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我田引水という言葉があります。
http://www.sanseido.net/User/Dic/Index.aspx?TWor …
どうやら「自分の都合のいいように仕向ける」というような内容のようです。
道徳の対局とまでは言いませんが
かなり反対側のような気がします。

私は最近
「平気で人を見下し 自らのアイデンティテーを その落差より確保する」
「他者の尊厳を 平気で踏みにじり 基本的人権を阻害してることを 認知しない」
「他者が取得しておかしくない余地を 自らのそれもほんの極僅かの快楽の為に剥奪する」
等々見にくい有様を 目にする機会が たびたびあったのですが、

広義で言えば
対戦型スポーツなんかも 我田引水でしょうし
競争社会の社会構造の ほぼ全ては我田引水でしょうし
他の生物を捕って食うこと自体も 我田引水なのかも知れません。

そこで質問です

凡そ全ての 人の想う神は これを否定するように 私は思うのですが、
神が否定すると思えるこの…

質問1
 「我田引水」を 全ての人は 自らの全てから 廃絶できるのでしょうか?

質問2
もし廃絶するとなると、
どんな状態になるのでしょうか?
公明正大で公平な世の中?
無気力で生産性も成長性も発展性も失われた社会?

質問3
成長性や気力溢れる状態で 「我田引水」を葬るとしたら
どのような方法が有効でしょうか?

質問4
そもそも、「我田引水」を葬る必要は
・ありますか? ・ありませんか? ・それとも… ?

如何でしょうか?
貴方はどのように考えられますか?

A 回答 (4件)

zakky74でございます。



我が、この体の範囲だけに留まるケースが大半ですよね。そして、日本人の場合は心が繊細ですので、体よりも更に細やかな範囲だけに留まるケースも増えています。それが、頭の中だけでグルグル留まっているケース・・・考えが我になっているケースですね。

鬱・精神病が多くなる理由でもあります。

我の範囲が、頭の中だけをグルグル動いているのか、体の範囲までをグルグル動いているのか、それが体を超えて関係性の範囲までをグルグル動いているのか、関係性を超えて組織の範囲までをグルグル動いているのか、それがやがては国、社会、世界、地球、太陽系・・・と広がっていきます。同時に、時間軸としても過去へ、未来へ、と広がっていきます。

その意味で、

>・「己」の境界を 時間軸的・空間軸的に どの範囲まで広げるかによって変わる

この様に仰るのは真にその通りですし、

>・我田引水を論じるよりも、この境界を個々が 極限まで広げることこそが大切

これもとても的を射ています。

ただ、少し補う点があるとすれば、僕は限りがあるとは観ていません。ですので、極限というのは有限とした時の極限ではなく、無限とした時の極限の事です。

その場合、「己」の境界は境界ではなくなる事の意味です。そして、その無境界線イメージとなった「己」、或いは我の話であるとして展開しておりました。

この点、説明不足であった事に気付きましたので補いました。


>・真に負けた状態を体感し 負けて勝てることを知り 負けても勝てる技量を体得し、 「負けへの恐れから 結果負ける」状態から脱却するする等について語られているように感じましたが、間違っていたならご指導ください。

勝ちと負けが生まれる理由、分かれる理由、それは境界線を設けるからです。境界線イメージから来る我や己では、勝ち・負けが起こりえるでしょう。

無境界線イメージから来る我や己では、勝ちと負けが共存しています。ですので、自由選択意思によって勝ちと負けを自ら決める境地へと到達します。

宮本武蔵の無刀の心、相手との決闘の最中であっても剣を捨ててその場で座禅をするというのは、この無境界線イメージから来る無刀の心です。故に、剣が剣でなく、我が我でなく、体が体でありません。勝ちも負けもない世界に到達したのが無刀の心であり無境界線イメージです。

そこに相手も感じ入る何かがあるからこそ「参りました」と剣を捨てます。無境界線イメージでは、そういう事が起きえます。

逆に申せば、境界線イメージに支配されている心だから、守るべき我のイメージや己のイメージが出て、体を守るのは剣、考えを守るのは理論、などをして武装するのではないでしょうか?

