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薩摩藩と人吉藩とでは、浄土真宗に対する禁止や弾圧は、どちらの藩の方がより激しくてキツかったのでしょうか?

薩摩藩 と 人吉藩の2藩のみ は、戦国時代の終わり頃 から 江戸時代が終わるまで ずっと 浄土真宗を禁止して弾圧していたのですよね。

質問があります。

薩摩藩と人吉藩の 2藩は、浄土真宗を禁止して弾圧していたそうですが、

それでは、薩摩藩と人吉藩とでは、どちらの方が、より浄土真宗に対する弾圧が激しくてキツかったのでしょうか?

浄土真宗に対する弾圧は、薩摩藩と人吉藩とでは、どちらの藩の方が、より激しくてキツかったのか、を、教えてください。

A 回答 (2件)

どちらの藩も江戸時代の間は禁圧されて「隠れキリシタン」のように「隠れ念仏」とよばれていました。



wikiによると薩摩藩の方が壮絶だったようですね。

隠れ念仏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C …
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> 弾圧が激しくてキツかった



「より」の前に、厳しさ、キツさの程度や判定の方法があるとは思えないです。
九州南部の薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)と相良藩(熊本県の人吉地方)であっても、また、人吉藩の弘治元年(1555年)から、薩摩藩の慶長2年(1597年)からにしても、明治までの期間はひどく長いです。 また、弾圧の対象になった隠れ信者の行動の状況も、両地域も広いので、どこでも似た状態であろうはずがないし、300年間似た行動が続いているハズがないです。
天候も違い、藩の財政逼迫状況も大きく変化します。 
特定宗教、特定進行行動に対して、邪や悪、不穏・反や敵対視を感じる状況だって、経済状態によっても大きく違うでしょう。
おそらく、檀那寺から「寺請証文」、村の「宗門人別帳」、五人組の「証文」を出させるなどのことは、相当の期間続けているのですから、十九世紀になっての厳しい弾圧は、単に信仰の問題ではないでしょう。
研究者は、本願寺の財政が悪化し、村に金銭貢納を要求したこと、この薩摩や相良では兵農分離がなく、郷士のような形で共同体を作っていたこと、藩も財政問題を抱えていたこと、その結果、下級武士・郷士の争奪戦を本願寺と藩が展開するような事態に陥ったことが根本の問題だったようです。
念仏を唱えるとか、信仰のスタイルに関するような禁圧や弾圧ではなく、下級武士・郷士の帰属、財政に関する争いなのではないでしょうか。
本願寺側が、とにかく理由をつけ、上納(購入)を強要した状況が、大弾圧を起こした一因になっているのでしょう。
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