【お題】王手、そして

エホバ、モルモン、統一教会以外のキリスト教徒(新旧教問わず)の方にお聞きします。
大概の場合、「異端」と呼ばれるエホバ、モルモン、統一教会、あるいは仏教、神道etc.は必ず避けるべきですか?

僕はプロテスタント(バプテスト)です。
教会に向かう途中、エホバの「めざめよ!」を配っている人と擦れ違いました。
僕はそれを受け取ったり、たとえ読んだりしても、信仰的に(あくまで信仰的に。そりゃ、教会で堂々と読んでいたら問題だと思います)問題は無いと思っていました。
なので、何気なしに受け取って、後で読んだっていいだろうと思ってポケットに突っ込んでおきました。それを、同じ信徒の方が見付けられて、厳しく言い咎められました。
受け取ってもいけないし、当然読んでもいけない、彼らは異端なのであり、霊的な影響を受けてしまう、だいたいそんな事をおっしゃって、受け取った僕を責めました。
その言葉に全く納得いかない訳ではないのですが、どの程度、自分が通う教会とは異なる宗教、教え(バプテストと長老派の違い、などは除く)を避けるべきだと思うか、皆さんのご意見をお尋ねしたく質問しました。

書き加えれば、僕は、友人に誘われるだの何だのの理由で神社に行ったり、あるいは仏式のお葬式で焼香をしたりするのは、問題がないと思っています。
なぜなら、「私のほかに神があってはならない」という言葉に従っている自負があるので、聖書の語る神だけが神であると信じているからです。
だから、たとえ行為としてはそぐわないとしても、そこに心が伴っていなければ、異端礼拝にはならないと思うのです。
この考えに賛同できる方も、「目ざめよ!」を受け取るべきではなかたっと思う方も、どうぞ、書き記していただきたく思います。

また、もし可能でしたらでよいので、適切な聖書の箇所を引用して教示いただけたら嬉しく思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

 私はむしろ、その違いを知ることは大事だと思います。

盲目的に、異端が悪いと結論付けないで、何故が悪いのかを知る事、それこそ将来的に大事だと思います。

 10年以上も前に私も数ヶ月間、エホバの証人のリーダーと学びました。場所は自分の家でした。そして思った事は、私の信じてきたキリスト教とどう、何が違うのかという疑問でした。その時はイエス・キリストの解釈に決定的な違いを感じました。でも学ぶ場所が王国会館だったら、受け止め方も違ったかもしれません。その意味では、疑問に感じた場合は距離を置くのも良い方法と思います。振り回されない自分の信仰を確信する事が重要だと思います。

 教会では信徒が出て行くという問題が生じます。これは教会にとっては大きな事です。教会は信徒の集まりですから、残った人にも波及します。その意味で波風が立つ事は、好ましくない事です。しかし、教会は常にそうした問題をはらんでいます。牧師にとっては信徒が惑わされたり、出て行く事は重大な問題です。例えば、ヨハネ15:12~14『 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』 と有ります。教会がその地域に立つ為には、神様に対する普遍的な信仰がある筈ですから。

 イエスの教えがキリスト教ですが、その前はユダヤ教の旧約があります。ユダヤ教の人々にとって、イエス・キリストは異端と言えます。新約聖書から読み取れると思います。例えば、Iコリント13:1~13(省略)でパウロが語っている“愛”について。これは使徒パウロの言葉ですが、キリスト教の本質に近いと言えます。一見、信仰より愛が優先されているように見えますが、私は神の存在を前提と考えます。平たく言えば神様の前に有って善しとされる愛ですね。教会が他の教えに否定的なのは、聖書の神を信じているからと私は思います。特にプロテスタントの場合はそう言えます。それでも解釈の違いで、カトリックやプロテスタント諸教派があるのですから、それらも否定する事は出来ません。

 最後に仏教に対して。私もクリスチャンですが、焼香などは行います。因みに父や兄は仏教徒で、お墓も仏式です。(墓地の管理者は無宗教) 日本の宗教は死者を弔う事を重んじています。仏教でもキリスト教でも、葬儀を混乱させる人には来て欲しくないですよね。それは、マナーでしょう。法を守る、挨拶をする等とも同じような事と思います。キリスト教では偶像を嫌いますが、マリア像や十字架、イコン、ロザリオなどはどうでしょう?それ自体を崇拝しているのではないと思っています。信仰的に相応しい範囲なら問題にならないと思います。

 以上、牧師などを交えて話し合えたらと思います。牧師が100%正しいと決め付けず、複数の意見を聞く事で理解が深まれば良いと思いますが。教会として講師などを呼んでも良いと思います。以上 参考までに。
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私はエホバの証人ですので、お答えします。



異端という表現は中世に行われた異端審問を思い起こさせます。
当時のカトリック教会は、聖書を持っていた人や、聖書を翻訳したということを異端視し残虐な仕方で(例えば火あぶりや拷問で)殺しました。

