dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

たぶん多くの人は、「発見」と「創造」は、どちらかというと対義語だと思っていますよね。違っていたらすみません。

なぜなら、「発見」は人間が関わってない隠された秩序が見つかることであり、「創造」は人間が自ら生み出した事物である、と一般的に言われているからです。

でもそれは果たしてそうなのでしょうか?それら2つの単語は、1つの物事の異なる側面を書き表わしているだけであって、対義語じゃなく、むしろどっちかというと同義語のような気がします。

でも、そう考えると、一つ納得のいかないことがあります。

発見は「探究力」「なぜ?なぜ?」と深く関わりがあると思います。
また、創造は(そのままですが)「創造力」「直感」と深く関わりがあると思います。

それで、芸術家というのを考えてみると、芸術家(ゴッホやバッハのような、画家あるいは音楽家等)にとっては創造力が最も大事であり、優れた作品を創るには創造力は最も欠かせないものだと思います。

ここで一つ疑問がわきます。

「創造」と「発見」をほぼ同義とすると、それに必要な「探究力」と「創造力」もまた同義になってしまうかと思います。

でもそうしてしまうと、芸術家は「探究心」が大変重要ということになってしまい、なんだか変な感じがします。

広い意味で考えると、芸術家でも「探究力」が重要であるかもしれませんが、芸術家イコール探究心ではないような気がします。この場合、"なぜ?なぜ?"の「探究」と、"直感"の「創造」が結び付きません。

そうすると、やはり「創造」と「発見」は全く別のものだということでしょうか?
でも科学者のような「発明」で考えると、「創造」と「発見」が根本的には同じものであるとしか思えません。

以上のような理由で”「創造」と「発見」は、対義語か?同義語か?”という質問をさせて頂きました。

どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

「創造」では、 既存(既知)のものを組み合わせて「新たなもの」を創り出すということになるでしょう。

例えば、芸術においては、文芸は主として「文字」を、音楽は主として「音」を、絵画は主として「色」を、工芸は主として「物」を組み合わせて創り上げていきます。

これに比べて「発見」は、既存(既知)の事項で記述されていない、未知のものについて、誰もが納得しうるなにがしかの記述(客観性が高い文書:誰もが追試可能な手順や方法を述べている文書を含む)が為されるということでしょう。

「視点の違い」という考えもあるでしょうが、少なくとも【その時点での人類にとって】という基準が暗黙裏に想定されるでしょう。

すなわち

「創造」では、 【その時点での人類にとって】既存(既知)のものを組み合わせて「新たなもの」を創り出すということになるでしょう。
これに比べて「発見」は、【その時点での人類にとって】既存(既知)の事項で記述されていない、未知のものについて、誰もが納得しうるなにがしかの記述(客観性が高い文書:誰もが追試可能な手順や方法を述べている文書を含む)が為されるということでしょう。

となるでしょう。

「未来の人類」の視点や「唯一絶対神」の視点からすれば、人間の行うどのような行為も「創造」でも「発見」でもない「既知のもの」として扱われることになるでしょう。

そういった「未来の視点」に立った状態を想定できるからといって、「いま・ここ」に生きている人々が「発見や創造なんて区別すること自体おかしく、すべて既知のことだし、同義語だ」といったり、あるいは「いま・ここ」に生きている人が、過去の歴史的な「発見・創造」を振り返って、「発見や創造なんて区別すること自体おかしく、同義語だ」と言ったとしても無意味だと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答有難うございます.

>少なくとも【その時点での人類にとって】という
>基準が暗黙裏に想定されるでしょう。

ということですが,そのような前提であっても,やはり「創造」と「発見」は同じものであると思います.

なぜならば,「創造」は「【その時点での人類にとって】既存(既知)のものを組み合わせて「新たなもの」を創り出す」と仰いましたが,

これは言い換えると,
「【その時点での人類にとって】それまで知らなかった新しい組み合わせを『発見』する」

ということにならないでしょうか.

そう考えると【その時点での人類にとって】も,「創造」と「発見」は本質的には同一であると思うのですが...