僕も、エバンゲリオンや攻殻機動隊を観ました。とても面白かったです。人間とは何か、生きることはどういうことかを問いかけられている気がしました。

無境界線、無限を活用するというのは、自由自在に境界線や限界を設定する事でもあり、逆に自由自在に境界線や限界から飛び越える事でもあります。

無境界線イメージ、或いは無我というのは、ただそれだけでは人間が生きる意味や価値をなしません。ですから、無境界線イメージや無我だけでは、一体何の為に人間として生きているのかとか、自分は一体何をする為に生れてきたのかとか、今の時代、日本では何をするべきなのか、などが見えてきません。

むしろ、そんな事は無意味だ・・・となり易いんですね。
虚無感と言いますか。

ですので、無境界線イメージや無我は、また新たな境界線イメージや我を設定し、無限の可能性を纏った我として生きる様に積極的に活用するのが良いと思っています。

西洋は、天動説から地動説によって個人には目覚めが起きました。つまり、それまでは神・聖書・境界・牧師やそこと繋がった王様だけが宇宙自然の仕組み・メカニズムを解析し、個人はいつも王様の判断基準に従ってきました。

地動説が広がり、学術が開花するにつれて、フランス市民革命、イギリス産業革命の恩恵をこうむりながら、個人は王様から独立していきます。そうして、判断基準の中心は王様から個人へと明確に移動しました。

今では、市民(昔の商人たち)が権力をとっているので、王様は暴力を使いましたが市民は財力を使いますので、社会の中心は資本主義経済となっていますね。

そして、個人戦・個人主義を先導しながら、まず個人がお金持ちになる事を先導し、相対比較と競争をさせながらお金が循環する様な仕組みになっています。

結果的に、商人が儲かり、財力が集中します。
今は、そんな我田引水ですね。

つまり、まだまだ個人の目覚めが中途半端だと言う事です。それは、外の王様は倒しましたが、中の王様、中から来る支配権力を倒す事が出来ていません。

それは西洋では無理です。
東洋の仕事です。

とりわけ、東洋の中でも日本。
西洋の良さも持っている日本。

この日本が、西洋が出せなかった答を、そして東洋が未だそんなところにまでは遠くて行けない境地を、西洋にも東洋にも満足させる形として明々白々に示す役割を持っています。

サムライの心、わびさび美学、大和魂、八百万、七福神などおよそ境界線イメージでは理解の出来ない文化文明であり、3.11でも冷静な対応、秩序を守ろうとする姿勢を見せましたし、他にも足を踏まれた方が謝るなど、世界からは驚愕の日常があります。

日本の日常は、世界の非日常です。
日本の我は、世界の無我です。

これを更に昇華させて、フランス市民革命以上の革命、21世紀市民革命を完成させる事、それは同時に明治維新の完成でもあります。いよいよ、全世界の人を幸せに、平和にさせる時が来ているかと思います。全世界の人に、水を引っ張ってあげられるのは、無境界線イメージを纏った本物の個人、その個人が集まったグループ、グループリーダーシップを発揮する21世紀個人、21世紀市民です。それが日本から!

今、日本が、そして時代が最も求めている事は、そういう上昇された我田引水ではないでしょうか?
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とても素晴らしい質問ではないかと思います。

このQ&Aサイトだけでなくて、他でも色んなところで投げ掛けて頂きたいなぁと思いますし、僕も機会を作って投げ掛けてみたいと思います。

こうした質問を投げかけるだけでも、社会は良い方向へと向かう事を確信しています。



>質問1
> 「我田引水」を 全ての人は 自らの全てから 廃絶できるのでしょうか?

出来ます。

難しい・・・という事はありましょうが、しかしそれは不可能という事ではありません。また、難しいのには難しいだけの理由がありますし、その理由が明確に理解出来れば、原因から解消解決する事が出来ます。



>質問2
>もし廃絶するとなると、どんな状態になるのでしょうか?
>公明正大で公平な世の中?
>無気力で生産性も成長性も発展性も失われた社会?

