説かれていると思います。
法華経の後半部分で弥勒菩薩も知らない釈尊にまったく引けを取らない菩薩が現れ、その第一人者に法を授けています。前半の生まれや育ちのようなものを残した人ではなく、永遠にある生命の次元で法を授けているようです。この法は一人の舎利弗では保つことができないものです。真の師弟が永遠にともに歩むことを前半で約束しているので、後半の地涌の菩薩の中のどこかに生まれや育ちの仮象を取った舎利弗はいるのかもしれません。

善悪・倫理の話から少しずれてしまってすみません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 天台大師によると、・・・
☆ 問題は 哲学としてどう判断して位置づけるかになると思います。
ここでは 《ありがたいお話》から離れると言いますか リセットし
て捉え直します。


★ 成仏
☆ とは何か? その定義から始めます。

★ (真の)師弟は永遠にともに歩む / 永遠にある生命の次元
☆ 《永遠に》とは何を言うのか?

★ 仮の目的地でも、歩んだ意味がある
☆ 本人にはあるのでしょうが ほかの人間から見て どういう内容
の意味があるのか? 言った本人が説明しなくては。

★ 生まれや育ちのようなものを残した人ではなく
☆ というのは 苦(ドゥッカ)から解脱したというさとりを言うの
でしょう。

では そのさとりとは? と訊くと 《苦から自由な状態》という答
えがあり 《苦》とは? と訊くと 《さとりを得ていない状態》だ
と言います。


★ 釈尊にまったく引けを取らない菩薩(地涌の菩薩?)が現れ、そ
の第一人者に法を授けています。
☆ 議論を端折りますが けっきょくすべての人にブッダターなるさ
とりの素があるというのと同じだと思います。

指導者になる人が現われるということが言えても 指導者のあり方は
それぞれ特徴があると同時に 互いに優劣を競う必要はないと考えま
す。

★ 永遠にある生命の次元で・・・の法は一人の舎利弗では保つこと
ができないものです。
☆ と誰が判断するのか? そのダルマは 《永遠》ならば 普遍神
であって 誰にでも――信仰の問題としては――開かれているはずで
す。


こんな感じで捉えています。


★ 善悪・倫理の話から少しずれてしまってすみません。
☆ もちろん構わないのですが ゴータマ・ブッダ論は すでに嫌と
いうほど 質疑応答して来ています。

あらためてやってもいいですが。

お礼日時:2017/10/01 16:49

善悪の感情が発生するのは、個(自身)に執着するか全体(他者)に思いを寄せるか、に因ります。



他者による評価(理性)もそのような判断になります。

《生きる》は、善でもなく悪でもなく《生き方》で善悪が生じます。

と、考えてみました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 《生きる》は、善でもなく悪でもなく《生き方》で善悪が生じます。
☆ その生き方の中身は 次でしょうか?

★ 個(自身)に執着するか全体(他者)に思いを寄せるか
☆ これは 主観にあっては或る程度決まるのでしょうが ほかから見
ると 分かりにくいように思います。

猿は木から落ちても猿であるが 代議士は選挙に落ちたら ただの人と
言います。それだから 選挙運動に――代議士に当選したあとでも と
いうことですが――専念すると言っても間違いではないようです。

つまり:
★ 個(自身)に執着
☆ します。ただしもちろん 政策をも勉強し これを実現させるよう
努めます。つまり:
★ 全体(他者)に思いを寄せる
☆ ことをも 同時におこないます。少なくとも そう見える姿勢を採
ります。

これぢゃ 判定することがむつかしい。ですね?

と考えましたが どうでしょう。

お礼日時:2017/10/02 05:04

判定するのが難しいのが“人間”と云うものです。


善的な資質も悪的な資質も持っている、という事です。

だから、生き方が善悪を生み出すのです。
自活できる前の”生”に善悪はありません。

自活によって成長する段階はまだ自己の確立のための時間。
その過程に於いて善悪の意識が芽生えそして認識します。

この意識、そして認識は理性に拠って得る事になり、そして感覚あるいは感情によって知る事になります。
この段階では“生”への力が強いので、保身的心情から理性に由る自制心が現れ、そして感情に由る善悪の葛藤が始まります。

今、ふっと思いつきました。
保身的精神から発生する善を偽善と云う、と。
命そのものは人間以外の生命と同じで、善悪はないでしょう。

このように考えてみました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 判定するのが難しいのが“人間”と云うものです。
善的な資質も悪的な資質も持っている、という事です。
☆ これは おおむね共通の前提事項ですよ。

★ だから、生き方が善悪を生み出すのです。
自活できる前の”生”に善悪はありません。
☆ これには 反論します。

わたしの定義では 《悪的な資質》は 《〈生きている〉という自然本性
の中から出て来る。つまりその内の自由意志に 〈生きる〉自由とそれに
逆らう自由度がもともとある。この後者から 悪的な資質が出て来る》と
見ています。へそ曲がりの問題です。

★ 生き方が善悪を生み出す
☆ ときには やはり人間というものが生まれつき持っている《善的なと
悪的なそれぞれ資質》から出て来るのではないのですか?

