プロが教えるわが家の防犯対策術!

すでに問うた質問です。
【Q:ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9176218.html

われながら そこでのやり取りをほこらしいと思うと共に もしさらに問い求めがあるとい
う向きには それを展開してください。という趣旨です。

   *

生が苦だ・思うようにならない。とは どういうことか?

たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となっ
て どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そ
ういう意味なのだと。

ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっき
ょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを言っており そのことをわ
れわれが認めたことにほかならない。のではないか。どういうことか?


つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに苦という病いが俟っている。それを治す
薬は わたしが処方する目覚めの方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。

つまり ふだん生が苦だと思わない人が 何かのきっかけで生は苦だと思ったとき ゴータ
マなる医師のもとに行ったら そのとおりだ 生は苦だ それを治すには そもそも全体と
して根本的に生という苦をみとめることから始めるのだ。と言われた。

これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下
唯我独尊なる論理のグローバリズムである。

どういうことか?


ゴータマ病院に入ったら ゴータマ医師の診断が絶対であり その処方箋のみが有効だと言
われ それに従うよりほかに道はないということになっている。からである。そこを出るか 
それとも 患者になり実際には患者・兼・弟子と呼ばれる医師見習いになって一生を過ごす
かである。

けれども その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。

足場だけを組んで 家本体は築けなかった。幻想は 人びとのあたまの中に築けているかも
知れない。


《生は苦だ》は その苦からの解脱についてゴータマの示す中身の無いさとりをただ一つの
道とするほかに処方箋はない。――と読み取るしかないと考えますが ほかに解釈はありま
すか?

それとも 生が苦であるなどという命題は 捨てればいいのさとなりましょうか?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:

    ▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
    〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

     ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
     よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
     法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
     たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
     確立し 開明し 分析し 闡明し 
    〔* 次が 大事です〕
     異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
     し得ないものとして説くようにならないならば 
     その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

    (中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
    ~~~~~~~~~~~~~

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/11 06:20
  • good が つきました。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/11 10:31
  • 《本覚思想》のことを忘れていましたね。

    《〈われはすでにブッダなり〉と言う》につなげたい。

    わたしはいま質問枠いっぱいなので だれか質問に取り上げてくれませんかね。

      補足日時:2017/10/21 06:05
  • ◆ 質問に回答がついてから三日たちました。
    ☆ の知らせが現われました。このあと 一方的に閉められる
    ことになります。

    という情況であることを確認します。

      補足日時:2017/10/29 19:08
  • ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:

    ▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
    〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

     ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
     よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
     法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
     たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
     確立し 開明し 分析し 闡明し 
    〔* 次が 大事です〕
     異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
     し得ないものとして説くようにならないならば 
     その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

    (中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
    ~~~~~~~~~~~~~

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/05 19:10

A 回答 (40件中11~20件)

おそらく起こっている事は、人々自身がブッダの幻影を生産し、それに囚われているのだろうと思います。

ブッダはおそらく特別な存在じゃない。子供が大人になる様に、人は仏になるのでしょう。
子供と大人の間に差別や格差が存在しない様に、人と仏の間には差別や格差は存在しない。
いつ頃からか、人々は自分が覚れるなどとは思う事がなくなった。そんな事は無理だ、出来るはずはないと。しかし、人は誰しもが覚り得ると説かれる。そして、如来、ブッダ、生き身の仏がおらずとも、世に人々がある限り、善知識は出現するだろうとも言われる。要するに、ブッダの存在は人々が覚るかどうかとは直接の関係は無い。
大人と子供の間に区別は存在する。ブッダと人の間にも区別は存在する。しかしその区別はむしろ、誰しもがブッダになり得る事を示す様な区別であるはずであり、ただ一人、お釈迦さんだけが偉いのだとするものでは無いと思う。

なぜ人々がブッダの幻影を生み出し、またそれに囚われるようになり、また自らや或いは人々の覚りを信じなくなったのかは分からない。しかしこれだけは言えるのだろう。人は誰しもが覚り得る。あなたもそうだし、私もそうなのですし、ギャラリーも、また世の中の全ての人がそうなのです。
このことについてはあなたも異論はないと思います。
ここで、もう一歩踏み込んで、皆それぞれにブッダであると言うところの意図は理解できるように思いますが、それはあくまで方便と言うことになると思います。
人々がブッダを特別に思いなし、その幻影を作り出し、自身と比較し、遥か遠い辿り着けないものとしたその事を打破するために、人々は皆、それぞれにブッダであると言うのであるならば、私は止めません。
それが正しいかどうかは分かりませんが、私にはそれを止める動機もない。

これと似た徳を積んだ者に、常不軽と言う名の菩薩がいます。彼は、会う人会う人に、「あなたは道を修めて必ずや覚りをひらく方であるから、私はあなたを礼拝します。」この様な事を言って、経の一つも唱える事なく遍歴修行をしました。

