プロが教えるわが家の防犯対策術!

小学生のときの担任の先生は、“男子と女子”といわずに“女子と男子”と言う人でした。男女差別はよくないという考え方の人でした。

僕はある日、その人に向かって“先生と呼ぶのはやめます”と言いました。するとすごい剣幕で怒りだしたのです。

僕は“先生という言葉は先にうまれた人がエラいという意味だから、年齢差別だ”と主張しました。

先生に“アホ!屁理屈やそれは。もっと社会勉強しなさい”と一蹴されました。

僕は若かったので言い返せませんでした。

今考えるとくだらないことです。でもその当時の自分は死ぬほど悔しくて泣いてしまいました。

まあ、さすがに今その先生のことを恨んだりとかはないです。おそらくその時は彼も未熟だっただろうと思います。

でも、今でもたまにその時の出来事が夢に出てくるんです。それがホントに怖いんです。

自分より圧倒的に権力をもった人間に、存在を全否定される感覚です。

こういうトラウマをどのように乗り越えたらいいのでしょうか。

A 回答 (11件中1~10件)

あなたの論は小学生にして実に科学的であった。


しかし、この場合での「先生」という表現は、その本義よりも教員という職の肩書きとして用いられたと考えるべきであり、そうすると、「社会的動物である」人間は社会的であるべきだから、小学校という社会集団で調和を保つためには「先生」と呼称する制度に従うのが自然であった。
ゆえに、先生の「屁理屈」だとの評価は最適であり、かつ、答えうる限界であったのではないか。

人間は初等教育段階を含む初期段階において、大人に受け入れてもらう(更には、大人に自分の思うように行動してもらう)ことは成長するに必要なことである。しかし、必ずしもその通りになるはずもない。
「自分より圧倒的に権力をもった人間に、存在を全否定される感覚」というのは誰しも経験することであるのだ。
私自身、これを書きながら思い当たる事件がいくつかある。ここでは省略するが、幼い自分は大人にピシャリと言われて大変なショックを受けた。

ただ、トラウマを乗り越えるという問題になると、それを生じさせた事件内容の考察のみに留まる訳にはゆくまい。少なからず心理学・精神医学などの知識が必要になってくるだろう。
しかし、トラウマは多くの人がそれぞれに抱えている、特に、今回の例では、私のみならず類似体験をもつ人が他にも居そうであるということが、質問者の励みになることを切に願う。
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この回答へのお礼

>先生の「屁理屈」だとの評価は最適であり、かつ、答えうる限界であった

たしかに。今の自分が先生の立場でもどう答えていいのかわからない。

>特に、今回の例では、私のみならず類似体験をもつ人が他にも居そうである

そうですね。前に付き合った彼女は僕の一万倍ひどいトラウマを持ってました。
僕の経験なんかたいしたことない、という気持ちが抑圧につながってたかもしれません。
この質問をしたことで楽になった気がします

お礼日時:2009/12/22 22:13

その先生も 女子と男子、と言えば差別感が薄れると思っているのなら


なかなかの困ったかたですね。
小学生の思慮の足りない発言を責めるより、それにムキになる先生のほうに社会人としての器の小ささを非常に感じますが。。

先生なんてのは社会にろくに出てないくせに、いきなり指導する立場に立とうとする勘違い人間が基本なりたいと思う職業ではないか? と時々思うのですが、それはおいておいて。

でもトラウマになってしまったなら、困りましたね。
しかし、みなさん思い出すだけで恐ろしいような体験ってあると思いますけどね。(仕事の失敗とか、人間関係とか、部活動でのミスとか)
たくさんのトラウマが ひとつひとつを薄めているのかもしれません。
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この回答へのお礼

みんなそういう経験ってありますよね。

この質問をしたことで嘘のように楽になりました。くだらな過ぎて今まで誰にも言えなかったので(笑)
みなさん回答してくれてありがとうございます。

お礼日時:2009/12/22 22:19

多分、先生云々というより子供心に生意気なことを言った自分に対して、後ろめたさを引きずっているのでは?


だからその「失敗」が挽回できていない分、トラウマになっているような気がします。
今度頭ごなしに起こられることがあったら、相手がぎゃふんというくらい理路整然と言い返してみましょう。
きっとそのトラウマから抜けられると思います。

ただ、圧倒的に権力をもった人間に完全否定されるなんて、社会に出ればゴロゴロしていますよ。
自分の存在どころか親まで否定されることもありますから、それに耐えられる強さを持つことも大切ですよ。
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この回答へのお礼

>後ろめたさを引きずっているのでは?

今では自分に自信あるので大丈夫です。耐える強さもあると思います。

お礼日時:2009/12/22 22:16

学生を卒業したら先生の存在も忘れるんじゃ?

