人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

「哲学とは理論の整頓方式である」

こう表現した人がいました。
なるほど、本質をついている、と思いました。

つまり、この世界の、社会の、人間の「本質」とはこうである、と定めてそして
理論が組み立てられる、という言い方でいいと思います。

哲学以外の科学の目的は世界、人間の「本質」を解明することではありません。

ですから、哲学的問題を科学の基準で議論をしようとしても、結論が出る道理が
ないと考えられますが、いかがお考えでしょうか?

もう一点は正当な哲学的議論を可能にするものがあるとしたら(屁理屈、詭弁、牽
強付会でないこと)それは、どんなものだと考えられますか?

質問者からの補足コメント



  • BGM by野坂昭如

      補足日時:2017/10/06 21:50
  • ついでにトンチンカン

    「哲学とは理論の整頓方式」の補足画像2
      補足日時:2017/10/18 21:48
  • HAPPY

    「アンチ」がうるさい、これが嫌だったということが唯一の理由です。

    あなたとのやり取りについては、私があなたの言語である哲学としての「神学」を全く知らない
    という点があります(これは問題ですわね)。

    あなたが枠から出てこないということであれは、こちらから出向くしかないというわけです。
    これには少々の訓練が必要でしょう。

    広く社会に伝えるという意味で、この訓練は大変に価値的なものになるでしょう。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/22 12:10

A 回答 (22件中1~10件)

「本質を定める」というのは、逆に哲学じゃ無いのでは?


それは、「思想」であって、「哲学」とは一線を引くものだと思いますよ。
哲学とは、やはり、「本質」があるとしたら、「本質」を見出すようなものだと思います。
また、方法論と言うのは、哲学者個人により違うと言う事でしょう。(むしろ、方法論自体を論ずる事も哲学の一部です)
ドイツ観念論は、基本的に、観念に対する批判により、独自の方法論を提示した活動だと思いますが、観念に対する批判にしても、その線引きはかなり違うわけです。(カントの考える観念は、純粋に内的なものであり、その外側(「世界」)がありますが、ヘーゲルにとっては、観念でしか、「世界」は認識出来ないと言う考えです)
哲学者にとっては、「哲学」せざるを得ないわけで、それは「思想」などと言う閉じた世界とは一線を画しているはずです。(哲学者を見る人にとっては、その哲学的結論は、「思想」としてしか見る事は出来ないでしょうが、哲学者にとっては、純粋な哲学的洞察であるわけです)
哲学者でも、その洞察に同意は出来なくて、批判の対象と見なされる相手であっても、さすがにその論理の切れ味を見た瞬間に、これは容易に批判する事は出来ないと言う哲学者は存在します。
そういう哲学者は、歴史において、名が残っているわけです。
したがって、そういう哲学者の残したものを咀嚼しながら、自己の哲学において、批判できるだけの理解を出来るならば、それは、新たな哲学者を生み出す事になるでしょう。
哲学者は、議論の為に哲学しているわけではありません。
あくまで、自己の哲学的探究心に従って、その哲学的探究を行えば良いわけで、そういう意味では、社会には、なんら貢献する必然性自体を持っていません。
むしろ、文学や、演劇などの、芸術の方がよっぽど、人間に為になるでしょう。
では、何故、哲学者、自らの哲学を開示しなければいけないのか?
これは、哲学を職業としているのならば、その職能として、それを発表せざるを得ないと言う事でしょう。
少なくとも、ギリシャ哲学(これとても、職業と言うか、ギリシャ市民と言う、特権階級の思想の論理的な説得法として、発展したものと解釈しても、過言では無いでしょう)が、学と言うものが、国家の運営に密接に関係していた故に成立したように、中世・近代においても、学識者と言う特権階級がその役割を得ていたからです。
では、現代においてはどうかと言えば、少なくとも、「哲学」は、そのような学と言う立場ではありません。
国家や、民衆が「哲学」で動かされる事も無いですし、為政者に「哲学」は不要でしょう。
人間は、「哲学」のような抽象的な「世界」に生きているわけでは無く、もっと現実的な、合理的な「世界」に生きているからです。
物理的な合理性は、「科学」に、精神的な合理性は「宗教」や、やや通俗的な「常識」に委ねられたと言う事です。
では、「哲学」は、今、何をすべきか?(哲学者はどうすれば良いかと言うべきかもしれません)
質問文の意味する事は、やはり「哲学」では無く、理想を見出す「思想」では無いでしょうか?
「思想家」が哲学を利用する事はあります。(それは、その抽象的な論理性が説得に役立つと言う事です)
純粋な哲学者であれば、むしろその「思想」は巧妙に隠蔽するか、主張しないで論理を展開すると思います。
何故ならば、自然な論理展開で、その「思想」に到達した方が、詭弁を弄したと言われないからです。
これは、ちょっと、極端に言いすぎました。
言いたい事は、誰でも理解できる「哲学」と言うのは、本質的に難しいんです。
これは、根本的な問題ほど、そうなります。
何故ならば、「哲学」は、その思考と言葉(言語)と言う武器しか持ちえないからです。
これは、思考と言葉の解釈が異なれば、説得が困難な事を意味します。
人間の思考が完全に「自由」であれば、その結論は無限に存在します。
もし、一定の範囲に、結論が収束するとしたら、それが人間の「思考の限界」だと言う事です。
それを「真理」と呼ぶことも可能ですが、それはあくまで、「人間の思考の限界」としての「真理」でしかありません。
それで良いのだと言うのも、一つの「哲学的帰結」です。
ただ、それでも、まだ懐疑的に「真理」を追い求めるのも、また「哲学者」であるのも事実でしょう。
今の所は、「哲学」に絶対的な方法論と言うのは、まだありません。(まだ、人間の思考の限界には到達していないと言う事です)
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この回答へのお礼