もしこの様に、「あなたは(その内心においては)ブッダであるのだから私はあなたを決して軽んじません。」と言って敬い、人々を礼拝してまわるのであるならば、それは常不軽のした事と同じなのではないかと私は思う。その様な行いをする人を、私は咎めないし、批判も非難もしないどころか、きっと尊敬するだろう。その様な事は中々できるものではないからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ おそらく起こっている事は、人々自身がブッダの幻影を生産し、それ
に囚われているのだろうと思います。ブッダはおそらく特別な存在じゃな
い。
☆ これは よい視点だと思いますね。

★ 子供が大人になる様に、人は仏になるのでしょう。
☆ 1. ゴータマは ブッダターは説いていない。アン‐アートマン
(無‐霊我)として 《無い神》派だった。だから ボディサトワの状態
が 成仏である。

2. だとすると《子供が大人になる様に、人は仏になるのでしょう》。

3. 後世の人びとが アートマン(有る神)説にもどるようにして ブ
ッダターを想定した。一切衆生悉有仏性。ならば すでに初めに誰もがブ
ッダである。

4. (本覚思想として 一部には批判もあるようですが)。


★ 子供と大人の間に差別や格差が存在しない様に、人と仏の間には差別
や格差は存在しない。
☆ 発達・成長はあるでしょうが 人間性・人格として同じだ。

中略しますが。

★ ここで、もう一歩踏み込んで、皆それぞれにブッダであると言うとこ
ろの意図は理解できるように思いますが、それはあくまで方便と言うこと
になると思います。
☆ 《方便》とは 何ぢゃいな? ブッダターを想定した。ゆえに 人は
ブッダだ。――なのだと思います。

もしくは確かに あからさまに言えば政略的な手段としてです。すなわち:
★ 人々がブッダを特別に思いなし、その幻影を作り出し、自身と比較し、
遥か遠い辿り着けないものとしたその事を打破するために、人々は皆、そ
れぞれにブッダであると言うのであるならば、私は止めません。


★ 常不軽と言う名の菩薩がいます。・・・
☆ つまり人びとは ゴータマ・マジックからの解放をどこかでは思って
いたし その道を問い求めていた。

自未得度先度他であるとか。
無住処涅槃。

でもですね。いまは専門店やネット販売に押されてデパートは 落ち目で
すが ブディズムという百貨店に何が何でもしがみつくといった姿勢から
自由になること。これが 必要なのではないかと。


やっとわたしという異端児スサノヲの言うところに耳を傾けてくれました
ね。祝杯ものかな。

お礼日時:2017/10/19 23:56

未熟な時代はわがままに都合が悪いものを目の敵にする傾向があります。


未熟な時代の常識を超える普遍性はその時代の常識のわがままに都合が悪いものです。
そして暮らしやすさをめざして前進するためには
その時代の常識を超えた普遍性を主張する必要があります。

現実の苦しみ。
その改善をめざした主張も目の敵にされる。
その繰り返しからしか世の中は暮らしよさをめざして進歩できない。

というわけで生は苦だということになるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 未熟な時代はわがままに都合が悪いものを目の敵にする傾向
があります。
☆ あるいは 腕力にうったえて手に入れようとするでしょう。
都合の悪いものを取り除こうとするでしょう。

そして 現実は 一握りの成功者もいるわけです。
この少数者の存在によって じつは このあと議論があるはずの
《苦》論は はんぶんほどしか流行らないのだと思われます。

あるいは ヨーロッパでは 二十世紀の二度の戦争 これらを巻
き起こしてしまったという反省が いまなお頻りです。

つまり かれら自身の感覚と哲学にとっては 決して《未熟な時
代》だとは思っていません。成熟しつつある人間たちによっても
取り返しのつかない悲惨なことが引き起こされた――つまり 苦
につながっている――と思うようなのではないでしょうか。



★ 未熟な時代の常識を超える普遍性はその時代の常識のわがま
まに都合が悪いものです。
☆ これは 対極の理論ですね。多くの場合それは――実際にそ
の対話を促すために用いれば 効果があると思われますが―― 
見取り図そのものとしては さほど成功率が高いとは思えないの
ですが。・・・



★ そして暮らしやすさをめざして前進するためには
その時代の常識を超えた普遍性を主張する必要があります。
☆ ブラフマニズムは――それがよいと言おうとするのではあり
ませんが―― 輪廻転生の説で 《未熟な人びと》をその現在・
現世の苦しみのワケについておしえ 説得しました。

ゴータマ氏は その身分制〔の固定化〕に異を唱え 平等を目指
しましたが いかんせん 《生は苦だ。苦からの解脱を目指しな
さい。ブッダの状態を。苦とは ブッダになっていない状態なの
だ。うんぬん》というオシヘを著わしました。



