No.3ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
藩校は明治二年の時点で八十五%までの藩に存在していましたが、明治に入ってから設けた藩が三十五もありますし、江戸後期から幕末にかけて性急に作られたものも相当あって、その実態はかなりバラつきのあるものだったようです(時流に乗っただけなのに藩校を設けた藩主=名君のように語られることも多いのは問題だと言われます)。
仰るように小藩では経済的な面からも藩校が設けられなかったり整備が遅れたりといったようなこともありましたが、藩校より小規模な「郷校」と呼ばれるものがあったところもあります。郷校は藩校の代わりという訳ではなく、藩校の延長の役割を果たしたり主に農民にその生活における倫理を教えるようなものもありましたが、個人の経営である寺子屋に対し藩や代官所・有志の集団などによって経営されていたのが特徴で、官民協力体制であったものもあります。富農や富商がかなりの援助をおこなったところも実際あったようです。勿論藩校・郷校が登場する以前のように読み書きを家で教えるケースも結構あったとは思いますが。
余談ですが、先日のお話それほど喜んで頂けるとはこちらこそ感激です。私の場合はただ可能な限りは調べてみたいと思うタチなだけなのですが、如何せん行動が遅い為にその途中で締め切りを迎えてしまうこともしばしば(笑) 前回は「追加依頼」が可能であることを知ってお願いしてみたのですが度々それを行う訳にもいきませんしね。勿論勝手にやっているだけですし、何より自分の勉強になるので無駄ということはないのですが。
詳細を存知あげないのに無責任かもしれませんが受験頑張って下さい。
幕末や明治に性急に創られた藩校が多くあって、江戸中後期頃にはなかった藩も結構多かったのですね。
調べてみたところ、私の地元の藩校も明治に入ってから創設されたようです。
豪農・豪商の寄付による、郷校という官民協力で創設された学校もあったのですね。
今の途上国のように、貧困層の子ども達は労働力に数えられて学校に通わせてもらえないこともが多かったのかもしれませんが、一応、農民にも倫理を教える学校があったのですね。
>その途中で締め切りを迎えてしまうこともしばしば
早く締め切りすぎてしまうのは私の悪い癖です。
他の回答者様にもよくご迷惑をおかけしています。
そういう、やさしい回答者の方々の好意・善意で成り立ち、充実しているQ&Aサイトですから、締め切り後にも気にかけて頂けて追加依頼をして頂けるのは本当にありがたいことだと感謝申し上げています。
>詳細を存知あげないのに無責任かもしれませんが受験頑張って下さい。
ありがとうございます!
弁護士になるのは大学2年の時からの夢なので頑張ります。
前は、営業ノルマのない公務員、地元県庁にでも就職して、仕事はそこそこに私生活重視の楽しい生活をしたいなぁとずっと考えていた(良貨を駆逐する悪貨的発想ですね。こういう人間は公務員になってはいけないですね。)のですが、どこでどう間違ったのか生活不安定な一匹狼になる道を選んでしまいました。社会正義の実現とか人権擁護といった崇高で大げさな事は全く思いませんけど(全く思わないで良いのかな…)、ごく小さなことで良いので人様の役に立てる仕事に就きたいと思い至りました。(ホントは実務家より、興味のある民法・ローマ法・法制史あたりの研究ができたら良いなぁと思ったりもしますが、マイナー分野の研究者は常勤のポストがなかなかないので大変そうです。大学の教授って好きな研究も出来て、学生に学問を教える事もできて、政府の審議会などにも参与できて、時間的拘束も緩いし何度も留学できるので私の中では理想的な職業です。)
そういう訳で、今年は法科大学院の入試がありますので、こちらで質問させて頂く機会も大きく減ると思いますが、またご回答頂けることがありましたら嬉しいです。
ありがとうございました!
No.4
- 回答日時:
No.3です。
昨日書き忘れてしまいましたが、岡山藩の所謂「閑谷学校」(時代によって名称が異なるのでそう呼んでおきます)は「藩の意向によって設けられた学校」という意味では「藩校」ということも出来ますが、厳密には前述の「郷校」(郷学)に当たるものです。何故かというと閑谷学校は寛文八年に池田光政によって庶民の為に設けられた百二十三ヶ所に及ぶ手習所が財政的な理由などから次々廃止され統合された結果出来上がったものであるからです。藩校としては別に岡山学校(花畠教場→石山仮学館)があります。この辺りを厳密に区別しない資料や書籍も多く存在しますが一般向けとしてはそれで十分という判断なのかもしれませんね。
そういう経緯なので閑谷学校は基本的に庶民主体なのですが、藩士の子弟や名声を聞きつけた他領の者なども共に学んでいたことは広く知られるところです。あまり知られていませんが岡山藩には他に藩校の分校的な郷校として中田・虫明・天城各学問所、庶民教育主体のものとしては「香登習字所」というものが設けられていたそうです。
静谷学校が庶民対象ということは聞いた事ありましたが、これも正確にいうと郷校と呼ばれる学校なのですね。
光政は123ヶ所もの手習所を創ったのですね。
名君には学問好きが多いですね。
次代の綱政などはその辺にものすごく無関心っぽい印象がありますが、岡山藩は総じてかなり教育に力を入れていたのですね。そんなに多数の分校があった藩はちょっと他にはなさそうですね。
大変勉強になりました。
ありがとうございました!
No.2
- 回答日時:
1万石の小藩でも、藩校は存在しました。
伊予国(愛媛県)小松藩は1万石の外様小藩で、人口約1万人。
天保の改革が行われたころは、武士60人・足軽40人との記録があります。
小さな藩なので、足軽は農家の次男坊三男坊を1年契約(3石)で雇っています。
1万石といっても年貢は6公4民。実質6000石しか収入がありません。
こんな小さな藩ですが、ここにも立派な藩校「養正館」がありました。
藩校を持つのがステータス?になった18世紀中旬以降では、藩校が無い藩の方が珍しい状態です。
では、藩校が無かった子弟はどうするのか?
江戸・京都・大坂及び近隣地域の私塾に留学しました。
本家分家の関係が存在する藩では、本家の藩校に留学しました。
留学が出来ない場合は、藩内の有識者が教授を行っていたようです。
侍60人・卒40人の小藩ですら時流に乗って藩校を作ったのですね。
>足軽は農家の次男坊三男坊を1年契約(3石)で雇っています。
3石ということは現米1石くらいですよね・・・
タダ働きに近いものがありますね。思わず「安っ!」って口から出ました(笑)
小松藩は6割も年貢とっていたのですか。かなり高い方ですよね。
藩校がない場合は、留学か藩内の有識者が教授していたのですね。
武家の女子教育も有識者が教えていたりしたのでしょうか。
ありがとうございました!
No.1
- 回答日時:
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