>「本質を定める」というのは、逆に哲学じゃ無いのでは?

学問としての「哲学」あるいは、それをする「哲学者」の定義というものは
仰る通りなのだろうと思います。おそらく、本職の方であろうと思いますし。

ただ、私は何度か主張させていただいたかと思いますが、人間は本質の部分を
人任せではなくして、自ら見出し、決めて生きてゆくことが自律的生き方であ
り、そこに人生の醍醐味があると考えています。

従って、我々民衆からしますと、洋の東西を問わず哲学者と言うものは本質を
提示してくれる存在であるべきであると考えています。

そうですね、「定める」というのは少し違う気がしてきました。定めるのは我
々ですから。


>哲学者を見る人にとっては、その哲学的結論は、「思想」としてしか見る事
は出来ないでしょうが、哲学者にとっては、純粋な哲学的洞察であるわけです

私は、東洋哲学も西洋哲学も宗教の教義もいわゆるスピリチュアルな啓示も、
あるいは個人個人の人生哲学も、「人間の幸せ」を目的にしているはずである
ので、その観点から公平に見るべきであって、宗教だからインチキだ(確率は
高いと思いますが)また、西洋哲学だから信憑性は高い、と言うのであれば、ど
こかに穿った見方があるだろうと思います。

西洋哲学の事だと思いますが、その哲学的結論は思想ではなく「純粋な哲学的
洞察」であるということは、学者として結論を出すということは、学問的に正
当な論拠を示さねばならない(当然でしょうが)ということで、それがいまだに
できていないというか、本質に迫るほどに極めて難しいこと、ということはそ
の通りでしょう。

「学問のやり方に変革があった場合、可能性は出てくるだろう」という意味の
ことを以前に仰っていましたね。

私は本質的なことについての思想のことを「哲学」と呼んでいるのであって、
世間一般の定義からややずれて、いらぬ誤解もあるかも知れません。
かといって、独自の用語を使うほど専門的な人間を目指しているわけでもない
ので、表現を工夫するという程度にしたいと思います。

大変勉強になりました。

お礼日時:2017/10/08 18:58

★ 悪口


☆ がなぜ悪口なのか。これを説明できないのなら 自分のほうが相手
に対して ただの根拠のない誹謗中傷を言っていると分かるはずです。


ここからは 過去と同じことを繰り返して来た場合には 放っておきま
す。
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この回答へのお礼

「中身がない」「ペテン師」「アホ」と人に対して言うこと自体が「悪口」
ではないですか?