★ ~~~~~
現実の苦しみ。
その改善をめざした主張も目の敵にされる。
その繰り返しからしか世の中は暮らしよさをめざして進歩できな
い。

というわけで生は苦だということになるのだろうと思います。
~~~~~
☆ ぢゃあ ぎゃくであって 生老病死の四苦を大前提としたオ
シヘは 屁の河童であるということですよね?

《現実の苦しみ》をいちいち理論づけても始まらない。

地道に一歩一歩あゆめという道しるべは 《苦と解脱》のオシヘ
を粉砕するということですね?

お礼日時:2017/10/19 08:04

こんばんは。

そういえば、自由自在とは辟支仏のことだと聞いたことがありますね。たしか。

さて、続きです。

☆ 《超》が ミソですね。
それはどんなミソですか。

☆ ぢゃ:
★★ でたらめに羽ばたいて飛べる鳥
☆ がいるかも知れない。となる。

?どうやって?

☆ 遠き慮りのもとに。
それが遠ければそこに至るまでに死んでしまうだろう。
両極端にも、中間にも汚されないので中道と言われる。
中道を歩む人は順逆・遅速を離れている。拙速ではない。

☆ 何か考え違いをしているのでは?
《一切衆生 悉有仏性》なんですよ。みんなそれぞれ ブッダぢゃない
ですか。

もし人が皆ブッダであるなら、誰一人心を苦しめることもないだろう。そこではなんの計らいも必要なく、誰かが悪人を演じる必要もない。誰もブッダを名乗らず、ブッダという言葉すら無くなる。現実そうはなっていないのは、衆生とブッダがいるからだろう。
みんなそれぞれに道へと至り、それを歩み、ゴールにたどり着くのだろうとは私も思う。
しかし同時に、誰がどのような道でどのように歩み辿り着くのかには興味がない。
覚りは最初から最後まで各自のことがらである。それは最高のことだろう。画一的な道をあてがわれるよりも、ずっとはるかに、素晴らしいことだろう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

・ミソ
・鳥
・遠き慮り
☆ については レトリックと言いますか 相づちのようなものとして
受け取ってください。
つまり 降参します。



★ もし人が皆ブッダであるなら、誰一人心を苦しめることもないだろ
う。
☆ この主題については 再反論します。

みながそれぞれすでにブッダであると言わないので そのように凡夫と
ブッダのあいだの隔たりを持つと考えこれを意識し いつまでもさとり
を得ることはない。
――こう考えるのが 実際でしょう。

つまり われはブッダなりと捉えないからこそ:
★ そこではなんの計らいも必要なく、誰かが悪人を演じる必要もない。
誰もブッダを名乗らず、ブッダという言葉すら無くなる。
☆ といった極論を何の気遣いもなしにぶつようになるのです。

目の上のたん瘤のような あるいは 極北の輝く星のような観念として
ブッダが 人びとの意識の中につねにただよっている。

理念となって人をよくみちびくこともあるのかも知れませんが そもそ
もそのように人間の意志がみちびかれるという行為のかたちが ほめた
ものではない。

★ 現実そうはなっていないのは、衆生とブッダがいるからだろう。
☆ この《観念の階級・そのへだたりの意識》 これによって人びとが
みちびかれているという結果を生んでいる。

まぼろしの大化城の中にいる。すっぽりその繭につつまれていると も
はやそういう現実の姿すらも分からなくなる。そして そのことが ま
ぁ ましな世の中であると思い しかしそれだけではいけない 世の中
の六道輪廻の姿を批判することも忘れない。

こういった《平和な》生活をおくっている。

ブッダという観念 これは なお人びとのあたまの中に 互いをつなぐ
かのようにしてその観念の運河をかたちづくっている。

お礼日時:2017/10/18 21:57

少しだけ。



☆ 誤解をおそれずに言えば 哲学は 心の底では誇り高き自信を
持っていて 思考の緑野を超えて非思考の庭に〔乱暴を承知で言い
ますが〕自由自在にあそんでいると思っています。
(どのようにしてか? 能天気の状態において〕。
つまり――誤解無きよう!!―― 哲学の子は 《不法行為をしの
ぎ 無法者の心をも超えている》と自負しているものです。

案の定あなたは誤解を招いたのかもしれないが、あなたは超悪人を自称しているように聞こえるが。
のぼせ上っていると大きな怪我をしそうで危険だと言っておこう。

魂振りや巡礼の旅というのはちょっとわからないので後回しにさせてもらうが、
「悪人や無法者の心が分からなくて どうやって哲学をやってられますか。」
とのことですが、犯罪者の心が分からなくて刑事などできるか!と言って、その刑事が犯罪を犯していたらどう思うか。その刑事は犯罪者だということになるだろう。


☆ 規範を超える《狂気》をもあやつれなくて 何が自由か。

と言うのは間違いだろう。狂気は規範が無いのであって、それを超えているわけではない。私も悟りに関する事で経験があるが、狂気は何の足しにもならないどころか大きく人を損なう。気を付けた方がいい。

☆ 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

志が大きなことは特に注目に値しない。結果、何某大事なことを護り、また実現したのなら、それまでに抱いていた志の大小は問われないだろう。結果の問題である。

☆ つるぎを投げ入れるために。親と子を 兄弟姉妹を 仲間を切
り裂くために。リセットって言ってんぢゃん。

これは初耳なので何とも言えないが、なにか物騒で不吉な響きがする。要するに争いを起こしたいのだということかね?

☆ こういうことは オカルト宗教の指導者でも言えます。

誰が言ったかは問題ではない。何が言われたかが問題なのである。理法を説いたのでブッダだと判じられる。自称ブッダを宣言しても、理法を説かないならただの人である。もしあなたがブッダに匹敵したり、それを超えるような智慧を示してくれたのなら私も考えを随分と新しくせざるを得ないだろう。そんな期待はしてもいいのかね?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あなたは超悪人を自称しているように聞こえるが。
