プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 《まだ知られていない》が いづれ――推量なのですが――《知ること
が出来るであろう》と見なす場合は 《未知》です。

2. 《未知》の中で これこれの問いはどうも正解が見つからないし その
知り得ないことが証明されたという場合 これは 《不可知》です。

3. 《未知》ではあるが それと同時に 《いづれ知ることになるだろうと
も言えない》場合 これを《非知》と呼ぶとよいはずだ。




4. 《いづれ知ることになる》とは決して言えない場合というのは 《絶対》
の領域のことだ。

5. 経験的で相対的で限りあるその生と能力が移ろいゆかざるを得ない人間
にとって 絶対は いつかはそれを知ってやろうと思っても 無理である。無
理でなく知ったという場合には その人は絶対なる存在になったことになる。

6. ただし・ぎゃくに絶対なる場は 《知り得ない》か? と言えば それ
についての答えも分からない。というのが 人間の成し得る理解である。




7. 知り得るか? も分からないし 知り得ないか? についても分からな
い。しかも この二つのことが 同時に成り立っている。これが 非知だ。

8. まとめよう。《知り得るか 知り得ないか いづれとも知り得ないナゾ》
これが 非知だ。

9. 言いかえると ひょっとすると 人はこの絶対――神のことだが――を
知り得るかも知れない。そのとき同時に 知り得ないかも知れないと認識して
いれば 成り立つ。

10. 知り得るとも 知り得ないとも どちらか一方にだけ片寄った捉え方
をまぬかれていれば その神を人間は如何ようにも 捉えて間違いではない。

11. 《無い神》を同時にみとめつつ《有る神》派に立つことは 可能であ
る。そのぎゃくも 然り。

12. 《非知》からみちびいたこの《普遍神》にもとづくなら わたしたち
が かの宗教から完全に自由になること 請け合いである。世界は どれだけ
富士山の日本晴れになることか。

☆ いかに?

質問者からの補足コメント

  • ★ (回答№8) 超越知
    ☆ につきましては 何か《神秘思想》のことを言っていると受け
    取られるかも知れないと思いました。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/07 08:18

A 回答 (8件)

なるほど。


お礼で語られたのは蛇足ではありませんね。的を得て(射て)いると思います。
超えるという語を重視するならば、非経験ではなく超経験と言った方がより表現したい意味に近くなるように思えました。
超えるという事は、超えた対象をまさしく超越しているので、超越した対象と無関係ではありません。全ての経験を、含みつつ超えているのです。こういう言い回しは、神と呼ばれるものの性質を表す時に用いられる表現の一種であると思います。
一方、非経験と言う言葉には、どこか経験に非ずと言う事で、経験世界と全く関係しないというニュアンスを私の場合は感じてしまいます。
ですので、非知についても、超越知とした方が、非常に濃い意味の言葉になりますが、表現したいことに当たっているのかなとも思いました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

そうでしたか。まづは ご回答をありがとうございます。

そうですね。
★ 超経験 〔あるいは 超自然〕
☆ この言葉は すでに一般に通用していると思います。わたしも使って
います。

そしてまた 《人知を超える》なる表現にもかかわっています。

単純に言って 《経験世界を超えたところ》 これを《非経験の場》と呼
ぶ。というかたちを採って来ました。

つまり 《人知――可知(既知と未知)および不可知――を超えたナゾ》
は 《非知》と呼ぶとよいであろうと。



さて:
★ 非知についても、超越知とした方が
☆ このご提案については 或る程度はっきりしたお応えができると思い
ます。

非知とわれとの関係は 思考(および感覚)に非ずなんだと思います。

思考を超えているのですが 《超思考》と言うと それでも思考している
・思考とどこか直接にかかわっているという印象をあたえます。

すなわち・それゆえ 《信じる》は 非思考の庭と言う必要があります。

その意味では 信じるの対象(非対象)について 非知なるナゾと呼ぶの
がよいと。




そのあとでは 非知なる超経験と経験とのカカハリを仮想します。

《非知なるナゾを受け容れたわが心(メタ心?)としての非思考の庭》か
らは ヒラメキが得られて そのイメージや断片(ヒント)が思考となる。

また 良心とよぶハタラキが起きる。それは わが自然なる心に逆らう思
いに対しては 赤面といったヤマシサなる感覚を起こさせる。

――というふうには つながっているのではないかと仮想しています。
次の仮説(理論?)の具体例になるかと。
★ 超えるという事は、・・・超越した対象と無関係ではありません。全
ての経験を、含みつつ超えているのです。


