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正と誤、善と悪、優と劣など、これらに執着している人が宗教関係の方て多く見られますが、このような方達は信仰心が熱いのに、救われていないような気がします。

同感な方おられませんでしょうか?

また、そのような方達は心に怒りの感情が出ているのが、表面に現れてしまっており。
やはり、その怒りは執着による固定観念が生み出すものと感じます。

A 回答 (13件中1~10件)

正と誤、善と悪、優と劣など、これらを気にしない人をだらしないと言うのです


これらに執着しなければ 救われるとでも言うのですか? 変ですね

怒りの感情との表現は いかがなものでしょうか
正義を 善を貫く事が固定観念とは 変ですね

判断の基準がないと 宗教 哲学がないと
貴方のように適当に批判的に解釈するようになります

正議 善 道理 理性 妥当性 で判断するのが
貴方の言う 執着するのが 最も正しい 人間の道でしょう

宗教は 幸福になるためにあります
宗教は  
人間を強くします 
人間を善くします 
人間を賢くします

内村鑑三は
 経済の背後に政治がある 政治の背後に社会がある 
社会の背後に道徳がある 道徳の背後に宗教がある
と述べています
日本人の底辺には 仏教的 儒教的精神があり
大いに誇れるところです


今の世間
初詣は神社 結婚式は教会 葬式は仏教
クリスマスのバカ騒ぎ
無宗教の奴等の そのだらしなさは あきれる
今の日本社会を見て 内村鑑三は嘆いている事でしょう

これほど大事な宗教を 
正しく教えるはずの 聖職者 坊主は
宗教の事など語らず 金儲けの道具にしています
そのため 誰も正しい宗教が分からないのです
だから 原始主教のような
占い 霊 お告げ お払い 等の単純な宗教に
エセ宗教に カルトに騙されるのです

余計な事かもしれませんが
人間は宗教なしでは 正しく生きられないのです
 トルストイは人間は宗教なしでは生きられない理由を
第一に 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
第二に 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
     知ることが決してできないからである
第三に ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである
第四に 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
第五に 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
第六に 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
と言っています

儒教の論語の正しさ 仏教経典の奥の深さ
聖書の精神 等 人間精神を養い 科学の暴走を抑えるために
宗教が最大の役割をはたすと思います
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どうでしょう。


どなたかを本気で救いたい場合など、
法律やルールでは守れないものがあると思います。
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>正と誤、善と悪、優と劣など


世の中には スパっと割り切れないものがある という事を悟るべきです

”正しい”と思っていたものが”悪者”からすれば”間違っている”ですし、優と劣は相対的なもので優の上に優なひともいます。
2000年とか千数百年前の田舎の暮らしなら 「スズメはコメを食ってまうで、イカンわ」で済みましたが
いまではすべての生き物は生態系の一翼を担っているもので そこには良いも悪いもありません、

そんなことにとらわれないで”水は方円の器に従う”敵に柔軟にものを見ないとこの世の中ではやっていけませんね。
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宗教の人は別に救われたいとか幸せになりたいから信仰の道に入ったのではないと思われます。


殆ど思い込みであり儚い幸福や快楽などを得ることよりも 彼らに求められるべきは、
本来答えのないこの闇世において、どのように生きれば正しいのかという 絶対普遍の指標です。
一つのことに縛られるのは苦しいし、"間違ったこと"を拒絶する怒りもストレスフルでしょうが、
自分が絶対の真理であるという確かさの安心感たるや、
数多の不の感情を発するエネルギーなど易々と提供し、
己の心身を蝕まれることさえも痛くも感じないのでしょう。
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>正と誤、善と悪、優と劣など、これらに執着している人が宗教関係の方て多く見られますが、このような方達は信仰心が熱いのに、救われていないような気がします。



そのような事実があると仮定して…。
>正と誤、善と悪、優と劣など
この点にばかりこだわって現実的な問題解決ができなくなるから救われないのでしょうね。
人の心はそんな理屈でどうこうなるわけではないのですから。

イジメ問題で出てくる被害者側のヒステリックな意見を見るとそう感じます。
美輪明宏とかマツコ・デラックスといった有名人が虐める奴らはどうたらこうたらと得意げに語っておりますが、イジメ問題でヒステリックな主張してる人らはある意味、ああいった有名人を教祖に見立て信仰してるようなものだと思います。
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> 正と誤、善と悪、優と劣など、これらに執着している人が宗教関係の方て多く見られますが、このような方達は信仰心が熱いのに、救われていないような気がします。



「気がする/気はしない」はその人の感性なのでどうしようもないですが、「救われている」というのはどのようなものだとお考えなのでしょう。また、「救われる・救われている」と、善悪正誤優劣とか、執着/無頓着とか、宗教法規戒律とか、そのようなことなどとは、どう関係するとお考えなのですか。