☆ 《超》が ミソですね。



★ 犯罪者の心が分からなくて刑事などできるか!と言って、その刑事
が犯罪を犯していたらどう思うか。
☆ 犯罪者が いづれにせよ 自分から悔いて われに還り すくわれ
る(さとりを得る)ように こちらは《触媒》となる。そのとき《〈超〉
悪人》を演じることがある。

刑事ではないので 逮捕することが目的であるのではない。そこが 違
いなりましょう。



☆☆ 規範を超える《狂気》をもあやつれなくて 何が自由か。
★ と言うのは間違いだろう。狂気は規範が無いのであって、それを超
えているわけではない。
☆ たしかにそうです。《規範から外れる》という意味を表わすつもり
でした。


★ 私も悟りに関する事で経験があるが、狂気は何の足しにもならない
どころか大きく人を損なう。気を付けた方がいい。
☆ 一連の動きの中で現われる狂気の場合には まだ何らかの対処の仕
方があるかも知れない。無いかも知れないときにも 見守ることが出来
る。

何の脈絡もなしに現われる狂気は 手に負えないでしょうね。




☆☆ 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。
★ 志が大きなことは特に注目に値しない。結果、何某大事なことを護
り、また実現したのなら、それまでに抱いていた志の大小は問われない
だろう。結果の問題である。
☆ ぢゃ:
★★ でたらめに羽ばたいて飛べる鳥
☆ がいるかも知れない。となる。



☆☆ つるぎを投げ入れるために。親と子を 兄弟姉妹を 仲間を切り
裂くために。リセットって言ってんぢゃん。
★ これは初耳なので何とも言えないが、なにか物騒で不吉な響きがす
る。要するに争いを起こしたいのだということかね?
☆ 遠き慮りのもとに。



★ 自称ブッダを宣言しても、理法を説かないならただの人である。・
・・
☆ 何か考え違いをしているのでは?

《一切衆生 悉有仏性》なんですよ。みんなそれぞれ ブッダぢゃない
ですか。

お礼日時:2017/10/13 23:19

それではあなたの言う哲学の子という者はただの無法者ということになる。


事実、あなたがバカとか阿保とか人ではないなどという言葉を相手に投げかけているのを私はここで見てきた。
そのことによって議論が紛糾し収拾がつかなくなっているのも見てきた。それが理知ある哲学の子の取る態度だというのかね?自由を発揮するには、その以前に自制を修していなくてはならない。でたらめに羽ばたいて飛べる鳥がいないのと同じである。でたらめに羽ばたくだけならただやかましく、砂ぼこり(戯論と諍い)を巻き上げるだけで、得られるのは混迷を深める事だけだろう。
バカとか阿保とか人ではないなどという言葉をしょっちゅう投げかける様な者に、こころを開けと言うのはいったいどういう了見だろう。そんな者の前に裸で立つなら、それは愚かというものだろう。哲学とか議論とか言う以前の問題である。

さて、

覚りの境地は、虚妄ならざる安らぎである。
この境地に至ったならば、一切と争うことがない。
この境地に至った ならば、憂いがない。

と言われる。これは定義というよりも、仏の身に体現される事実だと捉えていいだろう。覚りの真実(本当のところ)はそれを自らの身に体現してわかることである。定義がどうとか言って頭だけで考えるのは、哲学の徒と呼ばれる所以だろう。哲学とはつまりは思索の範疇に収まることである。思索を超えた思索=観を為す仏たちの知見をそれによってとらえることはできない。しかし、仏たちの説くところを哲学的に思索するというのが無駄と言うわけではない。ある意味でそれは自然な行いであり、それが契機になって道を得ることもあるのではないかと思うからである。


ところで、所用あって明日から水曜日まで返事ができない。今晩に返事ができるかは分からない。了承願いたい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ それではあなたの言う哲学の子という者はただの無法者という
ことになる。
☆ 誤解をおそれずに言えば 哲学は 心の底では誇り高き自信を
持っていて 思考の緑野を超えて非思考の庭に〔乱暴を承知で言い
ますが〕自由自在にあそんでいると思っています。

(どのようにしてか? 能天気の状態において〕。

つまり――誤解無きよう!!―― 哲学の子は 《不法行為をしの
ぎ 無法者の心をも超えている》と自負しているものです。


★ 事実、あなたがバカとか阿保とか人ではないなどという言葉を
相手に投げかけているのを私はここで見てきた。
☆ これは 〔最終的には 世界との和解としての魂鎮めのための〕
魂振りであると説明して来ています。

たとえば 哲学の子は――お行儀よく 中道だとか言っていますが
じつは―― 右よりも右 左よりも左なのです。

悪人や無法者の心が分からなくて どうやって哲学をやってられま
すか。


★ そのことによって議論が紛糾し収拾がつかなくなっている
☆ そういう人たちは お遍路さんではありませんが 一つひとつ
の聖地をたどる巡礼の旅にあると理解してやってください。


★ 自由を発揮するには、その以前に自制を修していなくてはなら
ない。
☆ 規範を超える《狂気》をもあやつれなくて 何が自由か。

★ でたらめに羽ばたいて飛べる鳥がいないのと同じである。
☆ 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

★ 砂ぼこり(戯論と諍い)を巻き上げるだけで、得られるのは混
迷を深める事だけだろう。
☆ つるぎを投げ入れるために。親と子を 兄弟姉妹を 仲間を切
り裂くために。リセットって言ってんぢゃん。


★ ~~~
覚りの境地は、虚妄ならざる安らぎである。
この境地に至ったならば、一切と争うことがない。
この境地に至った ならば、憂いがない。

と言われる。これは定義というよりも、仏の身に体現される事実だ
と捉えていいだろう。覚りの真実(本当のところ)はそれを自らの
身に体現してわかることである。・・・
~~~~~
☆ こういうことは オカルト宗教の指導者でも言えます。


