

先に質問として投稿されている、北海道の小学2年生の救助に関連して、
この質問を読んで真っ先に思い出したのが、アルカイダ系の武装組織「ヌスラ」に拉致・拘束されているとみられるフリージャーナリストの安田純平さんのことでした。
こうなってしまったら、最早安田さんにとっては、「進むも地獄、退くも地獄」=助けられなければ地獄、助けられて帰国しても地獄、なのではないか?無事に帰ってきても、だれもこの小学生のように、「まぁなんにしても無事でよかった」と言ってはくれない。
みなさんは「いかなる場合、いかなる条件下に於いても、国は国民を守らなければならない」とお考えでしょうか?
あるいは「ばあいによる」のでしょうか?
(「救助活動をする」=「カネがかかる」)
つまりどういう場合には「血税」を使っても助けるべきであり、どういう場合には「血税」を使うことは許されないのか?
お考えをお聞かせください。(尚当質問文はハコブルさんの質問に回答した文章を転用しました。ご了承ください)
No.23ベストアンサー
- 回答日時:
#20です。
1.
>例えばフランスでは終業後のスーパーの食料品を廃棄することなく慈善団体へ寄付することが法制化されましたね。画期的な事です。
:
少なくとも精神的に先進国ですね。
日本でも、フードバンクという活動が行なわれているようですが、賛同企業(期限切れ間近商品を寄付してくれる)がなかなか増えないそうです。
理由は、一般の消費者から、自分たちはお金を払って買っているのに・・というクレームが来るからだそうです。
どうですか、この偏狭性!?
テレビに映っていた企業の担当者も、良いことをしているはずなのに、かなり困ったような表情を浮かべていたのが印象的でした。
まあ、日本は、所詮この程度が関の山。何件かでも、寄付してくれる企業があるだけまだマシと考えるべきなのかもしれません。
2.
>心情から具体策へ。このようなことから始めるべきだと思うのです。
:
全くおっしゃるとおりですが、
>具体策なき心情は感傷
:
という自説と特に矛盾はしないでしょう。
ただ、感傷的心情の危うさに着目した表現にしているのは、#20でも述べましたが、
>現実問題として「本当に助けられるか?」
:
という切り口が極めて重要と思うからです。
たとえば、現在の法基準で生活保護を需給可能な人たちが、仮に全員給付を受けると財政は破綻するという実態があるそうです。
つまり、「本当に [ 全員 ] 助けることはできない」仕組みになっています。
助けたいという気持ちが、まずあれば、予算枠を拡大することだって出来るだろう、とおっしゃるかもしれません。
一理ありますが、私としては、全員助けることができないことを認識した上で、限られた予算の配分を緊急性に応じて分配すべく業務を推進するのがよかろう、と考えるわけですが、まあ、ここまでくれば見解の相違で一段落させたほうが良いかもしれません。
3.
>自己責任を言うひとたちを、単なる「無知」と高踏的に視野から排除することにはそこはかとない抵抗があります。
何故なら自己責任論者は単なる無知な連中ではなく、そのような偏狭な排他性=「日本人としてのアイデンティティー」の希薄な連中(或いは非・日本人)への排除感情を醸成し=政治的意図のお先棒担ぎになるからです。
:
ヘイトスピーチも無知が根底にあると、わたしは思っています。
どちらも視点の違いだけなのですが、非情(批難)ではなく無知(憐憫)と解釈するほうが、問題解決の近道だと考えます。
つまり、彼らは、あのようにしか考えられないのであり、しかし、その思考形態は真理に反している(根拠はプロフィールをごらんいただければと思います)という点で憐憫に値するわけです。
ここから、では、なぜそう考えてしまうのか、という段階に進むことができるため、解決に近づきやすくなる。
4.
>国民が国民をどんどん狭い場所へと押し込んでゆきます。
:
これに関しても、上記3とほぼ同様の感想を持ちます。
せっかくですので、もう少し煮詰めてみますと、相対的価値観でしか自我確立できない精神的未熟さのため、他者より常に優位に立っていないと安心できない。
つまり、優位に立つためなら、なんでも材料になり得る、といったタイプの人々でしょうね。
端的に言うと、彼らは他者への想像力が希薄であるため、結果的に「他者が怖い」のだと思います。
こんばんは。
わたしはテレビを見る習慣がないので、情報源はもっぱら新聞ですが、フードバンクについては初めて聞きました。
お話を伺っているといかにも日本人が考えそうなことだと悲しくなります。
以前ハコブルさん、仰っていましたね、「われが汝であり、汝が我であるという想像力」でしたっけ?