ただ、酷いことをされた(詐欺にあったとか裏切られたとか)のであれば「許
される」となると思います。でも悪口には違いない。

まして、その悪口が根拠なくなされた場合、さらに質の悪い悪口と言えない
ですか?
(⇒釈尊の悟りがないということに、あなたが根拠がないと言った)

質の悪い悪口に対し、批判をするということがなぜ「根拠のない誹謗中傷」
になるのか?さっぱりわかりませんねえ。

まして、私はあなたに対し「このクソアホのうんこじじい」などという暴言も
吐いておりませんし。

こんな簡単な理屈が何故通じないのか、不思議です。

お礼日時:2017/10/22 15:48

★(№20お礼欄) ~~~~~


あなたは、釈尊の仏教の真髄である「法華経」を知らないで、また、天台の論理を
知らないで、釈尊の仏教そして、それを発展させた日蓮仏法を否定している。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 1. 信仰として 一般絶対性と個別絶対性との一体というかたち これにつ
いては 普遍神のもとにほかの神論と互いに同等であると言っています。

2. ただし 或る主観に得られた特殊な絶対性については 待ったをかけていま
す。主観の外に出かける場合には・つまりすでに出かけているからには 哲学とし
てそうします。

3. 智顗も日蓮も もし詳しいのであれば 批判者のわたしに対して いやいや
そこは解釈が間違っていますよ 実際はこれこれこうですよと指摘して反批判する
のが 哲学としてきわめてふつうのことです。

4. つまり いかなる理論や思想についても その主唱者をふくめていかなる人
でも 自由に批判が出来ます。当たり前のことです。

5. あなたの物言いは 自分の信奉する哲学を批判された それは困る やめて
くれと言っているだけです。子ども以下です。

6. もしわたしが ブディズムについて何も知らないと見たのなら ふつうはそ
の実証をするはずですが それをしたくないといのであれば おまえは ブディズ
ムに無知だと 言い続けていればよろしい。屁でもない。




★ 繰り返しますが、天台の「五時八教」などは無視をして、膨大な量の仏教の解
釈の中から、あなたは適当に見繕って抽出し、理論を作っている。
☆ それが癪なら さとりとは こうだと明らかにしなさい。二千年あるいは数百
年この話に付き合う義理はないと言っています。

★ これなんかもそうですが、仏教を理解するというよりも、批判するための引用
であろうと強く推測します。
☆ あなたには 引用すら な・い。

★ 仏教とはこういうものですよ、と説明を試みたというわけです。
☆ すでに看板に書いてあることばかりです。

★ ところが、あなたは哲学としての神論の範中の理論で打ち返すことしか、とう
とうしませんでした。
☆ 経験合理性に代わるあたらしい物指しを提示し哲学としての神論に代わるあた
らしい理論を用意すること。これが のぞまれますとおしえてやっています。

☆☆ (回答№20) ~~~~~~~~~~~~~
ということは 久遠元初の自受用報身如来のばあいにも その《神人》
説について特殊性を説明するのが 哲学ないし経験合理性の立ち場で
す。


いやいや 経験合理性にもとづくだけではなく あたらしい物指しが
あるという場合には そしてそれを超える場についても もっと別の
理論があるということでしたら それをまづ示すことが 話の初めで
す。

ブッダと神とは違うのだ 仏性と神の霊とは別だという理論があるの
なら それを示さなければならない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




★ 結局あなたも聞きたくないというのが本心だと思います。
☆ それは ご自分の腹の内のことでしょう。

いつまで経っても さとりの中身を説明する話は出て来ない。うんざりするのは
当たり前です。蕎麦がどれだけ伸びてしまっていることか。

★ だから、神論の枠からはみ出るものは何らかの理由をつけて拒絶する。あるい
は学問的でないといって拒絶する、のだと思っています。
☆ いま上に引用した分文章を読んでも なおもこのように言い続けるのだとした
ら それは ○が違っているとしか考えられない。



★ 私は仏教哲学というものが人類の最高峰であると考えています。
☆ ほざいてろ。




★ あなたが枠から出てこないということであれは、こちらから出向くしかないと
いうわけです。
☆ いまごろ何言ってんだ。こちとらは もう一年以上 我慢して同じ土俵で話し
合えるように話を進めているのが分からないのか。

このすっとこどっこい。
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この回答へのお礼

>ほざいてろ
>このすっとこどっこい

このような暴言をあなたが吐き、相手が「とうとう本性をあらわしたな!」
なんてやり取りをこれまでも何度か見ましたね。
学問の使徒としての自覚をお持ちになったほうがよろしいと思います。
これも公共のマナーですよ。

街の落書きを消したら、犯罪率が減ったという話をあなたもご存じでしょう?