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この回答へのお礼

別にその人の存在を忘れたいとは思わないです。
やっぱり人生の一時期をその人と共に過ごしましたから。
そういうふうにまるごと忘れようとするのはちょっと違う気がします。

お礼日時:2009/12/22 22:08

現在はどうなのでしょう。


先生は先を生きている人。
偉いというのは余計。

偉い人は、人の知恵を借りることを知っていますし、自分だけの意見や意思を押し通さず謙虚であって、人の話を聞く、どれだけ偉いと言われる人になっても自分1人では成り立たないことをよく知っている人のことを言うと学びました。

先を生きる人に変わりは無くても過労やストレスや傷つき弱く落ち込んでいたり児童には見せないだけで何があっているのか分からないことは沢山あって、授業では教えていない個別能力を出されて指摘を受ける立場では無く、職業は他に受付があり、現代の子達はお喋りが多すぎて大人でも傷つくことを安易に用いて向かうから、深く言葉で痛め付けることに悲しくなることもあると思うんです。

仕事は自信を持ってハキハキと堂々と行うこともありますから、非難や侮辱を児童も大人も実際困るまで繰り返していたら、理不尽な不当な扱いに遭っている人に止めを指す暴言や悪態にもなり、授業や社会科見学で充分であるのに、周りの迷惑にもなる行為を働く子の存在に違う目的や児童の知らないところでの揉め事に付き合わさせられる身の負担は、保護は出来ても、それらは法認すべき事柄でも無いことで、今しかこのことで話せないならば今教えるしか無いことだったのかもしれません。

先生は児童の召し使いでも部下でも親でも所有物でも無いから犯罪については様々な要因があることを知らなければ、生徒を任された以上放任出来ず身の謹慎無く怨念が直ぐ出る性質は人に甘えすぎて上から目線の王子様や俺様のように思える危うさがあったのだと思います。道理に合わず不倫を信じようと奮闘しているから。

先生は印象つきやすいから一生でも恨まれてしまうかもしれません。一方的な過失や犯罪はいけませんが。
威圧の否定を感じたショックは本気で怒られることを知らなかったことと反発が通用しなかった無力さと後は悲を知れば罪悪感、哀から逃げてきた意識が追われる感覚になり記憶が何らかのきっかけで出てきて甘いものが欲しい時期の錯覚を期待感の解消が出来ず起こしているのかもしれません。私とは真逆な感じの生徒の性質に思えますが、疲れた時に自分だったらどうやって教えるだろうと思えなければ先生と同じように今精一杯なんだと思います。
トラウマは私は沢山残ってます。だからトラウマは吐き出して安静にと思いますよ。
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この回答へのお礼

今ではその時の先生を恨んだりしてませんよ。もちろん。

お礼日時:2009/12/22 22:05

はぁ、偉いひとに怒られる夢ねぇ。


ご質問者はまだ学生さん?
社会人になったら、そんなの日常茶飯事ですけど?

単に自分で気持ちをコントロールできないということを、他人のせいにしているだけ。
その先生も偏った人権思想で問題ありだけど
そこを『先生と呼ぶのは年齢差別だ』などという偏った思想をもつご質問者にも問題あり。

ま、社会にでて色々な経験をすれば如何に自分が甘えているかがわかると思いますよ。
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この回答へのお礼

>社会人になったら、そんなの日常茶飯事ですけど?

社会人になるまでそういう経験はなかったのですね。
周りにそういう大人がいなくてよかったですね。

お礼日時:2009/12/22 22:02

敢えて書き加えます。


僕はもう50過ぎだけど、この手の発言をした「小学生」に向かってすごい剣幕で怒る大人。
そして年上を敬えという慣例にあえて疑問を持つような思考活動に対して屁理屈と返し、社会勉強という名の思考停止を強いる教師。
断固拒否します。
はっきり言います。これは児童虐待の最たるものです。
こういう愚行がまかり通るから、公共の場で騒ぐ子供をたしなめた人間を非難するような馬鹿な親が蔓延るんです。
これで理解できない人は知性に問題があるから、もう書きません。
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この回答へのお礼

そうです、全否定されたというより思考停止を強いられた感覚でした。
あれは一種の虐待だったのかもしれませんね。

もっとひどい虐待を受けている人はたくさんいると思いますけど。

お礼日時:2009/12/22 21:59

>もっと社会勉強しなさい


すでに答えが出ています。
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70年代初頭アメリカにジェイ・ルービンというカリスマ的に人気のある反体制運動家がいました。

(結局刑務所で変節しますが)その人のスローガンは一言です。
「下らねえことは皆FUCKしちまえばいいんだ」
同じ頃チャールス・マンソンというカルトの殺人鬼がいました。彼はシャロンテートというアメリカの顔といわれたハリウッド女優の妊娠した腹を裂いて、胎児を掴みだしてその血で壁にこう書きました。
「豚には死を!」
その先生のような筋の通らない社会のゴミが権力を振りかざした場合、その二つの方法しかしてやるべきことはないと思います。
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この回答へのお礼

(笑)
ありがとうございます

お礼日時:2009/12/22 21:55

先ずは生きてさえ居れば、若輩者から見ればだれでも「先生」足りえる。



このように今なら割り切った思考に切り替えられませんか?

「男女差別」は私も嫌いますが「年長者にはそれだけを理由に敬意を持つ」は悪いこととは考えません。

会社に入れば肩書きだけ振りかざして部下を否定する方もよくいますよ。
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この回答へのお礼

>このように今なら割り切った思考に切り替えられませんか?

もちろん今ではできます。
ただ、その時の自分にはできなかった。その無力感というか敗北感が怖いんです。

今、バイトで理不尽に怒られたりしても全然痛くもかゆくもないんですけどね。。

お礼日時:2009/12/22 21:54

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