日本人て、そういう意識が決定的に欠如していますね。
>私としては、全員助けることができないことを認識した上で、限られた予算の配分を緊急性に応じて分配すべく業務を推進するのがよかろう、
それには同感です。ただ生活保護の緊急性はおそらくどれも緊急であると思われるので、フランスのような真似は出来なくても、せめて民間でできること、相互扶助の気持ちが働かないものかと思います。
>相対的価値観でしか自我確立できない精神的未熟さのため、他者より常に優位に立っていないと安心できない。
つまり、優位に立つためなら、なんでも材料になり得る、といったタイプの人々でしょうね。
端的に言うと、彼らは他者への想像力が希薄であるため、結果的に「他者が怖い」のだと思います。
この他国に対しての日本人の想像力の欠如は、つまるところ、戦後70年経済的発展を至上命題に掲げてやってきた結果のように思えます。しかし「われと汝の」関係を無視していると結局困るのは自分自身であると思うのです。
ご回答をありがとうございます。
No.27
- 回答日時:
内部告発が たたえられるべき行為であるという見解の一致を見たのです
が しかも人質事件についても 次のように見解を同じくしていると思い
ます。
☆☆(回答№13) ~~~~~~~~~~
>つまりここは気持ちの問題です。助かった・ありがたいという気持
ちを 表わして欲しいというのは ≪穏健・一般人≫派の思いです。敢
えて言えば 多数派だと思います。
>もしそういう振る舞いを見せてくれる冒険家ならば 互いの気持ち
が通じましたから たとえば おまえさんは運の強い人間だ もしま
た行ったら注意をおこたらず仕事に励んでくれよと言って送り出しま
す。
これには全く同感です。ただこれはぶらじゅろーぬさんの考え方であっ
て、必ずしも多数派の意見であるとは思えません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ≪多数派である≫という見方を取り下げるなら 一致していると思い
ます。
つまり ≪助かった・ありがたいという気持ちを 表わして欲しい≫とい
うわづかなマイナスがあると思います。
その・危険を冒してすすむという全体の行動については 傷がつくもの
ではありませんが そういう問題を孕みます。
杉原千畝の場合には 戦後になってみづから進んで退官すればよかった
と考えます。訓令に背くというわづかなマイナスがからんだからです。
人命もが危険にさらされた人道上の危機に落ち入っている難民の人たち
を助けたいという思いを実行に移すには ふつうは外交官を辞職してフ
リーになってやります。
ところが この場合は ヴィザを発行するという援助行為こそが必要で
あるのですから 外交官でありつづけなければできないことです。した
がって 本省からの命令に背いてそのわが道を選択した。
わたしが≪落ち度≫だと言ったことを撤回したとしても マイナス事態で
あることに変わりありません。
ですから 千畝は戦後ただちに職を辞すのが 正解だったと考えます。
(もっと言えば 昔は切腹を覚悟で上司の意向に背いたりそれを諫めた
りしました。
時代がわるいというのは 実存思想のえらぶ見解ではないと思います。
そして 日本人のひとつの伝統になっているかと考えます。地位〔や命〕
を懸けて わが自由を問い求めるという姿勢がです。少数だとしても)。
内部告発者は――むろん初めにはまさしく内部の権限者に問題を諫言す
るはずですが それが功を奏さなくなったあとでは―― このいまの・
ひとつの伝統の精神を発揮していると思います。
高遠さんについては 自己責任論者が何と言っているかに関係なく こ
の伝統の姿に照らして 万々歳と言うには ためらいます。
わづかに≪仲間である人たちをハラハラ・ヒヤヒヤさせたことについて
ひとこと仲間としての言葉を言って欲しかった≫と思います。
言わなくても その行動全体に傷はつきませんが それでもです。
こんばんは。
>つまり ≪助かった・ありがたいという気持ちを 表わして欲しい≫というわづかなマイナスがあると思います。
繰り返しになりますが、高遠さんは、≪助かった・ありがたいという気持ちを 表わして欲しい≫ けれど、「表してはくれなかった」という事実がある、ということでよろしいですね。
であれば、わたしも「救助されたことに対する何らかの気持ちの表明」は自然だと思います。(無論その後に小泉元首相が言ったことは無視しても構わないとしても。)
>杉原千畝の場合には 戦後になってみづから進んで退官すればよかったと考えます。訓令に背くというわづかなマイナスがからんだからです。
正しい行いをしたが、狂気の命令に対し正気で反発したということがマイナスであると捉えられるのならば、人間性を貶めないためにもそのような場所に居続けることは避けた方がいいでしょう。
つまり「人を殺せ」というようなことが、有無を言わさず従うべき命令としてまかり通るようなところであれば、まっとうな人間として、時を移さず退くべきだと思います。
>ですから 千畝は戦後ただちに職を辞すのが 正解だったと考えます。
まともな人間であるならば当然です。
>日本人のひとつの伝統になっているかと考えます。地位〔や命〕を懸けて わが自由を問い求めるという姿勢がです。少数だとしても)。
「不服従」はなにも日本のみの伝統ではないと思います。この映画、ご存知ですか?
『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7 …
高遠さんに関しては、救出に関して、彼女からなんらの言及もなかったという事実が提示されていないので、わたしはこれ以上何も言えません。
No.26
- 回答日時:
№25で入力エラーがありました。
x 杉浦千畝
○ 杉原千畝
☆ けさの朝刊に≪内部告発≫の事例が載っています。長いですが・
これを全部かかげますが どうコメントされますか?
