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水野忠邦の上知令は一部土地を幕府直轄にする程度でも反発が大きく失敗したのに、なぜ明治時代で版籍奉還に加え廃藩置県ではもはや藩という概念すら無くなることになるのに反発は大きくなかったのですか?

A 回答 (8件)

版籍奉還に応じた理由は複数有ると思いますが、各藩は借金まみれで、


赤字経営の処が多かったのも、一つの要因でしょう。
債権を踏み倒された商人は、大打撃です、大阪商人は特に影響が、
大きく窮乏状態に陥りました。
そこから、立ち直った難波商人のパワーには、感嘆!の一言です。
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1,西洋列強という外敵の脅威が 


 間近に迫っており、
 必要性が切迫していた。
 つまり、天皇の下、一丸とならねば
 植民地にされてしまう、という危機感が
 あった。


2,段階的に改革を行った。
 つまり、明治政府が上手かった。

 いきなり廃藩置県とせず、まず版籍奉還を
 やらせる。
 領土は天皇に返すが、引き続き知事として 
 領地を治めることが出来る。
 名を捨て実を取るだけだから我慢しよう。

 次は、旧藩の借金を整理しろ、という
 命令を出す。
 これが出来ず、藩を天皇に返すから免除してくれ
 という藩が続出。

 薩長などの雄藩が返還に進んで応じたので 
 他の藩も抵抗しづらかった。
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「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という言葉が流行ったことがある。


部分的に取り上げる話は、次は俺が取り上げられるかもしれないと不安に襲われ、不公平だと批判の大合唱になる。
しかし、全員から取り上げますよという話なら、「怖いけど補償もそれなりにあるし、拒否して官軍と戦っても勝ち目はない。そもそも藩の財政は大赤字でどうしようかと困ってた」というわけで、明治政府が思っていたより遥かに簡単に廃藩置県は成功した。
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上知令と版籍奉還は別物のようです。


版籍奉還は中央政府と地方政府の関係において、中央集権の強化だと思います。
それに対して、上知令は東京駅周辺の土地の権利者に対して全てお上に明け渡せ、と言っているようなものです。契機はアヘン戦争に対する危機感からの国土防衛のようですが、戦争状態になったら土地の権利など無意味になるので、平時に考えるべきことは違う事なのかもしれません。

これを現代に置き換えると、新たな道路の建設や既存の道路の拡幅に伴う土地買収が該当すると思いますが、お上の命令で土地を取り上げることはできないため、完成までには相当な年月を要しています。
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天保期はまだ藩の財政はマシだったからです。


黒船来航以降、各藩は軍事力の強化に莫大な資金を投入できる余裕がまだありました。
しかし戊辰戦争により、どの藩の財政も天文学的負債を負って完全に財政破綻していました。
完全に首が回らない状態で、借金を踏み倒すしか無かったので、版籍奉還と廃藩置県に素直に従ったのです。少なくとも藩主は前と同じ生活水準を保障されましたし。
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反発の気持、気分のようなものが大きくても、大きな社会変動を感じている場合には、反発の気持や気分で行動を始めるということはないものです。



天保年間は、このままではよくない、大変だと思う人は多くいたものの、実際の社会変動そのものがないので、改革と称して何かをすれば、その改革の政策に具体的な反発の気持、気分のようなものが大きくなった人は、陰に陽に、あるいは直接行動にでて反発します。

明治は、既に強烈な社会変動が起きてしまっているのを、ほとんどの人が実感しています。 農民や町民が徴兵にもって行かれる、義務教育に引っ張られる、ちょんまげや帯刀で外を歩くのも禁止、こういう状況だと、版籍奉還でも、秩禄処分でも、なんでもありになっても、政策に具体的な反発の気持、気分のようなものが大きくなっても行動にでることは少なくなります。

昭和で敗戦になったというときでも、同じようなものです。
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1871年の版籍奉還は武士の身分を奪うもので、それえの反発は1877年の日本での最後の内戦の西南戦争の原因になっている。


決してすんなりといったわけではない。
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弱ってきてた徳川幕府と出来たばかりでイケイケだった明治政府の影響力の差じゃないですか?

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