こんな感じになるでしょうか。
三人寄れば文殊の知恵とは よく言ったものだと あらためて思いました。





蛇足です。:
超越神は――遍在するというとき―― あたかもニュートリノのごとく経
験世界をつらぬいて来て あたかも人びとにつねにメールを送っているか
も分かりません。

あらゆる事象が メールであるのかも。

あるいは かの絵のごとく 指先がいまにも触れなんとするかのように 
わが心に迫って来ているのかも。

(という見方をまじえると センチメンタルになるかも分かりません)。

お礼日時:2017/10/07 05:40

咀嚼していただきありがとうございます。


そして、超えると言う言葉がでてきました。
この超えると言う事についてもう少し考えて見たいと思います。
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この回答へのお礼

ていねいにご回答をいただき ありがとうございます。

そうですね。お待ちします。




蛇足としましては:

《知り得る範疇にある・ない》と規定すると その範疇には《それ
自体とそれではない場との 境界》が知り得ているという感じをあ
たえます。


言いかえると 《経験世界と非経験の場とを隔てる境》があるかの
ような認識を得させます。

非経験の場は 経験世界とは 絶対の隔たりがあると捉えますが
その意味は 経験世界を《覆い包んでいる》かも分かりません。

もしそういう推理にもとづくなら 非経験なる神は 経験世界に遍
在するといった見方が 成り立つかに考えられて来ます。

そういった問題として 《超える》という表現が用いられるものと
思います。

お礼日時:2017/10/06 16:06

知(れ)る範疇に無く、知ら(れ)ない範疇にも無い、それは知に非ず=非知。


と言う感じではどうなのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ん? 
あっ。つまり その場合には:
★ 知(れ)る範疇に無く、知ら(れ)ない範疇にも無い
☆ を どのように規定しているかです。



《知る範疇にあるか無いか》あるいは《知らない範疇にあるか無いか》
――まづこれを物指しとしたという場合それは なお主観的すぎるよ
うに思います。

つまり 《知る範疇に無く 知らない範疇にも無い》と或る主観が言
う場合 その範疇は――人によってこの物指しの中身が違って来るの
で―― 確定しないと。

《知らない》を勝手に決めている場合があり得るのではないかと。




《知られる》を やはり《知り得る》に言いかえて考えますが:

《知り得る範疇に無く 知り得ない範疇にも無い》――これは むつ
かしいですね。 

まづ でも 《知り得る範疇に無い》というのは やはり《人知の及
ぶところではない》と言っていますよね。

おそらく その範疇にあるのは 《経験事象》のことだと言ってよい
はずですが。

ということは このひとつの規定で おおよそ《非経験の場》のこと
を言おうとしているのでしょうね。

たぶん それが非知のことだと言うためには 《知り得る範疇を超え
ている》と表現するのが 精確だと思います。《無い》と規定するの
は 人知がそこまでは及んでいますから。


《知り得ない範疇にも無い》。これは 割り合い分かりやすいです。

《知り得ない》だけでは なお確定しない。つまり 《知り得ないと
知り得た(証明できた)》なら 不可知として確定します。

不可知以外というのは 可知(既知と未知)そして非知です。




《知り得る範疇に無く 知り得ない範疇にも無い》というひとつの規
定は どうなるか?

もし 《知り得る範疇としての〈既知〉でも〈未知〉でもなく 知り
得ないと知り得た範疇としての〈不可知〉でもない》とすれば 非知
を言い当てることになる。と思いますが いかがでしょう。


つまりその場合には 《既知と未知(これらは 可知)》および《不
可知》が 経験事象のことを言っており それら以外の《非知》とは
やはり非経験の場を言うことになると。


さもなければ 《知り得る範疇を超えており かつ 知り得ないと知
り得た範疇をも超えている》という表現。

お礼日時:2017/10/06 08:49

うーん。

。。
《まだ(未だ)知られていない》は、字ずらからも《未知》=(今は未だだが)「いずれ知ることができる」ではないでしょうか?