▲ (内部告発 印製薬ランバクシーを葬った男) ~~~~~
≪アジア/ひと未来 異邦人が変える≫ ―6―
4月末 インド首都ニューデリー郊外。
≪ここに来客はめったに来ない≫。
セキュリティー完備の集合住宅の一室でディネッシュ・タクール
(48)は静かに語り始めた。
2013年 印後発薬大手ランバクシ―・ラボラトリーズが米国
への5億ドル(540億円)の和解金支払いに追い込まれた医薬品
製造不正事件。インドの成長産業を揺るがした内部告発者である。
インド生まれだが1990年に渡米留学し 化学工学を修めた。米
製薬大手で11年間 薬品開発に携わり 米国籍も得た。それでも
母国に帰還したのは伸び盛りの印製薬業に懸(ママ)けたからだっ
た。
03年にランバクシ―に転職。だがオーナー一族による徹底したト
ップダウン経営は戸惑い続きだった。転機は1年後。英製薬大手か
ら移籍してきた上司が苦渋の表情でそっと打ち明けてきた。
≪この会社は闇を抱えている。極秘で調べてくれ≫
開発部門の情報管理責任者だった。治験データの改ざんが次々見つ
かる。安価な薬を世界で売りさばく経営戦略で品質は後回し。
≪気づいていても みな職を失うのを恐れて口をつぐんでいた≫
身内の暗黙の≪ルール≫に疑問を差し挟む異端は排斥される。不正の
調査結果を経営会議にかけた上司は直後に退社した。会社端末から
ポルノサイトにアクセスした――。タクールもお決まりの嫌疑をか
けられた。05年春 退職を決意した。
≪医薬は患者のため≫
≪自分と関係が切れた会社だ≫。
退職後 自問自答を続けた。ただ戦い方は知っていた。不正の証拠
は保管していた。半年後 米食品医薬品局(FDA)に直訴状を送り
自宅に警備員を雇った。
製薬は新興インドを象徴する産業だ。後発薬の世界シェアは2割に
達し 米国では4割に及ぶ。前米司法次官のスチュアート・デレリ
ー(47)は振り返る。
≪ランバクシ―問題は我々にとって最大の悪夢だった≫
FDAと司法省は08年 同社に輸出禁止などの是正策を発動。事態
を見誤った第一三共がランバクシ―を一時買収するが 結局は印同
業に売却し同社は実質消滅した。
タクールは今も印製薬業界を相手取った裁判で品質向上を訴える。
印規制当局の中央医薬品基準管理機構のトップ G・N・シン(58)
は嘆く。
≪内部告発者に敬意を表する。だがそこに愛国心はあるか?≫
タクールが米政府から受け取った4800万ドルの報奨金は世界の
≪ルール≫だがインドでは理解されない。
政官業一体で産業振興を推進してきたアジア新興国。そこでは供給
者の論理が優先され消費者や労働者の利益は二の次にされがちだっ
た。しかしアジアの製品が世界のサプライチェーンに組み込まれる
中 安全の軽視や児童労働などの人権侵害に厳しい目が注がれる。
インドの≪世紀の告発≫は産業振興を最優先してきたアジアの危うさ
への戒めである。
(日経 2016.6.12朝刊一面)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 目先のリスクはありますが それを恐れて改善(告発)を敢え
てしなかった同僚従業員にしても この内部告発者は ≪愛国者≫で
あり人間愛によって行動したものと受け留める。
――こうわたしは考えます。
こんにちは。
内部告発といえばアメリカの「タバコ産業」の腐敗(?)を告発した実話に基づく映画『インサイダー』などが思い浮かびます。
彼らの一義的な動機は「道義的責任」を追及することだろうと思いますが、結果的にそれは「愛国的行為」であったとはいえるでしょう。
>☆ 目先のリスクはありますが それを恐れて改善(告発)を敢えてしなかった同僚従業員にしても この内部告発者は ≪愛国者≫で
あり人間愛によって行動したものと受け留める。
――こうわたしは考えます。
わたしも同感です。
>≪内部告発者に敬意を表する。だがそこに愛国心はあるか?≫
自分の属する組織ー国が間違いを犯していると考えた時に、それに従うことは真の愛国的行為ではないし、従順であるだけで批判を忘れたものは真の愛国者とは言えないと思います。
No.25
- 回答日時:
もう同じことは言いません。
ただし 趣旨は同じになります。堀江謙一の冒険について三島由紀夫が語ったという事例にあやかって
こちらからは杉浦千畝の事例を持ち出します。
▲ (ヰキぺ:杉浦千畝) ~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F …
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原
は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてき
た難民たちの窮状に同情。
1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して[1]、大量の
ビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救った
ことで知られる。
*[1] ≪外務省からの訓令に反して≫:「千畝手記」、『決断・命の
ビザ』 p.288.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そのあと戦後になって 退官(免官)を余儀なくされたのですが
やがて〔難民にはユダヤ人が多かったところその〕イスラエルからの
感謝と称賛とを受け 日本でも顕彰されるようになりました。
そういった経緯について何の文句も言いがかりもありません。
ただし 一点だけ言い添えます。≪上官からの訓令に反した≫という行
為については 事実として残ります。消えることはありません。それ
が 公務員というものだと考えます。
この落ち度とそれ以外の賞賛とは 両立するはずです。
或る意味で危険を冒した行為が通じるところがあるかと思って 例に
挙げました。
堀江派は ≪密出国≫という汚点をすべて消してしまい得たと思って
いましょうか。(今にも尾を引くと言っているのではありません)。
高遠派は 無謀――というより すでに現地に入ったあと人質になっ
ていたとき人びとがハラハラした気持ちで見守っていたこと――につ
いて 無視したのは当然だと思っていましょうか。
コチコチの自己責任論派について百パーセント悪いと言う側も 全か
無かの論理に足を踏み入れていると見られますまいか。
こんばんは。
結局上記のひとたちに共通するのは、「自分の判断(選択)によって事を為した」人たちで、こういうはみだしたものを日本人はひどく嫌います。極端に言えば、「何をやったか」よりも「何をやらなかったか」が評価される社会です。高遠さん批判でも、よく目にするのは、「遠くまで行って人質になって迷惑をかけるくらいなら家で寝ているほうがマシだ」という言い分です。