それが むしろ善と悪とに分かれるという《生き方》の違いになるのでは?

★ 自活できる前の”生”に善悪
☆ の《資質》があるのでは?

★ 自活によって成長する段階はまだ自己の確立のための時間。
その過程に於いて善悪の意識が芽生えそして認識します。
☆ だとしても もともと《資質》としてあったのでは?

★ この意識、そして認識は理性に拠って得る事になり、そして感覚ある
いは感情によって知る事になります。
☆ 感性をとおしての《感じる・知覚》とこれを概念として認識する悟性
ないし理性とでしょうね。

★ この段階では“生”への力が強いので、
☆ これは ただ ウソ・イツハリを言った経験が少ない段階ということ
では?

★ 保身的心情から理性に由る自制心が現れ、そして感情に由る善悪の葛
藤が始まります。
☆ ですから ウソ・イツハリに慣れてしまうと 容易にそちらの方面へ
走り勝ちになります。生きる――われも生きるし なれも・かれも生きる
――自由としての善と そしてそれにさからう《負の善》と。ではないの
ですか?

★ 今、ふっと思いつきました。
保身的精神から発生する善を偽善と云う、と。
☆ そうだと同意すると同時に この偽善をそれほど咎めることもないの
ではないか?

配偶者や子どもたちを 路頭に迷わせることは出来ないというやむにやま
れぬ事情と理由があります。

★ 命そのものは人間以外の生命と同じで、善悪はないでしょう。
☆ という見方と同時に 生きるのは よきことでは?

お礼日時:2017/10/03 13:19

私の手には負えない事柄ではありますが、あえて考えてみました。



《生》に内在する資質についてブラジュロンヌさんは取り上げていますね。私は、自我の確立する前の《生》に善悪はない、と云いましたがその資質の内在することは認めています。その内在する、という事は例えれば歩く道(庭)が用意されているという事です。さらに表現を変えれば、悪の庭もあれば善の庭もある、という事です。もちろん一線を画してこちらが善、こちらが悪、といった明確さはありませんが。

そして自我の確立とともに、自身でその庭を歩き始めます。そして学びます。その学びの中に自身にとっての良し悪しが当初は善悪となりますが、成長するに合わせて経験を通して、理性が自身にとっての好都合に疑問を投げかけ、感情としては、ブラジュロンヌさんの表現を使えば”やましさ反応”が現れるのです。

個としての生命は、他の生命を糧として生きなければなりません。
ただ、人間だけがその行為・生命と云うものに疑問を持ちます。なぜでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 《生》に内在する資質
☆ わたしの場合は 倫理にかんしては 《意志》の問題です。その自由
つまり 本性としての自由に逆らう自由度をも持つ自由です。

生きる自由と この自由(自由意志)はそれに逆らう自由度を内部にその
部分として持っているという見方です。

前者が 善。後者が 負の善。善に反抗する自由度。これを ひと言で言
えば 悪と言うと。

その意味で:
★ 私は、自我の確立する前の《生》に善悪はない、と云いましたがその
資質の内在することは認めています。
☆ という捉え方については げんみつに扱いたい。

《資質》は 生きる意志とその自由です。ただし この人間として授かっ
た自由意志は その生きるという自由に逆らう自由度をも持つ。

意志が相対的な能力で 精神も移ろいゆかざるを得ないハタラキであるな
ら 道を歩いて ふと曲がる。道を逸れる。といった付属的資質です。


★ その内在する、という事は例えれば歩く道(庭)が用意されているとい
う事です。さらに表現を変えれば、悪の庭もあれば善の庭もある、という
事です。もちろん一線を画してこちらが善、こちらが悪、といった明確さ
はありませんが。
☆ なる説には 敏感に反応します。《自由〔としての善〕》は ひとつ
です。その中に へそ曲がりの自由度がある。です。善とそしてそれとは
別に悪がある・・・という見方は 採りません。

★ そして自我の確立とともに、自身でその庭を歩き始めます。そして学
びます。その学びの中に自身にとっての良し悪しが当初は善悪となります
が、成長するに合わせて経験を通して、理性が自身にとっての好都合に疑
問を投げかけ、感情としては、ブラジュロンヌさんの表現を使えば”やまし
さ反応”が現れるのです。
☆ ヤマシサ反応は すでにへそ曲がりの自由度が芽を出すときにおのづ
から起こります。大いなる自由(善・生きる)の中に ひねくれた自由度
が起きる。そのときにです。

