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信頼とは、特に人に対しての信頼とは一種の偏り・偏見の一種ではないかと思うようになりました。
すなわち、良い面も悪い面も兼ねている気がします。

例えば、下記の状況があるとします。
【誰かが家の置物をうっかり壊していた。一番目の子どもはいつも何かを壊して気付かない事は無いので今回の件は一番目の子が壊したわけでは無い】
これは 一番目の子どもを信じている すなわち、偏りと言える気がしませんか?公平にまっさらな状態で言えば、
【一番目の子どもはいつも何かを壊して気付かない事は無い。しかし、今回は壊して気付かなかったのかもしれない】
となるのでは無いでしょうか。


問題となるのは、信頼とは逆に次の場合です。
【末の子どもはそそっかしくて何かを壊しても気付かない事が殆どである。従って、末の子どもが壊した可能性が高い。】
信頼とは逆のパターンであるが、やっていることは一番目の子どもの時と同じ、すなわちこれまでの結果から今回の可能性を探っています。
しかし、この場合でも末の子どもが今回壊したかどうかは分からないのに、「末の子どもが壊した可能性が高い」と評される末の子どもが可哀想では無いでしょうか。


他に問題として対人関係での問題が考えられます。
【A男とB男が喧嘩した。A男の話はいつも正確である事が多い。B男はいつも記憶が曖昧であったり、良く覚えていない、よく見ていない、話に自信が無いと自分自身で言っていることが多い。】
【A男の証言が信頼性が高いと考えられる。】

しかし、日常生活においては
「僕は君(C子)の方を信じるよ。(状況を見ていたわけじゃ無いけど、悪いのはきっと相手のD子の方さ)」と、片方へのバイアスから無責任に話をしてしまう事もあるのではないでしょうか?

とすれば、
信頼から偏った結論や、不公平な味方や判断をしてしまわないでしょうか??

A 回答 (6件)

言葉の意味的には信頼というより信用の方が適切かもしれませんが、それはおいといて質問者様のご質問にイエスかノーで答えるならイエスでしょう。


わりと偏った見方で判断を誤るというのは良くある話です。

だからこそ人を信じて判断するには慎重にならないといけないし、両方の話を聞く、色んな面からものを見るなどが必要になってくると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/10/09 14:10

そもそも、偏りの無い人などいませんのでね。



公平に推測しなければならないなんて決まりあるのかい?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>そもそも、偏りの無い人などいませんのでね。

私と同じ意見ですね。

>公平に推測しなければならないなんて決まりあるのかい?

決まりの話ではありません。質問文には何の問題であるのか書いているつもりなのですが。

お礼日時:2017/10/13 22:18

>僕は君(C子)の方を信じるよ。

(状況を見ていたわけじゃ無いけど、悪いのはきっと相手のD子の方さ)」と、片方へのバイアスから無責任に話をしてしまう事もあるのではないでしょうか?

C子を信頼している。
だからといって
別の人を悪者にすることとは全く別のこと。

あなたにとっては、スナワチなんでしょうけどね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

前提がそもそも1件の評価に絞ったことなので、別の人を悪者で無いがC子を信頼しているは別の話です。

お礼日時:2017/10/13 22:16

信じているのが偏りなら、信じないのも偏りではないのでしょうか。



信頼が偏りならば、人の感情は好きも嫌いも偏りになるのでは?


>一番目の子どもを信じている 
すなわち、
偏りと言える気がしませんか?

「信じている」の後に「すなわち」をつけるならば、
信じていると偏りを結ぶ、あなたなりの説明を具体的にしてくださいよ。


>公平にまっさらな状態で言えば、
【一番目の子どもはいつも何かを壊して気付かない事は無い。しかし、今回は壊して気付かなかったのかもしれない】
となるのでは無いでしょうか。

じゃあ、「まっさら」という言葉は一体何ですか。
あなたの冪でしょう。
まっさらな状態の人間などいるとおもっていること自体、在り得ません。
人は個性、パーソナリティを持って生まれてきます。
生まれたときから素質と特徴と傾向を持っているのですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>信じているのが偏りなら、信じないのも偏りではないのでしょうか。

私は質問でそう言ったつもりなのですが説明不足でしたでしょうか。(末っ子の件)

>人の感情は好きも嫌いも偏りになるのでは?

感情では無くて、AかBか分かっていない状況で判断することについてです。
分かった上で好きとか嫌いについては話をしていません。


すみませんが、あなたの回答を見ると、私の言っていることを肯定している様に見えてきました。
私が言っている事がところどころに出てきていませんか。

お礼日時:2017/10/13 20:35

質問の例で回答します。


状況は「誰かが家の置物をうっかり壊していた。」という場面設定ですね。
この場面に対する、質問者さんの解釈は、
「逆のパターンで同じことをやっている
すなわちこれまでの結果から今回の可能性を探っています。」


「一番目の子どもはいつも何かを壊して気付かない事は無いので今回の件は一番目の子が壊したわけでは無い」

質問者さんは、普段の子供の性格から、上の子がもし壊したとしたら
気づかないことは無いだろうと思った。
よって上の子は、壊していないだろうと、推測した。

推測には、推測した人のこころの世界が入ります。
どこからどこまで、公平か、感情移入するのか、自由なものです。
バイアスや経験がおのずと加わります。
信頼していても、公平であろうとか、こうすべきと意識的に考える場合を除いて。


推測という範疇に、あくまでも「公平」という基準を重要として、
厳密に入れるべきか、どうか、何を優位に推測しようか、
信頼が優って推測する必要がない、というのも人の自由に委ねられています。
これといった基準が社会、世の中にあるわけではありません。
推測だけではなく、自分の信頼度も同じです。

この例ですと、
破損している状況、このような場合、という条件がついています。
破損という事柄に関して、信頼の有無。

子供自身に対する信頼
いつでも、どんなときでも、末の子供を信頼できないのでしょうか。
いつでも、どんなときも、一番目の子供のすべてを信頼しているのでしょうか。

人は、自分の好き嫌いの感情や日常的な態度や行動からも、信頼できる、できないと
思っているものです。

破損していた状況を見て、
末の子供が壊した可能性が高いと推測するから、
子供を信頼していないとは断定できません。
日常的にやんちゃな子であるからそう推測したにすぎず、
末の子供の価値は、物を壊すか壊さないかだけで判断されるものでもないでしょう。

二人の子供に対する信頼度は公平であるべきと、言いたいのだと思いますが、
状況や事柄で信頼が変わる親の場合を例えにしてしまっている質問者さんなのです。
だから、可哀想という感情的理解や、公平であるべきという考え自体が質問者さんに
あらかじめ最初にあって作った例の文言ですよね。
それが質問者さんのバイアスかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すいませんが、事件が起きた場合の(事件に対する)解釈の偏りについて話したかっただけであり、末の子供の価値は、物を壊すか壊さないかだけで判断されるものでもないというのは別の話です。置物壊しへの解釈が質問です。
状況や事柄で信頼が変わる親の場合を例えにしてしまっているは、それがそもそも質問の主題だからです。

お礼日時:2017/10/13 18:41

>不公平な味方や判断をしてしまわないでしょうか??


公平な判断が出来にくい人は、信頼の有無にかかわらず、公平な判断は苦手です。
信頼の有無によって公平性が揺らぐ人は、そもそも公平では無いのです。
ただし、その「公平」ですが、何をもって「公平」とするのかの基準はありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/10/09 18:41

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