あるエッセイにありましたが、日本人のサラリーマンの心得として、例えば池に溺れかかっている子供を見つけたら、出来るだけ迅速に助けて、すぐさまその場を立ち去ること。絶対に人目についてはいけないとのことで、「これは笑うに笑えない」「現実」だと書いてありました。いいことだろうが悪いことであろうが、とにかく目立ってはいけないのだということです。
>ただし 一点だけ言い添えます。≪上官からの訓令に反した≫という行為については 事実として残ります。消えることはありません。それが 公務員というものだと考えます。
>この落ち度とそれ以外の賞賛とは 両立するはずです。
これは「落ち度」ではありませんよ。戦時中、直属の上官の命令は即ち大元帥=天皇の命令でもあったわけですが、「殺せ」「犯せ」「火を放て」と言われて躊躇しないで何が人間でしょうか?「命令には絶対に服従」を破ったことが「落ち度」であるなら、そのような「公僕」に国を任せておくことは甚だ危ういことだと言わざるを得ません。
わたしは別に「自己責任論派」が何を言おうといちいち付き合うつもりはありません。所詮わたしとは「縁なき衆生」なのですから。
ご回答をありがとうございます。
No.24
- 回答日時:
初めからの≪穏健・一般人≫の思いを 最後にいま一度お伝えしたいと今
度は つよく思いつづっています。
☆☆(回答№13) ~~~~~~~~~~
>つまりここは気持ちの問題です。助かった・ありがたいという気持
ちを 表わして欲しいというのは ≪穏健・一般人≫派の思いです。敢
えて言えば 多数派だと思います。
>もしそういう振る舞いを見せてくれる冒険家ならば 互いの気持ち
が通じましたから たとえば おまえさんは運の強い人間だ もしま
た行ったら注意をおこたらず仕事に励んでくれよと言って送り出しま
す。
これには全く同感です。ただこれはぶらじゅろーぬさんの考え方であっ
て、必ずしも多数派の意見であるとは思えません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この≪助かった・ありがたいという気持ち≫の表現として 次を例示
しました。
○ ≪無謀でした≫
○ ≪あーぁ 警告無視しちゃった≫
○ ≪えへへ。わたしは 向こう見ずなんです≫
これらは ≪後悔の念を示せ≫と言っており 日本人の悪しき習慣である
と判定されてしまいました。
たとえ後悔の念を示しているとしても 人びとの咎めを受けてあやまっ
ているのではないと思うんですけれど。
なぜなら 次の意味合いにおいてのことだからです。
☆☆(回答№21) ~~~~~~~~~
政府のおこなった救出努力や国民の持った心配について ひとこと触れ
るのが われらが仲間であり それは国の如何を問わず人間性の問題で
あるという≪いちゃもん≫をつけたい。こういう気持ちの問題です。
~~~~~~~~~~~~~~
≪いちゃもん≫なら かかわらないという立ち場の選択ができます。
そして そういう・無視されても仕方がないと思っているところの穏健
派の人間にとっては≪受け身≫の仲間意識の発露です。
≪気持ち≫ですが ≪人間性≫の問題にまでおよんでいるとは思っている
と思います。
≪発端≫としては 自己責任論派も同じであったろうと推測しています。
★★(№19補足欄) ~~~~~~~~~~~
わたしは、彼らに、「助けられて当然である」という意識はないと思
います。感謝の気持ちがないはずはないと。
~~~~~~~~~~
☆ このG_Rさんでしたら 広く取って穏健派でいらっしゃる。こう
思うしかないと思ったのです。
★(№22お礼欄) ~~~~~~~~~~~
>高遠菜穂子氏は――邪推すればですが―― ≪日本のみなさん!
わたしは みなさんに心配して欲しいと頼んだ覚えはありません≫
と語っているように見えて来るんです。
>つまり むしろ氏じしんが そうとすれば世に言う自己責任論
を展開している。
これも同様で、わたしは彼女の知人ではないので、彼女に代わって答
える資格はない、としか言えません。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ むろん前項と同じく――推測を交えざるを得ない場合の問い求め
としての――ご自身の見方考え方はどうですかということになると思
います。
つまり≪邪推すれば≫ 一方で穏健派は もうそのイチャモンが無視さ
れたのを承けてそこまでにとどめます。
他方で そこで立ち止まらない場合は コチコチの自己責任論派が
推測(邪推)上の高遠氏のミラーニューロン現象としてのごとく出て
来ているのではないか。
このたぐいの・≪気持ち≫の問題だけから見た社会現象の分析だったん
ですけれどねぇ。
イラクの人びとと生活やその思いを共有できるボランティアなる高遠
氏であれば のちに自己責任論派に成る人たちもまづ初めには無事救
出されて安全が保証された状態のイラクに行って活動して欲しい あ
ぁ人質から解放されるといいんだがなぁと気を揉んでいたその気持ち
がじゅうぶん分かると思うのですがねぇ。
以上 無視されても仕方のないイチャモンとして自覚している発言を
しるしました。
と同時に その消えゆくイチャモンにとどまらなかった場合には こ
じれて酷い風潮があらわれてしまったという社会評論でした。
(ほかの筋・ほかの方面――たとえば生活保護の問題――から出て来
た自己責任論派がいるであろうとも思いますが)。
こんにちは。お礼が遅れました。
>この≪助かった・ありがたいという気持ち≫の表現として 次を例示しました。
○ ≪無謀でした≫
○ ≪あーぁ 警告無視しちゃった≫
○ ≪えへへ。わたしは 向こう見ずなんです≫
ぶらじゅろーぬさんの気持ち、わからないではありません。ただ、以上のような「言い草」を「穏健派」ならざる自己責任論者が看過するとは思えないのです。正に火に油を注ぐ様な発言に聞こえます。
>政府のおこなった救出努力や国民の持った心配について ひとこと触れるのが われらが仲間であり それは国の如何を問わず人間性の問題であるという≪いちゃもん≫をつけたい。こういう気持ちの問題です。
先にお聞きしたように、高遠さんは、なんら感謝の意を表さなかったということでしょうか?それとも何か言ったようだが、「反省の色がみられない」という「気持ちのこじれ」でしょうか?
助けられたことに対する感謝の気持ち(が、なかったこと)への「いちゃもん」と、その表現内容への「いちゃもん」とは別のものです。
後者に対する「いちゃもん」はまさに一方的な「いちゃもん」でしかなく、相手の人間性を評価するものではないと思います。
昔三島由紀夫が、太平洋をボートで横断した堀江謙一さんの記者会見の態度に、記者たちが、「何様だと思っているんだ」というような反応を示したときに、「いったい彼らは太平洋をボートでたった一人で横断しようというような青年に、ごく普通の青年らしく、殊勝な、謙虚な態度を求めているのだとしたら、見当違いだ」というようなことを言っていました。記者たちは「自分たちが思い描いた通りの言動をとってくれない青年に嫌悪感を露わにした」のです。強いて言うなら自己責任論者はこの記者たちのようなものではないでしょうか?
