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三国志と言いますか古代中国での戦争で
兵力が20万や40万等途方もない人数での戦争があります
小説や漫画ですとドラや太鼓で進退の合図らしいのですが
普通に考えて無理ですよね?

現代の通信機器を活用してやっと全体の戦局や状況が見えるのでは?と思うのですが・・・

何十万人で合戦をしてる状況で
司令官はどの様に戦局を把握して味方に伝えたのでしょうか?

伝令等の通信手段はあると思いますが
例えば30万の軍勢とすると
ちょとやそっとでは意志の疎通が図れないのではないでしょうかね?

それとも兵を任された各将軍が独自の采配で全体的にみると勝ってるや負けてるって事なのでしょうか?

そもそも何十万人同士で対峙して戦争がイメージ出来てません

解りやすく質問の回答や
関連する事柄などを教えて頂ければと思っています
よろしくお願いします

A 回答 (6件)

 正直な所、三国志の時代とかに一将軍が率いる部隊が数十万人もいたなんて事はないと思います。


 (まあ、魏の国全体でならそれ以上いたかも知れませんが、北方や西方の異民族や内乱もそれなりに有りましたから、数十万人単位を一会戦に導入は不可能です。)

 赤壁の戦いだと、魏の将兵は10~20万人とも言いますが、大部分は占領直後の荊州の治安確保に人員を裂かれていたと思います。
 合肥の救援の為に張憙に1000人与えたとか、夷陵城奪還に曹仁が5000人で出撃したと言うのが有りますから、一将軍が率いる部隊規模と言うのはこれくらいだったのだと思います。
 (なお、現在でも最前線で戦うのは兵士は部隊の1/3程度[残りは兵站要員や予備兵力]ですから、トラックとかの補給車両が無い時代の部隊の大部分は荷馬車や背に荷物を抱えた兵站要員で、戦闘要員は1/3より遥かに少なかったと思います。)

 また、魏の名将「張遼」は、合肥の合戦等では数百人程度で呉軍に何度も突撃を掛けますし、一将軍が戦闘中に完全に統帥できる人数もこの程度ではないかと思います。
 (ドラや太鼓あるいは将軍の大声で制御できる最大人数。)

 あと後世の人から見ると、戦場に到達すれば敵と必ず交戦できる様なイメージが有りますが、実際には敵を見つけ出す為に部隊を多方面に進出させ、その中の運が良いごく一部の部隊が敵を発見し戦闘に参加できるのみです。
 (運が悪いと敵の姿を見ない内に合戦が終了してしまう…。)

 なお、日本の戦国時代の軍編成も「備」と呼ばれる200~1000人程度を一単位にした構成になっています。
 (大名が1万石以上を指すのは、1万石程度の収入で備を1個編成できるから。)

 故に実態は
>各将軍が独自の采配で全体的にみると勝ってるや負けてるって事なのでしょうか?
 という状態に成りがちかと…。

 ただ、後の普仏戦争のプロイセンの参謀本部の様に、連絡が途絶えても、各参謀達が同一思考の元、各々が自分の領分をこなす上で最善の策を取り、全体としての勝利を得るような行動が取れるように教育を施すようになります。
 (参謀教育ほど厳格ではないにしても、戦国時代などの大名は将来の部隊指揮官候補を自身の旗本として身近に置き、自身が戦場でどの様な判断を下し、各部隊がその判断の元どの様な行動を取るのが最善か認知させ、将来旗本が、部隊指揮官に成った時に連絡不全になっても、独自の判断で大名が期待する行動を行える様な教育を行っています。)

 まあ、実地に基づく経験の積み重ねとそれを十分に身に付けた指揮官さえいれば、コミックマーケットの参加者誘導(3日で50万人が参加。大部分は開園直後に列をなして入園)の様に万単位の人員を混乱無くコントロールできます。
 (縁も縁もない数万人の人員が列を乱さず会場に向かって徐々にスピードを上げて突進していく様は、上から見ると戦場での歩兵密集縦隊が敵陣に突撃を掛けているみたいで滅茶苦茶迫力が有ります。)
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1万人というと多そうだけど、タテヨコに並べば100人×100人。