それを現段階でイメージするのは難しいかもしれませんが・・・つまり僕もどれだけ伝達できるのかどうかは分かりませんが。できる限り表現してみたいと思います。

組織や集団に負けない個人が誕生します。
真の個人・・・ですね。

今は、組織や集団からの圧力や権力に負けてしまう個人です。ですから、個人戦・個人主義では、まずは自分という存在を守ろうとします。

負けてしまう、死んでしまう・・・

この観念に囚われている弱い個人ですから、組織・集団からの圧力や権力行使に負けてしまいます。つまり、真の個人、自立された個人ではなく、弱い個人、依存の個人を創ります。

真の個人、自立された個人は明確にそれとは違います。
負ける事がありませんし、死ぬことがありません。
サムライの心の様なモノです。

真の個人、自立された個人は、全ての責任を自ら背負う事の意味ですし、責任を背負うからこそ自由選択意思によって動きます。全ての責任とは、自分の命や自分の考えの事ではなく、家族・企業・国・世界・地球の責任は自分が執るという事ですし、だからこそその為に生きる実践行動には自由選択意思が凛として立っている状態です。

そうした個人には真の尊厳性(神の息子、娘のレベルの尊厳ではない)が芽生えていますから、そうした個人と個人が集まって創る社会は、人間そのものに尊厳が立ち込めますし、社会全体が尊厳に包まれます。

一人は皆の為に、皆は一人の為に・・・それが言葉に終わらず真に実現されていく様になります。キーワードは、組織・集団に負けない真の個人です。


>質問3
>成長性や気力溢れる状態で 「我田引水」を葬るとしたら
>どのような方法が有効でしょうか?

ですから、我のイメージをゴソッと入れ替える事でしょう。

我のイメージが、この体だけが自分だ・・・とするイメージだから、この体を中心として、この体が所有する田んぼ・・・お家・・・車・・・家族・・・となるのでしょう。

一方、組織・集団に負けない個人とは、自らの中に組織・集団を秘め、自らの中に日本・世界・地球・・・が全部入っている状態です。そんな状態だからこそ、地球を背負って、世界を背負って、日本を背負って、と言います。自分の外に日本があるのではなく、自分の中に日本があります。

我が、この体のイメージではなく、全てがこの体の中に入り込んでいる我のイメージ・・・或いは、宇宙自然と人類文化文明歴史の全てが我の意識イメージの中に入り込んでいる我のイメージですね。

その場合は、我田引水とは69億人に水を引っ張ります。日本全体、世界全体に水を引っ張ります。人間全体、動物・植物全体、水・光・土・・・に水を引っ張ります。

我のイメージが変われば、我田引水で構いません。そして、

>成長性や気力溢れる状態で 

と仰いますが、今はその成長性や気力が低下しています。今は、全ての原動力と方向性が喪失されている時代ですね。分かりやすいのは経済です。

今、真に求められている産業は何でしょうか?
世界経済の危機を救える産業とは何でしょうか?

答えが出ないですよね?こんなにも学者・研究者が溢れているのに、誰も何も言えません。今は、経済の原動力も方向性も喪失しています。

ですので、「体だけが我」のイメージである我田引水が完全に崩壊しています。経済の原動力が個人戦・個人主義に始まる相対比較や競争意識だったからです。その原動力が停止しているので、我のイメージが体だけ・・・となっている我田引水は既に崩壊です。

Noubleさんが感じた気分悪い経験は、土台としてはもう崩壊している仕組みが余韻として人間個人に残っている様を見ているのでしょう。ですが、もう間もなくこの日本から新しい経済プレートが民間から立ち上がるかと思います。それは、組織・集団に負けない個人が集まって創る経済・産業・職業です。


>質問4
>そもそも、「我田引水」を葬る必要は
>・ありますか? ・ありませんか? ・それとも… ?

この体だけが自分・・・という我のイメージでしたら、既に崩壊している個人戦・個人主義の経済プレートの問題もありますので、葬る必要ありです(創造的破壊)。

その場合、69億人が我、日本が我、教育・経済・政治・文化芸術全般が我、という新しい我のイメージが出来上がっていますので、そんな我が集まって出来る新しい経済の構築という意味で、新しい我田引水を生み出す必要があります(破壊的創造)。

その為に、要となっているのは、我のイメージを旧い我から新しい我へと変化させる事が出来るか?という課題でございます。

>如何でしょうか?
>貴方はどのように考えられますか?