★ ところで、所用あって明日から水曜日まで返事ができない。今
晩に返事ができるかは分からない。了承願いたい。
☆ うけたまわりました。

お礼日時:2017/10/13 18:28

哲学ではどうしても捉えられない精神がありそうです。

そんな世界は感性を働かすしかないように思います。ヒラメキなんて世界も感性の受け持つところでしょう。

釈尊が言ったと云われる《生は苦》に付いての私の考えは、いつものように例えでの説明になります。

医学的には、体に受ける刺激は強ければ痛みとなり、弱ければ痒みと感じたりするようです。そうすると、もっとやさしい刺激は心地よいマッサージといえそうです。

この、肉体が受ける刺激は痛みともなるし、心地よさにもなると云う捉え方で”命”を見たのが釈尊の、生は苦(刺激)であると云う表現なのです。

キサラギさんもこの点に付いて、表現は違いますが触れていますね。
付け加えて、仏の観点から見れば、生き物の命は苦そのものではあるけれど、その命には楽もあれば苦もあるという事でしょう。

また、親鸞は念仏に依ってその境地に達したのであって、哲学したからではないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学ではどうしても捉えられない精神がありそうです。
☆ わいわいえいとさんの場合 《精神》というと 人間の――経験的な
・だから移ろいゆかざるを得ない――精神と そしてそうではなく 超経
験の神としてのそれとがあります。

後者は ヘーゲルのよぶ《世界精神》のことであるようです。

★ そんな世界は感性を働かすしかないように思います。ヒラメキなんて
世界も感性の受け持つところでしょう。
☆ ですから そこんところは すでに図式的なものですが 理論化して
います。

霊我:【信じる】:非思考の庭:ヒラメキ・  良心
                 ↓     ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 ↓     ↓
精神:【考える】:思考の緑野: 観想(思想) ↓
身体:【感じる】:感性の原野:      やましさ反応



☆ ですから 【考える】=思考の緑野の《精神》とそして【信じる】=非
思考の庭の《霊としての世界精神》とを 区別してください。

後者は 《プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)》とも 《アニマ・ムンディ
(世界霊魂)》とも呼ばれています。


★ 親鸞は念仏に依ってその境地に達したのであって、哲学したからではな
いと思います。
☆ これは トンチンカンです。



★ 肉体が受ける刺激は痛みともなるし、心地よさにもなると云う捉え方で
”命”を見たのが釈尊の、生は苦(刺激)であると云う表現なのです。
☆ あり得ません。

例の因果応報説では――わたしは認めていませんが―― 原因の善悪によっ
て 一般には それぞれ善悪の結果がもたらされるということですが じつ
は ブディズムでは 結果については 善果を楽果と言い 悪果を苦果と呼
んでいるのです。