>のちに自己責任論派に成る人たちもまづ初めには無事救出されて安全が保証された状態のイラクに行って活動して欲しい あ
ぁ人質から解放されるといいんだがなぁと気を揉んでいたその気持ちがじゅうぶん分かると思うのですがねぇ。
ここが大きな相違で、「自己責任論者」は高遠さんのなんらかの言動を契機に「成った」のではなく、予めの「自己責任論者」だろうという考えです。個人的な意見としてはわかるところが多いのですが、それを「我ら」とすることに無理があるように思えます。
No.22
- 回答日時:
№21のおぎないです。
高遠菜穂子氏は――邪推すればですが―― ≪日本のみなさん!
わたしは みなさんに心配して欲しいと頼んだ覚えはありませ
ん≫と語っているように見えて来るんです。
つまり むしろ氏じしんが そうとすれば世に言う自己責任論
を展開している。
≪自分の自由と責任とで 自由に行動しています。何か文句あ
りますか?≫と。
これは おっしゃるところの≪アパシー≫につながります。
No.21
- 回答日時:
▲ ( 水井多賀子:安田純平氏の新画像でまた自己責任論) ~~~~~
http://lite-ra.com/2016/05/post-2295_2.html
――安田純平氏の新画像公開でまた「自己責任論」が…欧米メディアが一
斉に指摘する日本の“お上”意識の異常性
2016.05.31
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから次のくだりを引いて考えて行きます。
▲ たとえば、2004年に発生したイラクでの邦人3名の人質事件の際、日本
では自己責任論が噴出。
☆ このように≪噴出した自己責任論≫についてのみわたしの回答は扱って
います。つまりそうではなく 問題を広く扱って日本人論や文明論にまでは
連れて行かないという前提を敷いています。
日本人論について もちろん触れても自由なわけですが ただしその議論を
いまは覆いかぶせるといった見方にまでは持って行かないという前提です。
そういう前提を敷く見方は成り立たないという場合には その非をおしえて
ください。
▲ (承前) ~~~~~~~~~~~~~
とくに現地でボランティア活動を行っていた高遠菜穂子さんが解放後、「今
後も活動を続けたい」と語ったことに対し、当時の小泉純一郎首相は「寝食
忘れて救出に尽くしたのに、よくもそんなことが言えるな」と激昂した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この事態をめぐって わたしの扱い方は ≪無謀でした≫と高遠氏から
ひとことあればいいのになぁという≪気持ち≫論を展開しています。そして
それだけを扱い うったえています。
日本人のアイデンティティ論には進まないとは思っています。
あぁ ああいう冒険家もわれわれの仲間だったんだなぁと思うとか あるい
は 冒険はいいとしてもどうもわれわれの仲間がそうしたという気持ちには
ならないなぁ 何だかちがうなぁとか そういう気持ちを持つことまでの問
題としてです。
自己責任論の起こる発端についてです。
▲(承前) ~~~~~~~~~~~~
しかし、海外の反応はこれとまったく違った。
アメリカのパウエル国務長官が「イラクの人々のために、危険を冒して現地
入りをする市民がいることを、日本は誇りに思うべきだ」と発言したことは
有名だが、
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ その発言にプラスするに ≪あーぁ 警告無視しちゃった≫とひとこと
言って欲しいという気持ちを取り上げ 言い続けています。
▲(承前) ~~~~~~~~~~~
フランスの高級紙ル・モンドも、〈外国まで人助けに行こうとする世代が日
本に育っていることを示した〉と高遠さんらの活動を評価。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 同じく プラスするに≪えへへ。わたしは 向こう見ずなんです≫とい
うひとことです。
▲(承前) ~~~~~~~~~~~
逆に、日本に広がっていた人質への自己責任論については、〈人道的価値観
に駆り立てられた若者たちが、死刑制度や厳しい難民認定など(国際社会で)
決して良くない日本のイメージを高めたことを誇るべきなのに、政治家や保
守系メディアは逆にこきおろしている〉と強く批判している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 政府のおこなった救出努力や国民の持った心配について ひとこと触れ
るのが われらが仲間であり それは国の如何を問わず人間性の問題である
という≪いちゃもん≫をつけたい。こういう気持ちの問題です。
▲(承前) さらに、〈社会秩序を乱した者は後悔の念を示さなければなら
ないのが日本の習慣〉と、その特異性をも伝えていた。
☆ ≪後悔を示せ≫とわれわれは言っているか?
つまり ≪社会秩序を乱す≫ほどではないにしても 警告無視であることに
間違いはない。だから ほかの国の人びとも心配してくれていたであろうけ
れど取り分け日本のわれらが 心配しつつ政府の救助努力の成功を祈ってい
た。そのことについて ひとこと触れるのが≪日本人の習慣≫である。
(受け身のかたちながら 日本人のアイデンティティ論に首をつっこんでし
まいましたが)。
――こういう≪特異性≫の問題だと考えます。G_Rさんがその≪日本人≫を
身に着けていないとはお見受け出来ないんですがねぇ。
もっと言えば 外国の人たちの常識にも到らぬところがある。もしくは
到りすぎてしまって 自然でナイーヴでアホバカなところのある気持ちを
忘れてしまっているのではないか。失くしてはいないにしても あまりに
もしゃれたフォーマルなかたちと内容の発言が多すぎる。
あーぁ 国民性に触れないという禁を破っちゃった。
こんばんは。
>≪無謀でした≫と高遠氏からひとことあればいいのになぁという≪気持ち≫論を展開しています。そして それだけを扱い うったえています。
>その発言にプラスするに ≪あーぁ 警告無視しちゃった≫とひとこと言って欲しいという気持ちを取り上げ 言い続けています。
>同じく プラスするに≪えへへ。わたしは 向こう見ずなんです≫というひとことです。
>▲(承前) さらに、〈社会秩序を乱した者は後悔の念を示さなければならないのが日本の習慣〉と、その特異性をも伝えていた。
☆ ≪後悔を示せ≫とわれわれは言っているか?