★ 個としての生命は、他の生命を糧として生きなければなりません。
ただ、人間だけがその行為・生命と云うものに疑問を持ちます。なぜでし
ょうね。
☆ わたしは ドライ派ですが そういう問題・主題もありますね。

今回は わたしの側は 必ずしも論証していないようです。どちらもです
が。

お礼日時:2017/10/03 19:26

人間の原始時代は人としても、まだ動物性が強く善悪の感覚はなかったと思います。

時を経て人間は人としての理性が発達し、情的にも感度が増して善・悪という感覚が生じたと思えば人の命にはもともと、そうした要素が備わっていたのだろうと思えます。

人の“やましさ反応”は自己を利する行為から生まれます。他者を害する行為から生まれます。
ただし”やましさ反応”が現れない人もいて、そうした精神の持ち主は犯罪と云える行為を行い、平然としています。

人間全体としては、これまでの人間社会の流れから性善説を当てはめたくなりますが、一部の犯罪者には性悪説が似合います。

現時点での人間の置かれた立場は、善と悪との綱引きの真っただ中ですね。

個、の意志ではなく”何らかのチカラ”に影響を受けていると思います。
この”何らかのチカラ”が人の善悪の感情と理性とに成った、と見たいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人間の原始時代は人としても、まだ動物性が強く善悪の感覚はなかった
と思います。 
▲ (創世記 2章) ~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html
2:9 また主なる神は・・・〔エデンの〕園の中央に命の木と、善悪を知る
木とをはえさせられた。
・・・
2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からで
も心のままに取って食べてよろしい。 2:17 しかし善悪を知る木からは取
って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
~~~~~

★ 時を経て人間は人としての理性が発達し、情的にも感度が増して善・
悪という感覚が生じたと思えば人の命にはもともと、そうした要素が備わ
っていたのだろうと思えます。

★ 人の“やましさ反応”は自己を利する行為〔☆ を自覚したとき 良心〕
から生まれます。他者を害する行為〔☆ を思ったことに気づいたその意
識〕から生まれます。

★ ただし”やましさ反応”が現れない人もいて、そうした精神の持ち主は
犯罪と云える行為を行い、平然としています。
☆ それは 慣れっこに成ったあとの状態です。誰でも ヤマシサ反応は
初めにはそなわっていると思います。

★ 人間全体としては、これまでの人間社会の流れから性善説を当てはめ
たくなりますが、一部の犯罪者には性悪説が似合います。
☆ 生きる自由を善と見なすことは 性として善や悪やと規定する人間観
とは別だと思います。

仮りの極端な見方として言えば 性悪説に立っても 良心のハタラキとし
てヤマシサ反応が起きるという問題です。

ヤマシサ反応は かなしいかな・如何ともし難く それを振り切って進む
自由度を人間の自由は持つ。という内容です。

★ 現時点での人間の置かれた立場は、善と悪との綱引きの真っただ中で
すね。
☆ 面の皮が厚くなったということだと思います。

★ 個、の意志ではなく”何らかのチカラ”に影響を受けていると思います。
この”何らかのチカラ”が人の善悪の感情と理性とに成った、と見たいと思
います。
☆ 歩くとき まっすぐ歩かない。気づかない内に脇に寄って行き 道草
を喰うのだと見ます。

お礼日時:2017/10/03 22:05

フルボッコでいいんですか


質問が長げ~  
無知 無能の 裏付けのない空言に聞こえる

悪は 自然本性なる善から起こる・・・・誰 言ったのは
おのれの心にも逆らう自由度を・・・・何処の専門書にあるの

生物学的脳の働き 生命の実体 深層心理
更に 幼児教育と 善と悪とが作られる過程
その特徴と本質 
更に
生命の 個別化の原理 差別化の実態
個性化の方程式 表層に表す過程 

など  お勉強なすってからでないと
恥じをさらしますよ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 悪は 自然本性なる善から起こる・・・・誰 言ったのは
おのれの心にも逆らう自由度を・・・・何処の専門書にあるの
☆ ここで バカ丸出しだと思った。というより 冒頭の発言
のあと それを確信した。


つまり この回答における悪は 事大主義あるいは肩書き信仰
のようだね。

そういう自由な意志の行使にもとづくものです。

自然本性のままでは 自信がないので 何かお墨付きに頼る。
・・・このクセのようです。

直すとよいですよ。

お礼日時:2017/10/09 10:04

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