つまり 自明のように 苦は楽と対立する概念であり 苦楽はそれぞれ悪善
と対応しています。

よって このわいわいえいと説(およびキサラギ説)は 認められません。

お礼日時:2017/10/13 13:30

覚りの境地は哲学的考察によって得られた帰結ではない。

(宗教にも属さない。)であるから、哲学でそれに迫るのはある意味で間違っている。しかし、仏たちの道理に通達する様は並ではなく、多くの哲学者たちがそれを哲学の対象として扱い、分析し、その意味や真を見出そうとしてきたことは自然なこととも見れる。ある人はそれを機縁にして道に入るのかもしれない。であるから、仏教の知見に哲学的に迫ることを否定するのは止めにする。私に今できることは、その哲学的考察ではなく、聞き知ったことをその材料として提供することくらいである。もし尋ねられたなら、自分の見解を提示することもあろうが、それが哲学的であるかどうかはわからない。仏教哲学というものも世には存在するが、私はそれを修めたわけではない。ただ仏教に興味を持ち、経典や仏に近づいたというだけのことである。あなたが知らない仏教のことも知っているであろうから、その部分については、情報を提示することはできるだろう。

さて、今からお礼を読んで、その返事を書こうと思う。

私が人の話を聞いていないとあなたは言う。聞いていないのではなく、おそらく実相は、聞いたが理解できない部分もあるということである。あなたの哲学と称する文言は、むにゃむにゃと夢の中の幻のような印象を受けることも多い。何を言っているのかわからないことも多いということである。話を聞いてはいる。心も全開ではないが半分程度は開いている。全部を開けというのは無理な話であろう。それが無理な理由は、あなたも世間を生きる者ならわかるだろう。

真実の、と付けば大概の人はわからなくなるだろう。真実について知らないからである。私もその一人である。分からないことであるので分かろうとしてそれを求めるのであるが、分からないのにそれを求められるというのは不思議なことだ。
人は第一の善知識によって発心すると言われる。そのことでそれを知る者となる。
そして第二の善知識に出会って解脱するのである。
これが私の聞いたことである。

別に私は覚りを定義したおぼえはない。覚りとはということを聞き知った事のうちで自分なりに語ったのである。前回も言ったように、私は覚ってはいない。どうして自分の知らないことについて定義できるだろう。それを非難するのは筋違いである。あなたの場合は別である。あなは覚りは空っぽであると断言している。しかし蓋を開けてみれば覚りについては知らないという。ということは、あなたは知らないことについて断定を下しているということになる。これが何を意味しているか分かるだろうか。あなたが嘘つきに似た何かになっているということである。それは注意した方がいいだろう。

何か問いたいことがあれば問えばいい。

それが無いのなら私の方からも質問をしよう。私に聞く耳がないからと判じて嫌に思うなら質問も止めておこう。

楽にすればいい。別にあなたを攻撃したいという訳ではない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 心も全開ではないが半分程度は開いている。全部を開けというの
は無理な話であろう。
☆ それは 世渡りの問題です。

哲学の門をくぐったのなら 禁忌・ご法度はいっさい無用なのです。

人間の――相対的な――自由をフル・オープンにしているのが 哲学
の子です。

その上で 批判すべきは批判し それをこばむ。この互いの自由展開
の過程をあゆむのが 自然でふつうの哲学です。




★ 別に私は覚りを定義したおぼえはない。
☆ 誰もそんなことは言っていない。いまさら何を言っているのか。

ゴータマ・ブッダは この上なくとうとい知恵のさとりを得たと宣言
している。では それを 定義し説明したことがあるか? です。

さとりとは 苦から解脱した状態である。苦とは さとりを得られて
いない凡夫の状態である。
――というような説明しか 二千年 ないという問題です。

(親鸞は 例外であり 義なきを義とす ハカラヒなきを自然と言ふ
と定義している)。

あなたのいま成すべき思考と行動は 然り そのとおりだ なるほど
ゴータマおよびその後のブディストたちは イカサマの哲学でペテン
を演じ続けている阿呆だ・・・と判定することです。

ここから 世界が晴れるのです。

お礼日時:2017/10/12 22:46

取り急ぎ。

いただいたお礼、あとで読みます。
あなたがからっぽだと言う意味が少しわかった気がしましたので。
それは、覚りとは真実のやさしさ(=智慧)に目覚める事ですが、その真実のやさしさとは何かが書いてないと言うのでしょう。
それはその通りでしょう。
教えは、真実にやさしい人はあなたの身近に必ず現れる。それを自ら発見せよ。
と言うものだからです。
あなたがからっぽを連呼する意味とはこう言うことではないですか?
しかし、経典に述べられていないからと言って、真実のやさしさは無いとは言えません。きっとあるだろうと思います。
この意味で、真実最高の教えは述べられていないので、その点においては、空っぽと言えば空っぽです。
六祖慧能も、最高の乗り物について修行者に問われた時に、説明してから、自分で考えなさい。私に問うことでは無いと言っています。
正法の通りに現れる善知識については、自分で見いださなければならないと言うことと一致しています。

真実のやさしさなど無いと言うことであれば、お釈迦さんはじめ諸々の仏は皆嘘つきだと言うことになるでしょう。それがあるのなら、仏達は正しかったとなるのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 真実のやさしさなど無いと言うことであれば、お釈迦さんはじめ
諸々の仏は皆嘘つきだと言うことになるでしょう。
☆ ではなくて:

