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戦国時代には他国との戦いは万単位の軍勢が動きます。

しかし、幕末は戊辰戦争では百人単位、多くても五千人の軍勢しか各藩とも出してません。

これはなぜでしょうか、天下分け目の戦いなのに戦国時代とは数が少なすぎると思いますが。

この違いはなんなんでしょうか?

A 回答 (9件)

理由の一つは、大勢の軍隊を動員する金が無かったからです。


幕府をはじめ各藩は、たいてい財政が火の車状態でした。
藩財政の改革に成功した薩摩藩・長州藩が幕末で大きな力をもったのも、
他の藩が貧乏であったのに比べ、薩長の両藩は財政に余裕があったからです。


二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
組織など、兵数よりも軍隊の質が戦いの勝敗の分かれ目となったことが挙げ
られます。

戦国時代でも鉄砲は有力な兵器でしたが、幕末になると鉄砲の重要性はさらに
高まりました。

蛤御門の変で敗れた長州藩は、戦国時代さながらの旧式の武装しかもっていま
せんでしたが、その後長州藩は軍制改革を成し遂げ、連発が可能な元込め銃
をもち、世襲で元気を失った武士ではなく、鋭気溢れる農民や町人を主力と
した軍隊に生まれ変わります。

その結果、第二次長州征伐では、少数の長州藩の軍隊が、圧倒的多数の幕府軍
を打ち破るという大戦果を上げます。

鳥羽・伏見の戦いなど、その後の幕末の戦いでも軍隊の質が量を圧倒する状況
が続いたため、倒幕・佐幕の両陣営でやる気のある藩は、数を増やすことよりも
最新鋭の武器の購入や、軍制改革に力を注いだわけです。
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この回答へのお礼

そういえば、長州や薩摩、土佐、肥前は藩政改革に成功し財政に余裕が出てきてそのお金で西洋式の武器が買えたということが本に書いてありました。本には兵器が進化すると兵隊は少なくてすむという話がありました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/02/24 21:40

江戸幕府は、基本的に大藩を作らない政策を採りました。

戦国時代の有力大名(上杉、武田、今川、北条etc.)は皆実質百万石を軽く超えますが、会津藩を例にとると本領が二十三万石、預領を入れても三十六万石に過ぎません。藩ごとの動員力で比較すると、どうしても見劣りすることになります。

また戊辰戦争を天下分け目の戦いと捉えるのは誤りです。ほとんどの藩は傍観の立場を取りましたし、奥羽越列藩同盟にしても、薩長に反発して決起しただけです。会津以外の奥羽諸藩の各藩内では、抗戦派が主流だったものの反戦派も多数存在し、決して一枚岩ではありませんでした。第二次長州征伐に失敗した時点で、既に幕府は実効的支配力を失っていたのです。

江戸時代は、初期を除けば武士のリストラはありませんでしたから、各藩の兵力はそれほど低下していません。例えば西南戦争では、薩摩だけで一万三千余の兵が動員されています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。皆さんの回答を拝見していますと兵力が落ちたのは農民は戦場には使えず武士だけが戦争に行った結果である、という結論に至りました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/24 21:31

他の方も言われていますが、甲陽軍鑑を含め出自のほとんどが公文書ではありませんし、誇張された数字です。



ちなみに旧武田系列の武士の末裔たちですが、戊辰戦争当時は相当な人数です。会津(保科・木曾)・松代(真田)・沼田(真田)・彦根(山県)・長岡(山本)だけで1万6千を超えています。

個々の戦闘が小規模だっただけで、藩兵の総数は凄まじい人数ですよ。明治5年の調査によると洋式銃だけで25万挺あったそうですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。この時代は時代物や公家の日記が証拠になります。ですから、公文書はないのでは、ということで根拠を提示するのにかなり気を使いました。

お礼日時:2006/02/24 21:28

> 戦国時代には他国との戦いは万単位の軍勢が動きます。



根拠となる公文書を教えてください。

この回答への補足

根拠ですが、甲陽軍鑑川中島において上杉方15000人武田20000人たしかそうであったそうです。

補足日時:2006/02/23 18:39
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まず戦国時代ですが、確かに大大名になると万単位で兵が動員されています。


