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タイトルのままなのですが、

版籍奉還では薩長土肥の四藩が手本を示し、2年後の廃藩置県の際には薩長土の各藩から御親兵を出して警備にあたったのですよね。

流れからすると廃藩置県の時にも、四藩から御親兵を出すのか適当かと思うのですが、この時に肥前藩を外したのは何か事情があったのでしょうか?

A 回答 (2件)

 御親兵の創設には、西郷を中央へ招聘するという目的も有ります。


 (木戸・大隈路線に対抗したい大久保利通[廃藩置県の方針等]と大村益次郎の後継者に成る為に西郷隆盛の協力を必要とした山縣有朋の思惑が有ります。)

 まあ、目的が目的なので薩摩とそれに近い土佐(板垣退助を参議に推したのは西郷)が主体になり、最後に長州が渋々(今までは長州藩兵で天皇及び御所の護衛していた所へ、薩土が追加でやってくる事に…。)献兵を受諾したと言う状況です。
 (その為、長州は他の二藩と異なり歩兵のみ…。)

 あと、肥前藩は大政奉還、王政復古まで静観(中立)を続けた為(俗に言う鎖国藩)、天皇及び御所の護衛を目的する部隊には不適格と言わざるを得ません…。

 ですが廃藩置県の問題で木戸・大隈路線と対抗する為に作った御親兵ですがその財政負担で、結局木戸・大隈路線(地方行政組織と税制の改革)に大久保等が歩み寄る羽目に成ったのは皮肉な展開です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。とてもよくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/20 21:23

明治3年12月 山形有朋 御親兵を画策


明治4年1月4日 西郷 上京
明治4年1月18日 鍋島直正死去
明治4年2月13日 御親兵発足

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%9E%E5%85%B8% …
賞典禄一覧

賞典禄一覧からわかるのは、大隈重信がもらっていない≒戊辰戦争で活躍していない≒肥前藩の軍事力と直結していない。ということです。
そして、肥前藩兵を引き連れたのが、鍋島直正の意を受けた息子の直大。軍事力と直結していたのは、大名であった鍋島親子であると考えられます。
この状況下で、新政府内の賞典禄をもらった佐賀藩関係者は、政府中枢から外されているようです。

ほかの薩長土は、政府中枢に残っていた人間≒各藩の軍事力と直結 していたので動員できたということではないでしょうかね
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/20 21:24

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