(ちなみに「発見や創造なんて区別すること自体おかしく」なんて,私,一言も書いてないし思ってませんよ(笑)ただ本質が知りたかっただけです.)

お礼日時:2014/09/02 13:20

「創造」と「発見」は 理解者の立つ位置によって表現がことなるだけで 同義語ということのようですが、その上で『科学研究において、これまでの先行研究を深く観察、探究して、そこから生まれた疑問や自分の経験・考え等を基にに、新たな仮説を立て、その結果得られる発見と、芸術において、これまでの作品を観察し、そこから生まれる疑問や、経験に基づく直感などを基に発生した創造は、基本的には同じ頭脳作業である、ということでしょうか。

』という新たな疑問が質問者から問われています。

両者とも脳細胞域の個々の細胞が活性化していく作業でしょうが PCのプラグラムが異なれば出力は異なるように 細胞の活性化手順が異なるということでしょう。厳密には全て同じ細胞ではないと思いますが 新たなモノにまとめるところは同じ細胞である可能性があると思います。芸術家の仮説とは何かですが、絵画であれば 例えば 印象派の色の使い方とか 抽象画の曲線の使い方とか 日本画のデホルメの流儀とか と鑑賞者に与える影響であります。そのことを意識していない芸術家もいるでしょうが 分析すれば科学者の仮説と実証に相当する部分はあるようにおもわれます。ただし その仮説は必ずしも論理的である必要はないと思います。

因みに、私は 「創造」は 意図的に人が新たモノを つくるというということではないか と思います。工学分野の飛行機であり自動車であります。科学(物理学)分野において新たな宇宙論の仮説をたて実証していくことです。実証分野だけでなく 論理学の構築(数学、多くの哲学)も公理と演繹の領域があります。勿論、芸術分野もあります。人間の脳活動が枯渇しない限り 延々と創造活動は続くと思います。
それに対して「発見」は 森羅万象は全て出来上がっているが、人は部分しか分かっていなく 新たに分かった部分を「発見」としているように思います。アメリカの 科学発展を絶対ID思想として捉える方法と似ていると思います。絶対者が森羅万象を創ったが人間は一部しか分かっていないという考えです。
同じ活動に対して二つの見方があるということです。
前者はポストモダン的であり 後者はモダン的とおもいます。どちらの立場でも創造、発見の活動は問題なく出来ると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/27 02:06

言葉遊びも悪くはないと思いますが、それだけ(偶然性に待つこと)で一流の創造が出来るとは思えません。

創造は5感をも使った意識的、無意識的な想像、思考(具体的には、組み合わせとそのよしあしを価値判断する作業)と記憶内容(獲得しているマテリアル群)の閲覧作業です。

発見は偶然の産物と思われがちですが、人間の眼は見たいものを見るといわれるとおり、対象物を視認するのは過去の記憶の中にあるマテリアル群とリアルタイムに目の前に現れる対象物とを引き比べる段階が必ずあり、そのなかで価値のある状況を捉えるという瞬間芸的思考力(対象物の価値判断)の作業です。

そういう意味では創造も発見もよく似たものではないかと思われます。ベースとして自身の記憶と比較し、その中に価値を見出すという頭脳作業のように思えます。

広い意味で同義語だといえばそういえるかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>言葉遊びも悪くはないと思いますが、それだけ(偶然性に
>待つこと)で一流の創造が出来るとは思えません。

私も同感です。他の回答者様の補足欄にも記述いたしましたが、偶然による発見のように見えても、それはセレンディピティなのであり、つまりkomaas88様のおっしゃる通りの、意識的、無意識的な想像、思考と記憶内容の閲覧作業の結果の必然的な創造であると思っています。

>ベースとして自身の記憶と比較し、その中に価値を見出す
>という頭脳作業のように思えます。

つまり、
科学研究において、これまでの先行研究を深く観察、探究して、そこから生まれた疑問や自分の経験・考え等を基にに、新たな仮説を立て、その結果得られる発見と、
芸術において、これまでの作品を観察し、そこから生まれる疑問や、経験に基づく直感などを基に発生した創造は、
基本的には同じ頭脳作業である、ということでしょうか。