○ 真実の愛などのごとく《真実の》をつけた表現としての《真実の
やさしさ》というように規定して 定義が出来たと思っているなら
そういう哲学などは無い――と言うことです。

○ そうであるので お釈迦さんはじめ諸々の仏は皆嘘つきだと言う
ことになります。


☆ インチキ宗教・ペテン宗教の会員たちは みな自分たちは《真実
の神 真実のやさしさの神》を信じていると言いますし 思っている
かも知れません。

お礼日時:2017/10/12 21:22

真剣な話を茶化すのであるなら私は答えることができなくなる。

それとも、あなたのさとりとは、真面目な話を茶化すような態度をとることを言うのかね?

お釈迦さんは自分の寿命に執着はしていません。彼が延命に失敗したなどと言うのは妄言でしょう。自分(お釈迦さん)の都合の悪いことなどあろうはずもない。全てはアナンダや他の未だ解脱していない人々や群勢(神々や梵天、夜叉など)のためでしょう。既に修行を完成した人と、そうでない人と、どちらが心配されるべきだろうか。

チュンダは在家、アナンダは出家。
よしよし、なでなで、手取り足取りこっちですよー、と旗を振りながら先導するのがやさしさだと思っているのなら、あなたはとんだお子様という事になる。子どもは覚ることができないと聞く。
もし愚かな事をなす人が居たなら、嫌われるとしても指摘して諭してやらなければならない。厳しくとも、それがやさしさというものでしょう。

それに、さとりのコツとは一体何のことを言っているのだろう。そんなものがあるのですかね。少なくとも私は覚りのこつなど聞いたことがない。
あなたのさとりのコツならあるのかも知れないが。あるのならそれを聞いておきましょうか。


直ちに、知って語っていると察したとはどういうことか、について、和解という言葉を使って持論を展開されて居ますが、あまりに自己の主観に惹きつけられ過ぎて居て、一般化されておらず、文章の意味を理解できませんでした。四つの徳を語ったその言葉には智慧がありましたが、それを語った相手の心が安らぎ和らいでいたかどうか私には知る由もない。そうだったのかも知れない。なぜなら、動揺を来すような人が、あのような静かな言葉を語る事は難しいと思われるからです。
あと、過去の事を話し始めたとは一体何の事か?私が自分の経歴のあらましを紹介した事ですか?

さとりの定義について。
私は平仮名でさとりと書くような事を自分の言葉として使わない。定義もしていない。悟りならば体験からある程度こう言うものだと言える。覚りについては、覚っていないので定義できない。

あなたのさとりの定義は聞きましたが、ではあなたは覚りをどう定義しているのですか?勿論あるんですよね?なければ覚りは空っぽなどとは言えないからです。定義があるから、それと照応してお釈迦さんの覚りは空っぽだと断定するのでしょう。


あなたがあなたのさとり観を抱くことになった長い経緯について、質問を立てることは難しいと思います。あなた個人宛に質問を立てなければならないからです。
出来ればダイジェストで良いので、ここのお礼欄か、補足欄で示していただけると助かりますが、無理強いはしません。聞けないなら聞けないで、今は聞けなかった、その時ではなかったという話になります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あなたは ひとの話を聞いていない。

話しても かみ合わない。

もっとも大事なことになると 半分ドアを閉じてしまうようです。

あるいは 耳をひらいているが 心は閉じている。

ドアの前に立って 話を聞く姿勢にあるけれど だから心が話を
分かろうとしているか? そうではないようです。

お礼日時:2017/10/12 15:18

当時、僧団には優れた比丘、比丘尼らがいて、何十人、あるいはもっと多くの解脱者がいたと聞きます。


しかし、アナンダは最も長くお釈迦さんと時間を過ごしたにもかかわらず、解脱できていなかったと。
アナンダはお釈迦さんが人々の福田であることを知っていたのに、なぜ

『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな
  方は寿命のある限りこの世に留まってください。
  多くの人々の利益のために 多くの人々の幸福のために ・・・』

といって修行完成者(=ブッダ)に懇請しなかったのか。
なぜ、いまだ解脱していない自分や、そのほかの人々のために、お釈迦さんにもう少しとどまるようにお願いしなかったのか。それはアナンダの過失でしょう。

なぜあなたは、心のやわらぎとやすらぎを得ている状態にあるなら死期を前にして このようなことは言わないと思われるのですか?

