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和宮降嫁のルートですが、大河によると中仙道を通ったらしいですね。

これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?
一番楽なのは船ですが、公武合体を喧伝するなら大名行列のように陸路を選ぶこともあるでしょう。
それにしても中仙道とは奇異です。
普通は東海道でしょうし、中仙道上に薩摩や水戸があるわけでもありません。いったいどういう意図があったのでしょうか?
途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?

A 回答 (5件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?

(1)最大の要因は「警護」のしやすさ、からでした。わざわざ山の中を通るわけですが、「公武合体」に反対する者が襲撃してきても、東海道のように広い路では、刀が振りやすいし、一気に集団で襲って来ることも考えられます。
(2)そこで、中山道を通ったのは、集団で襲って来たとしても、狭い山道ですので、一気に押し寄せてくることができない。刀も十分に振り回せない。などなど、で「わざと」道幅の狭い中山道と決定したのです。
(3)また、海路を使用しなかったのは、当時は、すでに諸外国の船が日本の沿岸まで何隻も集まっており、「攘夷」を唱える朝廷としては、外国船の襲撃も恐れました。
(4)さらに、和宮が京都を出立したのは、文久元年(1861)10月20日ですが、現代の太陽歴になおすと、11月の下旬になります。当然、「しけ」なども多かったので、これは「却下」。
(5)そして、東海道を通らなかったわけは、NO2.の方も言われているように、河川が多く、大風(台風)のシーズンではありませんでしたが、やはり、大雨で川の増水による「川止め」なども予測されました。
(6)「前例」が大きくかかわった。
和宮以前に公家の姫君が江戸へ下った「例」があり、「警護」が行き届いている・・・との「評判?」が存在しました。
享保16年(1731)に、比宮(なみのみや)が9代将軍家重へ嫁す。
寛延2年(1748)・・・五十宮(いそのみや)が10代将軍家治へ嫁す。
文化元年(1804)・・・楽宮(ささのみや)が11代将軍家慶へ嫁す。
天保2年(1831)・・・有宮(ありのみや)が13代将軍家定へ嫁す。
嘉永2年(1849)・・・寿明宮(すめのみや)が13代将軍家定の後妻に嫁す。
(7)和宮の一行は、京都方(京都近辺の諸藩から集められた)1万人、江戸よりの派遣1万6千人。その他に持参した品物を運搬する人足等を入れると3万人余りにもなり、延べ12の藩が輿を守った。行列の長さは約12里(50~60Km)にもおよび、通り過ぎるまでに4日もかかった、と言われています。
そして、街道筋では、「伝馬役以外は一切の外出禁止令が出され」「女は姿を見せないこと」「通行を上から(2階などから)見ないこと」「商家の看板は全て取り外すこと」「2階は雨戸を閉じること」「犬や猫はたまた赤子も泣かせてはならないこと」などなど、幾つもの「禁止令」が出され、それを可能にできるのは人口も少ない中山道だけであった。
(8)不吉な「語呂合わせ」。
東海道で富士山の眺望がもっとも素晴らしいと言われたのが「さった峠」(現:静岡県由比町)。当時で言えば、多くの見物人が押し寄せました。そして、この「峠」を絶対的に越さなければ江戸へは行けない。「さった」=「去った」で縁起が悪かった。
ごめんなさい、「さった峠」を漢字で入力しましたが、なぜか「文字化け」をしますので、平かなで書きました。

>>途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?

この回答は「ありません」でした。それよりも、通過する諸藩では、逆に、沿道の整備(橋の修復や道路を掃き清める)などで、大きな出費でした。

(よもやま話)
(1)宿場も大混乱。
和宮が宿泊する宿では、壁を新しく塗り替える。襖(ふすま)や戸棚も全て「京風」に取り替える。畳表を取り替える。さらに、その上に「真綿」を敷き詰めて、縁の下から槍などで突かれるのを防いだ、と言われています。
(2)小さな宿場町は、もっともっと、大大混乱。
美濃太田宿(現:岐阜県)は小さな宿場町でしたので、記録では、人足7,800人、馬280頭、寝具類7,400枚、枕1,400個、飯椀8,000個、汁椀5,200個、膳1,000人分、皿2,000人分を新調したり、近隣の豪農の家々から集めた、という記録が残されています。
(3)2つの宿が協力。
和宮が通過した頃、中津川宿は、人口928人、家数228軒、旅籠29軒。そして、次の宿場の落合宿は、人口370人、家数75軒、旅籠14軒、と、それぞれが小さかったためと、約1里しか離れていなかったので、この2つの宿場は共同で行列を受け入れました。なにせ、行列は約12里もありましたから・・・。そして、一行が1泊しただけで252両もかかった、と、記録では伝えています。
(4)紅葉の一枝。
美濃の呂久川付近を一行が通過中、道端にひれ伏していた土豪が、一枝の紅葉を差し出すように頭の上に持ち上げていた。和宮にも輿の御簾(みす)から見えたらしく、ただ輿に揺られるだけで何の楽しみも無かったためか、輿を止めて、土豪から一枝の紅葉を受け取った。そして、
「落ちて行く 身と知りながら 紅葉(もみじ)ばの 人なつかしく こがれこそすれ」
と和歌を詠んだ、と言われています。
(5)10月20日、京都を発ち、江戸へ入ったのは、11月15日。約25日の行程であった。