お礼日時:2012/10/03 10:20

>おっしゃる通り確かに、「発見」は今まで視界に入らなかったものを見つけることである、ということに賛同致しますが、ただ、それは「創造」でもあるのではないでしょうか?なぜならば、創造される前は、それはその人の視界に入らなかったのですから。

もしそれが創造される前に、すでに視界に入っていたのならば、それは創造ではない(模倣)と思います。

これって私が前の回答で言った内容と同じじゃないですかね?
質問者様は言葉遊びはしたくないといいつつ創造という言葉の解釈をひねくりかえして発見に繋げてるだけのような気がします。
それが間違いとは言わないです。私自身、創造は発見の一側面であり、発見は創造的活動でもあると考えています。

私は大学時代毎日顕微鏡を覗いて試料の微細構造を眺めてミクロの構造がマクロにどんな影響を与えているのかを考え、いろいろ実験してデータを集め、ある時にこの微細構造の動きがこの現象に繋がっているんだ!と発見するという研究活動をしてきましたがこれは発見であると同時に新しい解釈を創造したとも言えると思います。
私は絵画に近い趣味の創作もしてますが(芸術家とは到底名乗れない素人芸ですが)今まで知っていた表現技法を組み合わせたり解体したりして新しい表現技法を発見したりしています。むしろ技法に関して言えば音楽も絵画も知的な発見作業の組み合わせから新しい作品を創造していると言えると思います。
でもこれらって根本的には創造でも発見でもないもっとプリミティブな精神活動だと思うんです。で、それを言葉で表現するために抽象化して創造とか発見っていう言葉を当てはめてるだけだと思うんですよね。
後は人によって創造や発見という言葉に解釈の幅があるのでより厳密に両者を定義してる人は両者は別の言葉と考え、質問者様や私のように幅を持たせて解釈してる人は同じものの違う側面を表す言葉と考えるだけのことではないかな、と。
正直なところ、実際に研究や創作に携わってる人間には自分の活動が発見に分類されようが創造であろうとどうでもいいことですし。

というか一番の問題点は質問者様が発見と創造の定義を定めずに、私はこう思います、という曖昧な言い方しかしないことではないかなと。
創造も発見も意味に幅のある言葉だからいくらでも好きに解釈可能ですしね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私は大学時代毎日顕微鏡を覗いて~~~これは発見で
>あると同時に新しい解釈を創造したとも言えると思います。

私も、そのようなことを常日ごろから経験しております。私は工学系の研究者なのですが、特にそのようなことは、私も、自分で研究テーマを創発し始めた博士課程時代から思い始めました。特に、学会で注目して頂くような独創的な研究テーマを思いついた時や、国際誌のトップジャーナルにすんなりと掲載されるような大きな発見をした時には、これはまるで一種の芸術活動のようなものだ、とも思いました。

ですので、おそらく、発見と創造に対する考え方は、私とalphaXXX様であまり違いはないのかと推察いたします。

ただですね、その何というか、「発見」という言葉の意味と、「創造」という言葉の意味が、両者で同じかどうかを議論したいのではないのです。そのような議論をしても、alphaXXX様の言う通り、全く意味の無いことだと思います。ただ、私が議論したいのは、解釈うんぬんの話ではないのです。ですので、定義を定めるとか定めないとか、という話でもないでのす。

>正直なところ、実際に研究や創作に携わってる人間には
>自分の活動が発見に分類されようが創造であろうと
>どうでもいいことですし。

私も、実際に研究に携わっている人間ですが、自分の活動が発見に分類されようが創造に分類されようが”どうでもいいです”。そもそも、そのようなことを私は以前のコメントで示唆していないと思うのですが。。。

おそらく、このままalphaXXX様と議論を続けても、議論を収束させるには直接会っての長時間のディスカッションでもしないといけないような気がします。(お互いそのつもりは全くないでしょうけどw)私に説明力がもっとあれば良いのですが、なかなか上手く説明できず申し訳ありません。

