プロが教えるわが家の防犯対策術!

既出ですが あらためて問います。

受け身のチカラのことです。どうでしょう。

A 回答 (7件)

あなたが打てば、わたしは響く



これはお気に入りの音(こえ)だろうか

あなたの打ち方に、わたしがあなたの今日の一日の疲れを感じ、安らぎを与え、優しい眠りに誘うこえを響かすことができるだろうか。


おそらく、あなたが思う思いをわたしを叩きながら、あなたの望む声の響きに合うように

力や角度を変えて手探りを繰り返すのではないだろうか

あなたはあなたの気持ちにあうようにわたしの叩き方を変えるでしょう。


わたしには知らないわたしの個性をあなたが見出すのかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。たのしくおもしろく展開してくださった。

★ あなたが打てば、わたしは響く
★ わたしには知らないわたしの個性をあなたが見出すのかも知れ
ません。
☆ この二つの文からは 《あなたの撞くに合わせて響くわたし》
は 《わたし》も知らなかった《個性》が引き出されて それを
《あなた》が受け取る・・・ことがあるかも知れないと。

《わたし》は それを知って さとりを深めることが出来る・・・
かも知れない。



★ あなたの打ち方に、わたしがあなたの今日の一日の疲れを感じ、
安らぎを与え、優しい眠りに誘うこえを響かすことができるだろう
か。
☆ こうなると 期せずして・意図せずに 二人のあいだには コ
ラボレーションが出来て行くのかも分かりません。



もっとも・あるいはつまり 《さとり》と言っても 人間の実現し
うる状態は 何がしかの磁場のようなものでしょうから:
★ これはお気に入りの音(こえ)だろうか
☆ といった・まづ うたがいを持って 迎えいれられるかも知れ
ない。