しかしこれは、誇張されていることが多かったはずです。少なくとも我々は文献でその兵力を知るわけですが、その文献に正確な数字が記されていることはまずないでしょう。どの軍も物見を多数出して相手の軍勢を探るわけですが、その報告もまちまちでした。
日本で、何万人もの軍隊がお互いに戦える場所も、僅かしかないはずです。

幕末は、下記の回答にもありましたが、各藩の財政状況が悪化していて、動員したくても動員できなかったと考えるのが一番でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。当時の古文書はたしかに誇張があります。この質問をするときに悩んだ種でした。ご指摘ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/24 21:33

戦国時代は兵力が重要でしたから大体1万石につき200人~250人の動員を義務付けていました。


しかし自分の才覚でそれ以上の兵力を動員した領主も多かったようです。

また武装の種類も同様に騎馬武者、槍、弓、鉄砲、旗の数まで割り当てられていました。

しかし全国統一後戦争がなくなると、財政の窮迫も進み、このような制度の維持が困難になってしまったのです。

参勤交代制でも、規定の供揃えができず、臨時雇いで頭数を揃える位でした。
幕末の長州攻めで出陣を命じられた旗本、ご家人は質入れしていた鎧の請け出しに困惑したといいます。

従って諸藩でも同様な事情でしたから特に武士階級の比率が高い薩摩藩など以外は民間人の志願兵を募り(長州の奇兵隊など)ました。

また武士階級も太平が続き、殆ど官僚化していました。  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。戦争どころではない世情にあったのではということも大事ですね。ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/24 21:41

戦国時代と幕末では、使用する兵器の質も大きく変化しており、長い平和期間の間の物価上昇、貨幣経済の発達による、諸藩の財政の悪化(武家の米穀経済体制が町人社会の貨幣経済化について行けなくなった事等)によって、動員力がかなり下がったからです。


火器の発達は、兵一人がカバー出来る戦線の範囲を大幅に拡大させてもおり、指揮の観点から見ても、大兵力が有利とは限りません。最近の研究では、俗に言われる攻撃側三倍の法則(攻撃側の兵力は防衛側の三倍必要とする説)も統計的に見て正しくない事が証明されております。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。武器の進化も要素の1つだと、専門書に書いてありました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/24 21:43

こんにちは。


きっと兵隊さんがいなかったからでしょう。
関が原の時は、各地の戦乱で滅びた大名の家臣など、ある程度の指揮官クラスの人から一般の槍や刀や弓、鉄砲などの兵隊さんにいたるまで沢山の人が浪人としていたので、人集めは簡単だったと思われます。

一方江戸末期は、戦を経験した人なんか殆どおらず、浪人も元はといえば事務職が大半でした。
武術の心得があっても合戦となれば全く別物です。
このいい例が宮本武蔵で、彼は主命により島原の乱鎮圧に従軍しますが、真っ先に石垣に取り付いて上ろうとして、上から石を落とされ、腰を強打して立てなくなり、負傷兵として藩に帰ります。

ちょっと横道にそれましたが、戦闘が殆どなく太平の世が続いた後では武士階級でも戦闘用人員集めは大変だったのではないでしょうか?

#たまたま、今日はこんなニュースも流れました。(笑)参考URL

参考URL:http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann/20060 …
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この回答へのお礼

自衛隊ですが、本当に戦争になれば使えるのかな、とかねてから考えておりました。ご指摘ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/24 21:36

戦国時代の大名は農民まで駆り出して戦争をさせましたが、幕末は身分制が固まっており、武士だけの戦いだったからではないですか?確か江戸時代、武士は日本の人口の1割以下だったと思います。



そして明治維新以降、欧米列強に対抗するだけの武力を持つには徴兵制が必要ということになって、徴兵により何百万もの兵力を持つようになったのだと思います。
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この回答へのお礼

戊辰戦争の絵を見ていますとみんな武士ではないか?という結論に至りました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/24 21:35

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