お礼日時:2012/10/02 19:02

 何か質問と回答の間に齟齬があるように感じられます。

「科学者」「芸術家」「技術者」それぞれの役どころに関する理解の仕方が異なっていることに起因する問題です。
 因みに優れた科学者は実験装置すら自身で開発してしまいます。出来合いの装置を求めて右往左往するようではまだまだ「科学者」と呼ぶには相応しくないのではありませんか?。
 また芸術家の仕事を想像と短絡的に呼ぶのは拙速でしょう。石や木材にはそれぞれの個性があります。目と呼ばれる素材が持つ特性です。順目の素材を逆目にしたら、カッチリと見事に組み合うものを組み合わせることはできません。
 つまり芸術家は常に素材と対話しながら、その特性(独自性といってもよいでしょう)を作品に活かすことを考えて仕事をすることになります。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は彼の想像の世界の出来事を描いた作品でしょうか?。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/27 02:03

個人的な意見で恐縮ですが、前の人もいうように、「発見」と「創造」はsynonym、でもantonymでもなかろうと思います。


しいて言うなら、人間の知的活動の異なる段階だと言えるのではないでしょうか。

つまり発見があってからの創造ということではないかと思います。

我々は、例えそれがどんな創造であろうとも、ましてや想像であろうとも、この世に関連していないものを脳内に描き出すことは不可能だと言い切れるでしょう。誰一人として、光の姿そのものを描くことはできないように。

例えば、「発見」は今までその人が、視界に入らなかったものを「この世の中において見つけること」であり、創造は「自分の知り得るものを積み上げること」そういう風に解釈することができるとおもいます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>例えば、「発見」は今までその人が、視界に入らなかった
>ものを「この世の中において見つけること」であり、
>創造は「自分の知り得るものを積み上げること」
>そういう風に解釈することができるとおもいます。

おっしゃる通り確かに、「発見」は今まで視界に入らなかったものを見つけることである、ということに賛同致しますが、ただ、それは「創造」でもあるのではないでしょうか?なぜならば、創造される前は、それはその人の視界に入らなかったのですから。もしそれが創造される前に、すでに視界に入っていたのならば、それは創造ではない(模倣)と思います。

ですのでやはり、発見と創造は別物であるということに、なかなか府が落ちません。創造は発見に過ぎないことだと思うのです。(要するに、「創造」は「発見」の一部なのではないか、ということです。)

補足日時:2012/10/02 16:15
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/27 02:03

「創造」と「発見」は別です。


発見は能動的な動きはありませんが、創造は自ら動いて作り出すことです。
発見に続いて創造することはありますが、これは別の働きです。
創造は直感ではできません。
多くの知識と経験の上に積み重ねてできる物です。
科学者は技術があるわけではなくて、作ってもらうことがほとんどですから創造するのは現場のチームでしょう。

芸術家は何かを生み出す創造ではなくて想像でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>発見は能動的な動きはありませんが、

ただ、発見も、自ら探究して見つけ出すことだと思うのですが。。。
偉大な発見は偶然的なものが多いと聞きますが、ただ、それは探究し続けた結果の偶然であると思います。いわゆる「セレンディピティ」です。そういった意味でもやはり発見も、能動の中から生まれるものではないのでしょうか。

>創造は直感ではできません。

論点を少しずらしてしまいますが、そもそも創造を生み出す直感というのは、多くの知識や経験に基づくもの(いわゆるハーバード大教授が提唱する「経験に基づく直感」)だと思います。

>科学者は技術があるわけではなくて、作ってもらうことが
>ほとんどですから創造するのは現場のチームでしょう。

これについても、科学者は技術を生み出す者なので、技術はあると思います。例えば、米国防省の資金で開発されたある有名なヒューマノイドロボットの革新的な二足歩行技術は、科学者が生み出しています。