真実というものは単純なものーこれ鉄則で、複雑なことをいう人は大抵インチキ
といえると思います。

今話している問題も本質は単純です。

あなたの仏教に対する認識は、私にとっては明らかに間違いであると思う。
だから、私はこうこうこうではないかと言うわけです。

しかし、あなたは「きちんとした形式」でなければ受け付けないというわけです、
よね?

しかし、どうすればいいのかよくわからない。
だから、少し訓練をしてみましょう、というだけのことです。

これまでも、そういう思いは勿論ありましたが、本腰が入らなかった理由として商
売をやっていてそうそう時間がとれず、勉強も進んでいなかったこと。
もう一つ、あなたとのやり取りでどうにもならない困難を感じたのは、仏教の話の
時だけだったということ。(つまり、最近)

もう一つは、これは重要なことなので、この際はっきり言いますが、あなたのことを
信用していないということです。
具体的にはどういうことか、といわれれば箇条書きですべて書き出してもいいのです
が、この二年余の間に見てきたこと、考えてきたことの総決算と言っておきます。

理論の中身も、議論の仕方もあまり信用していません。だから、間違ったことを覚え
てはいけないという心配もあります。

あなたのこの回答を読んで、真面目に取り組むべきかということに少し迷いも出てき
ました。(あなたとの対話)

しかし、目の前で自分の信奉するものの悪口を言われれば黙ってはいられないという
ことについては変わりません。

お礼日時:2017/10/22 14:38

★ (№19お礼欄) よかったら、ダイジェスト版で教えていただ


けませんか?
☆ 哲学は 経験合理性〔が物指しだ〕と言ったぢゃないですか。

一念三千論では ブッダ・カーヤ(仏界つまり仏性)が 合理性を逸
脱しています。

したがって 《経験世界を超えた非経験の場》を想定してこれに当て
ます。

これは そのまま《普遍神》の想定にみちびかれます。《超経験》は
相対に対する絶対 有限に対する無限であり 絶対性にあい異なる二
つや三つの神があるとは考えられません。

名前が異なるだけの一般絶対性として 想定されます。


次に この普遍神と人間たるわれとの関係が来ます。これは ふつう
に合理的に考えることを超えているので 《信じる(無条件に無根拠
でわが心に受け容れる)》と呼びます。

受け容れたそのさまは わが心に《非思考の庭》が成った状態である。
これは 呼び方を決めただけの説明です。



つまり 端折りますが 法身(これも ブッダ・カーヤ)としてのブ
ッダは 《普遍神》のひとつ〔の呼び名〕であり 仏界は 《非思考
の庭》のことだと帰結されます。

このブッダター(ブッダ性)とアートマン(霊我)とは 同じ《非思
考の庭》のことです。

ブッダは 神と同じであり ブッダターは 神の霊と同じです。
一般絶対性と個別絶対性とです。



宗教は この絶対性から 或る主観が特殊にその絶対性の中身を慮っ
てそれを自己表現したものです。すなわちその《特殊絶対性》を広め
ようとする動きです。

つまり たとえば《現人神》というのが 特殊絶対性です。神が人間
に成ったというのは 合理性を超えています。

基本としては そのひとりの主観の内面においては この超合理性な
る特殊絶対性も みとめられます。否定のしようがないからです。否
定し得たとしたなら 神が人間の知性で分かったことになる。




