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これはネットからの印象ですが、会津藩あるいは会津藩に同情的な人たちからは、長州藩を批判する意見をよく見かけますが、同じ倒幕藩でも薩摩藩や土佐藩などを批判する人はあまりいないように見えます。こんな風に見えているのは僕だけでしょうか。

ともかく、長州藩がやたら憎まれる理由って何でしょうか。

A 回答 (5件)

戊辰戦争の要点を「薩長が主導して会津を朝敵とし、恭順の意を示している


会津を許さず、それに同情した東北諸藩の嘆願を無視し、会津を攻め甚大な
損害を与えた。」としてみます。

それで、薩長憎し、特に京都守護時の遺恨の長州は許さん、となりました。
薩摩はイデオロギー的には実質派、長州は狂信的尊王派、会津は頑迷保守派です。
その為も有り、会津戦争後に「憎きは薩摩と長州、長州、長州・・」となり、
それが語り継がれて、教え込まれて「長州嫌い」と言う事になっています。
間違った教育による洗脳効果だと思います。

以下は変な点です。
1)長州藩兵は、上越線戦で長岡や米沢藩兵と戦い、会津戦争には間に合わなかった。
  (長州は残虐行為に関与していない。)
2)戦後に会津藩士は90%が斗南藩に移され、現在の会津民の先祖の大部分は
  町民と農民。
3)戦い前は町民と農民は重税に喘ぎ、戦いの後にはザマミロ一揆が多発している。
   (戦いは侍階級のもので、庶民は冷淡で避難していた。)
4)会津藩へは猪苗代周辺に小藩としての存続が打診されたが、3)の背景も有り
  不可能と考え斗南を選んだ。

当時の会津の侍の比率が何%か知りませんが、仮に10%とすると(日本全体では6%)
90%は斗南に移ったわけですから、現会津人の先祖の侍率は1%程度です。
その1%の会津侍の恨みが(武士は恨みつらみは言わなかったとは思いますが)
語り継がれて、99%を洗脳して現在も恨んでいる。何か変な話です。

それで、NHK大河ドラマ「八重の桜」には違和感を持ちました。史実を無視して
美化正当化され過ぎている事です。
事実の一例です。
1)上越に於ける会津藩兵の略奪暴行は激しく、遅れて出陣した米沢藩兵は被災民
  の救済に忙しく、会津兵から「炊き出しに来たのかと」非難された。
2,3)戦火を避ける為に米沢藩に避難した会津の人々は少なくなかった。
3)豊かで、新政府(台所は火の車)に賠償金を払えた仙台、庄内、米沢藩では
  一揆は起こらなかった。庄内では移封を阻止する為の嘆願が住民により行われた。
3、4)なぜザマミロ一揆を起こした人々の末裔が、侍の末裔を気取って、戦っても
  いない長州を恨むのか。

150年経った現在、洗脳と会津観光史観から抜け出すのが必要と思います。
https://okwave.jp/qa/q1724948.html

因みに、小生の周辺はザマミロ一揆に加担したであろう側と、会津に加担した藩の
家を焼かれた町人側と、会津以外の侍側の知り合い多数の末裔です。
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ワタシの友人に、会津人がおりますが、


今でも長州藩を憎んでおりますね。

歴史、というのは生きているんだな、と
つくづく感じます。

会津戦争でしょう。

あの戦争では、女子供もむごたらしく殺された
という言い伝えが、子々孫々に連綿と伝えられて
いるからです。
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会津戦争後の処置も酷いですね。



当時、何もない下北半島に移封(国替え)させられたのです。


廃藩置県で実質上解かれましたが(帰れましたが)。

負けた方、いじめられた方はいつまでも傷が癒えないものです。
(勝った方、いじめた方は、その時スカッとしたのでしょうが。
 会津の方々が長州の方々に仕返しが出来れば大分軽減される
 でしょう。
 なお西南戦争には会津出身の人が大分政府軍として参戦された
 そうです。)
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直接的な原因は「会津戦争」です。



会津藩などを中心とする旧幕府軍と、薩・長を中心とする官軍の間で繰り広げられた戦闘で、有名な白虎隊の悲話などもありますが、要は会津藩がボロカスにやられた恨みです。
ただ、これだけなら、長州と共に薩摩や土佐も恨みを買っても良いですね。

一方、会津と長州の確執は、幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」あたりに発端します。
この頃は、会津と薩摩が公武合体派で、長州が尊王攘夷派(+討幕派)と言う対立構造。
会津と薩摩が、京都で勢力を拡大しつつあった長州を、京都から追い出しにかかり。
その逆襲で、京都守護職であった会津藩主を追い出そうとして、武力蜂起したのが禁門の変です。

従い、薩長も犬猿の仲でしたが、その後、坂本龍馬の活躍で、薩長同盟が成立。
その結果、長州藩禁門の変の恨みは、会津藩が一身に受けることに。

あるいは、長州藩は、幕府による長州征伐を受け、幕府側への恨みを積み重ねますが、ご存じの通り、江戸幕府は無血開城。
まあ上野戦争などもあって、長州藩はここぞとばかりに、幕府側へ恨みを晴らして行くのですが・・。
その集大成とも言えるのが、冒頭に書いた会津戦争です。

最終的に倒幕の最大勢力は薩摩なんですが、会津とも長州ともコンビを組んで、上手く立ち回ったと言いますか。
長州は、雄藩の中では討幕派の老舗であり筆頭格なんですね。
一方の会津藩は、佐幕派の筆頭。
会津視点で言えば、薩摩も憎いけど、長州はもっと憎い!と言う感じ。

お互いに、藩の存亡を賭けて、「やった」「やられた」と言う関係で、最終的な敗者である会津は、今でも長州を恨んだり憎んだりしていると言う構図でしょう。

昭和に入ってからも、萩市の市長が、「もう120年も経ったから、友好都市になりましょう!」と提案したら、会津若松市の市長は「まだ120年しか経ってませんので、お断りします!」と言うお返事だったそうですよ。
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「白川以北一山百文」に代表される戦後の処遇

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この回答へのお礼

今検索してみました。
どうも薩長土肥の人たちが使っていた言葉のようですが、長州藩とだけに何か関係しているのでしょうか。

お礼日時:2018/07/03 11:22

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