お釈迦さんはアーナンダの師です。このように言ったのはむしろ当然と言えるでしょう。お釈迦様がさらに生きることはアーナンダのためになることであったであろうからです。その後アーナンダがお釈迦さんに指摘されてからお願いしたのにお釈迦さんがそれを聞き入れなかったのは、すでにその時ではなかったからだと言っています。はっきりとはわかりませんが、その直前(つまり最初に何回かアーナンダに語り掛けてアーナンダがお願いの返事をしなかったとき)くらいにはすでに、入滅を決心していたのかもしれません。


次に、私の体験談、仏と思しき方を見つけたという箇所について。

私は、25歳の頃に、その方が、四つの徳について説いているのを不意に聞きました。以前から徳について知りたいと思っていた私ですが、いまだはっきりとした答えを得ていませんでした。その方の説明は実に明瞭かつ簡潔であり、しかも過不足なく説かれたものであり、私は直ちに、この方は知って語っていると察したのです。それが初めでした。その時、私は私が知らないことを知ったのです。
普通、哲学者といえども徳について語ると、云云かんぬんとどこか説明臭かったり、明瞭でなかったり、時代の影響を受けていたり、個人的な思い込みのようなものが混入していたりして、完璧に諒知できるようなものに私は出会ってこなかった。しかしその方の説明は違ったということです。

あなたが言う哲学の命題や理論が具体的になんなのか私は知りません。
例えばあなたの示したあなたのさとり観、つまり

『さとりというのは 黙って座ればぴたりと当たるではありませんが 互
いに向き合えば その相手の人は もし解きたい悩み苦しみがあるとしたな
ら やがて自分から そのことを話すようになる。というように相手と向き
合える心の姿を言います。

そのときには おそらくおのれの心の奥なる固有の時間において わたしが
わたしであるという《ひとり満ち足りているわたし》に成り得て そこにお
いて 或るきよらかなおそれをおぼえている。

つまり さとりを得た人の心が そうであり 向き合ったその相手も すな
おに そのきよらかなおそれなるイメージのような感覚を共有したというま
ぼろしを見たということなのでしょう。

だから 心がひらいたのでしょう。これが さとりです。

おそらく 誰にもそなわるブッダター(あるいは アートマン)が そこで
はたらいたのでしょう。(これは 実証はかないません)。』

のようなことを哲学の命題や理論というのであれば、そのようなものはそのシーンにおいては存在しなかったのかもしれません。あえて述べるとするならば、『直ちに、知って語っていると察した』とはどういうことか、ということになるかと思いますが、これはそのままの意味であるとしか言えない。ただ、察するという語の内容について精査する意味はあるのかもしれない。ほかの人が言えば、直観したということになるのかもしれないが、それは直観とは少し違う気がします。
こうではなく、あなたの知りたい哲学の命題や理論というのがあるのなら、ここが知りたい、という感じで質問していただければ、答えられるものは答えます。

私はむしろ、あなたがこのようなさとり観を抱くこととなった経緯や人生の経験などを知りたいと思いますがいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

アーナンダは:
★ なぜ、お釈迦さんにもう少しとどまるようにお願いしなかったのか。それはア
ナンダの過失でしょう。
☆ 《阿呆だったから》ということですね。確か経文には 《悪魔に憑かれたから》
とありました。

つまり もし:
★ 多くの解脱者がいた
☆ のなら ゴータマは 同じようにアーナンダをもみちびいてやっていればよか
った。それだけのことです。

★ なぜ 心のやわらぎとやすらぎを得ている状態にあるなら死期を前にして こ
のようなことは言わないか?
☆ あの毒キノコを料理に差し出した鍛冶工チュンダには やさしく アーナンダ
にはそれが出来ないか?

★ お釈迦さんはアーナンダの師です。このように言ったのはむしろ当然。
☆ つまり そうだとしても もっと早くさとりのコツをおしえてやっていればよ
かった。《お前の罪。お前の過失だ》ですよ? それを治すすべをおしえてやらね
ば。

★ お釈迦様がさらに生きることはアーナンダのためになることであったであろう
からです。
☆ えっ? そこまでダメ出しするとなると ほんとうにゴータマは その延命の
失敗を アーナンダの所為にしていますよ? 自分に都合のわるいことになった場
合 他人の所為にするのですか? かんがえらんなあーい!

わたしたちも 周りに阿呆がいたら すべて失敗はその人間の所為だとして 見倣
ってよいのですね?



★ 私の体験談、仏と思しき方を見つけたという箇所について。
・・・しかしその方の説明は違ったということです。
☆ これは やはりその内容如何でしょうね。哲学の目としては。


★ あなたのさとり観。・・・あえて述べるとするならば、『直ちに、知って語っ
ていると察した』とはどういうことか
☆ これは その相手の人が 《心がやわらぎ安らぎを得た》ということです。
《世界と和解できた。おのれとの和解が成った》ということです。だから 過去の
ことを 話し始めたということです。

★ あなたの知りたい哲学の命題や理論というのがあるのなら
☆ 《さとり》の定義をどうぞ。まだお聞きしていません。


★ あなたがこのようなさとり観を抱くこととなった経緯や人生の経験など
☆ それは 長い話です。質問を立てていただいて 回答者として或る程度は お
応えできるかも分かりません。

お礼日時:2017/10/12 11:02

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