ということは この現人神を例にとるなら その特殊性をなお 経験
合理的に説明できるという場合に 一主観を超えて普及する理由が成
る。


アマテラス天皇についての現人神説は 素朴に――根拠などにかまわ
ず――言い出したものです。文学だと見なされています。

キリスト・イエスの《神人》説は なぜそうしたかをめぐって 説明
がつくかたちになっています。

旧約の時代からのメシア(=キリスト)待望論に従うかたちで われ
(=イエス)は 神キリストなりと言って大嘘をついた。それは 磔
の場にのぞんで 神であっても奇蹟をおこさず十字架から降りていか
なかったし ただ人間としてこの受難をたえしのぶのではなく 神ゆ
えに引き受けたのだという見方をもって 《特殊性》を説明していま
す。

ウソの効用。副作用もありますが 基本は なお説明がつくかたちで
す。



ということは 久遠元初の自受用報身如来のばあいにも その《神人》
説について特殊性を説明するのが 哲学ないし経験合理性の立ち場で
す。



いやいや 経験合理性にもとづくだけではなく あたらしい物指しが
あるという場合には そしてそれを超える場についても もっと別の
理論があるということでしたら それをまづ示すことが 話の初めで
す。

ブッダと神とは違うのだ 仏性と神の霊とは別だという理論があるの
なら それを示さなければならない。




なお自然科学に依拠しようとする場合には AI ではありませんがそ
の特殊性としての神人について 脳の成り立ちがこれこれこのよう
であって 経験存在でありつつ 自受用報身如来なる絶対性のハタ
ラキをもおこなっていると証明することになるはずです。

《仏・人》なる理論のほうが 《神人》説よりも 合理的である。
というあたらしい理論を展開するという道がひらかれています。


主観内の特殊絶対性としては 《合理的》でなくてもかまいません
が 宗教として人びとに伝えようとする場合には 現在の説得の仕
方としては 経験合理性によるものと考えられます。

ほかに 理論を伝えそれを共有してよいと認めるためのあたらしい
物指しがあれば それについて 提起するのがよいでしょう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

あなたは、釈尊の仏教の真髄である「法華経」を知らないで、また、天台の論理を
知らないで、釈尊の仏教そして、それを発展させた日蓮仏法を否定している。

釈尊の悟りがないということの根拠は「ない」とあなたははっきり言いましたね。

繰り返しますが、天台の「五時八教」などは無視をして、膨大な量の仏教の解釈の
中から、あなたは適当に見繕って抽出し、理論を作っている。

例えば、新たにあなたは「本覚」などという、出所はわかっているものの、何ら論
理的体系のない言葉を持ち出してきて、何やら論じようとしているようですが、こ
れは日蓮宗あるいは天台宗の一部で使われているようですが、私もよく知りません
しネットで調べても埒が明かず、かなり専門的な文献で調べなければ分かりそうも
ないですね。(実は購入を予定しているものがあります、いいものをみつけました)

これなんかもそうですが、仏教を理解するというよりも、批判するための引用であ
ろうと強く推測します。

それらを見て、仏教哲学においては初心者に毛の生えた程度のレベルながら、その
解釈は明らかに間違っている、と思ったので、仏教とはこういうものですよ、と説
明を試みたというわけです。

ところが、あなたは哲学としての神論の範中の理論で打ち返すことしか、とうとう
しませんでした。

以前、私はエホバの人と対話をしたことがあります。彼の長々とした話を忍耐強く
聞いた後、仏教の話を始めたらば、「嫌だ、聞きたくない」と言いました。
驚きましたが、世の中結構こういうもののようです。

結局あなたも聞きたくないというのが本心だと思います。だから、神論の枠からは
み出るものは何らかの理由をつけて拒絶する。あるいは学問的でないといって拒絶
する、のだと思っています。

この状態では、時間の無駄であり、価値がありません。

私は仏教哲学というものが人類の最高峰であると考えています。
ところが現代は科学いや自然科学の時代と言っていいと思います。つまり、自然科
学が人類の哲学になりつつあると思います。

宗教の時代はもうとうの昔に終わり、現代においては宗教を持つ人はいても、形骸
化をしている、つまり、生活の中に生きていない、と思います。

私は創価学会員です。あなたはとうの昔に知っていたと思いますが、これを隠して
いたわけではないのです。(つづく)

お礼日時:2017/10/22 12:01

№18よりつづきます。



23. 次の神観は 哲学としての神論に成り得るか?