《まだ知られていない》の中に《非知》を入れられるのですか?

《知ることが出来ない》=《不可知》の中に入るのかと思っていました。

もしかして、《非知》は、《未知》と《不可知》のどちらにも入り得る、あるいは、どちらにも入り得ない、ないし、それすら《非知》であるということでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 《まだ(未だ)知られていない》は、字ずらからも《未知》=(今は
未だだが)「いずれ知ることができる」ではないでしょうか?
☆ 見方を同じくします。

★ 《まだ知られていない》の中に《非知》を入れられるのですか?
☆ おっしゃるとおり 《まだ》がおかしいですね。

ということは 取りあえず捉えたとき 《まだ知られていない》と見
えたというふうに 大目に見ておけるなら そうしてください。

★ 《知ることが出来ない》=《不可知》の中に入るのかと思ってい
ました。
☆ いえ。これは 《知り得ないと証明できた》=不可知です。その
点 しっかりしていると思うのですが。

★ もしかして、《非知》は、《未知》と《不可知》のどちらにも入
り得る、あるいは、どちらにも入り得ない、ないし、それすら《非知》
であるということでしょうか?
☆ ちょっと錯綜しているように思います。

知り得るか?――分からない。
知り得ないか?――分からない。
そして どちらも 分かるか分からないかが分からない。

だから 知り得るかも知れないし 知り得ないかも知れない。

・・・これが 非知になります。



いづれ知り得るだろうという見なしがあれば 未知と決まり
知り得ないと証明できたのなら 不可知と決まります。



非知が 知り得るかも知れないというわけは 相手が絶対だからです。

絶対のほうから われら相対存在に向けてハタラキカケがあるかも知れ
ない。そのとき 知らせやお告げや啓示や預言やヒラメキがあるのかも
知れない。


未知の場合は われわれ人間がその相手に向けて――ハタラキカケをお
こなうかも知れないし―― 一般に認識をおこなう。

・・・ですかね。

お礼日時:2017/10/06 01:37

わたしたちは、なぜか知りませんがあります。




もし、この世が完全な秩序なら、私たちが自由意志と思っているものは錯覚のようだ

もし、この世が完全な自由なら、私たちのありようはすべて私たちの責任になる


私たちは完全な秩序のなかをなぞっているだけでも、完全な混沌のなかを漂っているだけでもないように思われます。

私たちは自然の秩序らしきものを学んで何かの考える足しにすることがありますが、私たちの生きる自然は私たちが作ったものでしょうか?

人間の技術は自然の流れの一部を少し借りて行われるものではないですか?

ないもので、あるものごとを説明する意味はわかりません。

(神からみはなされたようにみえる)苦しむひとに「どうしたの?」と聞くのは人間ではないですか?

神からみはなされているんだ、と思うなら、人間同士で助け合うしかないですよね?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ わたしたちは、なぜか知りませんがあります。
☆ そういった世界認識のもとに《われあり(つまり わたしはわたし
である)》というのであれば そのような世界観ですすむのがよいでし
ょうね。

中略させていただきます。(これといったコメントが出て来ませんでし
た)。


★ ないもので、あるものごとを説明する意味はわかりません。
☆ 《無い》には ふたつの種類の意味があります。

《有る》ものが どこかへ去った・消えたので《無い》ようになった場
合。――これは 相対的な有る無しです。

《絶対》を 《有る》または《無い》で受け留める場合の《無い》。
つまり 絶対は 相対世界における有る無しを超えています。それでも
有るか無いかで表わしたいときに どちらかを用います。

絶対および相対をふくめた大いなる現実として 世界を捉える見方があ
り得ます。その中で 経験的なものごとが現象しているわけですから 
そのように世界の中に位置づけることをします。




