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前1050年頃、周の武王が殷の紂王軍を破ったのは、殷の都である朝歌の南に位置する、牧野の戦いによってです。
一方、殷末期の都は殷墟(当時の呼称は大邑商)です。

すると、朝歌と殷墟(大邑商)は同じ都市と考えられますが、これでよいのでしょうか?
それとも、同じ都市ではあるが、近隣まで含めるか否かで呼び名を区別していたのでしょうか?
また、朝歌は当時の呼び名でしょうか?(甲骨文などで確認されているのでしょうか?)

A 回答 (1件)

こんにちは。

記憶を頼りに書きます。
きっちり調べたわけではないので、参考程度に。


まず指摘したいのは、
・殷墟というのは都市名ではない
・大邑商はあくまで記述する際の呼称
・厳密に当時の呼称を確定することは難しい

一点目。
殷墟というのは、二十世紀に入ってから発掘された河南省安陽県の遺跡のことです。放射性炭素による年代測定と、発掘された遺物の考古学的歴史学的分析により殷代のものであることがほぼ確定していることから、殷墟と呼んでいます

その規模の大きさのため、発見当初からこれが当時の殷王朝の都である可能性が指摘されていましたが、いくつかの観点から疑義が呈され、確定には至っていません。私見では、殷墟は都の付近の遺跡であって都そのものではないでしょう。


二点目。
ご存知かもしれませんが、邑というのは当時の都市(規模はばらばらなので、現在の日本でいう市から村くらいまでを想像してもらいたい)です。大邑というのは、無論、大きな都市。
よって、大邑商というのは、「大都市(或いは都) 商」となります

殷という国が別名「商」と呼ばれるのはこのためですね。ちなみに中国の学者が、殷と呼ぶことはあまりないですね。基本的に「商」。

商は、甲骨や金文で用例がいくつも確認されています。少なくとも当時の(武丁以後くらいでしょう。有名な紂王のときは間違いなくそうですね)殷の都は「商」という邑にあった可能性が高い。


三点目
朝歌という都市名がいつの時代に初出するのか確認してませんが、おそらくそれほど遡りません。せいぜい春秋末期から戦国初期でしょうか。(ちょっと自信ないのですが・・・)
漢代になってからは、殷の都として朝歌という名が浸透しており、実際に漢も朝歌という県だか郡だかを設置していたと思います。


よって貴方の質問への答えとしては、
・殷王朝の都は「商」と同時代人に呼称されていた可能性が高い
・殷墟はあくまで遺跡であり、都市ではない(都市の遺跡かもしれないが、殷墟というのはあくまで遺跡に対する名称に過ぎない)


より詳しいこと正確なことは、ご自分でお調べください
図書館で大漢和辞典やアジア歴史事典なんかで概略は分かるはずです。後はそこから参考文献たどれば十分かと思います
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