それぐらいはドラ1個で十分だと思う。

で、10万人ならドラ係が10人。

それならできそうじゃない?
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まあ、人数に誇張はあります。



三国志の時代は、寒冷化と内乱で大陸の人口が極端に少なかったので、そもそもそんなに兵隊がいたのかいと思います。

旗がもっとも有効だったといわれてはいますが。

ただ、10万の兵を手足のように操るという幻想があるようですが、それはなかったと思います。それこそ机上論でならあったでしょうが。

歩兵は密集隊形ですので、相当人数を把握できますが、軽騎兵は個々の判断でしょうし、これは、子供の頃からの慣れや部族で培われたものです。よって、騎兵の強い隊や将は出身地が同じような地域です。

関ヶ原をイメージすればいいのではないでしょうか?戦闘地域にいくら多数がいても、実際に戦うのは一部です。そして、総大将はひとりですが、大将は何十人もおり、戦闘部隊は何百にもわかれます。おおまかな指示→少し具体的な指示→具体的な指示と戦闘という流れでしょう。

さて、関連することとして。

全然違う話ですが、質問のとおり、ある人数以上を一糸乱れず指揮するのは現代の通信設備をもってしてはじめてなしうることです。

ということで、長篠の合戦における3000挑の鉄砲による三段入れ換え一斉発射というのは、後世の創作で事実ではありません。
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垓下の戦いの時は、目のよい武将を山の上に上げさせ、彼に旗を振らせて指揮をとらせたと言われますね。


進め、退けくらいでしょうが、遠くの部隊に対する伝令は、山の上から旗を振らせるか、のろしを使うといった方法があります。
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春秋時代の軍制では、伍=5人、卒=100人、旅=500人、師=2,500人、軍=12,500人という単位でひとまとまりにされており、


力の強い諸侯でも三軍=37,500人、天子でも六軍=75,000人を率いるものと決まっておりました。
これはあくまで形式的なものではありますが、
古代において動員できる兵というのはせいぜいこの程度のものだったのでしょう。
『尉繚子』という戦国時代の兵法書の「制談」篇では軍の統制をはかるにはどうすべきかということが書かれてあって、
それにはまずそれぞれの部隊の長が兵士を十分に訓練し軍規を徹底することだと説いています。
具体的な各部隊への指示は旗や金鼓によってなされますが、
その通りに兵が動けるかは兵の練度と部隊長の指揮力頼みになるといったところでしょうか。
逆いえばどんな大軍であっても小さな部隊の集まりであるので、伍の長が卒の長の指示を、
卒の長が旅の長の、とそれぞれ上位の指揮官の指示に忠実でありさえすれば、ある程度の統御は可能になるはずだ、ということのようですが。
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三国志っていうと、やっぱり武将ですよね。

三国志の物語でああも武将が有名なのは、要は武将の良し悪しがかなり重要だったということです。つまり、勇猛な武将に率いられなかったら兵は烏合の衆に過ぎないということです。
そして多くの武将や兵が集まると、その作戦計画を立てて計画通りに塀を動かすのがこれまた大変。なにしろ当時の武将ときたら力自慢の男で、文字が読めないのが普通だったりします(ちなみに、戦国武将でも武力が自慢の武将はお勉強が苦手な人がしばしばいます。福島正則はひらがなしか読めなかったとか)。
だから、そういう作戦立案担当者が必要であり、そういうのが孔明先生を始めとした軍師なんですね。

それとこれは私の個人的な想像なんですが、当時の戦争というのは少しスポーツに近い感覚だったような気がします。運動会の騎馬戦も、うわーっと戦って、なんとなく押しているほうが勝つみたいな感じですよね。ああいう感じだったんじゃないかと思います。ちなみに、私の親の世代の運動会の騎馬戦にはちゃんとお互いに大将がいたそうです。ガキ大将が指揮官になり、お前たちはあっちに回れ、お前たちはこっちに攻めろと命令していたそうですよ(それは教師が指名するのではなく、子供達の間で自然に大将が決まったそうです)。
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