ナポレオンのエジプト遠征について
アレキサンドリアに上陸し、カイロを制圧した後、ナポレオンは
なぜピラミッドまで向かったのでしょうか?
エジプトを旅行したことがありますが、ピラミッドのあたりは田舎で
わざわざ軍を率いて制圧しに行くような場所ではなく、カイロと
アレキサンドリアをおさえれば十分なような印象を受けました。
そこにマムルーク朝の本拠地かなにかがあったのでしょうか?
おわかりの方、ご教示下さい。
回答(6件)
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No.6ベストアンサー20pt
補足ですが、ナポレオンがピラミッドに実際に行ったのは、1798年9月19日です。
ピラミッド会戦はそれよりもずっと前の1798年7月21日で、
しかもこのときはギザには行ってません。この会戦は名前だけで、
場所は全然違います。
ピラミッド会戦の後、カイロ制圧、カイロ蜂起があるので、時期的に違います。
ピラミッド観光は、ナポレオンが唯一見学した史跡として知られます。
カルナックなどはナポレオンは見てもいません。
あとイギリスとインドとの交易を遮断するというのは、東方遠征のたくさんあった名目の一つに過ぎませんが、
具体的に実行可能な目標ではなかったため、実行はほとんどされてません。
インドの諸王に手紙を送ったぐらいです。
実際的には、東方遠征軍は自活と自衛を求められたので、マムルークの鎮圧とエジプトの諸民族の統治、
それに後半は、オスマン=トルコが宣戦布告したために、トルコ軍の侵攻に対する対応ということに終始します。
結局は、高エジプトの支配はムラッド・ベイに委譲するため、
基本戦術は、シリア砂漠からの侵攻と、海岸から上陸する二つの敵を撃退することで、
ナポレオンとクレベールはそれを何度となく行いますが、次の後任のムヌーが無能だったために、これに失敗し
最終的には、東方遠征軍はアレクサンドリアとカイロの二都市で包囲されるのです。
この回答へのお礼
有難うございました。大変よくわかりました。
このエジプト遠征のことが詳しく書かれている
書籍があれば重ねて教えて頂けますでしょうか。
<参考>
エジプト遠征の目的は、宿敵イギリスに経済的打撃を与えるために、イギリスの国力の源泉であるインド⇒紅海⇒エジプト⇒地中海⇒大西洋⇒イギリス本土への交通路を遮断するために行われました。
ですから、フランスの目的を達成するためには、アレクサンドリア・カイロ・スエズ・ポートサイドで囲まれた地域を押さえる必要がありました。
現在で言えば、スエズ運河地帯とナイル川下流~河口にかけての地域の支配が目的でした。
いわゆる「ピラミッドの戦い」と呼ばれるのは、ナポレオンが気取ってつけた名称です。
実際は、カイロからわずか6km、ピラミッドから15kmの地点で会戦が行われました。
この時、ピラミッドは地平線に微かに望める程度でした。
でも、そこでナポレオンは「ピラミッドの上から四千年の歴史が諸君を見下ろしている」と演説して兵士の士気を上げたと言われています。
ちなみに、この戦場は今では水没してしまっています。
まぁ、海岸や川沿いの地形は変わりやすいので、現在見えるものが全てでは無いって事ですかね。
さて、このナポレオン遠征について外せないのに、彼の趣向で考古学者や歴史家など165人を随行させたというのがあります。
当時のフランスでは、一種の「オリエントブーム」が巻き起こっていてエジプトに対する関心も非常に高かった。
ナポレオンが歴史好きだったのか、単に人気に肖ろうとしたのかは定かではありませんけど。
とはいえ、その結果「ロゼッタストーン」という大発見があり、古代エジプトの歴史が明らかに出来るのも彼らのおかげですね。
で、肝心なエジプト遠征軍ですが、陸軍では勝てたものの、海軍はネルソン提督率いる英国海軍に惨敗して、フランス本国から孤立してしまいます。
また、英国はオーストリア、ロシア、オスマン帝国などに呼びかけて、第二次対仏大同盟を結成します。
その結果、フランスは孤立し、政治中枢は混乱。
お忍びで逃げ帰ってきたナポレオンがこの混乱に乗じて政権掌握し、後のナポレオン帝国へとフランスは向かうことになりました。
結局、エジプト遠征は、イタリア遠征で英雄に祭り上げられた彼の名誉欲や自己顕示欲でしかなかったんですよ。
その結果、第二次対仏大同盟という祖国を危機に陥れることになった。
ロゼッタストーンの発見とその後の政治的な成功が無ければ、ただの愚行として歴史に刻まれたでしょうね。
とはいえ、絶体絶命の危機から一気に名誉挽回した政治的手腕は、歴史上でもトップクラスではあることは間違いないですけど。
ではでは、参考になれば幸いです。
違います。
当時はベドウィンやマルムークの襲撃があって、フランス学士団は調査が自由にできませんでした。
それで学者たちは司令官ナポレオンに懇願して、ピラミッドに連れて行ってくれるように頼んだのです。
で、ピラミッドには、護衛を付けるついでということでナポレオンも観光にいったのです。
いろいろ間違った俗説がありますが、滞在は僅か半日で、ナポレオン本人はピラミッドの内部には入ってません。
眺めただけです。
以後、ピラミッド観光は兵士達の気晴らしとして何度か行われ、ピラミッドツアーと呼ばれます。
あと、ナポレオンと東方遠征軍は、何年もかけてエジプト全体の制圧を行っています。
カイロとアレクサンドリアを抑えただけでは全然ダメで、ムラード・ベイの追撃と、
メッカから流入した回教徒と戦いを延々と繰り広げました。
その目的は徴税で、アブキール海戦とその後の海上封鎖で本国とほぼ断たれたことかr、あ
支配権を確立して徴税して、エジプトで自活し、植民地を経営する
必要性があったのです。
アレキサンドリアからまっすぐカイロに向かうと、途中に三大ピラミッドで有名なギーザ(実際の戦場はナイル川河畔の村でエムバベ)が有るのですが…。
(確か今はカイロ都市圏に含まれていたはず)
所謂「ピラミッドの戦い」ってカイロ攻防戦の中の大きな戦いですが、私なんか勘違いしてます?
誰も回答しませんね。
アレクサンドリア→カイロと向かいます。
場所的にはカイロより6km付近でピラミッドはかろうじて見える位置です(15km)
目的はイギリス-植民地遮断作戦です。
ので、南エジプトも必要と考えるのは行き過ぎで、そこの勢力を抑え込めば良いわけです。
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