ですので、科学者は”創る”(create)ことは確実にしています。

現場のチームはどちらかというと、”創る”ことはほとんどしていなく、量産化に落とし込むための"造る"ことがほとんどだと思います。

>芸術家は何かを生み出す創造ではなくて想像でしょう。

芸術家、たとえば音楽家は、新しい曲をただ想像(imagine)しているだけではなく、実際に曲を創って(create)いますので、やはり創造していると思います。

お礼日時:2012/10/02 16:00

 この問題は哲学カテでお立てになった方が面白かったと存じます。

質問者様をはじめ回答者の方々が前提としている「発見」の概念の多くは、無意識のうちに自然科学を領域としているように見受けられます。
 けれども「発見」に類する言葉として「未見」もあります。それまでは知られていなかった事柄や物を見出すことです。そしてそこから得られた知識を「知見」と呼びます。新たに得られた知識との意味です。この様に考えれば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の至言をはじめ、マルクスの労働価値論といった「智慧」も発見に含めることができるといえましょう。こうした観点からみれば、「発見」を「思索の結実」と呼ぶことも可能でしょう。対象をどの様に観るか、その方法と分析視角の使い方などを様々に検証しながら検討する。それは対象を理解すると同時に、それにアプローチする者自らを検証する地道で険しい道のりとも言えましょう。
 一方の芸術家にもそうした自己検証の痕跡を認めることができます。ピカソの『ゲルニカ』は絵画という「手段」でフランコ独裁やヒトラーのファシズムと明確に対峙する姿勢を表し、シベリウスの『フィンランディア』は19世紀末、帝政ロシアの圧政下にあったフィンランドの独立運動を描いた作品として知られています。この他にもベートーベンがナポレオンに献じた作品(交響曲3番『エロイカ』)の楽譜の表紙を破り捨てたとのエピソードも知られているところです。これは王政を打倒して新たな世界を築くはずであり、その英雄だったナポレオンが実際には自ら皇帝として即位したことに対するレジスタンスの姿勢であるとされています。
 こうした観点から、芸術家といえども時代と向き合わざるを得ない、そこから何を感じ取り社会にフィードバックしていくかとのせめぎ合いを続けることになります。となれば、全くの白紙状態から何かを生み出す意味での「創造活動」と呼ぶよりも「思惟活動」との呼び方が適切であるように僕は感じます。
 実際に芸術家は探求心が深いともいえます。ルネサンスを境としてそれ以前とそれ以後では絵画や彫刻でも変化が見られます。それ以前では神々の姿を具象化していたものが、対象としての生身の人間の姿へと変わっていきます。半裸にせよ衣をまとっていた神々の姿から、全裸の若者へと変化していきます(ごめんなさい、ヘンな意味ではありません)。神話の中に登場する神々は「神であっても人間の姿」をしているように描かれていたが、実際には神を観た人が書いたわけではないのだから、それが「神の姿である」とは限らない。だったら生身の人間の肉体の躍動感などを描いた方がよりリアルではないのかとの疑問から生じた一つの結論でしょう。そのためにミケランジェロや運慶は肉体の筋肉に着目し、徹底的にそれを観察してあれらの作品を残すことができたのでしょう。
 こうして考えてみると「創造」を支える要素としては必ずしも「直感」が大きなウェイトを占めているとは考えにくいと僕は思います。むしろ観察することによってインスピレーションが生み出されのではないでしょうか。対象を徹底的に観察しそこから「エッセンス」を取り出す作業過程が芸術であるとするならば、それはもはや「科学」といってもさほどの壁はないでしょう。それは「科学」での「実験や実証と理論の関係」にも似ています。データを集めそれを集約し一定のパターンや法則性を導き出しそれを抽象化する形で理論形成を行う。或いはその逆に一つのモデルとしての理論に基づいて事実を分析して理論の持つ確かさを立証するなどの運動とも相通ずる側面があります。
 もし「ダヴィデ像」が「サモトラケのニケ」の様にギリシア風の衣装をまとっていたら、もし芭蕉が「蛸壺や」ではなく「漁り火や」と須磨であの句を詠んだら、わたし達はどの様に感じるでしょうか。実在の人物としてのダヴィデと神であるニケが同じ格好をしていたら、ミケランジェロが「人間ダヴィデ」を石に刻んだ理由がわからなくなってしまいます。
 須磨はその昔、平家が一代の栄華を誇った場所であり、そこにポツンと置かれた蛸壺には主であるはずの蛸の姿がない。蛸壺は蛸にとっての一時の住処ではあっても、そこに入ったが最後、人間の食卓へと供されてしまう終の棲家でもある。ここを王都と定めた平家はやがて一時の住処を離れ西海へと落ち延び終焉を迎える定めだった、と芭蕉は感じたのでしょう。それも平氏に関する物語を知っていたから読むことのできた作品であるということができます。それがなければ単なるシュールな光景を映し出した作品との評価につながってしまうことになります。
 以上のことから「観察」から「発見」が生まれ、それが「創造」の源泉となる、と僕は勝手に考えています。「科学」のカテに置いておくままでは惜しい質問と感じます。「哲学カテ」に移動されては如何でしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうござます。