> 心に怒りの感情が出て

一般に、怒りの感情が生じるときの表出語は、「もぉー腹立つ!、イライラする~っ、くそぉー、あのやろう、てめー、なんで私が!、許せない」などです。 相手があるような怒りもありますが、自分がやっていることがうまく進まない、やっていたことが瓦解し元に戻ってしまったなどの場合にも怒りが出ます。相手がある怒りの中には、足を踏まれた、肩が当たった、視線を感じたなどで突然切れ怒る場合もあります。 正と誤、善と悪、優と劣などは、「比較」や「排除・排斥」に使うスケールがあると思われますが、怒りは、そうした「比較」や「排除・排斥」に使うスケールがなくてもおきます。 「怒りが出たから○○である」というロジックを作り出すには、相当の吟味が必要です。 
「殴られた、なじられた、馬鹿にされた、嘲笑された、相手にされなかった、無視された、、」などでも、怒りを生じさせる人は少なくないです。 こうしたことがあると怒りを生じさせる人でも、宗教家であったり、熱心な信仰者であったり、宗教や信仰には全く縁もない人であったりします。 
A「こうしたことがあると怒りを生じさせる&宗教や信仰には全く縁もない人」
B「こうしたことがあると怒りを生じさせる&信心深い人」
こうしたAやBの組み合わせもあります。
《救われる》とはなんのことを意味しているのかわかりませんが、[Aは救われる・Bは救われない]のような判別ができるようなことがあるのでしょうか。

> そのような方達は心に怒りの感情が出ているのが、表面に現れてしまっており。やはり、その怒りは執着による固定観念が生み出すものと感じます。

感じたり感じなかったりは、その人の感性なので、どうにもならないです。
固定観念という言葉をどのような意味で使用しているのかわかりませんが、「執着による固定観念」が怒りを生じさせるというのは、どのようなロジックなのでしょうか。
「殴られた、なじられた、馬鹿にされた、嘲笑された、相手にされなかった、無視された、、」などは、「執着による固定観念」と関係あるのでしょうか、ないのでしょうか。
「執着による固定観念」とはどのようなものなのか、説明が可能ですか。
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この回答へのお礼

長い解答をわざわざありがとうございます。
解答を拝見させていただきますと、私の質問を読み直して頂いてよろしいでしょうか?
何故、私の考えを知りたいのでしょうか?
それを知って、ご自分の考えを教えたいのですか?
私の思いと考えが自由であると同時に解答者様の思いも考えも自由
と思いますが、私は解答者様からの教えを必要としてません。

解答者様に怒りに近い感情が文章から伝わってきますが、私は同感者に対して質問している側ですので、他の質問コーナーで質問されてはいかがでしょうか?

私に長文の解答に時間を頂きましたこと、誠に感謝いたします。
ありがとうございました。

お礼日時:2017/10/08 03:16

宗教関係の方て多く見られるというのは偏見ではありませんか。

その根拠はどこにあるのでしょうか。心の感情を表面に出すのは悪いとは限りません。むしろポーカーフェイスのほうが気味が悪いのでは?
救われていないとか、固定観念が生み出すとか、宗教的な考えでしょうか?
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変換ミス・・同館→同感

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多分、救われたいんじゃなくて、人を救いたいという感情が、そういう状態に陥らせるのでしょう。


固定観念は、宗教ですから、仕方ありません。
どのような宗教であっても、何らかの固定観念を与えるものです。(それは、合理的な説明を行う為です)
同様に、合理的な説明を行う、科学(これは、自然科学に限りません)も、固定観念は与えていますよね?
物理現象などは、固定観念と言うか、実際の現象の記述ですから、一般的には、誰にでも納得できる事です。(量子力学の解釈などは、除きます)
宗教の場合は、その固定観念は、信仰対象から与えられる(直に語られた物と、啓示などにより与えられる物があります)事になります。
少なくとも、信仰は、それを信じる事を意味します。
正・誤、善・悪は、単なる規範です。
優・劣は、そこから派生した、規範に対する量的判断です。(これ自体を問題にする事自体は、宗教ではあまり無いでしょう)
選民思想による民族宗教の場合は、通常は限られた集団で信仰が行われ、それ自体が拡散を求める事はありません。(民族自体が、自己のみの生き残りを考える場合は、その限りではありません)
普遍宗教を自認している、救済型宗教の場合は、その行動として、周囲を同化する場合があります。
普遍であるから、他が誤りに見えると言う事ですね。
必ずしも、その行動が怒りとは言えないでしょう。
本人は、単なる啓蒙と考えて行動している場合があります。
むしろ、それが怒りだと思ったら、行動出来ないんじゃないでしょうか?
怒りなら、諫める事が出来ますが、啓蒙と慈悲の心で、「愛」により救済すると言われたら、異教徒にとっては、最も危険で、無慈悲な対象にしか見えないと言う事でしょう。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれる、「大審問官」は、無神論的(神を必要としないと言う意味で、神を否定しているわけではありません)な宗教家ですが、その審問が人間を救済すると確信しています。
この大審問官は、自分の行為の欺瞞性を自覚し、救世主そのものの存在を必要としませんが、それすらも気付かない、無慈悲な審問官がいるとしたら、最も危険で、ある意味、邪悪な狂信者と言えるでしょう。(しかし、それは「正義」の名で行われ、誰も否定できないのです)
固定観念自体は、誰でも持っているので、問題はありませんが、自己の固定観念を絶対視する場合は、まわりに害悪を与える場合があると言う事です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
勉強になりました。
解答者様は、冷静に物事を見てらっしゃると思いました。
また、機会があれば教えてください。
感謝いたします。

お礼日時:2017/10/07 14:45

私と同感ということで解釈してよろしいのでしょうか」←いいえ・・



あなたは知らない・・俺は知ってる・・

同館には とてもじゃ無いが ならない・・
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます♪
私は無知ですので、失礼致しました。

ありがとうございました。

お礼日時:2017/10/07 13:47

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