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こんばんは!
いきなり質問しますが・・・。
『第三の男』を見たことはありますか?ハリー・ライムは作者のグレアム・グリーンからどのような視点で描かれていて、私達にどのようなことを訴えようとしているのでしょう?
また、ディケンズはシェークスピアに匹敵する作者だと聞きますが、どの点がにているのでしょうか?
誰か教えてください!

A 回答 (3件)

『第三の男』のほうだけですが。


ojiqさんの情報をちょっと修正しますと、グリーンの小説は映画をノベライズしたのではなく、シナリオを依頼されたグリーンがまず小説の形で書いてみて、それをキャロル・リードと相談して最終的なシナリオを作ったということのようです。おっしゃるように、最初のグリーン自身の考えでは、最後はマーチンスとアンナが手を取り合って去る、という、その点だけ見ればハッピーエンド?のようなものになっていました。私自身も映画のラストに感動した方ですから、初めて原作を読んだときはびっくりしました。しかし、それは友人を裏切ったという苦さを抱えてのことで、こうしたひねりはいかにもグリーン的です。もちろんリードの考えによる映画版のほうが一般には訴えるものがあるわけで、グリーン自身もキャロル・リードの勝利だ、と認めてみます。その辺の事情は、小説版『第三の男』の序文でグリーン自身が書いています(ojiqさんが参照なさっているものだと思います)ので、小説にも関心がおありでしたら読んで見られるといいと思います。文学の立場からは、いろいろグリーンの研究書が出ていて、もちろん『第三の男』についても多くの本に言及があります。グリーンの小説はほとんどすべて映画化されていますから、映画と原作についての研究書も数冊ありますが、翻訳はないと思います。
 なおハリー・ライムについてですが、一般にグリーンの人物は悪人の方が印象が強いといわれています。ライムはその中でもグリーンが怪物のように呼ぶ人物造形で、そこへ演じるのがオーソン・ウェルズですから、これは強烈ですよね。(観覧車の場面で、平和なスイスは鳩時計しか作っていない、というセリフがありますが、あれはウェルズの案だそうです。)グリーンの小説では裏切りというのがとても大きなテーマで、裏切りたくはないが相手は大変な悪人であるというジレンマがこの物語のポイントだと思います。
 ところで同じグリーンに『第十の男』というのもあるのはご存知ですか。これは翻訳(早川書房)がひどいのが残念ですが(何しろwincedをウインクした、なんて訳しています)、話としてはこれまたとても面白いものです。
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おはようございます!(書いてるのが朝なもので(笑))



「第三の男」
ojiq様が素晴らしい回答をされているので,ワタクシはカンタンに。しかもヒトサマの意見で。
ハリー・ライムと戦後のウィーンについて、川本三郎さんの「クレジットタイトルは最後まで」(中公文庫)収録のエッセイが簡潔にして当を得ています。ただでさえ良い映画を、この文章を読み時代背景を知ることで、更に深く味わうことが出来ました。

>シェイクスピアとディケンズですが、この2人は特に作風や何かが似ていると言うわけではないと思います。イギリスのミステリ小説などを読んでいると、とにかくこの2人はセリフや場面を引用される事が多く,つまり英国文学史における立場、人気・尊敬・普遍性において二大巨頭である、という事だと思われます。

あと、当時の大流行ベストセラー作家であったディケンズは、シェイクスピアに比べると時代的には比較的「近代」の作家であって、文学研究の先生には低く見られがちであり、しかしその先生方が文句ナシに芸術であると認めるシェイクスピアも,生きて活躍していた時代には超流行キワモノ作家であったのに,なんでディケンズは低く見るんだ学者センセイ!…という、ディケンズ擁護派の言葉であるとも考えられます。
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 「第三の男」は、グレアム・グリーンと監督のキャロル・リードによって、シナリオが作られ、その後グレアム・グリーンによって小説に書き直されたものらしい。

映画でのあの印象的なラスト・シーンは、キャロル・リードが作り出したものであり、グレアム・グリーンは、アンナ〔アリダ・ヴァリ〕とホリー・マーチンス〔ジョセフ・コットン〕が仲良く腕を組んで歩いていくという終わり方にしたかったようだ。従って、グリーンがハリー・ライムをどう捉えていたかということになると、中間小説家ホリー・マーチンスの「良識」と変わらず、単なる悪、四カ国共同管理という矛盾したウィーンの戦後社会に咲いたあだ花として描いたという印象を私は持つ。グリーンにとっては、「第三の男」は、簡単な映画用のストーリーほどの意味しかなく、それを見事な映像として造型したのはキャロル・リードの功績とすべきなのだろう。リードの捉え方から考えるなら、ホリー・マーチンスの庶民的な常識は、ハリー・ライムを裏切ることによって、アンナから強烈なしっぺ返しを受ける。極めて戦後的な悪を代表するような男であっても、女はそれが好きな相手であれば許すし、友情を踏みにじるような男はどんな善人であっても許さないのである。つまり、女とは感情に左右される動物だということである。しかし、どう観ても、「第三の男」のオーソン・ウェルズはかっこいいのであり、ジョセフ・コットンはかっこ悪い。リードもまた、感情に揺さぶられる人間だったと言うしかない。
 ディケンズについてはよく知りません。私が調べた限りでは映画化された作品は9本あります。「オリヴァ・ツイスト」〔1948〕「二都物語」〔1957〕「オリバー!」〔1968〕「親友」「可愛いドリイ」「悪魔と寵児」〔1946〕「大いなる遺産」〔1946、1997〕「さすらいの旅路」〔1970〕がそれです。この中で、戦前のサイレント作品が「親友」「可愛いドリイ」で、その他についても、最近の作品は余りありません〔ちなみに「オリバー!」はキャロル・リードが監督したものです〕。シェークスピアの作品がいまだに数多く映画化されているのとは好対照だと思いますが、この9本の中で私が観た「オリヴァ・ツイスト」と「大いなる遺産」〔1946の方〕はとてもいい映画でした。最近のリメーク流行りの中では、もっと注目されていい作家だと思います。ご質問からはかなりそれました。失礼致しました。
 グレアム・グリーンの言葉「この物語を作り出すについては、キャロル・リードと私とが密接に協力した。一日中、絨毯の上を歩き回り、お互いにシーンを演ってみたりした。われわれの相談には、第三者は誰も加わらなかった。だから、二人の間で徹底的に議論を戦わした点に多大の価値がある。勿論、小説家にとっては、特異な主題を最もよく表現し得るのは小説である。映画や戯曲に書き直すためには、それに必要な幾多の変更を甘受しなければならぬのはやむを得ない。だが、「第三の男」は、単に映画の素材として書き下されたにすぎない。〔中略〕事実、映画はストーリイより秀れている。それは、この場合、映画が、ストーリイの完成した形態だからである」〔「第三の男・落ちた偶像」早川書房〕
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この回答へのお礼

とても詳しく書いていただいてとても感謝しています。
ありがとうございます!
「第三の男」は本当にいいですね。
あの映像は二度と忘れることはなさそうです。
ojiqさんのコメントを見てからもう一度見てみます!

お礼日時:2001/02/01 14:33

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