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アフガニスタンの歴史について質問です。

ソ連の援助を受けてクーデターを起こしたダウド大統領は、なぜソ連の
逆鱗に触れるリスクをおかしてまで西側諸国に接近したのでしょうか?
いろんな本を読んでも根本のところが分かりません。

A 回答 (2件)

はじめまして



ダーウードは軍部と人民民主党(共産党)の反パシュトゥーン民族主義を掲げるパルチャム派の支持下に権力を掌握します
(パルチャム派に対するのはマルクス主義とパシュトゥーン民族主義を前面に掲げるハルク派)

反パシュトゥーン政策をとったため
パシュトゥーン人親米国家パキスタンとのパシュトゥーニスタン領土問題やバロチスタン分離独立問題には強硬姿勢をとり

さらに国内のイスラム主義者たちを排除という政策でソ連とインドの支持を受けます
(このイスラム主義者達に対する戦いが現在に至る紛争の発端になります)

1975年夏にはダーウードはイスラム主義者内部での内紛もあって一時的にも鎮圧に成功します

一応目的を達したダーウードにとって今度は政権内の共産主義勢力が目障りになり始めたため
サウジアラビアを始めアラブ産油国に急速に接近し、パキスタンとも和解します
さらに新憲法で大統領を選出するのには
100年近く歴史ある王族を含むパシュトゥーン人族長会議であるローヤ・ジルガで決定することを規定し
事実上人民民主党メンバーを締め出しました

この政治的成功とアラブ産油国の潤沢な資金を受けたダーウードは
1977年のモスクワ訪問での会議でブレジネフと激しい応酬をするほどに増長したため、完全にソ連の怒りを買い
ソ連は長らく対立していた人民民主党のパルチャム派とハルク派を半ば強制的に和解統合させ反ダーウード勢力を組織するのです
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この回答へのお礼

遅くなりましてすいません。有難うございました。

ブレジネフとの舌戦は他の文献にも出ていました。77年頃は完全にソ連と
距離をおきはじめているんですね。

しかしソ連の怒りを買ってしまっては、もはや大統領にとどまることはでき
ないと気付かなかったんでしょうか?

お礼日時:2010/06/02 23:08

1973年ソ連の助けを受け、クーデターにより、政権の座につき立憲君主制を廃し、アフガン人民民主党に支持され大統領に就任した。


1975年サウジアラビアのファイサル国王の葬儀に参列した際、アラブ連合の諸国首脳から、ソ連寄りの政策を批判され、舵を親西欧に切った。
1978年には、男女平等、選挙権平等など民主化に向かったが、やや急激に過ぎたので、人民民主党と対立することになり、クーデターを起こされ殺された。   サウル革命。
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この回答へのお礼

遅くなりましてすいません。有難うございました。
ファイサル国王の葬儀のくだりは他の本でも見つけられませんでした。
ダウドが変遷していく過程の重要なエピソードかもしれませんね。

お礼日時:2010/06/02 23:05

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