一世紀の初期クリスチャンも同様の扱いを受けました。
使途ペテロもパウロもヤコブも、当時のローマに処刑されたといわれています。

実際キリストもいわれの無い罪で、杭にかけられ恥辱のうちに
処刑されたのです。

ですから、イエスがまだ生きておられた内に、
こういわれたのも不思議ではありません。

*** 聖8‐参 ルカによる書 21:12‐19 ***

しかし,これらのすべての事の前に,人々はあなた方に手をかけて迫害し,あなた方を会堂や獄に引き渡し,あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。13 それはあなた方にとって証しの[機会]となるのです。14 それゆえ,どのように弁明するか前もってけいこなどしないことを心に定めなさい。15 わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。16 さらに,あなた方は,親,兄弟,親族,友人たちによってさえ引き渡され,彼らはあなた方のうちのある者たちを死に渡すでしょう。17 またあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。18 それでも,あなた方の髪の毛一本すら決して滅びることはありません。19 あなた方は自らの忍耐によって自分の魂を獲得するのです。


ですから、真のクリスチャン(キリストの弟子)である
真の神の民はみな、例外なく迫害を受けるのです。

こうした異端扱いや大規模な迫害にもかかわらず、その活動を妨害することができないので、逆にそれが神によるものであることが証明されます。

ですから、是非真の宗教を見出してください。
それは必ず、聖書に全く従っているはずです。
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あなたがクリスチャンとして固い信仰をもっているという前提でお話します。



形式だけ神社に行ったりお焼香をしたりするのは私は全然問題ないと思います。

聖書には「人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むで あろう。 」とあります。
いざというとき、その覚悟があるのなら私はいいと思います。

マザー・テレサも、死に行く人たちを、その人たちの望む宗教にのっとって葬ってあげたそうです。(もちろん専門の人に任せたと思いますが)あなたの信じる神が、一つなら、形式上はどうでもいいんじゃないかと思います。ただ、人間は心が行動に動かされやすいものなので、私は、できるだけそのような場所にはいかないようにしています。

一方、私は教会の人があなたを詰った気持ちも少しわかるのです。というのは、わたしも、他宗教はともかく、エホバだけはどうしても納得できないのです。ちゃんとした信仰をもっていればよもや洗脳はされないと思いますが、わたしもエホバに対する怒りはやっぱりもってしまいます。

すこし、エホバのひとと議論する機会でもあればこの気持はわかるかもしれませんね。

ご参考までに
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私はクリスチャンではありませんが、子供を統一教会に奪われた経験をもつものです。

今でもキリスト教の教会にかよって、子供とどのようにむきあうか苦労しています。
クリスチャンの家庭に育った人たちも、統一教会に入信される方もおられます。
あなたの求める回答は、やはり専門家にお聞きされたほうがよいと思います。
キリスト教の家庭に育ちながら統一教会に入信し、脱会され今、プロテスタント教会の牧師をされているヨシュアさんです。ブログ「カルトからの自由」に訪問してみてください。
http://plaza.rakuten.co.jp/retreatcenter/
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自分の信仰が弱いものでは、影響を受け易いでしょうから、避けるべきでしょう。

でも、妄信は「悪」だと思います。
キリスト教の歴史を見ても、現在の世界を見ても、多くは排他的な宗教の戦争の歴史です。
キリスト教も神の名を借りて多くの人を殺し、多くの信仰を滅ぼしました。今悪魔のイメージの多くは古代ヨーロッパの神聖です。
カトリックといえど、幾たびもの偶像崇拝、権力などの異端的思想に染まってきました。それらは全てカトリックに対する妄信に起因するものです。
聖書においても十戒においても、異端を否定しては居ません。カトリックだけが真実とも書かれていません。神だけが真実だと書かれているのです。
旧約の世界では戦争もありましたが、キリスト自体、それまでの教えの間違いを指摘しても、それを潰そうとか破壊しようとはしていません。

一方仏教は簡単に言えばキリスト教で言う所の「異端」の集合です。極論を言えば大乗仏教そのものが異端かもしれません。一部敵対しているものもありますが、多くは共存しています。

私はカトリックですが、既にカトリックと言う枠を捨てました。カトリックと言う枠は神が創ったものではなく、人が作ったものであり、神の下では一宗派に過ぎないと考えるからです。
確かにキリスト教に限らず既成宗教の名を借りたカルトも多くありますが、表面だけ触れれば、その真偽はある程度理解できるはずです。
また、全ての既成宗教の中に神の教えがある(神の者では全ての宗教は一宗派)と考えれば、研究の価値はあります。
しかし、まず自分の信仰を強くする事が前提であり、更に幅を広げる為の学習であるべきだと思います。
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