▲(久遠元初の自受用報身如来) ~~~~~~~~~~~~~~~
(くおんがんじょのじじゅゆうほうしんにょらい)
http://k-dic.sokanet.jp/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%85 …

(あ) 最も根源の法を覚知し、その功徳を自ら受け自在に用いている永遠の仏。

(い) 久遠元初とは、ある特定の遠い過去ではなく、永遠の根源を示す。

(う) 自受用報身とは自受用身ともいい、「ほしいままに受け用いる身」のこ
と。覚知した法の功徳を自ら受け自在に用いる仏の身をいう。生命にそなわる本
源的な、慈悲と智慧にあふれる仏である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

24. (い) は 有限の経験事物ではなく 普遍神の属性たる《絶対・無限・
永遠》のことを言っている。つまり 自受用報身如来は 普遍神のことを言って
おり そのひとつの呼び名である。

25. ただし (あ)や(う)では この普遍神が 《覚知・功徳 / 用いる・
慈悲・智慧》にかかわってもいる。つまり 人知を超え経験世界を超えた神であ
る法身(ダルマ・カーヤ)としてのブッダが 相対存在である人間にも成るとい
う神学である。人間の意志行為をも成すと言っている。

26. (神キリストが人間イエスに成ったという受肉の神観に似ている。詳論
は保留)。

27. これは 普遍神をめぐる人間たる個人の主観において ヒラメキにおい
てか想像や忖度においてか持たれたひとつの神観である。

28. 普遍神の一般および個別の絶対性にもとづきつつも 個人の主観におい
て特殊に持たれる一種の絶対性である。特殊絶対性である。

29. これは 哲学としての神論ではなく 思想に近い神観またはその或る種
の体系化としては神学と呼んで 神論とは区別する。

30. 神観ないし神学として表現された特殊絶対性は 或る主観の内面におい
て成り立つも その主観を超えて別の主観によって共有されるという気遣いはな
い。

31. もし二人の主観のあいだで 同じ神が共有されたとしたら その共有の
対象は 人知の及ぶ経験事物であることになるから。言葉≒概念として・またそ
れによる説明として共有したに過ぎない。しかるに 普遍神は 経験世界を超え
ている。

32. これは 現人神の問題である。一般化し広義に捉えた《現人神》をどう
捉えるか? の問題となる。

☆ きょうはここまで。
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この回答へのお礼

この回答の内容は、別に質問を立てられたようですので、言いたいことがあれば
そちらに回答しようと思います。

№18のお礼欄に書いたことは、私としては大変興味のあることなので、ぜひあな
たに答えていただきたいのです。

もう一度書きます。

仏教哲学には膨大で精緻な理論があります。しかも、大変に難しいものです。例え
ば、一念三千論の基本である、十界論、十界互具、これだけでも理解することは大
変です。

一方、哲学としての神論、これは私は全然知らないのですが(いずれ勉強して理解し
ます)、哲学の枠内の論理で、仏教を論じ、判断することが「当然である」という態
度になっておりますが、この態度はいかなる根拠によって正当となるのでしょうか?

例えば、算数の理論で高等数学を否定するようなことに思えるのです。
実に緻密で詳細で重層的に「生命」が仏教には説かれているからです。

尤も、神論を知らないのですが…

よかったら、ダイジェスト版で教えていただけませんか?

お礼日時:2017/10/22 01:18

1. ★★ 「哲学とは理論の整頓方式である」


☆ 哲学とは 世界をどう見るかです。そこでどう動く(生きる)かです。

2. 世界観。そして そこには われなる存在・つまり人間がいるので
存在論ないし人間観となります。

3. 人間は 互いに関係し合い 一定地域の集まりとしてまとまった生
活共同をおこないますから その社会についての見方も 世界観に入りま
す。



4. この社会この世界で いかに生きるか・具体的にどう動くかに重心
を移している《どう見るか》は 思想と呼ばれます。

5. 思想は 個別に特殊な内容であり得るので 特に《自由意志》の問
題です。主観がその自由な意志行為とその集積のもとに クセ・ナラハシ
を成しこれが 価値観を形成します。いわゆる倫理の関係です。



6. 意志の自由な選択にかかわる思想ないし倫理の問題を問わないこと
を前提として取り決めた上でおこなう世界観は 世界の価値自由な認識と
して 自然科学なる独自の領域として分立します。

7. 世界をいかに見るか? これは したがって 意志自由の選択いか
んにかかわらずその認識が成り立つところ――自然科学――では 世界を
つねに要素に還元しそれらについての認識を問い求めます。

8. 意志の自由な選択という行為についても 自然科学としては その
場合の要素に分けて捉えます。脳がおこなっているのか? どの部位でど
のようにか? 



