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まったく平凡な疑問で恐縮ですが、なぜ「長州」と呼ぶのでしょうか?

長州は長門や周防の国を領していて、萩にお城があったので長門の名を取り「長州」と言うとネットで確認しています。

ならば、なぜ「薩摩」は一般的には「薩摩」で「薩州」と呼ばないのでしょうか?
薩摩も大隅や日向の一部などを領していますので、薩州なのではないのでしょうか?

土佐も土州、肥後も肥州などとは言いますが、なんで長州だけが長門と言わず長州なのでしょう?

なんだか考えると夜も眠れません。(古い・・・)
何とぞよろしくご教授お願い致します。

A 回答 (7件)

私自身も、何故、「今の時代に」長州だけが「州」と呼ばれるのかは不思議です。


島津は、薩摩だけでなく、大隅などのエリアも領有していたから…と言われる人もいますが、毛利も長門だけでなく、周防も領有しており、「防長」という呼び方も、今でも残っています。
また、幕末の京都の地図を見たことがありますが、龍馬が暗殺された近江屋の向いにあった「土佐藩邸」を、「土州邸」と表記されていましたから、当時の人々は土佐のことを「土州」と呼ぶことがあったはずです。

その他、上野(上州)、下野(野州)、武蔵(武州)、相模(相州)、伊豆(豆州)、近江(江州)、遠江(遠州)などなど、州を付ける呼び方は、ごく一般的だったと思われます。

で、今の時代、何故毛利だけ長州と呼ぶのか?そのために、時代劇でも「薩摩と長州」などという呼び方をしたりするのは、個人的にも違和感満載です。

単にゴロがいいからだけかなぁ…などと思ったりしますが、もう少し調べてみます。
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>なぜ「薩摩」は一般的には「薩摩」で「薩州」と呼ばないのでしょうか?



普通に言いますよ。薩州という言葉。

例えば、天正十三年の鍋島文書にも「筑後国中衆 薩州豊州其外別家ヲ雖被頼存候」と記されています。この場合の薩州というのは、島津家そのものを指しています。筑後の地侍が、島津家や大友家の傘下に入っている、というような意味です。天正十三年ですから、1585年で島津家は九州の南半分を制覇していた時期です。

また、文久3年の「越前藩挙藩上京案を記す書簡」という横井小楠が書いた書簡の中に「加州よりも重々御同意にて之有り、其の後村田巳三郎青山小三郎差し遣わされいまだ帰り申さず候 御国、薩州等、御使者差立て仰せ談ぜられ」と使われています。この場合の加州・薩州はそれぞれ、前田家と島津家のことで、国名ではありませんよね。

さらに幕末から明治・大正に活躍した国語学者の大槻文彦は、青木昆陽の記念碑文の中で、「蕃薯種を薩州に求め、之を小石川薬園に植え、培養せしめ諸州に頒つ」と記しています。
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略称の州は付け易い国と付け難い国があります。


備前、備中、備後はまとめれば備州ですが、個々の場合は州付けの略称はありません。
例外はあります。  当時庶民を呼ぶ時生国名で呼ぶことがありました。 「おい薩州」「なんだ長州」という具合です。
上野生まれは上州(じょうしゅう)ですが下野生まれは野州(やしゅう)でした。
ほかにも例外はあります。
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 長州藩などという藩は世の中に存在しません。

戊辰戦争時は長藩奇兵隊であり、正式な国名は山口藩です。私の調べた文書の範囲ですが、長州征伐ではなく毛利征伐です。
 そもそも藩という言葉は明治2年に各大名に命じて付けさせた名称であって、それ以前は毛利殿所領、島津殿所領という呼び方です。
 ちなみに薩摩は鹿児島藩です。ただ何れも後々に呼ばれた長州閥、薩摩閥の名称が有名になってしまったため、それが藩名と思われているだけのことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご指摘の通り、山口藩・鹿児島藩ですよね。

そもそも私の思い違いなのかも知れません。
薩摩を薩州、土佐を土州といいますが、長州はもともと長州なのかも知れませんね。長門を長州というと思っていますが、それが間違いなのでしょうか?

また
薩摩(さつま)は薩州(さっしゅう)
土佐(とさ)は土州(どしゅう)
肥後(肥後)は肥州(ひしゅう)
みな音読みの地名で、そのときはそのまま言うことが多いですが、
長門(ながと)は訓読みなので長州(ちょうしゅう)と音読みのほうが一般に馴染みやすいと言うことかもしれませんね。

とにかくなんで長門だけが長州と言うのかと疑問に思いましたが、
そもそもの前提が間違っているのかも知れませんね。

皆様、お騒がせして申し訳ございません。
何となくまたモヤモヤしてきました(^_^;)

お礼日時:2008/05/30 12:08

>>幕末の薩摩(薩長同盟のときなど)といった場合は、薩摩全体(つまり大隅や日向を含んだ)を示していないのでしょうか?<<



地理的な場所を表わすのか、行政(あるいは権力)組織を表わすのかで違ってくるのでは。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんかすごく納得しました!
やはり薩長同盟といった場合は、行政組織である藩の事を指すのであって、それならばnrbさんのご指摘の通り、薩摩藩・長州藩(本家)を使うのか正しいと思います。

皆様、ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 15:08

長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩



長門国には
長州藩(萩藩、毛利藩)
長府藩(長州藩支藩)
清末藩(長府藩支藩)
長門と呼ぶといったいどれですかね・・・・・になります

があり本家は長州ですので長州と言うんです
分家があるから・・ね


薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2ヶ国、日向国諸県

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、西海道に位置する。現在の鹿児島県西部にあたる。薩州(通称)と呼ばれることもある
江戸時代当時の正式名称は薩摩国なので薩摩

これはいいか
土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩の通称。正称は高知藩(こうちはん)。郡、南西諸島(大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有した藩

熊本藩(くまもとはん)は、肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を領有した藩。肥後藩
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございます。

なるほど、薩摩にしろ土佐、肥後にしろ、その名前で藩を示すことが出来るのですね。
しかし長州は長門と言うと他の支藩も含む事になるのですか。
大変勉強になりました。ありがとうございます。

重ねての質問は失礼と思いますので、質問とはさせていただきませんが、
幕末の薩摩(薩長同盟のときなど)といった場合は、薩摩全体(つまり大隅や日向を含んだ)を示していないのでしょうか?
また長門全体を示すのであれば、その時の長州を長門(支藩や周防を含めた)と呼んだ方がいいのではないのでしょうか?

年代によって国の言い方や領国の範囲などが違うので、一概には言えないと思いますが、幕末と限った場合、長州とは支藩や周防などを含めない本家のみの活動であったと理解するべきなのでしょうか?

勉強不足でとんちんかんな事を言っているのであれば恥ずかしいです。
迅速で的確なご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 12:40

単なる慣用です



薩州と表現されているものもあります
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます!!

慣用なんだと私も思います。

質問が下手で申し訳ございません。
私が知りたいのは、なぜそのように習慣的に呼ばれる様になったのでしょうかということなのです。

現在では、薩摩は薩州と言われるより薩摩の方が一般的だと思います。
薩長同盟でも薩摩と長州の同盟と書かれている事が多いと思います。
なぜそこで、「薩摩と長門」か「薩州と長州」とならないのかなっと思うのです。

慣用となるには、きっと理由があるのかな?と思ったのです。
私のモヤモヤ感は私だけなのかも知れません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 12:15

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