これらを見る限りでは、「後悔を示せ」といっているように聞こえます。
けれども、ぶらじゅろーぬさんが、あくまでも「気持ち」の問題であるというのであれば、わたしは、高遠さんや、安田さんの友達でもなければ彼らを個人的に知っているわけでもない。またぶらじゅろーぬさんが「自己責任論者代表」というわけでもない以上、この点での話し合いはあまり意味がないと思います。
つづくNo.22の回答にもある
>高遠菜穂子氏は――邪推すればですが―― ≪日本のみなさん! わたしは みなさんに心配して欲しいと頼んだ覚えはありません≫と語っているように見えて来るんです。
>つまり むしろ氏じしんが そうとすれば世に言う自己責任論を展開している。
これも同様で、わたしは彼女の知人ではないので、彼女に代わって答える資格はない、としか言えません。
つまり高遠さんが、≪自分の自由と責任とで 自由に行動しています。何か文句ありますか?≫と。言っていない、或いは言うはずがないという根拠がわたしには何もないのです。
日本人論、日本人のメンタリティーについて、という一般的な議論から離れて、個人の資質の問題、あるいは感情のもんだいになると、わたしが話せるのは自分個人の感情のみです。
またぶらじゅろーぬさんは「自己責任論派」の仲間と自任されているかもしれませんが、わたしは別に高遠さんや安田さんの仲間ではありません。(つまり彼らのことを全く知りません)
No.22のご回答と併せて、ありがとうございます。
No.20
- 回答日時:
#17です。
>現実問題として「助けられるか?」ではなく、心情として「助けたいか?」です。結果を問うものではありません。
:
後半は重要なご指摘であり、そも、人間としての質に焦点が当てられていると思います。言ってみれば人間性に関する問題。
ただ、人間性として「助けたい」という感覚が湧き起こるだけでは意味がないのであり、現実問題として「本当に助けられるか?」が検討される必要があると思います。
北海道の小学生の場合、寒さで低体温症の進む夜に向けて、「暗くなるから」という理由で捜索を打ち切るのは、「本当に助けられるか?」が真剣に検討された結果とは言いがたいでしょう。
結果が問われない心情に着目してしまうからこそ、安易な諦念につながりやすくなるように思うわけです。仮に亡くなる結果になっていたとしても、「できる限りのことはやった」というコメントが出てくるに決まっていますしね。
ホームレスに自宅を開放しなくても、心情として「助けたい」と思う人は大勢いるはずです。しかし、「どうすれば助けられるか?」が真剣に検討されることこそ重要なのであって、感傷に酔うだけでは解決はおぼつかないでしょう。
あえて言うなら、仮に心情(一時的な感情)として助けたくなくとも、現実問題として助けられる方策を探ることが肝要でしょう。
たしかに、実効性が伴なわない心情だけでも、その当事者に勇気を与えたりすることは可能だと思います。その意味で心情はむろん重要です。
>結果を問うものではありません。
:
とおっしゃるのも、この視点で始めて有効性を持つと受け止めれば、大いに同意できます。
しかし、今、懸案に挙がっているのは緊急性を要するケースなので、現実問題につながる形で考えないときれいごとにならざるを得ないように思う次第。
まあ、この点に関しては、そろそろ見解の相違という結論を導かざるを得ないのかもしれませんが、念のため、別の角度から感想をお示ししてみました。
>しかし「自己責任」をいう人は、もっと攻撃性を持っているように見えます。それを「非情」であると言ったのです。
:
まずですが、高遠さんにしても安田氏にしても、おそらく「わたしは自己責任で、この仕事に携わる」という覚悟は持っていたと思います。
なので、国は無条件に我々を保護すべきだとは、たぶん言わない(言わなかった)ように思うのです。
ただ、それは、あくまで当人の問題であって、第三者が、それを理由に攻撃する根拠にはなり得ません。つまり、自己責任をたてに彼らを攻撃する人は「非情である」というよりは、「無知である」と見るのが妥当でしょう。
つまり、無知に対して腹を立てても仕方がない、ということ。ですよね?
粛々と、あるべき人間性に基づいて対応していけば良いだけなわけです。
ところが、その「あるべき人間性」が「目先の経済性」に席巻されかけているのではないか?
