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橋下維新代表が「石原氏と自分の違いは、石原氏が戦争体験者であるということ」と言ってます。

さて、石原氏を調べてみると、空襲が激しかった頃は逗子にいたようですね。逗子は空襲を受けましたか?同じ年に生まれた小田実氏は大阪空襲で爆弾の下を逃げ回ったことが彼の人生の原点になっているようです。竹村健一氏も過去にテレビで疎開の経験を語っていました。

石原氏は自分の戦争体験をどのように語っていますか?目にしたことがないのでご存知の方教えて下さい。彼の現在の戦争容認の論調から想像しますに、戦争に被害者として苦しんだ経験が全くないように思うのですが、どうですか?

別の質問ですが、父親の出身地である愛媛県の大洲市や母親の出身地である広島について、彼が語っているものがありましたら、紹介して頂けませんか?
普通、人間は自分の出身地を懐かしがり、愛着を持つものなんですが、彼が自分を神奈川出身と言ってるそうですが、愛媛や広島を田舎くさいとして軽蔑しているからでしょうか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (1件)

小説は、たくさん読んでいるが、回想とかは、あまり読んでないが



『新・堕落論 我欲と天罰』(新潮新書)
に、こんな記述が

・ 私自身も昭和七年生まれのまさに後期高齢者の一人ですが、戦争の敗戦の記憶は未だにまざまざと体の内に収われています。そして私の学友の一人は足に被弾し一生の不具ともなりました。
 警戒警報が鳴って下校の途中早くも到来した艦載機の機銃掃射に遭い、折から収穫期に近く背丈の伸びた麦畑の畝に飛び込んで逃れ、逃げまどう私たちがまだ背丈も伸びぬ子供と知りながら手軽な狩りのつもりで掃射してきた敵機のパイロットは怖々仰ぎ眺めればこれまた成年にも満たぬ若者でした。さらにその先、近くの森までたどりつこうと走る最中、また新しい爆音が迫り今度は芋畑の中で、身を隠すにも畝の浅い畑では覚悟して身を伏せながら機銃掃射を待ったが不思議に弾が来ない。恐る恐る顔を挙げて確かめれば頭上を褐色の胴体に白い縁取りの日の丸を描いた友軍機でした。
 
 敵機を追う日本機を確かめた時の、ふるいつきたいような感動が忘れられない、あれは身にしみて感じ取った国家というものの実感でした。





※まー、戦後の平和を謳歌し湘南で女の子で戯れる太陽族作家で売り出した人に(もう、五十年たったか\(^^;)
に戦争体験など問うても、仕方ないでしょう。
 責任ある公職にあるわけでもなし、あの歳でも純文学雑誌に新作を発表しつづけているのは
尊敬します。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
彼にとっての戦争体験は「かすり傷」程度だったようですね。それでよく分かりました。炎の中を逃げ回ったり、あるいはそれで肉親を失っていたりしたら、彼の戦争観も違ったものになっていたと思いますが、かすり傷だったので、逆にメラメラと友軍機と祖国に対する愛情が異常に肥大したようです。
貴重な資料を上げていただき、本当にありがとうございました。文学カテで同じ質問をしてみようと思います。

お礼日時:2013/05/23 14:34

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