TANUHACHIさんのような回答を待っておりました。ずばりこのことについて議論がしたかったのです。
この後の回答についても、私が議論したかった流れになっていますし。

ご回答内容に対する私の意見、疑問などは後ほど、お礼の欄に書かせて頂きます。

それまで結構時間が空きそうなので、取り急ぎこちらで御礼申し上げます。

>「科学」のカテに置いておくままでは惜しい質問と
>感じます。「哲学カテ」に移動されては如何でしょうか。

ありがとうございます。ご提案頂いた通り、時間はかかりますが「哲学カテ」に移動しようと思います。

補足日時:2012/10/02 16:29
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/27 02:06

>「「発見」と「創造」は全く別のもののように思えるが、実は根本的には同じで、1つの物事の異なる側面を書き表わしているだけではないのか」



解釈次第です。人間の現実的な行いの範疇であれば創造と発見は似たようなものと解釈できます。新しい発明は今までの技術やデータの組み合わせ方を発見したと言い換えることができますし、発見は新しい視点を創造したとも言えますしね。
というか別に珍しい解釈ではないですね。むしろ古典的とも言えます。
あくまでも言葉遊びの範疇を出ませんけども。

この場合神様みたいな完全な無から有を創造する、みたいな宗教的な解釈は無しとします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。何となく理解することができました。

ただ、そのなんというか、言葉に着目しているのではなくて、
例えば、一流の芸術家は(一般的に言われる)創造性が極めて高いと言われていますよね(たぶん、、、)。また、偉大な科学者は(当然ですが)偉大な発見をしていますよね。

それで、一流の芸術家と偉大な科学者には、それぞれ”何らかのある能力”が極めて高いから、そうであると思うのですが、そのそれぞれの”何らかのある能力”というのが、実は、一流の芸術家と偉大な科学者とで共通しているのではないのだろうか?いや、むしろ同じなのではないか?と思った次第です。

私の説明の仕方が悪く、何度も補足してしまい申し訳ありません。

もしよろしければご回答頂ければ有難いです。

補足日時:2012/10/01 18:35
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/27 02:06

ぶっちゃけて言えば単なる宣伝文句に過ぎません。

おおかた基礎研究系を発見より、応用研究系を創造よりと表現してるだけかと。
パンフレットだから素人にも分かりやすくイメージしてもらうために適当にそれっぽくてかっこよさそうな言葉を当てはめただけでしょう。
真面目に考えても言葉遊びにしかならないと思いますし、自然科学よりは言語学の問題ですね。
なんだかそのパンフレットをデザインした人の「かっこいいフレーズを考えたぜ!」というドヤ顔が見えるようです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>ぶっちゃけて言えば単なる宣伝文句に過ぎません。
>おおかた基礎研究系を発見より、応用研究系を創造よりと
>表現してるだけかと。

おっしゃる通りだと思うのですが、私が知りたいのはそこではなく(質問の仕方が悪く申し訳ありません)、

「「発見」と「創造」は全く別のもののように思えるが、実は根本的には同じで、1つの物事の異なる側面を書き表わしているだけではないのか」

ということです。うまく言えずすみません。

補足日時:2012/10/01 17:52
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/27 02:04

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!