あなたの「お役に」たてたでしょうか。
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この回答へのお礼

警護のしやすさですか。
確かに桜田門外、坂下門外の前後の時期ですし、道が細くて人の少ないほうが安全ですね。

あと外国船の襲撃を恐れたというのも説得力があります。
そんなくだらないことしやしないでしょうが、朝廷の異国の恐れ方からすればありそうですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 04:16

公家の関東下向は通常、中山道を使います。


また当時の旅日記を読んでも中山道を使う人が多いです。

朝廷は年一回、日光に例幣使を下向させたのですが、その行程が中山道から日光例幣使街道を通って日光に至る道です。
その道のりを通っただけのことです。
例幣使の街道沿いならば勅使に対する対応方法を知っていますので、都合が良いのです。
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この回答へのお礼

普段から中仙道を使っているわけですか。山が険しくて不便なばかりかと思っていましたが、日光までの道のりに慣れていたのですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 04:18

皆さんのおっしゃるようにいろいろな理由で中仙道になりましたが。


一番の理由は、「公武合体」により徳川の力がぶり返すことを恐れた
「攘夷」派の妨害を避けるためではなかったと思われます、

降嫁のさい信州小阪で撮影された写真 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumat …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 04:16

 これは推測ですが、幕府の見栄ではないかと思います。

和宮を迎え入れるために、幕府側が数万の者を護衛に当たらせ、中山道全体を整備したり、準備に携わった者が20万人以上いたとも言われているようです。つまり、水路を使うと、衰退する幕府の威信を内外に示すことができなかったため、あえて中山道を使ったのではないかと推測されます。
 水路に比べると、時間もかかるため、その威信を誇示しやすく、庶民も多くその行列を目の当たりにします。京を出発し、江戸に到着するまで、約四ヶ月近くかかっていますので、威信を示すには十分な時間であったといいでしょう。また、和宮にとっては傷心を癒すため、名勝を訪れさせるよい機会だと公家側が判断した可能性もあります(私見です)。

>公武合体を喧伝するなら大名行列のように陸路を選ぶこともあるでしょう。

おっしゃるとおりです。喧伝のための陸路です。

>普通は東海道でしょうし
多分、東海道は川が多いからでしょう。文久元年10月20日の出発ですから、旧暦で水の多い時期ではありませんが、念には念を入れたのではないかと思われます。またお付きのものや、輿入れ道具を全て水路にてということになると、その船の多さは尋常ではなく、米国を刺激するという意味合いもあったような気がします(推測です)。

Wikipediaにも出ています。

「大名の参勤交代や日光例幣使などが通行し、山間の多い道であるが、東海道に比べると川止めがないのが利点とされた。そのため「女性は中山道を利用することが多い」というイメージを持たれ、「姫街道」などと呼ばれた。和宮親子内親王が徳川家へ降嫁した時、利用した道路も中山道であった(ただし実態として「女性利用者が多かった」「女性は東海道ではなく中山道を選んだ」というデータはない)。」

・内外への幕府の力の誇示
・川の少なさ
・東海道は武士的なイメージがあり、あえて姫街道と言われる中山道を選択した

理由はこのあたりにあると思います。

>途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?
多分、これはないと思います。

藤村の『夜明け前』をもう一度読んでみたくなりました。篤姫が話題になっているこの時期、『夜明け前』を再読するのもよいかもしれませんね。

ご参考までに。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 04:12

>和宮降嫁のルートですが、大河によると中仙道を通ったらしいですね。



これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?

ウソのような話ですが、東海道には現在の静岡県の由比に有名な「薩ッタ(土へんに垂)峠(サッタトウゲ)」があり、婚礼の行列には縁起が悪いということで、東海道を避け、中仙道を選んだそうです。しかし、後になって、中仙道の板橋宿(現都下)に「縁切榎」があることに気付いた人がいて、大急ぎでその榎を筵?で覆って、和宮の一行を通過させたということです。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 04:11

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