というのが私の問題提起。
ご質問の趣旨に則って表現するなら、血税の使い道、使い方、配分の仕方を、我々の精神性を再検証しつつ見直してみる必要があるのではないか、ということでもあります。
>「自己責任論」は、なにもこのような「人質問題」に限定されるものではなく、20代30代のホームレスが、行政に頼ることも、NPOなどの支援組織に頼ることも「潔しとせず」頑なに「自己責任だから」と自らを追いつめている。
:
これに関連して、興味深いドキュメンタリーを思い出しました。
西成でホームレスや労務者に寄り添う牧師の話でしたが、路上を回っては色々な物資を届けたり、何くれとなく世話を焼いていたある日、一人のホームレスに「今、一番望んでいることは何か?」と尋ねたことがあるそうです。
答えは、腹いっぱい食べたいでも、酒を存分に呑みたいでも、風呂に入りたいでもなく、「自分で稼いだ金でアパートを借り、自分の稼いだ金で、小さな食堂でささやかな夕食を注文すること」。
以来、その牧師は、各人の能力に応じた仕事を手配できる体制を整えるよう行政への働きかけを始めた。彼らを庇護するというのではなく、彼らが自らの力で自立できるよう後押しするという方針ですね。(細部まで正確ではないかもしれません)
また、別のドキュメンタリーでは、空き缶集めで多摩川のテント住まいをしている高齢のホームレス。
ディレクターの「福祉の窓口でご相談されては?」に対して、「いや、できるかぎりは自分で稼いで生活したい。まあ、身体の動くうちはね」と応じていました。
こうしたことからも伺えるように、「自己責任」というのは他者が言うと「非情」かもしれませんが、当人にとってはある意味での「矜持」といった側面も持っているのかもしれません。
個々の事案により様々ですから一概には言えませんが、まあ、兼ね合いの問題になるんでしょうかね。
こんばんは。
具体策なき心情は感傷。けれども、「どうせ助けることは無理」と端から投げ出してしまうことよりも、初めの一歩には近いのではないか。助けたいー助けなければーどのように?というのが道筋です。
>「どうすれば助けられるか?」が真剣に検討されることこそ重要なのであって、感傷に酔うだけでは解決はおぼつかないでしょう。
あえて言うなら、仮に心情(一時的な感情)として助けたくなくとも、現実問題として助けられる方策を探ることが肝要でしょう。
ご存知かと思いますが、例えばフランスでは終業後のスーパーの食料品を廃棄することなく慈善団体へ寄付することが法制化されましたね。画期的な事です。無論これは単なる「綺麗事」ではなく、無駄を省くという政策の一環だったわけです。
http://tabi-labo.com/225776/food-loss-france/
心情から具体策へ。このようなことから始めるべきだと思うのです。
>自己責任をたてに彼らを攻撃する人は「非情である」というよりは、「無知である」と見るのが妥当でしょう。
つまり、無知に対して腹を立てても仕方がない、ということ。ですよね?
粛々と、あるべき人間性に基づいて対応していけば良いだけなわけです。
ところが、その「あるべき人間性」が「目先の経済性」に席巻されかけているのではないか?
自己責任を言うひとたちを、単なる「無知」と高踏的に視野から排除することにはそこはかとない抵抗があります。
何故なら自己責任論者は単なる無知な連中ではなく、そのような偏狭な排他性=「日本人としてのアイデンティティー」の希薄な連中(或いは非・日本人)への排除感情を醸成し=政治的意図のお先棒担ぎになるからです。
◇
ホームレス支援に関しては、それが彼らの矜持であるのか?それとも単なる強がりであるのか(自己責任=「犠牲化」の内面化)であるのか?を見極めることは(支援者として経験を積んだものであっても)難しいので、先ずは安定した衣食住環境を確保してから、その後の方針を共有してゆく、というやり方が適当のように思えます。
再度のご回答をありがとうございます。
No.19
- 回答日時:
夜中に目が覚めてこうして考えています。
わたしの議論は 単純です。気持ちの問題だけだと言ってよい
と思います。
安田氏や高遠氏らに対して 自己責任論をとなえる人たちとも
言わば同胞として仲間としての気持ちがあって欲しいというだ
けのことです。
なぜなら このイラク近辺の人質事件を承けて 自己責任論が
出て来たのだと思われますから。そういう経過だとすれば 人
質被害に遭った冒険者たちにも そもそもは問題の原因がある。
自己責任論派は 冒険者らよ おまえたちには仲間意識を持た
ない 持ってやるものかと言っているわけですが それは先に
嫌ったからではなく そうではなく まづ冒険者たちの行動や
のちの振る舞いについて 仲間意識が見られないぢゃないか
それは口惜しいと言っているのだと思います。それが発端であ
るように考えます。
シリアなどの難民を例に取って考えます。
早い話が 移民として受け容れる用意が我が国にはない。とい
うことは もし仮りにこれらの人たちに≪自己責任論≫を当ては
めた場合 それは かなしいかな よその国の人たちであるか
らです。仲間意識がない またなくてよいという――現状とし
ての――理由からです。
つまり 人質となった日本人たちには 仲間意識がもともとあ
るし その冒険者たちにも日本人一般に対して仲間としての気
持ちを持っていて欲しい それを示して欲しい。そう言ってい
るものと思います。法律や倫理とすら関係なく 気持ちとして
つながっていて欲しい。
こういうことではないかと思います。
先にキレたのは どっちだという問題になるかも知れませんが。
自己責任論派は ≪非情≫だという見解を書かれていますが・そ
して 結果としてそのとおりに成って来ているとも思いますが
そうは言っても もし冒険者たちが仲間意識を何も示さないと
したなら その場合も≪非情≫であると 人びと一般の目には映
る。のではないでしょうか。
そういう問題に〔だけ〕わたしには見えます。すでに双方が感
情をこじらせその対立関係が 固まってしまったようにさえ見
られます。
現行政権や果ては日本国そのものに反対だという意見をも書い
ておられましたが もし冒険者たちもそういう見解を持ってい
るとすれば それでもその見解や思想の如何に関係なく ひと
こと無謀でしたと言って 仲間であるという気持ちを示すかど
うか。この問題に尽きるのではないかという見方です。
要するに 冒険者たちよ あなた方は よそ者なのか? われ
ら日本人の仲間ではないのか? もっと言えば ひょっとして
≪反日≫の思想とその実践としてのみ生きており活動している
というそういう人たちなのか? と。
見解や思想は何を持とうと 自由でありそこに問題はなく た
だただ気持ちの問題としてコトは展開して来ているように思わ
れます。
仲間であるかないか。果ては ≪敵≫ではないのかと。
(国は それでも守る・助けるというのが 原理原則ですが。
そして 実際の執行は その妥当性などなどについて現行政府
に任さざるを得ないと思われます。あとで検証はなし得るわけ
ですが)。
こんばんは。
繰り返しになりますが、ぶらじゅろーぬさんの意見イコール「自己責任論者」たちの見方であるとは思えないのです。
まあわたしが、反・自己責任論派であり、ぶらじゅろーぬさんが、どちらかといえば、彼らに理解を示しているというスタンスの違いから生じる視差であるかもしれません。
>自己責任論派は 冒険者らよ おまえたちには仲間意識を持たない 持ってやるものかと言っているわけですが それは先に
嫌ったからではなく そうではなく まづ冒険者たちの行動やのちの振る舞いについて 仲間意識が見られないぢゃないか
それは口惜しいと言っているのだと思います。それが発端であるように考えます。
「彼ら」(高遠さん、安田さんたち)には、「日本人としてのアイデンティティ」が欠けているとみなされているのが、そもそもの原因だろうと思うのです。日本人なら「日本人らしく振る舞え」というある種の同一規範の強要が存在するように思えます。ですから、「日本人としてのアイデンティティー」=「個として振る舞わない」とか「集団の維持を第一とする」とかいう枠からはみ出したひとたち、「勝手なひとたち」を許容できないのではないでしょうか?