僕は、真にこの質問を追及する事で、今抱えている教育・経済の問題は相当数解決できると観ています。教育・経済のプレートが解決すれば、その土台に基づいて政治が自然と解決に向かうでしょう。

そして、その時の我田引水は、やればやる程、69億人全員にとっての幸せに通じますし、69億人全員にとっての夢や理想の実現に繋がるものとなっているでしょう。

旧い我田引水ではなく、
新しい我田引水を、

気付いた人から出発して実現させていきたいものです。
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この回答へのお礼

ご意見をお寄せ頂き 有難うございます。
拝聴致しました。

私の程度で 仰ったことをどの程度まで 理解できているか 不安ではあるのですが、
・「己」の境界を 時間軸的・空間軸的に どの範囲まで広げるかによって変わる
・我田引水を論じるよりも、この境界を個々が 極限まで広げることこそが大切
・真に負けた状態を体感し 負けて勝てることを知り 負けても勝てる技量を体得し、
「負けへの恐れから 結果負ける」状態から脱却するする
等について語られているように感じましたが、
間違っていたならご指導ください。


さて、
私のあげた上記の内容から
エバンゲリオンという作品の終盤
登場人物の「シンジ」という少年に課せられた
「補完」という観念を彷彿としました。
全ての存在が 1つの肉体の中で統合し 補い合い完全体となる

「シンジ」は結果これを否定し、
ソリッドに存在し合う中で 補完する道を選ぶ訳ですが。

「己の内に全ての存在を意識する」
という読み替えを行えば ですが、
両者は似ているように思えました。

また
「ソリッドに独立している者の中から、
同じ目標『"前"』を向くもの同士から 偶発的に資格者が選別され、
同時多発的に 必然としてチーム連帯が形成される
だから特段『和』を気取る必要はない」と謳う
攻殻機動隊にも 「強い個性」という点から 想いが馳せました。


予てから
私は独自に、「大人度」というものを設定していました。

これは
自らの・意識感 ・利益感を
どの程度まで広げているかによって 測る尺度です。

例えば
『尊敬できる父』という存在は
自らの肉体を顧みず働き 家族を支え 家族に安らぎをもたらします。
その人の精神的 日常行動的成熟度に関わらず
この価値観においては尊敬できるように思えます。
大人度が高いと言えそうです。

また、
オバマ大統領は 自国の利益追求に 激務に耐え 自らの肉体を酷使します

しかしこれを『自己犠牲』ととらえた瞬間に歪むように私には思えます。
これは『慈愛』だと思いたいですね

この日本には
広大な野〈や〉に 意識を広げてられる方も
因果応報の不理解という意味で
自らの肉体の末端にすら それを広げられていない方も
おられるようですね。

さて、
・起 ・承 ・転と書き進んできたつもりなのですが、
・結論はお譲りすることにします。

また何かの機会がありましたなら、
ご意見を伺えれば 幸いと存じます

p・s・
刀を持たずして武士道を貫く…
実践すると 茨の道ですが 素晴らしいですよね。

お礼日時:2011/05/27 17:44

難しいですね。

定義によっていくらでも答えは変わります。
1:我田引水は要は自分の利益優先ですよね。まあ、無理でしょう。人は自分に余裕(利益)がなければやさしくなれません。
2:我田引水がなくなる=競争社会でなくなる。利益のために人は競い合うのです。生き物すべては競争(弱肉強食)して生きているのでそれを否定することにはなります。
>公明正大で公平な世の中?
 公平な世の中の定義ってなんですか?物でいえば、あなたが一億もっていて、他の9人は無一文です。公平にするために、みんな1千万ずつに分けることですか?衣食住が足れば、心が満ち足りるといいますが、選挙権などの権利も公平の一部です。
3:被りますが、気力があふれる素は利益です。会社でいいますと、利益なくして、成長も気力もなくなります。利益をなくした会社は死にます。
ですが、ある程度は葬れますね。法律やマナー、ルールといったものがそうです。
4:
 一定のルールの下で自由が保障される資本主義。・・・・・・ある。
 公平性を優先するため、自由を束縛する社会主義。・・・・・ない。
 現実世界では、両方が選択されていますね。中国では経済は資本主義みたいなものですし。
 先進国の雇用のセーフティーネットは社会主義をメリットを生かしたものです。
 
→結局は時と場合によります。
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この回答へのお礼

ご意見をお寄せ頂き 有難うございます。
拝聴致しました。

中に1つ疑問符を設けられていたので
僭越ながらお答えします。

>公平な世の中の定義ってなんですか?
地域人種階級その他に関わらず 努力に応じた 体感的平等な報酬を得る
(フェアトレードといえるのでしょうか?)