★ ~~~~~~
おそらく、あなたが思う思いをわたしを叩きながら、あなたの望む

声の響きに合うように

力や角度を変えて手探りを繰り返すのではないだろうか

あなたはあなたの気持ちにあうようにわたしの叩き方を変えるでし
ょう。
~~~~~~~~
☆ このくだりも 知らないところで その二人のあいだには――
例の間主観性( Intersubjektivität )としてのように―― 相い共
鳴する響きが起きて来るのかも知れない。・・・

お礼日時:2017/10/15 06:10

瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。

また、瞑想をすると、悟りが開けるとはどう言うことなのでしょうか。

 目覚めている時、自由自在にはこの宇宙を体験することは出来ません。五感から入ってきた刺激に基づいて、外界を心の中に再現するからです。しかし、眠っている時、貴方は五感から解放され、自分の欲求・悩み・記憶等に導かれ内界を作り出します。これが夢です。

 夢であっても、花びらの鮮明な色や、その1枚1枚の形を克明に見ることが出来ます。木々の葉っぱの1枚1枚が風に揺れている様を見ることが出来、その葉っぱの擦れ合う音を聴けます。風や太陽の光を感じます。夢の中に出て来た人の声を、はっきりと聴けます。起きている時と全く同じなので、起きているのかこれは夢なのか判断が付きません。

 しかし、眠っている間は、記憶する機能も眠っているので、それだけ鮮明な夢であっても、憶えておくことは出来ません。漠然とした断片的な印象が残っているだけです。

 瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。

 瞑想により、貴方は本当はこの宇宙そのものであったことを悟ります。貴方の心がこの宇宙を作り出していることを理解します。海の彼方を探さなくても、輝くものは私の中にあったのです。 今まで私だと思っていた存在は、私の中の小さな一人に過ぎなかったのです。

 ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。
 それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。

 そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。

 悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。

 そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。

 すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。

 その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。

 その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。

 すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。 そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。 私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。

 この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。  会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。

 瞑想状態に入ってしまうと、もう思考しても大丈夫です。瞑想から醒めることはありません。私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「あの世」です。

 瞑想から醒めるには、その世界で大きく息をし伸びをして、頭を振って眼を覚まそうとします。 そうすると、現実の世界に戻ることが出来ます。
 しかし、目の覚めたこの世界も、私の心が作り出しているのです。 実は、瞑想状態の世界と同じものです。一度、瞑想の世界を経験すると、現実の世界全体も、私の心が作り出したのであり、私自身であることを理解します。

 今まで私だと思っていた一人は、「小さな私」であったことが分かります。感じている世界全体が、大きな私です。
 生きとし生けるものは貴方自身です。ですから、それらに博愛を注ぐことが出来るのです。 他人も貴方自身です。ですから、汝の隣人を愛することが出来るのです。 敵も貴方の一部です。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
 これが、悟りの内容です。 この世の全ては貴方の物です。ですから、幸福なのです。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/meisoutohananika.html
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作りすぎだろうなと途中で思いました。




自受用(報)身ならば、ありのまま受け止めてありのまま響く

でしょうか。
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この回答へのお礼

あっ。そうでしたか。ご回答をありがとうございます。

★ 自受用(報)身ならば、ありのまま受け止めてありのまま響く
☆ ここは ひとつの定まった原則を述べます。

《ハカラヒ無きを 自然(じねん)と言ふ》

あるいは

《義無きを以って義とす》

こちら(後者)は むしろおそろしい思想にも見えるほどです。


つまり やはり能天気なんです。

《ありのまま・あるがまま》が当てはまる側面があります。で
すが この《ありのまま》を 方針に立てるとか 原則にする
とかは しません。(わたしの場合ですが)。

クリスマスツリーの飾りはぜんぶ取り去ってしまっています。
樅の木だけで生きています。(ま 基本はですね)。



☆ 《ハラカヒ無き》ことを計らうことも ないのです。

お礼日時:2017/10/16 00:46

わたしはこのように思うのです。



あなたはあなたの胸の内にある(鐘のようなもの)をある目的をもってわたしをつくりだした。

わたしが鳴れば誰かに聞こえる。鐘が聞こえればそれは何かを伝えるサインになる。

夕暮れ時に子どもたちがわたしの声を聞いたら、それはおうちに帰れば温かいスープとパンが待っているサインだと。


あなたがわたしを作るのにあまりに愛を込めすぎたためにわたしはこころをもった。

わたしには使用目的があるのに、それ以外のことまで考えることができるくらいに。


わたしのくだらない求めにも答えてくれて、好きな時に手を伸ばし、足を伸ばして動けるようにもなった。

わたしはあなたの胸の一部であったのに、わたしはあなたと同じように生きることができるようになった。


わたしはあなたの目の届かないところにも行く。

だけどあなたはあなたの胸の内の(鐘のようなもの)に聞きさえすれば、わたしがどこで何をしているのかはおよそさっしがつくでしょう。


もともとはわたしはあなたの胸の奥の琴線、わたしが歓べばきっとあなたも歓んでいるのでしょう。




もし、気持ち悪い文章なら切ってしまってください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

それはですね。《理念》というものについて 想像力ゆたかに
物語を編んでいるといったことではないかと思います。


実際は わが鐘を響かせて そのあとは ふたたび鐘を撞かれ
るという事態にならないと どう成っているかは 分かりませ
ん。

言いかえると 鐘が撞かれたと感じるときだけの振る舞いと言
いますか。もちろんそれは いわゆる実存としてのように そ
の都度きちんと考えて発言するのですが 言ってみれば 試行
錯誤なのだと思います。

鐘の撞かれる前に 何か計画のようなものがあるではなし。鐘
の音を響かせたあとに その結果や行方を追って行くというこ
とでもない。

もっとも乱暴に言えば 能天気でいるというのが 実際なのだ
と思います。また それだから 自由にそのつど鳴り響かすこ
とが出来るのだともです。

つまり 《理念》が ふたりの間で旅をするかのように これ
これの過程をとおって あれそれのところに落ち着くといった
或る種の予定調和があるではなし。あるように計らっているで
もありません。

つまり 今回のお話は 理念の武勇伝のごとく 着地点をも想
像し考えての或る種の物語を編んでおられる。
――とは思いましたね。

お礼日時:2017/10/16 00:21

わたしはあなたに寄りかかり過ぎていたようですね。



たしかに(我も生きる汝れも生きる)なのでしょう。

するとわたしはあなたの帰りを待っています。本を読んだり、編み物をしながら。

(鐘が本を読んだり編み物をしたりはしないですが)わたしはあなたが帰ってきてわたしを叩くのを待つことにします。

(待つ)は受け身でしょうか。

(我も生きるなれも生きる)なら、わたし自身、自体顕照としてあればよいでしょうか。

手があれば、本を読み、編み物をしたい、足があれば、友達にも会いに行けるでしょうに。


手や足があったら、受け身にはなれませんか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ わたしはあなたに寄りかかり過ぎていたようですね。
☆ 寄りかかるかどうかを別として:
★ たしかに(我も生きる汝れも生きる)なのでしょう。
☆ の基準は 大切でしょうね。

★★ サービス
☆ の精神は これも大事ですが それが第一目的ではないの
でしょうね。



★ (待つ)は受け身でしょうか。
☆ 細かく言えば 《受け身》を積極的におこなっている・・・
でしょうね。

★ (我も生きるなれも生きる)なら、わたし自身、自体顕照と
してあればよいでしょうか。
☆ ええ。これではないでしょうか。

★ ~~~~~~~~~
手があれば、本を読み、編み物をしたい、足があれば、友達に
も会いに行けるでしょうに。


手や足があったら、受け身にはなれませんか?
~~~~~~~
☆ いえ。鐘が撞かれていないとき 自由な時間に 何をして
も構わないと思います。

