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リアル(現実)の生活が充実している人物の事を、ネットスラングではリア充と言います。
そういう日常が充実しているのではと思われるのに、実際には非充実アピール(非リア)アピールしている人を見たことがありますか?

最近友達がいるリア充が非リアを自称しているのがうざすぎる どうしてこうなった・・・
http://blog.livedoor.jp/wantria/archives/112160. …
※2ちゃんねる系ブログです。苦手な方はご遠慮ください。

例えば友達がいる人とか、恋人がいる人というのは充実しているタイプ、勝ち組か負け組かで分けたら勝ち組に分類されると思うのですが、実際には非充実アピールをする人がどうもいるそうです。何故か・・・。本当かどうかは分かりませんが。
皆さんはそのようなタイプを見たことがありますか?私は知り合いが少なすぎて、良く分かりません。

A 回答 (2件)

記事参照有難うございました。



大変勉強になりました。

リンク記事を読んでいますと、掲示板の書き込み者の間でも齟齬が生じているようです。

「リア充」という言葉の本当の意味が失われているということでしょう。


どうも、その中で「リア充」の語源を知っている人が二人ほどいて訂正しています。

(実際に「リア充」で無い人1名、語源を知って訂正している人1名と言う感じ)

そこから読み取ると、本当の語源は、

「ネット以外での活動をリアルでしており、

 そこでの苦しみを含めて人生を歩めている人。」

であり、ネット以外の活動が無い人が存在していて、

その方々が述べた(まさに魂の叫び)言葉のようです。

彼らには何らかの理由があり、大変な苦痛と不満を抱えていると考えられます。

(しかし誰も知らないし、助けてくれることはない)

彼らにとっては、現実世界で銃を乱射して自殺するような人も「リア充」なんです。

そうした事ですら、出来ないと諦めているんです。

「そういう状態があるって知ってたか? 

 そういう状態になったときの感覚を知っているのか?

 お前らが吐く愚痴って言うのは、幸せの中の一つなんだぞ。」

と言う事を言いたいんでしょう。

他人と比較して自分の中身がないと苦しむのは、本当の苦しみではないと言うこと。

本当にないと言う状態はもっと違った感覚がすると訴えているのでしょう。


逆に言えば、

「それならまだ何とか成る。」

と知っていると言う事です。



彼らにとっては、

友達が出来ないから充実していないとか、

彼女が出来ないから充実していないと言われるのは、

凄く嫌なはずです。

それらはリアルに参加した人が結果に対して語っていることです。

リアルでの成り行きは、その正否や幸福感に関わらず、想像よりも濃いものです。

本当にリアルに出れない人は、

「自分が不細工であって、良いところがなく、色んな人に相手にされず、

 密やかに憧れていた人にも無視されるって、

 どういう感じなんだろう? 

 経験が無いから想像できないや。

 くそ、俺って不幸すら想像するしかなくて、しかもそれが良く分からないんだ。

 苦しい。薄すぎて。辛い。」

という生活をしているんじゃないでしょうか?

「ネット以外のリアルな現実社会を自分の肉体で歩くことが出来ない。」

その苦しさに耐えている人が現実にいるということです。


しかしこれまでは知ることが出来ませんでした。

リアルしかなかったからです。

しかし、ネットにより繋がることができたわけで、彼らの声が届くようになったんです。

そして、私たちが彼らの心からの言葉を、軽々しく自分の愚痴に転用したと言う事です。

想像も出来なかったほどのものですから、汲み取れなくても仕方ないと思います。

逆に言えば想像も出来ないくらいの辛い中でも、

生きている人がいると言う事を知る機会でもあったんでしょう。


ネットの発展が救いであったということ。

そして、ネットをリアルの愚痴に使う人が増えてしまい、

その救いの場が侵略されてしまう。

そう感じても仕方がないのだと理解しました。


私も生きた体を持って、現実世界に参加できるのに、

成功者を羨むだけの考え方は好きではありません。

また、自分を哀れむ考え方も好きではありません。

いたずらに弱者を哀れむ考え方も好きではありません。



先ほど述べましたが、

リアルに出れない事情がある中でネットを使って生きていると言うのは、

その条件の中ではかなり上手にやっています。

そしてこれは多くのノーブルの思想に通じています。

例えば、

コントラクトブリッジと言うトランプのゲームジャンルが有ります。

これは、手札の条件は運として諦め、如何にしてそこでベストを尽くすかを競うゲームです。

この凄さを腕前として評価するんです。

私たち人間はこの「あがき」を人間性として受け入れ、それを尊んでいます。

条件に対して抵抗することです。


仏教ではお釈迦様が誕生したときに、

お釈迦様が「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられています。

これは御伽噺に近いでしょうが、教えてして大変心強いものです。

「同じ条件のとき、自分より上手にやれる人がいるかもしれない。

 条件ばかりを気にしている自分は、それだけで負けてしまうかもしれない。」

こう考えて生きる。

そして、

「もし、同じ条件の人がいたら、

 『お前は凄い。その凄さは同じ境遇の俺にしか分からない。』

 と言ってもらえるだろう。

 そう言う事は無いとしても、そうしていきたい。

 なぜかと言うと、誰よりもこの条件の厳しさを知るのが、

 自分自身だからだ。

 俺は、俺がベストを尽くしていると、俺を誉めてあげたいからだ。」

と考えれば、これは手堅く手に入ります。

更に、

「ああ、よくよく考えると全ての人は同じかもしれない。

 誰も相手のことを知らないのに羨んでいる。

 そうだとするとどんなに条件を変えても、苦しさは減らないんではないか?

 条件を良くすると苦しさが減ると言うのは錯覚なんではないか?

 今を良くするのではない。

 今に集中することで、余計に苦しまないようにするというのが、

 どんな条件の中でも苦しさが一番少ないベストな手法なんだろう。」

条件を良くしていくことで、肉体的に快楽を得ていくのは当然です。

しかし、考えるだけでは現実は変化しません。

そのため、考えにより生じる余計な苦しみは、考えを変えて除去できます。

そういう僅かなきっかけ(効果)でも、人は建設的な行動を取る活力を得られます。


色んなものが気になって動けなくなったときは、

「天上天下唯我独尊」から始める。

「この条件の中で俺はクレバーに動けているか?

 気持ちが条件に負けていないか?」

これらをチェックし、プレイを維持すること。

それが本来の人間性であると仏教が訴えているのだと思います。


さて、長くなりましたが、

充実と言うのは今の条件の中でベストなプレイをすることであり、

充実感というのは、そんな自分の凄さに驚く気持ちです。

結果を取り揃えて、見栄を張ることじゃないでしょう。

自分の心が条件に左右されると知って、条件が悪くなることを恐れていては、

その一生は台無しに成ります。


自分が自分を褒めたくて(誰にもわからいと知っていても)、

涙が出るくらい嬉しいと言う気持ちが本当にあります。

もし一生をこの気持ちで満たし続けることが出来たら、

これは本当に充実していますよね。


自分の条件と他人の条件を比較するのではなく、

その条件下でのプレイ内容を比較し、その気持ちの強さを慈しんで尊ぶことが大事だと思います。


以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/11/26 08:17

インスタみたいに上辺充実していても


中身が貧しいから埋めたいのでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/11/24 21:36

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