難民の受け入れについての不寛容も、人質に取られた人たちへのそれも、元は日本人の持つ、「他者」(よそもの)意識から来るのではないかと思います。勿論フランス人にはフランス人としての「アイデンティティー」があるでしょう。それにしても「国」とか集団への帰属意識の強さ、国を以て個人のアイデンティティーとするという感情の強さは、日本人特有のものに見えるのです。
例えばあるひとはアメリカ人であり、同時にニューヨーカーであり、ユダヤ系移民でもあり、という多層なアイデンティティを持っていますが、日本人のアイデンティティーは、ほぼ、「日本人」であることに集約されているように映ります。
アングロサクソンの国であるイギリスロンドン市長が、パキスタン系移民の子で、イスラム教徒、等ということが、他の国では起こるのです。残念ながら、これが彼我の差、です。
ですから先に「切った」のは日本人ではないのか?というのがわたしの見方です。
仲間意識とは、誰の、誰に対する意識なのか?日本にいる「わたし」や「彼・彼女」と、安田さん個人、高遠さん個人との関係では無いように思えます。
補足へ続きます。

No.18
- 回答日時:
"先の質問"への私の回答?をパスしたGrassさんを流石!(さすが!)と思っていました。
出来れば自分で削除していた"外した回答"だったからです。出典不明、に引っかかったのでしょう。またこの質問への回答で"B"さんが内容の深浅はありますが、私と同じ意見を云っていたのが意外でした。
そこでさらに反省してみれば、
親が子を守るのは当然と言うのは情の世界に於いて、と云うことになるなぁと思えて来て、そう思うと一家を潰してまでも?と疑問が起きました。
そうなるとやはり親の義務としては政治が必要になってくる、と考えられました。
だから、たくさんの回答やGrassさんの感想が大変勉強になります。
こんばんは。
先のyy8さんの回答については、単にわたしが理解を怠っただけですが、満足なお礼もせずに気になっていたので、そういっていただけると助かります。
いろいろな質疑の流れの中で、なにをおもしろいと感じるか、なにを参考になると感じたか、本当にそれぞれですね。
いつでも気になったことを書きこんでください。
ご回答、ありがとうございます。
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すみません。タイプミスです。
辺発(誤)
原発(正)
ソウイウメンタリティー(誤)
そういうメンタリティー(正)
失礼しました。
わたしは、彼らに、「助けられて当然である」という意識はないと思います。感謝の気持ちがないはずはないと。
「要は気持ちである」そうでしょう。何故ぶらじゅろーぬさんは、彼らに誠意がないと決めつけるのでしょうか?何によって、彼らが同胞である、そうではないと判断されるのでしょう。彼らは単に自分の気持ちに忠実な人たちであると思います。お礼と謝罪を求める気持ちは人情としてあるとしても、(彼らがそれすら拒否するとは思えませんが)、彼らの行動の規制はできないはずです。
過去に謝罪や感謝の気持ちを表すことへの「拒否」があったのなら、そこにはなんらか、「謝罪の強要」のような含みがあったのではないか。そのように推測します。
自己責任論は、ぶらじゅろーぬさんの「気持ち」のような素朴な庶民感情とは離れた、「お上」=政治的意図と共鳴し補完していることへの抵抗があります。
ご回答をありがとうございます。
直接この質問、あるいは頂いた回答への補足ではありませんが、最近足を運んでいないOkwebの「アンケート」で、「生活保護は廃止すべきでは?」という「お馴染みの」質問が為されました。
少なからぬ回答は、やはりというべきか「廃止すべき」そしてそれに拮抗する数であった回答をみて驚きました。生活保護が必要な理由として、「生活保護を与えないと生活困窮者が暴徒化しかねない」だから「治安・安全のために金を与えておく。いわば保険だ」という論です。「生活保護」を叩くために今度はこういう論法が主流を占めつつあるのか、弱者を叩くためであればどんな理屈でも持ち出すんだなあと、ウソ寒い気持ちになりました。国民が国民をどんどん狭い場所へと押し込んでゆきます。
>製薬は新興インドを象徴する産業だ。後発薬の世界シェアは2割に達し 米国では4割に及ぶ。
それが国の巨大産業に大打撃を与えることになっても、です。何故なら、その繁栄は誤った道をたどって得た繁栄であるからです。言い換えるなら、国民は(或いはその薬を利用する世界中の人たちは)経済発展の犠牲になっても仕方がないという考え自体が本末転倒なのです。