9. 哲学は 人間や社会をふくむ世界観として その見方が個別の場合
にも全体のまとまりとしても 互いの間に矛盾がないようにその認識をと
とのえる。

10. つまり 理論づける。矛盾がないようにというのは 認識した個
々の内容を交通整理するといったかたちです。

11. 自然科学は 認識したものごとについて再現可能性を問うて 交
通整理をするようです。

12. 哲学一般は 人びとの主観が共同化されうる――つまり 常識と
成し得る――なら 一般性ないし普遍性を持つと見なすようです。




13. そのような相対的なものごとについての普遍性では物足りないと
思った人びとは この経験世界を超えたところをも想定し 想定の限りで
哲学として そのようなプラス・アルファの世界観をも問い求めます。

14. それは 神論としての哲学であり そのとき神は 普遍神である
ことが すでに定まっています。

15. そのとき 思想として個人の主観・価値観をまじえて神学を興し
神観を広めようとする向きもあります。宗教と呼ばれています。





16. ★★ 正当な哲学的議論を可能にするものがあるとしたら(屁理
屈、詭弁、牽強付会でないこと)それは、どんなものだと考えられますか?
☆ 現在では 自同律ないし排中律という取り決めです。

17. 同時に同一の場所で 同じひとつのものが 《有る》し《無い》
ということは 矛盾だと見なし 議論にこれを避けることなどです。

18. ただし 時間の経過や場所の違いを加味すれば どうか? 時
空間の中にあっては 取りあえずのように 因果律が 議論の妥当性を
測る物指しになるようです。

19. これらの物指しを共有して用いるときには 互いに有効で有益
な対話が可能になると考えられます。



20. もうひとつただし これらの経験合理性なる物指しでは到底測
れないと思われる場があるとされています。

21. (13 / 14)の神論の場合です。《有る無し》を超え 《因
果関係》からまるで自由な非経験の場のことです。

22. 同一物が 同時に有ると無いの状態にあるとか 現在から過去
に時間をさかのぼることが出来るとか そういった問題は なお経験世
界における事象として〔のみ〕捉えられてた上での問い求めです。
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この回答へのお礼

こういう風に素直に書いてくれれば、早く理解できるのに。

問題は15.ですね。

神論としての哲学の枠内で、神が「普遍神」と決まっているということについては
そうなのでしょう。特に異論はありません。

15.で何を言っているかといえば、あらゆる宗教が神論という哲学でその本質を捉
えることが出来る、ということになるでしょう。

ここには哲学という学問が上位で、宗教が下位であるという思想が見えます。
あるいは、学問が宗教を分析する、という態度が見えます。

これが間違いですね。

自同律とか排中律あるいは矛盾律は知らないので、ちょっとおいておいてください。

神論としての哲学と宗教(哲学的部分)は対等でなければ双方の正しい理解はできない
というのが私の主張でした。

対等でないから、南無妙法蓮華経が普遍神だ、などという結論になるわけです。仏教
に普遍神という概念はないのです。
近いといえば近いので、そう結論したとすると、全体が変わってしまうと思います。

まずはこの一点だけ言っておきます。

お礼日時:2017/10/20 00:12

この質問では №9の回答をさらに展開しようとは思わなくなった。





◆(回答№10) 念仏を唱えて阿弥陀仏に救われる
☆ について その間違いを 回答№11でただしたのみ。

誰がただしても 同じ内容を示すはずのもの。


ただ あとは 言い掛かりがついて その処理をした。
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この回答へのお礼

あなたの最新の質問に対する私の回答の中でお願いしたこと、
「私の質問に答えて下さいな」に対する返答だと思うのですが、
相変わらずの的外れにしては、外れすぎですので、改めてお聞きした
いことを書きますのでお答えください。


《「枠」の中だけで通用する理論・議論ではなくて、仏教もキリスト教
も人生の現実も包含する一段上の理論で対話をしてほしいと言ってい
るのです。》

私の申し上げていることを理解いただけますでしょうか?
また、それをすることはあなたにできますでしょうか?