そして誰しも 最低以上の努力と労力を普段支払えば
生活や死や疾病時への恐怖に危惧することがない

出来ればこれは 人のみに限らない。
(※:ただし 概ね適切な方向に 向いた努力のみを 計るものとする)

最低不幸社会といえるのでしょうか?
実現性は別として 私はこれが その構成要素の1つだと考えています。


新興国的な暮らしを望まない人を除いて
出来れば全ての新興国が 先進国並みに発展し
賃金ベースが ほぼ近い水準になれば
「体感的平等な」という部分が外せるかも知れないので
恐らくは より実現しやすいのでしょうが…



また何かの機会がありましたなら、
ご意見を伺えれば 幸いと存じます

お礼日時:2011/05/27 16:24

「我田引水」とは、田になくてはならない大切な水を、自分のところだけに引いてしまうという意から、 一般的に、他人の不利益になろうとも、自分に都合のいいように理屈付けや行為をすることを意味す るようになった。

それは自分の有利になるように取り計らう利己的な行為であ り、他人のことはかまわず、自分の都合だけ考えて行われる「得手勝手」な行 為である。
 ところで、私たちの関心は、こうした利己的な行為それ自体ではなく、それに 対する他者の反応にある。ここでは、「我田引水」という文字通りの行為がどの ような結果をもたらしたかをみることにしよう。
回答に代えて、ご参考までに下記アドレスを紹介します。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~geru/page008.html

「我田引水」とは、田になくてはならない大切な水を、自分のところだけに引いてしまうという意から、 一般的に、他人の不利益になろうとも、自分に都合のいいように理屈付けや行為をすることを意味す るようになった。それは自分の有利になるように取り計らう利己的な行為であ り、他人のことはかまわず、自分の都合だけ考えて行われる「得手勝手」な行 為である。
 ところで、私たちの関心は、こうした利己的な行為それ自体ではなく、それに 対する他者の反応にある。ここでは、「我田引水」という文字通りの行為がどの ような結果をもたらしたかをみることにしよう。
農民にとって、今もそうであるが、水は稲の生育には欠かせない大切なもの であった。日照りが続くと、農民は稲を枯らさないために、水泥棒をしてでも、 少しでも多く、自分の田に水を引き入れようとした。その結果、あちこちで、水 争いが起こった。血を見ることもあった。もちろん、農民にとって、争いも流血も 避けたいことであった。それらを避けることは報酬であった。自分も満足でき、他者も満足できるような 分水の方法はないであろうか。水を公正に分配できる方法はないであろうか。これが彼らの切実な 課題であった。
 公正な水の配分を求めて、農業関係者たちは、大正年間より、分水樋といわれるような農業用水を 分配する施設を多く考案し、試みた。そのような試行錯誤の結果生まれた分水施設が、1941年(昭和 16年)、神奈川県川崎市高津区久地に作られた二ヶ領用水久地の「円筒分水」(えんとうぶんすい) であった。
それは農業用水を農民の耕地面積の比率に応じて公平に分 配することのできる分水施設の決定版であった。以降、同じ方式の ものが全国各地に造られるようになった。この装置の発明によっ て、どの田も公平に水を得ることができるようになり、農民間の争い は解消した。
我が田に水を引くという利己的な行為から、水争いが起こ った。それを避けようとして、農民たちは互いに満足できる公 正な水の配分法の実現を求めた。試行錯誤の末、彼らは円 筒分水という用水施設を発明した。農民たちはその発明を 「想い一筋、流れは八筋」(「丹沢平野小唄」)と歌って祝った。 これは水争いを解消させ、水の公正な分配を可能とさせる、 農民の生活の知恵の結晶であった。
これぞ正に、「利己主義から割り出した公平という念」(夏目漱石)の現実化である。
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この回答へのお礼

ご意見をお寄せ頂き 有難うございます。
非常に面白く、また興味深く
勢いよく拝聴致しました。

忌むべきことから生まれる聖
面白いですね

水そのものでなく、
社会構造を変えて 水争いを解決する方向性にも
興味が出ました。

ただ
いっそ社会主義や共産主義に いってしまいがちでしょうが、
そうではない方個性 という意味でです

また何かの機会がありましたなら、
ご意見を伺えれば 幸いと存じます。

お礼日時:2011/05/27 17:57

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