★ (神からみはなされたようにみえる)苦しむひとに「どうしたの?」
と聞くのは人間ではないですか?
☆ 中には その絶望的なかなしみの中から 自力で起き上がって来る
人もいると思います。

ですが ふつうは 声をかけるでしょうね。


★ 神からみはなされているんだ、と思うなら、人間同士で助け合うし
かないですよね?
☆ 反対する理由はありません。と同時に わたしの考えとしては 人
間には それでも自然治癒力があると思っています。

神から見放されると言いますが あのイエスは 十字架じょうで わが
神 わが神 なぜわたしを見捨てたもうたのか? と言っていますから
それほど めづらしいことでもないとは 思っています。

お礼日時:2017/10/05 21:31

No.2です。



「雲も霧も晴れないのですか?」
⇒いいえ、私の回答は回答1の方の回答と何も関係ありません。
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この回答へのお礼

いえ。回答№1と結びつけた覚えはありません。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/05 12:44

家中に哲学書の山があっても、いろんな人の感性を理解できないと説得力がないでしょうね。

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この回答へのお礼

雲も霧も晴れないのですか?


理論じょうは 誰もが日本晴れになりますが 一生のうちにそれが
実現するというわけではない。ということも あり得ましょうね。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/05 12:28

絶対に不確定要素が多く、絶対は無いと思えるのですが、神は実在するとは絶対、神が無とは絶対、では非知との違いは?


イエスは、ガブリエルから神の啓示を受け、神を確認していない。
ムハンマドは、ジブリエルから神の啓示を受け、神を確認していない。
ガウダマシタルーダは、神について触れなかった。
12・普遍神「非知」謎の普遍神を貴方は信じるの、信じないのですか、神が普遍とは誰が決めたのですか、俗に言う概念では無いでしょうか、最後ですが「世界」(富士山)「日本晴れ」とは何ですか、やはり概念ですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 絶対に不確定要素が多く、絶対は無いと思えるのですが、神は実在
するとは絶対、神が無とは絶対、では非知との違いは?
☆ 絶対は 《有る》とも言えるし 《無い》ともいえるでしょうね。

有るとしての絶対 あるいは 無いとしての絶対というふうに想定する
とすれば よいのだと思います。

★ 神は実在する
☆ とは 言っていません。認識の問題として《非知》が 神のことだ
と言って 問うています。




★ イエスは、ガブリエルから神の啓示を受け、神を確認していない。
☆ ま そこは 神学の領域でしょうね。天使ということからして 想
定の世界が 過ぎます。

天使は 人間に仕えるものだと神学としても 言われます。(ヘブル書
でしたか)。

あまり携わろうとは思わないんですが。



★ ムハンマドは、ジブリエルから神の啓示を受け、神を確認していな
い。
☆ ただし かれは 自分から出る言葉 アッラーフの言葉であると言
いましたね。



★ ガウダマシタルーダは、神について触れなかった。
☆ アン-アートマン(無我。非我とも言いますが)と言っています。

アートマンを否定(アン-)したものですが アートマンは 霊我であり
ブラフマン神と一体である――梵我一如――からには 無神論なわけで
す。

つまり 《無い神》派でしょうね。





☆☆ 12・普遍神
★ 「非知」謎の普遍神を貴方は信じるの、信じないのですか、
☆ 神は 非知なるナゾであり この神とわれとの関係が 信仰です。

信じる場合と信じないと信じる場合とがあります。有神論と無神論とです。

どちらも 同じひとつの普遍神です。その呼び方や扱い方が違うだけです。

★ 神が普遍とは誰が決めたのですか、俗に言う概念では無いでしょうか、
☆ 《非知》は ひとつしかないわけです。それが神だということは 神
は普遍の神だとなります。

★ 最後ですが「世界」(富士山)「日本晴れ」とは何ですか、やはり概
念ですか?
☆ いや これは 世界にはいくつもの宗教がはびこっているけれど 普
遍神としての神論にもとづくなら 宗教の横行による世界のうっとうしさ
は 一瞬にして消えるという意味です。

お礼日時:2017/10/05 12:26

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