お礼日時:2017/10/15 22:55

物理でいうと、反作用や応力



人間でいうと、反応、応答の力、でしょうか。

さきの話は、自分が鐘になったように考えて、あたかも、感じ、考える鐘があったら、わたしはただあなたが叩きに来ることだけを待っていて、せっかくあなたがわたしを叩きに来てくれたんだから、少しはサービスしなきゃ。と思ったのです。

だから、お気に召す響きになっているだろうかと心配したのです。だけどあなたは、なにかしらの疑いのように一瞬感じたようですね。こころがあるもの同士ならやはりすれ違いのようなこともあるのでしょうね。

待てど暮らせどあなたは来ない。だからわたしは少しすねてみた。これは受け身でしょうか。

受け身にも、こころがある限りやはりどうしてもなんらかの主張が出てきてしまうのでしょうか。

なんらかのコラボなのはわかるような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ なんらかのコラボなのはわかるような気がします。
☆ コラボは わたしが言ったのですが たぶんそれは 結果として
現われることではないか。とは思います。


★ ~~~~
物理でいうと、反作用や応力

人間でいうと、反応、応答の力、でしょうか。
~~~~~
☆ 基本として・自然のチカラ関係として そうだと思うと同時に
人間の意志行為としては 自然の応答そのままでもないように思いま
す。

なかなか 気むづかしいことを言おうとしていますが 自然の応答と
しての反発力 これは一たん 受け身の姿勢の中に吸収されると言い
ますか その中におさめられて――なぜなら アース(接地)のチカ
ラのように吸収するからだと思うのですが―― そのあと 反発とし
ても同感としても 外に向けて表現するものと思います。



★ さきの話は、自分が鐘になったように考えて、あたかも、感じ、
考える鐘があったら、わたしはただあなたが叩きに来ることだけを待
っていて、せっかくあなたがわたしを叩きに来てくれたんだから、少
しはサービスしなきゃ。と思ったのです。
☆ そうですね。わたしの意見ですが そこは微妙ですね。

つまり:
★ せっかくあなたがわたしを叩きに来てくれた
☆ のだとしたら(つまり そのことがはっきり分かったのだとした
ら) そのことに まづ反応するかも知れません。鐘の音は まだ鳴
らないかも知れません。

たぶん 《叩きに来た》ということのほかに どういう《意味》があ
るかに反応すると思うのです。

★ だから、お気に召す響きになっているだろうかと心配したのです。
☆ あぁ ここで微妙な違いが出るのですかね。《お気に召すかどう
か》というよりも 《われも生きる なれも生きる かれも生きる》
の共生にとってよいかどうかで判定すると思うのですが どうでしょ
う。

★ 待てど暮らせどあなたは来ない。だからわたしは少しすねてみた。
これは受け身でしょうか。
☆ あぁ ここはわたしの場合 《ひとり満ち足りている》状態がも
のを言います。どうでしょう。

★ 受け身にも、こころがある限りやはりどうしてもなんらかの主張
が出てきてしまうのでしょうか。
☆ 主張は持つことがあるでしょうが 鐘の音を響かせる前には出さ
ないとは思うのです。

お礼日時:2017/10/15 21:54

祇園精舎の鐘の声



たがために鐘は鳴る

発想のもとはなんでもよいということですよね。


(なんの声もせず)と単純にいうより、(あなたが打たないから、わたしは響かない、だからなんの声もない)というと、受け身の立場のくせに、すごい主張があるようにもみえるから不思議です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~
祇園精舎の鐘の声

たがために鐘は鳴る

発想のもとはなんでもよいということですよね。
~~~~~~
☆ いや わたしの考えで 違った意見を述べますと 《鐘》が入って
いたら何でもよいというわけには行きません。単純に言って。


★ (なんの声もせず)と単純にいうより、(あなたが打たないから、わた
しは響かない、だからなんの声もない)というと、受け身の立場のくせに、
すごい主張があるようにもみえるから不思議です。
☆ そういう考え方も成り立つかに思えますが またまたわたしの偏見
を述べるなら 《受け身のチカラ》というのは 何もなければ 何も受
けないわけですから 何も鳴り響きません。と思いますよ。

お礼日時:2017/10/15 21:01

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