分からないなら、分からない、無理ならば無理と、はっきりおっしゃ
っていただいて差支えございません。

お礼日時:2017/10/18 19:05

分かった あなたの理論はただしい。

ただし もっとやさしく
かまってくれ。――と言っているか。

それとも ただの阿呆か。

いづれかだ。
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この回答へのお礼

あなたの理論が正しい、と言っているのではなくて、あなたの理論は
「偏狭」だと言っているんです。
「枠」の中だけで通用する理論・議論ではなくて、仏教もキリスト教も人生の現実も
包含する一段上の理論で対話をしてほしいと言っているのです。

わかりますか?また、それは無理ですか?

やさしさは、全く求めていません。

これほどまでにトンチンカンな事を言い続けているあなたこそ、本物の阿呆ではない
かという疑惑が私の中で大きくなっています。

お礼日時:2017/10/18 11:08

Outrageous!

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この回答へのお礼

戸を叩かれたら返事をしなければなりません。

別な言い方をします。

ここは哲学カテであると言っても学問の哲学の理論の世界の中だけに通用する
ルールに従わなければならない、なんてことはないはずです。

そして、ここに参加する人のほとんどが哲学と言っても人生哲学とか物事の本質
的なこととか、役に立つことに興味があると思います、私もそうです。

ですから、私は以前に「自分の巣穴から出てきてくれ」とお願いしたことがあ
りますね。

学問としての哲学の理論の世界の存在は特に否定するものではありませんが、
特殊な独特の世界と言えます。そして、特殊な独特の理論(言語)があります。

「現実」という世界はまた、特殊な独特の世界で、特殊で独特の理論があると
言えます。

「信仰」も「仏教」も「キリスト教」もそうですね。

なのに、あなたは学問としての哲学の理論の世界という枠組みの中で、(いや、
あなた独自の哲学的理論の枠組み、と言ったほうがいいでしょう)これらの本質
を独断しているわけです。

これの正当性は、なんなのでしょうか?

そして、歴史に名を遺す哲学者たちのことはともかく、あなたの哲学理論を信用
している人も理解している人も、いないと思いますよ。

いいですか?繰り返しますと、あなたの哲学の枠組みの中に押し込められたものを
正しいとは誰も思っていないと思います、信じていないと思います。

論理的整合性がある、と言い張っても現実ではそれは大抵通用しないものです。
現実という言語に翻訳できないといけません。

そういう努力をしたほうがいいと思います。

お礼日時:2017/10/18 08:51

№13に述べた付随的なことがらのほかでは あとは


質問に答えること。これしかありません。

わたしの回答の中身に接して たとえば《夜中に起こ
す》ような回答だと感じるのでしょう。

質疑応答の場で 回答を寄せる。そのことに マナー
の問題があるというのは 言い掛かりでしょう。
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この回答へのお礼

>わたしの回答の中身に接して たとえば《夜中に起こす》ような回答
だと感じるのでしょう

全く違います。

あなたの回答の中身について私が思っていることを述べますと、まず第
一に論理的整合性が取れていること自体に大きな価値があると考えてい
ることについて大変に馬鹿々々しいと思うということです。

論理ってツールであって思想的中身がないですからね。

cyototuさんがあるとき「いい年をして論理的整合性ばかり追いかけるの
は馬鹿々々しい」と同じことを言ってました。
彼の専門は哲学ではありませんが、本職ですからね。

あなたの哲学(思想)の中身についは、空っぽであるとか、どうでもいいことだと
とかミミズなのか蛆虫なのか評価は今はしませんが、いずれ詳細にしたい
と思います。

公共のマナーということについてはどうも理解できないようですね。

お礼日時:2017/10/18 01:26

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